高嶺の西園寺くんは、地味な影山さんに興味を持たれたい!

「……うそ、そんな……っ」
鳳凰学園の廊下に、冷たい沈黙が広がっていた。
いや、正確には沈黙ではない。周囲の生徒たちが向けてくる、鋭い好奇の目と、スマホの画面をタップする指の音、そして耳障りなヒソヒソ声が、津波のように海月へと押し寄せていた。
スマホの画面に映し出された、一ノ瀬莉央からの最悪なメッセージ。
『前の学校で、男子全員をたぶらかして退学寸前まで追い込まれた、最悪の悪女』
それは、悪意に満ちた真っ赤な嘘だった。
前の学校で海月が経験したのは、その真逆だ。
男子たちが勝手に盛り上がり、勝手に告白の賭けをして、断られた腹いせに「あいつは男をたぶらかしている」とデマを流した。
女子たちもそれに便乗し、海月を徹底的にいじめた。
学校に行けなくなった海月は、逃げるようにしてこの学園に転校してきたのだ。
誰の目にも留まらない「背景」になろうとしたのは、その傷がまだ癒えていなかったからなのに。
「……ちがう、私は……そんなこと……」
海月の視界が、涙で急激に歪んでいく。足の震えが止まらず、その場に崩れ落ちそうになった。
その肩を、強い力がガシッと抱きとめた。
「海月、見ちゃダメだ。耳を塞いで」
西園寺遥の声だった。
いつもなら周囲を溶かすような優しい王子の声は、今は地獄の底から響くような、低く狂暴な怒りを孕んでいた。
遥は海月の頭を自分の胸に強く押し付け、周囲のスマホのレンズから彼女を隠すように抱きしめた。
そして、周囲の生徒たちを、文字通り「殺すような眼差し」で睨みつけた。
「……全員、スマホをしまえ。これ以上、根も葉もないデマを拡散させるなら、俺に相応の覚悟があると思えよ」
学校一のアイドル・西園寺遥が放った、見たこともない圧倒的な拒絶のオーラ。
その凄まじい威圧感に、周囲の生徒たちは「ひっ……」と息を呑み、クモの子を散らすようにして廊下の奥へと逃げ去っていった。
だが、一度ネットの海に流れた噂は、そう簡単には消えない。
その日から、海月の学校生活は「地獄」へと変わった。
「ねえ、見た? あの地味子、やっぱり裏があったんだって」
「西園寺くんを騙して家に泊まらせるなんて、相当なタマよね」
通り過ぎるたびに聞こえる悪意の囁き。机には、いつの間にか「悪女」と書かれた落書きが残されていることもあった。
海月は再び、前髪を深く下ろし、分厚い眼鏡の奥に閉じこもった。
だけど、前の学校と違ったのは――。
「海月、お昼、一緒に食べよう。今日は俺がフレンチトースト作ってきたんだ。……はい、あーん」
「さ、西園寺くん……!? 教室でそんなことしたら、余計に目立ちます……!」
どんなに周囲が冷たい目を向けようとも、遥だけは、堂々と海月の隣に居続けた。
それどころか、周囲のノイズを完全にシャットアウトするように、教室でも放課後でも、異常なまでの「溺愛モード」で海月を甘やかし、守り抜こうとしていた。
「いいんだよ、目立っても。俺は君の味方だし、君以外の人間にどう思われたって構わない。……それとも、俺のフレンチトースト、嫌い?」
シュンと仔犬のように眉を下げる遥。
「き、嫌いじゃないです……。美味しいです……」
海月が顔を真っ赤にしてフレンチトーストを口に運ぶと、遥は満足そうに「ふふ、可愛い」と微笑むのだった。
遥のその徹底的な態度のおかげで、海月の心はなんとか折れずに済んでいた。
だけど、海月には分かっていた。遥が自分を庇えば庇うほど、学園内での「完璧な王子様」としての彼の評価が傷ついていくことを。それが、海月にとってはたまらなく心苦しかった。
そんな中、学園最大のイベントである『鳳凰祭(学園祭)』の足音が、すぐそこまで迫っていた。


鳳凰学園の学園祭は、地域最大規模のお祭りだ。
海月たちのクラスが出し物として選んだのは、王道の演劇『シンデレラ』だった。
当然、王子様役は満場一致で西園寺遥。
そして、シンデレラ役に選ばれていたのは――あのデマを流し、数日間の無断欠席から復帰したばかりの一ノ瀬莉央だった。
「西園寺くん、台本の読み合わせ、一緒にやらない?」
莉央は、クラスにあれほどのデマを流した張本人であるにもかかわらず、何食わぬ顔で遥に近づいてきた。周囲の女子グループを味方につけ、「影山の噂は本当のことよ、私は西園寺くんを助けようとしただけ」というスタンスを崩していない。
遥は、莉央が差し出してきた台本を一瞥すると、冷淡に言い放った。
「一ノ瀬さん。俺、君と芝居なんてするつもりないから。配役、他の男子に変えてもらうように役員に掛け合ってくる」
「なっ……!? なんでよ! 私はクラスの投票で選ばれたのよ!?  悪いのはあの影山海月じゃない!  あいつがあなたをたぶらかして――」
「いい加減にしろ」
遥の声が、教室の温度を数度下げた。
「次に彼女の名前をその汚い口で呼んだら、俺、本当に君をこの学校にいられなくするよ」
「……っ!!」
莉央は恐怖で顔を引きつらせ、悔しそうに涙を浮かべて席に戻っていった。
それでも、学園祭の本番は容赦なくやってくる。
遥もクラスの出し物を完全にボイコットするわけにはいかず、最悪の空気のまま、学園祭当日を迎えることになった。

学園祭当日。校内は多くの模擬店や装飾で埋め尽くされ、お祭り騒ぎに沸いていた。
午後、いよいよ体育館の特設ステージで、2年B組の『シンデレラ』が開演しようとしていた。
舞台裏。衣装に身を包んだ遥は、どこか落ち着かない様子で周囲を見渡していた。
(海月はどこだ……? 裏方の衣装係のはずだけど……)
周囲の喧騒の中、なぜか莉央の姿が見当たらない。開演まであと10分だというのに、主役のシンデレラがいないのだ。
その時、舞台監督の男子が青ざめた顔で走ってきた。
「おい、大変だ! 一ノ瀬の奴、直前になって『西園寺くんが口をきいてくれないなら舞台に出ない!』って、衣装のドレスを破り捨てて帰っちゃったらしい!」
「「「ええええええええ――!?!?」」」
舞台裏に絶叫が響き渡る。
クラスの連中がパニックに陥る中、遥は冷ややかに「勝手にすればいい。中止にしよう」と言い捨てた。
莉央のわがままに付き合う義理などない。
だが、裏方としてひっそり衣装の修復をしていた海月が、おずおずと前に出た。
「あの……ドレスなら、私が予備の布で手直ししたのがあります。一ノ瀬さんのサイズとは違っちゃうかもしれないけど……」
「影山! お前、ドレス直せるのか!?」
男子生徒たちが海月にすがる。だが、肝心のシンデレラがいない。
「どうするんだよ、主役がいなきゃ劇が成立しねえよ……。今から代わりにドレス着てセリフ頭に入ってる奴なんて……」
誰もが絶望したその瞬間、舞台監督の目が、海月へと向けられた。
「……待てよ。影山、お前、裏方でずっと莉央のセリフの練習に付き合ってたよな? 台本、全部頭に入ってたりする?」
「え? あ、はい……。セリフは全部、覚えてますけど……」
「よし、決まりだ! 影山、お前がシンデレラをやれ!」
「えええええええ!? む、無理です! 私は背景で、目立っちゃいけなくて――」
慌てて拒絶する海月。
だが、その細い手を、白い手袋をはめた遥の手が、強く、優しく握りしめた。
「海月」
遥が、海月の目の高さに合わせて屈み、まっすぐに彼女を見つめた。
「……やってよ。君のシンデレラ、俺が世界で一番見たい」
「西園寺くん……」
「大丈夫、俺が隣にいる。君を笑う奴がいたら、俺がその何倍もの輝きで、君を世界最高のシンデレラにしてみせるから。……俺を、信じて」
王子の格好をした遥の、本物の「おねだり」。
その眩しすぎる笑顔と、真摯な言葉に、海月の心臓はドクンと大きく跳ねた。
もう、逃げられない。流されるだけのクラゲは、王子の手によって、舞台へと引き上げられる覚悟を決めた。
「……わかり、ました。私、やります」


「まもなく、2年B組による演劇『シンデレラ』を開演いたします――」
体育館の照明が完全に落とされ、ざわざわとしていた観客席が静まり返る。
ステージにスポットライトが当たると、そこには、継母たちにいじめられ、灰を被って煤けた服を着た海月の姿があった。
観客席から、心無い声がいくつか漏れる。
「え、何あのシンデレラ。一ノ瀬さんじゃないじゃん」
「噂の地味子? なんであいつが主役やってんの? ウケるんだけど」
舞台の袖で出番を待つ遥の拳が、怒りでみしりと固まる。
だけど、海月は怯まなかった。
分厚い眼鏡をかけ、ボロボロの衣装を着た海月は、その透き通るような美しい声で、シンデレラの悲しみと、それでも忘れない希望を、完璧な演技で表現し始めた。
彼女の凛とした声が体育館中に響き渡ると、先ほどまで嘲笑っていた観客たちが、次第にその演技に引き込まれていく。
そして、物語は中盤――魔法使いによって、シンデレラが美しいドレス姿へと変身する、最大の魅せ場へと突入した。
舞台が一度暗転する。
バックステージで、衣装係の女子たちが、海月のボロボロの服を剥ぎ取り、手直しされた純白のドレスを瞬時に着せ付けた。
そして、ヘアメイク担当の女子が、海月の髪を留めていたゴムを外し、あの重い前髪を左右に綺麗にかき分けて、ティアラを乗せた。
「……影山さん、眼鏡、外すよ」
「はい……」
海月が自ら分厚い眼鏡を外し、鏡の前に立った。
そこにあったのは――かつて放課後の教室で、遥だけが目撃した、あの息を飲むほどに美しい「素顔の影山海月」だった。
「……うそ、これ、本当に影山さん……?」
メイク係の女子たちが、あまりの美しさに言葉を失って固まる。
「舞台、上がって。海月」
タキシード姿の遥が、海月の前に右手を差し出した。
眼鏡がないため、海月の視界は少しぼやけている。
だけど、目の前にいる遥の瞳が、熱く、激しく自分を求めていることだけはハッキリと分かった。
「はい……遥くん」
海月は遥の手を取り、光り輝くステージへと一歩を踏み出した。
パッと、ステージに純白のスポットライトが照射される。
そこに現れた「本物のシンデレラ」の姿を見た瞬間。
鳳凰学園の体育館は――文字通り、割れんばかりの衝撃と、完全な静寂に包まれた。
「……え?」
「だ、誰あの子……? 誰? 一体、誰なの⁉」
「違う……嘘だろ……!?  あの服、名札……影山、海月……!?」
観客席のあちこちから、言葉にならない絶叫とどよめきが湧き上がる。
分厚い眼鏡の奥に隠されていた、宝石のように澄んだ大きな瞳。
誰もが見惚れる完璧なフェイスライン。純白のドレスを纏った彼女は、学園にいるどんな美少女をも過去にするほどの、圧倒的な光を放っていた。
莉央が流した「地味子の悪女」というデマは、その圧倒的な美しさと気品の前で、跡形もなく消し飛んだ。
悪女どころか、そこにいるのは、誰もが平伏したくなるような、純潔で気高き「本物のプリンセス」だった。
遥は、海月の腰にしなやかな手を回すと、観客席の全員に聞こえるような、朗々とした、だけど独占欲に満ちた声で、台本にないセリフを紡ぎ出した。
「見つけた……我が愛しのプリンセス。もう二度と、君を誰の目にも触れない暗闇へ返しはしない。君がたとえ世界の背景に隠れようとも、俺が必ず、君を光の真ん中へと連れ出してみせる」
遥の琥珀色の瞳が、海月だけを映して熱く燃えている。
海月は、胸の奥が張り裂けそうなほどの愛おしさを感じながら、彼の肩に手を添えた。
「……はい、私の王子様。あなたとなら、どこへでも」
二人の視線が、ステージの真ん中で完璧に交錯する。
その瞬間、体育館からは、劇の途中であることすら忘れた観客たちからの、凄まじい大歓声と拍手が沸き起こったのだった。


「大成功――!!! 2年B組、最高だったぞ!!!」
幕が閉じ、バックステージに戻った瞬間、クラスの連中が海月と遥の周りに群がってきた。
「影山、お前マジで何者だよ!? 超絶美少女じゃねえか!」
「今まで騙してたなー! 一ノ瀬のデマなんて完全に吹っ飛んだわ!」
手のひらを返したように称賛を浴びせるクラスメイトたち。
海月は、急にチヤホヤされ始めたことに戸惑い、視界がぼやける中で、きょろきょろと遥の姿を探した。
「あの、西園寺くん……? 眼鏡、どこ……?」
「――みんな、そこまでにしといて」
突然、遥が海月とクラスメイトたちの間に割って入った。
彼の顔には、ステージの上の爽やかな笑顔は微塵もなかった。
あるのは、獲物を他人に触れられた猛獣のような、獰猛でドス黒い「嫉妬」の表情だった。
「影山さんは疲れてるから。これ以上、彼女に近づかないでくれる?」
遥は海月のドレスの肩を抱き寄せると、クラスの男子たちを冷酷な眼差しで威嚇した。
「それから、さっきステージで彼女の素顔を見た奴ら……全員、今の記憶消してくんない? 彼女を見ていいのは、俺だけだから」
「うわ、西園寺の独占欲がカンストしてる……!」
「目がマジだよ、逃げろ逃げろ!」
クラスメイトたちは遥のガチすぎるオーラに怯え、一瞬で解散していった。
遥は海月を連れて、体育館の裏手にある、誰もいない資材倉庫へと逃げ込んだ。
バタン、とドアが閉まり、薄暗い空間に二人きりになる。
「……西園寺くん、あの、眼鏡……」
海月がおずおずと手を伸ばすと、遥は自分のポケットからあの分厚い銀縁眼鏡を取り出し、海月の顔に戻してあげた。
レンズの向こうに、再び世界一の美少女が隠される。
遥はホッとしたように深い溜め息をつくと、海月の体を背後の壁へと押し付けた。
軽い「壁ドン」の体勢。ドレスの白い布地が、遥のタキシードと擦れて衣擦れの音を立てる。
「……海月。君、本当に自分の自覚がないでしょ」
遥の声が、耳元で低く甘く囁かれる。
「さっきのステージ、男連中がみんな君にどんな目を向けてたか分かってる? 俺、劇の途中で全員の目を潰して回ろうかと思った」
「な、何を言っているんですか……っ」
海月の顔が、ドレスの赤色以上に染まっていく。
「嘘じゃない。君が『背景』から抜け出したのは嬉しいけど……あんなにたくさんの人間に、君の綺麗なところを見せちゃったなんて、俺、悔しくて死にそう」
遥は海月の頬に、そっと自分の額を寄せた。二人の熱い呼吸が混ざり合う。
「もう、絶対に誰にも渡さない。一ノ瀬さんのことも、これで完全に片付いた。学園の連中も、誰も君を悪女だなんて言わない。……だけど、その代わり、君はもう完全に俺の私物だからね」
「し、私物……!? 西園寺くん、言い方が変です……!」
海月がポカポカと遥の胸を叩くが、遥はそれを愛おしそうに受け止め、彼女の手を包み込んだ。
「遥、って呼んでくれたら、離してあげる」
「う……、は、遥くん……」
蚊の鳴くような声で名前を呼ぶ海月。
遥は満足そうに微笑むと、彼女の唇に、ステージの上ではできなかった、深くて甘い「本物のキス」を落とした。
薄暗い倉庫の中、二人の心臓の音は、もうどちらの音か分からないほどに、激しく、熱く重なり合っていた。


学園祭の翌日。鳳凰学園の掲示板やSNSは、昨日の『シンデレラ』の話題でもちきりだった。
一ノ瀬莉央が流した悪質なデマは完全に嘘だと証明され、莉央は自分のわがままと悪事がすべてバレたことで、自主退学の続きを進めているという噂が流れていた。
そして、影山海月は――。
「あ、影山さん、おはよう! 今日の髪型も可愛いね!」
「影山さん、今度のノート、また見せてよ!」
分厚い眼鏡と長い前髪は相変わらずだったが、クラスの誰もが、彼女が「隠れた超絶美少女」であることを知っていた。
前の学校のようなイジメではなく、今度は「学園の隠れた女神」として、リスペクトを込めて話しかけられるようになっていた。
海月は、まだ少し戸惑いながらも、「お、おはようございます……」と、前よりも少しだけ明るい声で返事ができるようになっていた。
そんな海月の様子を、窓際の席から、頬杖をつきながら満足そうに見つめている男がいた。
学校のアイドル、西園寺遥だ。
「……ふん」
遥は小さく鼻を鳴らす。
周囲の女子たちがいつも通り遥に群がってきても、今の遥の瞳には、彼女たちの姿は1ミリも映っていなかった。彼の網膜は、教室の隅でクラスメイトと少しだけ微笑み合っている海月の姿だけを、24時間体制で追尾していた。
(あいつ、俺以外の奴にもあんな風に笑うようになったんだな……。ちょっと、面白くない)
遥は席を立つと、群がる女子たちを「ごめん、ちょっと用事」と一言で蹴散らし、海月の席へと歩み寄った。
そして、海月の机に堂々と手をつき、クラス全員に聞こえるような声で言った。
「海月。今日の放課後、また俺のうちで勉強会ね。……今度は、昨日のお返し、たっぷりしてもらうから」
「ええええええええ――!?!?」
海月の絶叫と、クラスメイトたちの「お前ら、いつの間にそこまで進んでんだよ!?」という驚愕のツッコミが教室に響き渡る。
かつて、恋愛に一切興味のなかった完璧なアイドル・西園寺遥。
彼は今、地味子の皮を被ったクラゲの少女に、プライドも、理性も、心のすべてを奪われ、完全に「降伏」していた。
すれ違いだらけだった二人の恋は、学園全体を巻き込んだパニックを経て、誰にも邪魔できない、甘すぎる独占愛へと変わっていく。

――物語は、いよいよ二人の「本当の結末」へと向かう。