湊と初めて会った時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
小学校三年生の春だった。
その日は雨が降っていた。
しとしとと静かな雨。
傘を閉じて玄関を開けると、見慣れない男の子がいた。
黒い髪に細い身体。
そして、焦げ茶色の大きな瞳。
でも、その目だけが妙に冷たかった。
背丈は陽菜より少し高いくらいであまり変わらない。
父の後ろに立ちながら、まるで誰も信用していないみたいな顔をしていた。
「陽菜」
父が困ったように笑った。
「今日から一緒に暮らすことになる子だ」
「そうなんだ!」
陽菜は素直に頷いた。
その時の陽菜はまだ、湊の事情なんて知らなかった。
母を亡くして3年。
父と二人で暮らしている、ただの小学生だ。
だから、
「お名前は?」
と聞いた。
男の子は答えない。
じっとこちらを見てくるだけだった。
父が苦笑する。
「久我湊くんだ。」
「みなとくん!」
「……」
「私陽菜!よろしくね!」
「……」
陽菜は首を傾げた。
いつまでたっても帰ってこない返事に、童心ながら変な子だな、と思った。
でも、お母さんはいつも言っていた。
困っている人には笑顔でいなさい、と。
だから陽菜は笑った。
「お腹空いてるー?」
「……別に。」
「今日はカレーなんだぁ~!」
ぴくり、とほんの少しだけ湊の眉が動いたのを、陽菜は見逃さなかった。
「みなとくんも一緒に食べる?」
「……」
「...食べない?」
「........食べる。」
「じゃあおいで!」
にっこり笑った陽菜に、湊は目を見開いた。
まるで、それが予想外だったみたいに。
その日の夕食の時間、湊は一言も喋らなかった。
お父さんが話しかけても、小さな返事だけ。
陽菜が話しかけても、曖昧な返事だけ。
けれどカレーは全部食べてくれたし、
おかわりもしてくれたから、陽菜は嬉しくなった。
「美味しかった?」
「……普通。」
「おかわりしたのに?」
「腹減ってただけやし」
「ふーん」
陽菜はくすくす笑い、それを見て、湊は少し嫌そうな顔をしていた。
その夜、ベッドに潜って陽菜は父に聞いた。
「湊くんは、どうしてあんなに怒ってるの?」
父は少し考えてから言った。
「いっぱい、辛いことがあったんだ。」
「.........?そっかぁ」
「だから今は、そっとしてあげてくれ。」
「うん!わかった!!」
詳しくは聞かなかった。
聞きたくなかった。
だって、あの顔を見ればわかったから。
寂しいんだろうな、と。
それからの日々はぎこちなかった。
湊はほとんど喋らないし、笑いもしなければありがとうも言わない。
学校から帰れば部屋に閉じこもる。
お父さんにも陽菜にも冷たかった。
まるで、ここに居場所なんてないと言うように。
でも陽菜は気にしなかった。
「おはよう!」
「……」
「おかえり!」
「……」
「いただきます!」
「……」
毎日声をかけた。
毎日返事は薄かったけれど、それでも懲りずに続けた。
なんというかもう、一種の意地のようなものだったのかもしれない。
ある日。
陽菜はいつものように学校から帰って、庭で洗濯物を取り込んでいた。
風が強い日だった。
そのせいか、強い風になびいたシーツが飛びそうになってしまった。
「わっ!?」
手が届かない。
すると、横から手が伸びて、すっと誰かが押さえてくれた。
振り向くと、そこにいたのはお父さん........ではなく、湊。
無言プラス無表情。
でも、ちゃんとシーツを持ってくれている。
「ありがと!」
「……別に」
それだけ言って離れようとする。
陽菜は思わず笑った。
「湊くんって優しいね」
ぴたり、と湊の足が止まる。
振り返ったその顔は、少し怒っていた。
「優しい訳やあらへん」
「そう?」
「そうやし」
「でも助けてくれたじゃん」
「……」
「ありがとうね!」
湊は何も言わなかった。
ただ、その耳だけが少し赤かった。
その頃の湊はまだ知らなかった。
人を信じるということを。
家族というものの温かさを。
誰かが自分を必要としてくれるということを。
だから何度も何度も、独りになるたびに考えていた。
どうせいつか捨てられる。
どうせここも同じだ。
期待したら傷つく。
だから期待しない。
そう思っていた。
なのに―――
「湊くーんっ!」
毎日、名前を呼んでくれる奴がいる。
「ご飯できたから一緒に食べよ!」
毎日、俺を待っていてくれる奴がいる。
「おやすみ!」
毎日、笑って隣にいてくれる奴がいる。
気づけば、その声を探すようになっていた。
その笑顔を見ると安心するようになっていた。
まだ恋なんて知らない。
家族というものもよくわからない。
けれど、
確かなことが一つだけあった。
この家がなくなるのは嫌だ。
陽菜がいなくなるのはもっと嫌だ。
小さな少年が初めて手に入れた居場所。
それが――
一ノ瀬家だった。



