レディ・マーメイド

「樹莉、寒くないか?」
「はい、大丈夫です」

ガーデンに出ると、秋の終わりの夜風がひんやりと感じられた。

火照った頬にはちょうどいいが、身体は冷えてくる。

「樹莉、これを着てろ」

亜紋はジャケットを脱ぐと樹莉の肩に羽織らせた。

「あったかい……」

まるで亜紋の腕に抱かれているような温もりと、ほのかな亜紋の香りに包まれて、樹莉ははにかんだ笑みを浮かべる。

肩を並べてガーデンを歩くこの時間が、幸せで愛おしい。

「フラワーエキスポの期間中、花火も上がるんだってな」

ガーデンの端から夜空を見上げて亜紋が言う。

「はい。ここからも見えますね、きっと」
「ああ。樹莉と一緒に観たい」
「……え」

樹莉が顔を上げると、亜紋は優しく微笑んだ。

(亜紋さん、私にだけは笑いかけてくれる)

いつも真顔の亜紋は、目が合えば頬を緩めて優しい笑みを浮かべることが増えた。

その眼差しは、とろけるように甘い。

ぽーっと見とれていると、亜紋が「ん?」と首を傾げる。

「どうかしたか? 樹莉」
「いえ、なんでも……くしゅんっ」

急に吹きつけてきた夜風にくしゃみをすると、亜紋がすぐさま樹莉の肩を抱き寄せた。

「身体が冷えたな。おいで」

そのままガーデンの茂みの向こうへと歩き出す。

「えっ、ここは?」
「水着で入るスパ。温水なんだ」
「そうなんですね」

ガーデンの石畳を階段状にして、オーバルの白い浴槽がいくつか並び、湯気がかすかに立ち昇っていた。

証明で照らされた水面は、青や紫、オレンジなどカラフルで、それぞれによい香りもする。

「夜景や星空を見ながら入れるのね、すてき」
「樹莉、入っていいぞ」

はい!?と樹莉は声を上ずらせる。

「うっかり頷くところでしたよ」
「なぜだ? 入ればいいじゃないか」
「入りません!」

顔を真っ赤にしてそう言うと、亜紋はニヤリと笑った。

「ああ、そういうことか。俺はただ、足だけでも浸かればと思ったが、そんなにガッツリ入りたいなら素っ裸で……」
「足だけでいいです!」

樹莉は亜紋の言葉を遮り、恥ずかしさにくるりと背を向けて青色の浴槽に近づく。

縁に腰掛けてからショートブーツとソックスを脱ぎ、アンクル丈のパンツの裾をまくると、そっと足をお湯に入れた。

「わあ、温かい」

足先からじんわりと温もりが広がり、身体がほぐれていく気がする。

「香りもいいですね。爽やかで」

水面に顔を近づけながら、右手でお湯をすくってみた時だった。

浴槽の縁についた左手がなにかのスイッチを押し、いきなり水面がコポコポと泡立ち始める。

「きゃっ……」

どうやらジャグジーらしい。
すぐ目の前で勢いよく水面が跳ね、驚いた樹莉は身体を起こす。

その拍子に浴槽の1番上の段に載せていた足を滑らせ、ドボンとお湯の中に服のまま落ちてしまった。

勢いのよいジャグジーのせいで、口の中にお湯が入って咳き込む。

「樹莉!」

亜紋がお湯に飛び込んで樹莉を抱き上げた。

「平気か?」
「はい、すみません。びっくりしてしまって」
「びっくりしたのはこっちだ。プールだけじゃなく、ジャグジーでも溺れるなんて」
「溺れてませんよ。私、泳げますから」
「泳ぐ前に溺れてただろ、まったく」

そう言うと、亜紋は樹莉を抱いたまま浴槽の中の段に座る。

「温かくて気持ちがいいな」
「ごめんなさい、亜紋さんの服が濡れてしまって……」
「どうってことない。なんだか、子どもの頃のイタズラを思い出す。池に服のまま飛び込んだりして」

ええ!?と樹莉は驚いて顔を上げた。

「亜紋さんがそんなことするなんて」
「意外か? 俺ってそんなに優等生タイプに見えるのか」
「いえ、全然」
「おい」

あはは!と樹莉は笑い出す。

「ちっちゃい亜紋さんが仏頂面でカッコつけてるところ、想像しちゃった。
可愛いなあ」
「なんだと?」

亜紋はわざと浴槽の深い位置に、ザブンと足を下ろした。

「きゃっ!」

身体が浮き上がり、樹莉は慌てて亜紋の首にしがみつく。

「樹莉……」

切なげに名を呼ばれて顔を上げると、濡れた前髪から覗いた亜紋の視線に真っ直ぐ射貫かれた。

吐息が触れそうなほど近くで見つめ合い、樹莉は息を呑む。

亜紋がなにかを堪えるようにキュッと眉根を寄せ、樹莉の心も締めつけられた。

やがてゆっくりと、亜紋が顔を寄せる。

そっと目を閉じた樹莉の唇に、亜紋は優しく甘いキスを落とした。