レディ・マーメイド

それから1週間後。
仕事を終えて従業員用の通用口から外に出た樹莉は、駅へと歩き始めたところで名前を呼ばれた。

「樹莉」

ハッとして足を止める。
低く響く艶のある声は、見なくても誰だかわかった。

樹莉はゆっくりと振り返る。

黒いセダンの横に佇んでいたのは、ラフな私服姿の亜紋だった。

「亜紋さん……お帰りなさい」

なんだか随分長い間会っていないような気がして、トートバッグの持ち手を握りしめながらおずおずと近づいた。

「ただいま、樹莉。すまない、連絡もせずに。と言っても、樹莉には俺の予定なんて関係ないだろうけど」
「ううん」
「……え?」
「寂しかったです。亜紋さん、なんにも教えてくれなかったんだもん」

拗ねて上目遣いにジロリと睨んでみせると、亜紋は妙に焦り始めた。

「ちょ、待て樹莉。なんでそんなに可愛い?」
「はい? 私、怒ってるんですけど」
「可愛い……」
「亜紋さん! わかってますか? 黙ってイギリスに行っちゃうなんて、私、傷ついたんですからね」
「ごめん、可愛くてつい」

なにを言っても噛み合わない。

まったくもう……と樹莉が頬を膨らませると、ようやく亜紋が目を細めて微笑んだ。

「悪かった。機嫌直せ」

そう言って大きな腕で樹莉を抱き寄せる。

「樹莉、会えなくて寂しかった」
「私も」
「……会えない間にどうしてそんなに可愛くなったんだ?」
「前はブサイクだったってこと?」
「違う。けど、俺が好きだって言ってもツンとしてたじゃないか。だから俺、柄にもなくへこんで。しばらく頭を冷やそうと思って、樹莉になにも知らせずにイギリスに行ったんだ」

それで?と、樹莉はふくれっ面のまま亜紋を見上げる。

「ずっと樹莉に会いたかった。電話しようかとも思ったが、声を聞いたら情けないことを言いそうで。でもどうしても胸が焦がれて、空港から直接ここに来た。たとえ冷たくあしらわれても、ひと目だけでも会いたくて。そしたらめちゃくちゃ可愛くて、今必死に理性を保とうと己と葛藤している」
「そんな真顔で?」
「これがデフォルトだからな」

ふふっと微笑んでから、樹莉も両腕を亜紋の背中に回してギュッと抱きついた。

「亜紋さん、会いたかった」
「樹莉……俺もだ」

二人はしばらく互いを抱きしめ合い、心が通い合う喜びを噛みしめていた。