レディ・マーメイド

「あら、亜紋さま。お帰りなさいませ」

遠くから神谷の声が聞こえてくる。

「樹莉は?」

そう尋ねるのは亜紋の声だ。
どうやら本社での仕事を終えて帰って来たらしい。

ぼんやりしたまま、なかなか意識が浮上しない自分は、いつの間にか眠っていたのだろう。

(起きなきゃ)

そう思い、声がした方に寝返りを打った次の瞬間、身体が一瞬宙に投げ出された気がした。

バシャン!と水音がして、樹莉はプールに落ちる。

(えっ、待って)

寝ぼけた状態でいきなり水中に投げ出され、どっちが水面なのかもわからない。

丈の長いパレオが足にまとわりついて泳げず、樹莉はプールの底に沈んでいく。

焦るあまり、逆に水を飲み込んでしまって息ができなくなった。

(苦しい……)

その時「樹莉!」という声がして、誰かが近くに飛び込んで来た。

すぐさま樹莉の身体を抱き寄せ、水面へと押し上げる。

「樹莉! 大丈夫か?」
「ゴホッ。亜紋、さ、ん」

咳をしながらなんとかそう口にすると「よかった」と抱きしめられた。

服のままプールに飛び込んだ亜紋は、髪から水をしたたらせて樹莉の顔を覗き込む。

「まったく……。水深1.2メートルのプールで溺れるとか、子どもか?」
「ごめんなさい。うっかり寝てしまって」
「寝た!? どれだけ子どもだよ。ほんとに目が離せな……」

そこまで言って言葉を止めた亜紋に、樹莉は「ん?」と首を傾げる。

視線の先を追うと、抱き上げられた自分の水着の胸が、ちょうど亜紋の目の前にあった。

(え、やだ!)

樹莉は慌てて亜紋に抱きつく。

「ちょ、樹莉!」

くぐもった亜紋の声に、ハッと我に返る。

恥ずかしさに思わず隠そうと、咄嗟に亜紋の顔に胸を押しつけてしまっていた。

「違うんです! ごめんなさい!」
「こら、暴れるな」

仰け反って離れようとする樹莉を亜紋はグッと抱き寄せ、そのままフロートに近づく。

「ほら、乗って」
「うん」

身体を支えられてフロートに乗ると、ようやくホッと息をついた。

亜紋もフロートのフチに両腕を載せ、しばらく波に漂う。

「なんだか、人魚姫と出逢った気分だ」
「え?」
「満月の夜に俺の前に現れた、大きな貝殻の中の可愛い人魚姫」

樹莉は言葉を失くして、ただ亜紋と見つめ合う。

「……物語ではそのあと、人魚姫は海に帰るのか?」
「はい」
「そうか」

どこか寂しそうな亜紋の言葉に、樹莉も口を閉ざしてうつむいていた。