レディ・マーメイド

「樹莉、職場からなにか連絡はあったか?」

真鯛のポワレの白ワインソース仕立てにナイフを入れながら、亜紋は樹莉に尋ねる。

「はい。昨夜ホテルのバックヤードに不審者が侵入して警察を呼んだことが、従業員への一斉メールで届きました。順次各マネージャーが一人一人呼び出してヒアリングを行うと。私から返信はしていませんが、黒木さんに言われた通り、私が襲われて今ここにかくまっていただいていることは、ひとまず職場には伏せておきます」
「すまない、無理を言って。樹莉の安全は必ず守るから。もし警察に事情を訊かれたら、その時はもちろん包み隠さず話してくれていい」
「わかりました。私のことより、亜紋さんはなにか危険なことをしようとはしてしないですか?」

樹莉は手を止めて心配そうに見つめてくる。

「俺は大丈夫だ」
「本当に?」
「疑り深いな」
「だっていつも深刻そうな表情なんですもん。ニコリとも笑わないし」
「これがデフォルトだから仕方ない」
「えっ、年中そんなお顔なんですか?」

驚いたような声を上げる樹莉に面食らって黙り込む。

神谷が背を向けて、肩で笑いを堪えているのがわかった。

「……悪いか?」
「いえ、もったいないなと思って。ニコッて笑ったら、世の女性みんなのハートを撃ち抜きそうなのに」

ニコッ、なんて笑ったことなどない。

「あいにく女嫌いなもんでね」
「これはまた、令和の時代に思い切った発言ですね。それとも恋人は同性派ですか? そういう時は『性別に関係なく好きになった相手が自分の好きな人です』って言った方がいいですよ」
「そんな長文言えるか」
「あ、寡黙なタイプですか? それなら『男は黙って態度で示す』ってひと言でいいですよ」

話の内容が頭に入ってこない。
ただ単純に、樹莉のスラスラと淀みのない話し方に感心した。

きれいな声は、鈴を転がしたとでも言うのか。
流れるような響きは、まるで音楽のようだった。

「よくしゃべるな」

途端に樹莉は拗ねたように唇を尖らせる。
どうやら自分は言葉のチョイスを間違えてしまったらしい。

「失礼しました。黙ります」

そう言って視線を落とすと、樹莉は黙々と手を動かし始めた。

静けさが広がり、亜紋は居心地が悪くなる。

「樹莉、なにか話せ」
「はい? たった今、しゃべり過ぎだっておっしゃいましたよね?」
「違う。よくしゃべるなと言っただけだ」
「同じじゃないですか。黙れって言ったり話せって言ったり、もう……」

なにやら怒っているらしい。
子どものように表情を変える樹莉から、なぜだか目が離せなくなる。

そう言えば昨夜は男に襲われたショックで怯えていたが、どうやらもう大丈夫なようだ。

よかった、と亜紋は安堵する。

「樹莉、元気そうだな」

そう言うと樹莉は手を止めてポカンとしてから、「元気ですよ!」となにやらやけっぱちに答える。

またしても神谷が背を向けて肩を震わせていた。