レディ・マーメイド

「動くな」

背後から耳に響いた冷たい男の声に樹莉(じゅり)はハッとして身をすくめた。

動きたくても動けない。

そのまま腕を捕まれ、暗い雑居ビルが立ち並ぶ細い抜け道に引きずり込まれた。

時刻は深夜0時近く。

仕事終わりに終電に乗ろうと急いで裏通りを通ったのがいけなかった。

いつものように明るい大通りを歩けばよかったのに。

いや、今はそんなことを後悔している場合ではない。

(誰? 一体なにをする気なの?)

訊きたくても恐怖で声が喉に張り付く。

男は後ろから右腕を回して樹莉の首元をグッと押さえつけながら、耳元で尋ねた。

「どこに隠した?」

隠した、とは?
なにを訊かれているのかわからない。
そもそも答えたくても、これでは声が出せない。

息が止まるかのような苦しさに、樹莉は必死で男の腕を摑む。

するとふいに男の手が緩んだ。
樹莉はその手を振りほどき、ゴホゴホと咳込みながら大きく息を吸う。

ドスッと鈍い音がして、男が地面に倒れ込むのが見えた。

(えっ?)

なにが起きたのかと立ちすくんでいると、背の高い誰かが樹莉の前に身を滑らせ、樹莉を背中にかくまった。

「大丈夫か!?」

地面に倒れた男から視線をそらさず、長身のその男性は後ろ手に樹莉の身体を抱き寄せる。

「あ、はい。大丈夫です」
「すぐそこに車を停めてある。行こう」

男がうめき声を上げながらユラリと立ち上がると、樹莉は男性に肩を抱かれて走り出した。

車道に停めてある黒いセダンに駆け寄り、男性が開けたドアから助手先に乗り込む。

「こいつ、待て!」

追いかけてきた男がドアに飛びつこうとした時、男性が背を向けたまま右の肘を鋭く後ろに突き出した。

「うぐっ……」

みぞおちを打たれて、男は再び地面にうずくまる。

その隙に運転席に回った男性が、素早くエンジンをかけて車を発進させた。

サイドミラーに映る男の姿がみるみるうちに小さくなり、やがて見えなくなると、樹莉はホッと息をついた。