硝子の鍵~season2

手を繋いだ夜のあと、俺はしばらく自分の右手を見ていた。

灯理さんの手の温度が、まだ残っている気がした。

冬の夜だった。

吐く息は白くて、橋の上の風は冷たかったはずなのに、俺の手の中だけが妙に熱かった。

ここから、手を繋いでもいいですか。

そう聞いた自分の声を、何度も思い出す。

ちゃんと繋ぎました。

あんな言い方をした自分が、少し恥ずかしい。

けれど、あの時はそう言わずにはいられなかった。

偶然触れたのではない。
流れで握ったのでもない。
転びそうだったから支えたのでもない。

俺が、灯理さんの手を繋ぎたかった。

そのことを、彼女にも、自分にも、誤魔化したくなかった。

「キスは、まだしません」

あの言葉も、何度も胸の中で繰り返した。

したくなかったわけじゃない。

そんな綺麗な男ではない。

灯理さんの顔が近くにあった。

好きになるのが怖いと言いながら、それでも離れたくないと揺れていた。

あの目を見て、触れたいと思わなかったと言えば嘘になる。

額を寄せた時、唇までの距離を、俺は確かに意識していた。

あと少しだった。

あと少し、顔を傾ければ触れられた。

けれど、その少しが怖かった。

灯理さんを怖がらせることも。
自分の欲を、優しさの顔で差し出してしまうことも。
陽斗のいる場所に、勝手に踏み込むことも。

全部が怖かった。

だから、キスはしなかった。

それが誠実だったのか、ただの臆病だったのか、今でも分からない。

ただ、あの夜。

灯理さんが俺の手を握り返してくれた時、俺はたぶん初めて、教師でもなく、誰かの知り合いでもなく、ただ一人の男として彼女の隣に立っていた。

そのことが、嬉しかった。

そして、怖かった。

翌朝、教室に入ると、いつもの声が一斉に飛んできた。

「先生、おはようございます」

「おはよう」

返事をしながら、俺は黒板に日付を書いた。

チョークの白い粉が指につく。

昨日の夜、灯理さんの手を繋いだ指と同じ指に。

それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ鳴った。

馬鹿みたいだと思う。

三十にもなって、手を繋いだだけで一晩中眠れないなんて。

でも、その馬鹿みたいな感情が、まだ俺の中に残っていることが、少しだけ救いでもあった。

「先生、今日の国語って発表ですか」

一番前の席の子が聞いた。

「そう。昨日準備した職業調べの発表」

「えー、緊張する」

「緊張していいよ。緊張しても、言葉にできればそれで十分」

そう言うと、何人かが笑った。

教室は、いつも通りだった。

朝の会。
健康観察。
宿題の確認。
提出物の山。
忘れ物の言い訳。
廊下を走る子どもへの声かけ。

教師の日常は、恋をしたからといって止まってはくれない。

むしろ、いつもより正しく立っていなければならない気がした。

俺の中にある灯理さんへの感情が、教室の空気に混ざらないように。

誰かの目に、変な影として映らないように。

そう思えば思うほど、身体の中が固くなる。

二時間目の終わり、図書室へ向かう廊下で陽斗とすれ違った。

両手に本を抱えていた。

恐竜の本と、星座の本。

妙な組み合わせだった。

「陽斗」

声をかけると、陽斗が立ち止まった。

「はい」

いつも通りの返事だった。

けれど、その目は少しだけこちらを探るようだった。

陽斗は、よく見る子だ。

子どもの顔をして、大人の沈黙を拾う。

言葉にしていないことまで、何となく気づいてしまう。

灯理さんに似ている、と思う時がある。

見ないふりが下手なところも。
見えたものを、すぐには言葉にしないところも。

「その本、返却?」

「星座の方は借りる。恐竜の方は返す」

「恐竜博士、今日は休業か」

「別に休業じゃないです。星を見る恐竜博士になるだけです」

真面目な顔でそう言われて、少し笑ってしまった。

「それは強いな」

「先生」

「ん?」

陽斗は、俺の右手を見た。

一瞬だった。

でも、確かに見た。

「手、どうかした?」

心臓が、一拍遅れた。

「手?」

「さっきから、見てたから」

気づかれていた。

自分では無意識だった。

俺は、右手を軽く握ってから開いた。

「チョークの粉がついてただけ」

嘘ではない。

でも、全部ではない。

陽斗はしばらく俺を見ていた。

それから、少しだけ目を細めた。

「ふうん」

子どもの返事ではなかった。

大人が、何かを飲み込む時の返事に似ていた。

「図書室、遅れるぞ」

「はい」

陽斗は本を抱え直して歩き出した。

その背中を見送りながら、俺は息を吐いた。

たったそれだけで、もう線の難しさを思い知らされる。

俺が灯理さんを好きだということ。

その感情は、俺だけのものでは済まない。

灯理さんには陽斗がいる。

陽斗には灯理さんがいる。

そこに俺が入るということは、ただ彼女の隣に立つだけでは終わらない。

それを分かっていたはずなのに、手を繋いだ夜の温度に、少しだけ浮かれていたのかもしれない。

職員室に戻ると、佐伯が机に腰を預けてプリントをめくっていた。

俺の顔を見るなり、すぐに言った。

「変な顔してる」

「朝からそれか」

「朝からその顔してる方が悪い」

佐伯は、こちらを見ずにプリントを揃えた。

「陽斗と何かあった?」

「別に」

「別に、の顔じゃない」

「よく見るな」

「同僚だからな」

軽く言ったあと、佐伯は少しだけ声を落とした。

「去年の担任でもあるし」

その言葉に、返事が詰まった。

佐伯尚。

陽斗の担任として灯理さんと関わり、俺より先に、あの母子の空気を知っている男。

そして、灯理さんが弱い顔を見せられる男。

それを考えると、胸の奥に小さく棘が刺さる。

嫉妬だ。

あの夜、灯理さんに言った。

佐伯に嫉妬しています、と。

言ってしまえば楽になるかと思った。

けれど、言葉にしたくらいで消えるものではなかった。

むしろ、自分の中にそういう感情があることを、以前よりはっきり知ってしまった。

「何」

佐伯が顔を上げる。

「いや」

「その顔、俺に嫉妬してる時の顔だろ」

「……分かるのか」

「分かりやすくなった」

嫌な言い方だった。

でも、否定できなかった。

佐伯は小さく笑った。

「安心しろよ。今は担任として見てる」

「今は?」

思わず聞き返すと、佐伯はプリントを置いた。

「そこ拾うなよ」

「拾うだろ」

「だろうな」

佐伯はため息みたいに笑った。

でも、その目は笑っていなかった。

「登坂」

「ん」

「灯理さんに近づくなら、陽斗のことを抜きにするなよ」

胸の奥が、冷たくなった。

「分かってる」

「分かってるだけじゃ足りない」

佐伯の声は静かだった。

責めているというより、釘を刺している。

「陽斗は見てる。お前が思ってるより、ずっと見てる」

「今日、それを少し思い知った」

「だろうな」

佐伯は、机の上のペンを一本指で転がした。

「で、お前はどうするの」

「どうするって」

「灯理さんと」

その名前が出るだけで、教室と職員室の空気が変わる気がする。

俺は答えられなかった。

どうしたいかなら、分かっている。

会いたい。

声を聞きたい。

もう一度、手を繋ぎたい。

あの夜しなかったキスを、いつかしたい。

もっと近くに行きたい。

けれど、それをそのまま口にできるほど、俺は簡単な場所にいない。

「大事にしたい」

ようやく出た言葉は、それだった。

佐伯は、少しだけ目を細めた。

「便利な言葉だな」

「何が」

「大事にしたいって言えば、触れたいことも、怖いことも、逃げたいことも、全部きれいに包める」

言い返せなかった。

図星だった。

佐伯は続けた。

「お前、灯理さんを大事にしたいんだろ」

「うん」

「でも、欲しいとも思ってるんだろ」

喉が詰まった。

職員室のざわめきが、急に遠くなる。

「そういう言い方するな」

「じゃあ、違うのか」

違わない。

違うと言えない自分がいた。

灯理さんに触れたいと思った。

手だけでは足りないと思った。

キスをしたいと思った。

抱きしめたいと思った。

それは、彼女を軽く見ているからではない。

好きだからだ。

大事にしたいからだ。

けれど、その気持ちの中に、ちゃんと欲がある。

そのことを認めるのが、怖かった。

「違わない」

小さく答えると、佐伯は少しだけ黙った。

それから、低い声で言った。

「だったら、そこから逃げるなよ」

「逃げてない」

「今はまだな」

その言い方が、妙に引っかかった。

「どういう意味だよ」

「お前みたいなやつは、欲が出た時に一番逃げる」

佐伯は、まっすぐ俺を見た。

「大事にしたいって顔して、自分の欲に傷ついて、勝手に距離を取る」

胸の奥を、見透かされた気がした。

「それをやったら、灯理さんは自分を責めるぞ」

灯理さんが自分を責める。

その言葉だけで、息が詰まった。

「分かってる」

「ほんとかよ」

「分かってる」

二度目は、少し強く言った。

佐伯はそれ以上言わなかった。

ただ、プリントを手に取って、自分の席へ戻る前に一言だけ残した。

「なら、ちゃんとしろよ。先生としても、男としても」

職員室の扉が開き、誰かが入ってきた。

いつもの一日が続いていく。

授業。
丸つけ。
会議。
保護者への連絡。
子どもたちの声。

その中で、俺だけが昨日の夜に少し取り残されていた。

放課後。

教室に残った俺は、黒板の端に書いた日直の名前を消した。

チョークの粉がまた指につく。

右手を見る。

そこに灯理さんの温度は、もうない。

けれど、消えたわけではなかった。

むしろ、見えない場所に沈んだだけだ。

胸の奥に。
言葉の隙間に。
陽斗の視線の中に。
佐伯の忠告の中に。

スマホを開く。

灯理さんとのトーク画面を出した。

最後のやり取りは、昨夜のものだった。

短い言葉。

それだけなのに、何度も読み返してしまう。

何か送りたい。

けれど、何を送ればいいのか分からなかった。

会いたいです。

そう打って、消す。

昨日はありがとうございました。

それでは遠すぎる気がして、消す。

手を繋げて嬉しかったです。

正直すぎて、消す。

俺はしばらく画面を見つめたあと、ようやく文字を打った。

『昨日の夜のこと、今もちゃんと覚えています』

送信ボタンの上で、指が止まる。

重いだろうか。

困らせるだろうか。

でも、軽くしたくなかった。

あの夜を、なかったことにしたくなかった。

俺は息を吐いて、送った。

既読は、すぐにはつかなかった。

それでいいと思った。

待つことも、たぶん俺に必要なことだ。

窓の外は、もう暗くなり始めていた。

教室には、俺一人しかいない。

子どもたちの机が、静かに並んでいる。

その中に、まだ陽斗の席はない。

それでもいつか、あの子の机の前に立つ日が来るのかもしれない。

その時、俺はどんな顔で立てるのだろう。

灯理さんを好きな男としてではなく。

陽斗を見る教師として。

そして、その両方を持ったまま、一人の大人として。

スマホが小さく震えた。

灯理さんからだった。

『私も、覚えています』

たったそれだけの返事だった。

それなのに、胸の奥が苦しくなる。

続けて、もう一つ届いた。

『少し、怖いくらいに』

俺は画面を見つめた。

怖い。

その言葉を、軽く抱きしめることはできない。

俺も怖いです。

そう返すことは簡単だった。

でも、それだけでは足りない気がした。

俺はゆっくり文字を打った。

『怖いままで、大丈夫です』

少し考えて、続けた。

『俺も、急ぎません』

送ったあと、右手を握った。

急がない。

そう言いながら、本当はもう一度触れたいと思っている。

待つ。

そう決めながら、本当は今すぐ会いたいと思っている。

大事にしたい。

でも、欲しい。

その二つが、同じ胸の中でぶつかっている。

それを認めたまま、俺は明日も教室に立たなければならない。

先生の影を背負ったまま。

一人の男として灯理さんを想いながら。

硝子の鍵は、まだ開ききらない扉の前で、静かに鳴っていた。