手を繋いだ夜のあと、俺はしばらく自分の右手を見ていた。
灯理さんの手の温度が、まだ残っている気がした。
冬の夜だった。
吐く息は白くて、橋の上の風は冷たかったはずなのに、俺の手の中だけが妙に熱かった。
ここから、手を繋いでもいいですか。
そう聞いた自分の声を、何度も思い出す。
ちゃんと繋ぎました。
あんな言い方をした自分が、少し恥ずかしい。
けれど、あの時はそう言わずにはいられなかった。
偶然触れたのではない。
流れで握ったのでもない。
転びそうだったから支えたのでもない。
俺が、灯理さんの手を繋ぎたかった。
そのことを、彼女にも、自分にも、誤魔化したくなかった。
「キスは、まだしません」
あの言葉も、何度も胸の中で繰り返した。
したくなかったわけじゃない。
そんな綺麗な男ではない。
灯理さんの顔が近くにあった。
好きになるのが怖いと言いながら、それでも離れたくないと揺れていた。
あの目を見て、触れたいと思わなかったと言えば嘘になる。
額を寄せた時、唇までの距離を、俺は確かに意識していた。
あと少しだった。
あと少し、顔を傾ければ触れられた。
けれど、その少しが怖かった。
灯理さんを怖がらせることも。
自分の欲を、優しさの顔で差し出してしまうことも。
陽斗のいる場所に、勝手に踏み込むことも。
全部が怖かった。
だから、キスはしなかった。
それが誠実だったのか、ただの臆病だったのか、今でも分からない。
ただ、あの夜。
灯理さんが俺の手を握り返してくれた時、俺はたぶん初めて、教師でもなく、誰かの知り合いでもなく、ただ一人の男として彼女の隣に立っていた。
そのことが、嬉しかった。
そして、怖かった。
翌朝、教室に入ると、いつもの声が一斉に飛んできた。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
返事をしながら、俺は黒板に日付を書いた。
チョークの白い粉が指につく。
昨日の夜、灯理さんの手を繋いだ指と同じ指に。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ鳴った。
馬鹿みたいだと思う。
三十にもなって、手を繋いだだけで一晩中眠れないなんて。
でも、その馬鹿みたいな感情が、まだ俺の中に残っていることが、少しだけ救いでもあった。
「先生、今日の国語って発表ですか」
一番前の席の子が聞いた。
「そう。昨日準備した職業調べの発表」
「えー、緊張する」
「緊張していいよ。緊張しても、言葉にできればそれで十分」
そう言うと、何人かが笑った。
教室は、いつも通りだった。
朝の会。
健康観察。
宿題の確認。
提出物の山。
忘れ物の言い訳。
廊下を走る子どもへの声かけ。
教師の日常は、恋をしたからといって止まってはくれない。
むしろ、いつもより正しく立っていなければならない気がした。
俺の中にある灯理さんへの感情が、教室の空気に混ざらないように。
誰かの目に、変な影として映らないように。
そう思えば思うほど、身体の中が固くなる。
二時間目の終わり、図書室へ向かう廊下で陽斗とすれ違った。
両手に本を抱えていた。
恐竜の本と、星座の本。
妙な組み合わせだった。
「陽斗」
声をかけると、陽斗が立ち止まった。
「はい」
いつも通りの返事だった。
けれど、その目は少しだけこちらを探るようだった。
陽斗は、よく見る子だ。
子どもの顔をして、大人の沈黙を拾う。
言葉にしていないことまで、何となく気づいてしまう。
灯理さんに似ている、と思う時がある。
見ないふりが下手なところも。
見えたものを、すぐには言葉にしないところも。
「その本、返却?」
「星座の方は借りる。恐竜の方は返す」
「恐竜博士、今日は休業か」
「別に休業じゃないです。星を見る恐竜博士になるだけです」
真面目な顔でそう言われて、少し笑ってしまった。
「それは強いな」
「先生」
「ん?」
陽斗は、俺の右手を見た。
一瞬だった。
でも、確かに見た。
「手、どうかした?」
心臓が、一拍遅れた。
「手?」
「さっきから、見てたから」
気づかれていた。
自分では無意識だった。
俺は、右手を軽く握ってから開いた。
「チョークの粉がついてただけ」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
陽斗はしばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ目を細めた。
「ふうん」
子どもの返事ではなかった。
大人が、何かを飲み込む時の返事に似ていた。
「図書室、遅れるぞ」
「はい」
陽斗は本を抱え直して歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は息を吐いた。
たったそれだけで、もう線の難しさを思い知らされる。
俺が灯理さんを好きだということ。
その感情は、俺だけのものでは済まない。
灯理さんには陽斗がいる。
陽斗には灯理さんがいる。
そこに俺が入るということは、ただ彼女の隣に立つだけでは終わらない。
それを分かっていたはずなのに、手を繋いだ夜の温度に、少しだけ浮かれていたのかもしれない。
職員室に戻ると、佐伯が机に腰を預けてプリントをめくっていた。
俺の顔を見るなり、すぐに言った。
「変な顔してる」
「朝からそれか」
「朝からその顔してる方が悪い」
佐伯は、こちらを見ずにプリントを揃えた。
「陽斗と何かあった?」
「別に」
「別に、の顔じゃない」
「よく見るな」
「同僚だからな」
軽く言ったあと、佐伯は少しだけ声を落とした。
「去年の担任でもあるし」
その言葉に、返事が詰まった。
佐伯尚。
陽斗の担任として灯理さんと関わり、俺より先に、あの母子の空気を知っている男。
そして、灯理さんが弱い顔を見せられる男。
それを考えると、胸の奥に小さく棘が刺さる。
嫉妬だ。
あの夜、灯理さんに言った。
佐伯に嫉妬しています、と。
言ってしまえば楽になるかと思った。
けれど、言葉にしたくらいで消えるものではなかった。
むしろ、自分の中にそういう感情があることを、以前よりはっきり知ってしまった。
「何」
佐伯が顔を上げる。
「いや」
「その顔、俺に嫉妬してる時の顔だろ」
「……分かるのか」
「分かりやすくなった」
嫌な言い方だった。
でも、否定できなかった。
佐伯は小さく笑った。
「安心しろよ。今は担任として見てる」
「今は?」
思わず聞き返すと、佐伯はプリントを置いた。
「そこ拾うなよ」
「拾うだろ」
「だろうな」
佐伯はため息みたいに笑った。
でも、その目は笑っていなかった。
「登坂」
「ん」
「灯理さんに近づくなら、陽斗のことを抜きにするなよ」
胸の奥が、冷たくなった。
「分かってる」
「分かってるだけじゃ足りない」
佐伯の声は静かだった。
責めているというより、釘を刺している。
「陽斗は見てる。お前が思ってるより、ずっと見てる」
「今日、それを少し思い知った」
「だろうな」
佐伯は、机の上のペンを一本指で転がした。
「で、お前はどうするの」
「どうするって」
「灯理さんと」
その名前が出るだけで、教室と職員室の空気が変わる気がする。
俺は答えられなかった。
どうしたいかなら、分かっている。
会いたい。
声を聞きたい。
もう一度、手を繋ぎたい。
あの夜しなかったキスを、いつかしたい。
もっと近くに行きたい。
けれど、それをそのまま口にできるほど、俺は簡単な場所にいない。
「大事にしたい」
ようやく出た言葉は、それだった。
佐伯は、少しだけ目を細めた。
「便利な言葉だな」
「何が」
「大事にしたいって言えば、触れたいことも、怖いことも、逃げたいことも、全部きれいに包める」
言い返せなかった。
図星だった。
佐伯は続けた。
「お前、灯理さんを大事にしたいんだろ」
「うん」
「でも、欲しいとも思ってるんだろ」
喉が詰まった。
職員室のざわめきが、急に遠くなる。
「そういう言い方するな」
「じゃあ、違うのか」
違わない。
違うと言えない自分がいた。
灯理さんに触れたいと思った。
手だけでは足りないと思った。
キスをしたいと思った。
抱きしめたいと思った。
それは、彼女を軽く見ているからではない。
好きだからだ。
大事にしたいからだ。
けれど、その気持ちの中に、ちゃんと欲がある。
そのことを認めるのが、怖かった。
「違わない」
小さく答えると、佐伯は少しだけ黙った。
それから、低い声で言った。
「だったら、そこから逃げるなよ」
「逃げてない」
「今はまだな」
その言い方が、妙に引っかかった。
「どういう意味だよ」
「お前みたいなやつは、欲が出た時に一番逃げる」
佐伯は、まっすぐ俺を見た。
「大事にしたいって顔して、自分の欲に傷ついて、勝手に距離を取る」
胸の奥を、見透かされた気がした。
「それをやったら、灯理さんは自分を責めるぞ」
灯理さんが自分を責める。
その言葉だけで、息が詰まった。
「分かってる」
「ほんとかよ」
「分かってる」
二度目は、少し強く言った。
佐伯はそれ以上言わなかった。
ただ、プリントを手に取って、自分の席へ戻る前に一言だけ残した。
「なら、ちゃんとしろよ。先生としても、男としても」
職員室の扉が開き、誰かが入ってきた。
いつもの一日が続いていく。
授業。
丸つけ。
会議。
保護者への連絡。
子どもたちの声。
その中で、俺だけが昨日の夜に少し取り残されていた。
放課後。
教室に残った俺は、黒板の端に書いた日直の名前を消した。
チョークの粉がまた指につく。
右手を見る。
そこに灯理さんの温度は、もうない。
けれど、消えたわけではなかった。
むしろ、見えない場所に沈んだだけだ。
胸の奥に。
言葉の隙間に。
陽斗の視線の中に。
佐伯の忠告の中に。
スマホを開く。
灯理さんとのトーク画面を出した。
最後のやり取りは、昨夜のものだった。
短い言葉。
それだけなのに、何度も読み返してしまう。
何か送りたい。
けれど、何を送ればいいのか分からなかった。
会いたいです。
そう打って、消す。
昨日はありがとうございました。
それでは遠すぎる気がして、消す。
手を繋げて嬉しかったです。
正直すぎて、消す。
俺はしばらく画面を見つめたあと、ようやく文字を打った。
『昨日の夜のこと、今もちゃんと覚えています』
送信ボタンの上で、指が止まる。
重いだろうか。
困らせるだろうか。
でも、軽くしたくなかった。
あの夜を、なかったことにしたくなかった。
俺は息を吐いて、送った。
既読は、すぐにはつかなかった。
それでいいと思った。
待つことも、たぶん俺に必要なことだ。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
教室には、俺一人しかいない。
子どもたちの机が、静かに並んでいる。
その中に、まだ陽斗の席はない。
それでもいつか、あの子の机の前に立つ日が来るのかもしれない。
その時、俺はどんな顔で立てるのだろう。
灯理さんを好きな男としてではなく。
陽斗を見る教師として。
そして、その両方を持ったまま、一人の大人として。
スマホが小さく震えた。
灯理さんからだった。
『私も、覚えています』
たったそれだけの返事だった。
それなのに、胸の奥が苦しくなる。
続けて、もう一つ届いた。
『少し、怖いくらいに』
俺は画面を見つめた。
怖い。
その言葉を、軽く抱きしめることはできない。
俺も怖いです。
そう返すことは簡単だった。
でも、それだけでは足りない気がした。
俺はゆっくり文字を打った。
『怖いままで、大丈夫です』
少し考えて、続けた。
『俺も、急ぎません』
送ったあと、右手を握った。
急がない。
そう言いながら、本当はもう一度触れたいと思っている。
待つ。
そう決めながら、本当は今すぐ会いたいと思っている。
大事にしたい。
でも、欲しい。
その二つが、同じ胸の中でぶつかっている。
それを認めたまま、俺は明日も教室に立たなければならない。
先生の影を背負ったまま。
一人の男として灯理さんを想いながら。
硝子の鍵は、まだ開ききらない扉の前で、静かに鳴っていた。
灯理さんの手の温度が、まだ残っている気がした。
冬の夜だった。
吐く息は白くて、橋の上の風は冷たかったはずなのに、俺の手の中だけが妙に熱かった。
ここから、手を繋いでもいいですか。
そう聞いた自分の声を、何度も思い出す。
ちゃんと繋ぎました。
あんな言い方をした自分が、少し恥ずかしい。
けれど、あの時はそう言わずにはいられなかった。
偶然触れたのではない。
流れで握ったのでもない。
転びそうだったから支えたのでもない。
俺が、灯理さんの手を繋ぎたかった。
そのことを、彼女にも、自分にも、誤魔化したくなかった。
「キスは、まだしません」
あの言葉も、何度も胸の中で繰り返した。
したくなかったわけじゃない。
そんな綺麗な男ではない。
灯理さんの顔が近くにあった。
好きになるのが怖いと言いながら、それでも離れたくないと揺れていた。
あの目を見て、触れたいと思わなかったと言えば嘘になる。
額を寄せた時、唇までの距離を、俺は確かに意識していた。
あと少しだった。
あと少し、顔を傾ければ触れられた。
けれど、その少しが怖かった。
灯理さんを怖がらせることも。
自分の欲を、優しさの顔で差し出してしまうことも。
陽斗のいる場所に、勝手に踏み込むことも。
全部が怖かった。
だから、キスはしなかった。
それが誠実だったのか、ただの臆病だったのか、今でも分からない。
ただ、あの夜。
灯理さんが俺の手を握り返してくれた時、俺はたぶん初めて、教師でもなく、誰かの知り合いでもなく、ただ一人の男として彼女の隣に立っていた。
そのことが、嬉しかった。
そして、怖かった。
翌朝、教室に入ると、いつもの声が一斉に飛んできた。
「先生、おはようございます」
「おはよう」
返事をしながら、俺は黒板に日付を書いた。
チョークの白い粉が指につく。
昨日の夜、灯理さんの手を繋いだ指と同じ指に。
それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ鳴った。
馬鹿みたいだと思う。
三十にもなって、手を繋いだだけで一晩中眠れないなんて。
でも、その馬鹿みたいな感情が、まだ俺の中に残っていることが、少しだけ救いでもあった。
「先生、今日の国語って発表ですか」
一番前の席の子が聞いた。
「そう。昨日準備した職業調べの発表」
「えー、緊張する」
「緊張していいよ。緊張しても、言葉にできればそれで十分」
そう言うと、何人かが笑った。
教室は、いつも通りだった。
朝の会。
健康観察。
宿題の確認。
提出物の山。
忘れ物の言い訳。
廊下を走る子どもへの声かけ。
教師の日常は、恋をしたからといって止まってはくれない。
むしろ、いつもより正しく立っていなければならない気がした。
俺の中にある灯理さんへの感情が、教室の空気に混ざらないように。
誰かの目に、変な影として映らないように。
そう思えば思うほど、身体の中が固くなる。
二時間目の終わり、図書室へ向かう廊下で陽斗とすれ違った。
両手に本を抱えていた。
恐竜の本と、星座の本。
妙な組み合わせだった。
「陽斗」
声をかけると、陽斗が立ち止まった。
「はい」
いつも通りの返事だった。
けれど、その目は少しだけこちらを探るようだった。
陽斗は、よく見る子だ。
子どもの顔をして、大人の沈黙を拾う。
言葉にしていないことまで、何となく気づいてしまう。
灯理さんに似ている、と思う時がある。
見ないふりが下手なところも。
見えたものを、すぐには言葉にしないところも。
「その本、返却?」
「星座の方は借りる。恐竜の方は返す」
「恐竜博士、今日は休業か」
「別に休業じゃないです。星を見る恐竜博士になるだけです」
真面目な顔でそう言われて、少し笑ってしまった。
「それは強いな」
「先生」
「ん?」
陽斗は、俺の右手を見た。
一瞬だった。
でも、確かに見た。
「手、どうかした?」
心臓が、一拍遅れた。
「手?」
「さっきから、見てたから」
気づかれていた。
自分では無意識だった。
俺は、右手を軽く握ってから開いた。
「チョークの粉がついてただけ」
嘘ではない。
でも、全部ではない。
陽斗はしばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ目を細めた。
「ふうん」
子どもの返事ではなかった。
大人が、何かを飲み込む時の返事に似ていた。
「図書室、遅れるぞ」
「はい」
陽斗は本を抱え直して歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は息を吐いた。
たったそれだけで、もう線の難しさを思い知らされる。
俺が灯理さんを好きだということ。
その感情は、俺だけのものでは済まない。
灯理さんには陽斗がいる。
陽斗には灯理さんがいる。
そこに俺が入るということは、ただ彼女の隣に立つだけでは終わらない。
それを分かっていたはずなのに、手を繋いだ夜の温度に、少しだけ浮かれていたのかもしれない。
職員室に戻ると、佐伯が机に腰を預けてプリントをめくっていた。
俺の顔を見るなり、すぐに言った。
「変な顔してる」
「朝からそれか」
「朝からその顔してる方が悪い」
佐伯は、こちらを見ずにプリントを揃えた。
「陽斗と何かあった?」
「別に」
「別に、の顔じゃない」
「よく見るな」
「同僚だからな」
軽く言ったあと、佐伯は少しだけ声を落とした。
「去年の担任でもあるし」
その言葉に、返事が詰まった。
佐伯尚。
陽斗の担任として灯理さんと関わり、俺より先に、あの母子の空気を知っている男。
そして、灯理さんが弱い顔を見せられる男。
それを考えると、胸の奥に小さく棘が刺さる。
嫉妬だ。
あの夜、灯理さんに言った。
佐伯に嫉妬しています、と。
言ってしまえば楽になるかと思った。
けれど、言葉にしたくらいで消えるものではなかった。
むしろ、自分の中にそういう感情があることを、以前よりはっきり知ってしまった。
「何」
佐伯が顔を上げる。
「いや」
「その顔、俺に嫉妬してる時の顔だろ」
「……分かるのか」
「分かりやすくなった」
嫌な言い方だった。
でも、否定できなかった。
佐伯は小さく笑った。
「安心しろよ。今は担任として見てる」
「今は?」
思わず聞き返すと、佐伯はプリントを置いた。
「そこ拾うなよ」
「拾うだろ」
「だろうな」
佐伯はため息みたいに笑った。
でも、その目は笑っていなかった。
「登坂」
「ん」
「灯理さんに近づくなら、陽斗のことを抜きにするなよ」
胸の奥が、冷たくなった。
「分かってる」
「分かってるだけじゃ足りない」
佐伯の声は静かだった。
責めているというより、釘を刺している。
「陽斗は見てる。お前が思ってるより、ずっと見てる」
「今日、それを少し思い知った」
「だろうな」
佐伯は、机の上のペンを一本指で転がした。
「で、お前はどうするの」
「どうするって」
「灯理さんと」
その名前が出るだけで、教室と職員室の空気が変わる気がする。
俺は答えられなかった。
どうしたいかなら、分かっている。
会いたい。
声を聞きたい。
もう一度、手を繋ぎたい。
あの夜しなかったキスを、いつかしたい。
もっと近くに行きたい。
けれど、それをそのまま口にできるほど、俺は簡単な場所にいない。
「大事にしたい」
ようやく出た言葉は、それだった。
佐伯は、少しだけ目を細めた。
「便利な言葉だな」
「何が」
「大事にしたいって言えば、触れたいことも、怖いことも、逃げたいことも、全部きれいに包める」
言い返せなかった。
図星だった。
佐伯は続けた。
「お前、灯理さんを大事にしたいんだろ」
「うん」
「でも、欲しいとも思ってるんだろ」
喉が詰まった。
職員室のざわめきが、急に遠くなる。
「そういう言い方するな」
「じゃあ、違うのか」
違わない。
違うと言えない自分がいた。
灯理さんに触れたいと思った。
手だけでは足りないと思った。
キスをしたいと思った。
抱きしめたいと思った。
それは、彼女を軽く見ているからではない。
好きだからだ。
大事にしたいからだ。
けれど、その気持ちの中に、ちゃんと欲がある。
そのことを認めるのが、怖かった。
「違わない」
小さく答えると、佐伯は少しだけ黙った。
それから、低い声で言った。
「だったら、そこから逃げるなよ」
「逃げてない」
「今はまだな」
その言い方が、妙に引っかかった。
「どういう意味だよ」
「お前みたいなやつは、欲が出た時に一番逃げる」
佐伯は、まっすぐ俺を見た。
「大事にしたいって顔して、自分の欲に傷ついて、勝手に距離を取る」
胸の奥を、見透かされた気がした。
「それをやったら、灯理さんは自分を責めるぞ」
灯理さんが自分を責める。
その言葉だけで、息が詰まった。
「分かってる」
「ほんとかよ」
「分かってる」
二度目は、少し強く言った。
佐伯はそれ以上言わなかった。
ただ、プリントを手に取って、自分の席へ戻る前に一言だけ残した。
「なら、ちゃんとしろよ。先生としても、男としても」
職員室の扉が開き、誰かが入ってきた。
いつもの一日が続いていく。
授業。
丸つけ。
会議。
保護者への連絡。
子どもたちの声。
その中で、俺だけが昨日の夜に少し取り残されていた。
放課後。
教室に残った俺は、黒板の端に書いた日直の名前を消した。
チョークの粉がまた指につく。
右手を見る。
そこに灯理さんの温度は、もうない。
けれど、消えたわけではなかった。
むしろ、見えない場所に沈んだだけだ。
胸の奥に。
言葉の隙間に。
陽斗の視線の中に。
佐伯の忠告の中に。
スマホを開く。
灯理さんとのトーク画面を出した。
最後のやり取りは、昨夜のものだった。
短い言葉。
それだけなのに、何度も読み返してしまう。
何か送りたい。
けれど、何を送ればいいのか分からなかった。
会いたいです。
そう打って、消す。
昨日はありがとうございました。
それでは遠すぎる気がして、消す。
手を繋げて嬉しかったです。
正直すぎて、消す。
俺はしばらく画面を見つめたあと、ようやく文字を打った。
『昨日の夜のこと、今もちゃんと覚えています』
送信ボタンの上で、指が止まる。
重いだろうか。
困らせるだろうか。
でも、軽くしたくなかった。
あの夜を、なかったことにしたくなかった。
俺は息を吐いて、送った。
既読は、すぐにはつかなかった。
それでいいと思った。
待つことも、たぶん俺に必要なことだ。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
教室には、俺一人しかいない。
子どもたちの机が、静かに並んでいる。
その中に、まだ陽斗の席はない。
それでもいつか、あの子の机の前に立つ日が来るのかもしれない。
その時、俺はどんな顔で立てるのだろう。
灯理さんを好きな男としてではなく。
陽斗を見る教師として。
そして、その両方を持ったまま、一人の大人として。
スマホが小さく震えた。
灯理さんからだった。
『私も、覚えています』
たったそれだけの返事だった。
それなのに、胸の奥が苦しくなる。
続けて、もう一つ届いた。
『少し、怖いくらいに』
俺は画面を見つめた。
怖い。
その言葉を、軽く抱きしめることはできない。
俺も怖いです。
そう返すことは簡単だった。
でも、それだけでは足りない気がした。
俺はゆっくり文字を打った。
『怖いままで、大丈夫です』
少し考えて、続けた。
『俺も、急ぎません』
送ったあと、右手を握った。
急がない。
そう言いながら、本当はもう一度触れたいと思っている。
待つ。
そう決めながら、本当は今すぐ会いたいと思っている。
大事にしたい。
でも、欲しい。
その二つが、同じ胸の中でぶつかっている。
それを認めたまま、俺は明日も教室に立たなければならない。
先生の影を背負ったまま。
一人の男として灯理さんを想いながら。
硝子の鍵は、まだ開ききらない扉の前で、静かに鳴っていた。

