壱くん、お願いだから近づかないで。



 
 そうして、放課後。

 今日は図書委員の日ではなかった。だから雉真くんと一緒に図書室へ行く必要はないし、このまま素直に帰ればいい。ゆっこに声をかけようと廊下に出ると、ゆっこはすでに他の子と帰る約束をしていたらしくて「ごめんね〜また明日!」と手を振って行ってしまった。

 花純も今日は塾があると言っていたから一人だ。

 仕方なく一人で帰ることにして、鞄を持って廊下を歩く。雨はまだ続いていて、校舎の窓から見える空はどこまでも灰色だった。


「佑茉ちゃん」


 背中から名前を呼ばれて、足が止まった。振り返らなくても誰かわかった。

 振り返ると、雉真くんが廊下の向こうから早歩きでこちらに来ていた。今日は委員会じゃないはずなのに、どうして。


「どうしたの?」

「今日、委員会じゃないよね。一人で帰り?」

「うん、そうだけど」

「俺も一人だから、一緒に帰ってもいい?」


 昨日と同じだ。断る理由を探したけれど、見つからなかった。嫌いじゃないんだから、断れない。


「……いいけど」


 短く答えると、雉真くんは「良かった」と言って隣に並んだ。下駄箱で靴を替えて、傘を広げて外に出る。
 昨日より雨は弱くなっていて、傘を強く叩くような音はしなかった。

 並んで歩き出すと、自然と昨日と同じ道になった。


「ねえ、佑茉ちゃん」

「なに?」

「昨日、変なこと言ってごめんね」


 雉真くんが、少し改まった声で言った。


「か、髪のこと?」

「うん。なんか、唐突すぎたよね。気にしてたらごめん」


 謝りに来たんだ、と気づいた。それで追いかけてきたのか。
 そう思ったら、なんだか胸の中がふわっとなった。気にしていたんだ、向こうも。忘れていたわけじゃなかった。


「……気にしてないよ」

「本当に?」

「本当に。驚いただけだから」


 それは本当のことだ。気にしていないかと言われたら嘘になるけれど、嫌だったかと言われたら、そうでもない。それが正直なところだった。


「そっか、良かった」


 雉真くんはほっとしたように息をついた。横顔を見ると、本当に安心したような顔をしていた。

 しばらく黙って歩いた。雨の音と、傘を叩く音と、アスファルトを踏む足音だけが続いた。商店街のアーケードに入ると、また雨音が屋根を叩く規則正しい音に変わった。


「佑茉ちゃんは、なんで男の子が苦手なの?」


 突然の質問に、足が一瞬止まりそうになった。でも止まらなかった。歩きながら、少し考えた。


「……小学生の時に、嫌がらせされたの」

「嫌がらせ?」

「大したことじゃないかもしれないけど……当時の私には、すごく嫌で。学校に行けなくなるくらい、怖かった」


 こんなことを人に話したのは、久しぶりかもしれない。
 ゆっこや花純には何となく伝えたことがあったけれど、こんなふうにちゃんと言葉にしたことはなかった気がした。

 でも、なんで、雉真くんには言ってしまったんだろう。


「そっか」


 雉真くんは静かにそう言った。それだけだった。何か言い返してくるとか、大げさだよとか、そういうことは何もなかった。ただ、そっか、と言って、また前を向いて歩き続けた。

 その一言が、なんだかとても楽だった。


「だから、女子校に来たんだよね」

「うん」

「それで俺が編入してきて、迷惑だった?」

「……最初は、嫌だった」


 正直に言ったら、雉真くんは「だよね」と苦笑いした。