夏休みも残りわずかとなった8月の終わり。
私の部屋の机の上には、未だに真っ白なページが目立つ数学の宿題用ワークが、まるで行く手を阻む壁のようにそびえ立っていた。「うわあああああん!!! 解けない!! $x$ とか $y$ とか、もうどっちでもいいじゃん!! なんで2人はすぐにすれ違ったり池の周りを反対方向に歩いたりするのよおおお!!!」
頭を抱えてベッドにのたうち回る私。
そう、私は文系脳。
数学の応用問題なんて、文字通り宇宙の言葉にしか見えないのだ。
このままだと新学期早々、補習という名の「そーちゃんと会えない時間」が確定してしまう。
そんな私の大ピンチを救うべく、救世主(=現役トップクラスの秀才彼氏)が、我が家に降臨してくれた。
──ピンポーン。
「はーい!」猛ダッシュで玄関を開けると、そこには私服のサマーニットを爽やかに着こなしたそーちゃんが、100点満点のワンコ笑顔で立っていた。
「ゆっちゃん、お邪魔します! 連絡貰った瞬間、光の速さで準備して飛んできちゃった。優愛の部屋でお勉強デートなんて、俺、嬉しすぎて昨日からずっと心臓がサンバ踊ってるんだけど!」
「お勉強デートっていうか、ガチのSOSだよぉ……。本当に助けて、そーちゃん……っ」
私の部屋にそーちゃんが入るのは、実はこれが初めて。
ベッドのフチに恐る恐る腰掛けるそーちゃんは、部屋のカーテンや机の上の小物をキョロキョロと見渡して、耳まで真っ赤にしている。
「……ここが優愛の部屋。やばい、なんか優愛の匂いがする……。っていうか、女の子の部屋に2人きりとか、俺の理性がまたハゲ散らかしそうなんだけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないから、ほら、机に向かって!!」
限界オタク化しそうなそーちゃんを無理やり椅子に座らせ、私はその隣に並んで椅子を引いた。
「なるほどね。ここまでは合ってるよ、優愛。じゃあ、次の式はね──」
お勉強が始まると、そーちゃんは驚くほど教え方が上手だった。
いつもは「可愛い! 尊い!」と大騒ぎしているのに、勉強を教える時の声はトーンが少し低くて、すっごく真剣。
メガネをくいっと上げる仕草なんて、少女漫画の「イケメン家庭教師」そのものだ。
だけど……距離が、近い。
「ほら、この $x$ をこっちに代入して……」
そーちゃんが私のノートにペンを走らせるたび、彼の綺麗な指先が私の手に触れそうになる。
さらに、解説を聞こうと私が耳を傾けると、そーちゃんの顔がすぐ横にあって、長いまつ毛の影までハッキリと見えるのだ。
ノートからは、そーちゃんの爽やかなシトラスの香りがふわりと漂ってくる。
無理無理無理!! 集中できるわけないじゃん!! こんなの数学のバカヤローじゃなくて、そーちゃんが格好良すぎるのがバカヤローだよぉぉ!!
心の中の限界オタクが「今すぐノートを閉じて顔を拝みなさい!!」と大暴れを始める。
完全にペンが止まってしまった私に気づき、そーちゃんがふふっ、と意地悪に微笑んだ。
「ねえ、ゆっちゃん。今、俺の顔見てて、計算式全然頭に入ってないでしょ?」
「えっ!? な、そんなこと……っ」
「嘘だ。だって、優愛のお耳、すっごく赤くなってるもん」
そーちゃんはペンを置くと、椅子ごと私の方を向き、私の机に両肘をついて顔を覗き込んできた。
夏祭りの時の甚平もかっこよかったけれど、今のラフな私服のそーちゃんにゼロ距離で見つめられるのは、破壊力が一味違う。
「あのね、優愛。俺だって、隣に世界一可愛い彼女がいて、ずっと理性を保つの必死なんだよ? ほんとは勉強なんて速攻終わらせて、優愛をぎゅーってしたい。……ダメ?」
また出た。
ずるすぎる上目遣い。
しかも、勉強を頑張ったご褒美をねだるような、ちょっと甘えたトーン。
「……もう、そーちゃん。お勉強、終わったら、ね?」
顔を真っ赤にしながら、ブレザー(じゃなくて、今は部屋着のTシャツ)の裾をぎゅっと握って呟くと、そーちゃんは「っ……!!!」と胸を押さえて天を仰いだ。
「あ、無理。今ので宿題100ページ分くらいのエネルギーチャージ完了した。よし、優愛! あと大問3つ、秒速で終わらせるよ! そしたら10時間ハグの延長戦だからね!?」「10時間は長いってばぁ……っ!」
そーちゃんの超特急スパルタ(?)指導のおかげで、あんなに手強かった数学のワークは、夕方になる前には完璧に解き終わってしまったのだった。
「……ん。終わったぁぁ……っ」
最後のページを閉じ、私が机に突っ伏して伸びをしていると、トントン、と背中を叩かれた。
振り返るよりも早く、私の体は、ベッドに腰掛けたそーちゃんの長い腕の中にすっぽりと収まっていた。
「はい、約束のご褒美。ゆっちゃん、お疲れ様。よく頑張りました」
後ろから優しく包み込まれ、そーちゃんの胸に背中がぴったりとくっつく。
トクトク、と、やっぱり私と同じくらい速い、そーちゃんの心臓の音が背中から響いてくる。
「……そーちゃん、ありがとう。そーちゃんのおかげで、補習受けなくて済みそう」
「ううん、俺の方こそ。優愛のお部屋で2人きりになれて、今日で寿命が300年くらい延びた気がする。……ねえ、優愛」
そーちゃんは私の肩にそっと顎を乗せ、耳元で愛おしそうに囁いた。
「もうすぐ夏休み終わっちゃうね。学校が始まるのはちょっと憂鬱だけど……でも、また毎日、朝から一緒に登校して、放課後も一緒にいられる。そう思ったら、俺、新学期が楽しみで仕方ないんだ」
いつもは脳内自動変換で暴走しているそーちゃんが、時折見せる、こういう等身大の「男の子」としての言葉。
それが嬉しくて、胸の奥がじわーっと熱くなる。
「……うん。私も、楽しみ。明日も、明後日も、ずっと一緒だね、そーちゃん」
私は繋がれたそーちゃんの手を、今度は自分から、きゅっと強く握り返した。
私の小さな反撃に、そーちゃんが嬉しそうに腕の力を強める。
窓の外では、夏の終わりのひぐらしが鳴いていたけれど、私たちの甘い日常は、秋になっても、その次の季節になっても、どこまでも加速していく予感しかしていなかった──。
私の部屋の机の上には、未だに真っ白なページが目立つ数学の宿題用ワークが、まるで行く手を阻む壁のようにそびえ立っていた。「うわあああああん!!! 解けない!! $x$ とか $y$ とか、もうどっちでもいいじゃん!! なんで2人はすぐにすれ違ったり池の周りを反対方向に歩いたりするのよおおお!!!」
頭を抱えてベッドにのたうち回る私。
そう、私は文系脳。
数学の応用問題なんて、文字通り宇宙の言葉にしか見えないのだ。
このままだと新学期早々、補習という名の「そーちゃんと会えない時間」が確定してしまう。
そんな私の大ピンチを救うべく、救世主(=現役トップクラスの秀才彼氏)が、我が家に降臨してくれた。
──ピンポーン。
「はーい!」猛ダッシュで玄関を開けると、そこには私服のサマーニットを爽やかに着こなしたそーちゃんが、100点満点のワンコ笑顔で立っていた。
「ゆっちゃん、お邪魔します! 連絡貰った瞬間、光の速さで準備して飛んできちゃった。優愛の部屋でお勉強デートなんて、俺、嬉しすぎて昨日からずっと心臓がサンバ踊ってるんだけど!」
「お勉強デートっていうか、ガチのSOSだよぉ……。本当に助けて、そーちゃん……っ」
私の部屋にそーちゃんが入るのは、実はこれが初めて。
ベッドのフチに恐る恐る腰掛けるそーちゃんは、部屋のカーテンや机の上の小物をキョロキョロと見渡して、耳まで真っ赤にしている。
「……ここが優愛の部屋。やばい、なんか優愛の匂いがする……。っていうか、女の子の部屋に2人きりとか、俺の理性がまたハゲ散らかしそうなんだけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないから、ほら、机に向かって!!」
限界オタク化しそうなそーちゃんを無理やり椅子に座らせ、私はその隣に並んで椅子を引いた。
「なるほどね。ここまでは合ってるよ、優愛。じゃあ、次の式はね──」
お勉強が始まると、そーちゃんは驚くほど教え方が上手だった。
いつもは「可愛い! 尊い!」と大騒ぎしているのに、勉強を教える時の声はトーンが少し低くて、すっごく真剣。
メガネをくいっと上げる仕草なんて、少女漫画の「イケメン家庭教師」そのものだ。
だけど……距離が、近い。
「ほら、この $x$ をこっちに代入して……」
そーちゃんが私のノートにペンを走らせるたび、彼の綺麗な指先が私の手に触れそうになる。
さらに、解説を聞こうと私が耳を傾けると、そーちゃんの顔がすぐ横にあって、長いまつ毛の影までハッキリと見えるのだ。
ノートからは、そーちゃんの爽やかなシトラスの香りがふわりと漂ってくる。
無理無理無理!! 集中できるわけないじゃん!! こんなの数学のバカヤローじゃなくて、そーちゃんが格好良すぎるのがバカヤローだよぉぉ!!
心の中の限界オタクが「今すぐノートを閉じて顔を拝みなさい!!」と大暴れを始める。
完全にペンが止まってしまった私に気づき、そーちゃんがふふっ、と意地悪に微笑んだ。
「ねえ、ゆっちゃん。今、俺の顔見てて、計算式全然頭に入ってないでしょ?」
「えっ!? な、そんなこと……っ」
「嘘だ。だって、優愛のお耳、すっごく赤くなってるもん」
そーちゃんはペンを置くと、椅子ごと私の方を向き、私の机に両肘をついて顔を覗き込んできた。
夏祭りの時の甚平もかっこよかったけれど、今のラフな私服のそーちゃんにゼロ距離で見つめられるのは、破壊力が一味違う。
「あのね、優愛。俺だって、隣に世界一可愛い彼女がいて、ずっと理性を保つの必死なんだよ? ほんとは勉強なんて速攻終わらせて、優愛をぎゅーってしたい。……ダメ?」
また出た。
ずるすぎる上目遣い。
しかも、勉強を頑張ったご褒美をねだるような、ちょっと甘えたトーン。
「……もう、そーちゃん。お勉強、終わったら、ね?」
顔を真っ赤にしながら、ブレザー(じゃなくて、今は部屋着のTシャツ)の裾をぎゅっと握って呟くと、そーちゃんは「っ……!!!」と胸を押さえて天を仰いだ。
「あ、無理。今ので宿題100ページ分くらいのエネルギーチャージ完了した。よし、優愛! あと大問3つ、秒速で終わらせるよ! そしたら10時間ハグの延長戦だからね!?」「10時間は長いってばぁ……っ!」
そーちゃんの超特急スパルタ(?)指導のおかげで、あんなに手強かった数学のワークは、夕方になる前には完璧に解き終わってしまったのだった。
「……ん。終わったぁぁ……っ」
最後のページを閉じ、私が机に突っ伏して伸びをしていると、トントン、と背中を叩かれた。
振り返るよりも早く、私の体は、ベッドに腰掛けたそーちゃんの長い腕の中にすっぽりと収まっていた。
「はい、約束のご褒美。ゆっちゃん、お疲れ様。よく頑張りました」
後ろから優しく包み込まれ、そーちゃんの胸に背中がぴったりとくっつく。
トクトク、と、やっぱり私と同じくらい速い、そーちゃんの心臓の音が背中から響いてくる。
「……そーちゃん、ありがとう。そーちゃんのおかげで、補習受けなくて済みそう」
「ううん、俺の方こそ。優愛のお部屋で2人きりになれて、今日で寿命が300年くらい延びた気がする。……ねえ、優愛」
そーちゃんは私の肩にそっと顎を乗せ、耳元で愛おしそうに囁いた。
「もうすぐ夏休み終わっちゃうね。学校が始まるのはちょっと憂鬱だけど……でも、また毎日、朝から一緒に登校して、放課後も一緒にいられる。そう思ったら、俺、新学期が楽しみで仕方ないんだ」
いつもは脳内自動変換で暴走しているそーちゃんが、時折見せる、こういう等身大の「男の子」としての言葉。
それが嬉しくて、胸の奥がじわーっと熱くなる。
「……うん。私も、楽しみ。明日も、明後日も、ずっと一緒だね、そーちゃん」
私は繋がれたそーちゃんの手を、今度は自分から、きゅっと強く握り返した。
私の小さな反撃に、そーちゃんが嬉しそうに腕の力を強める。
窓の外では、夏の終わりのひぐらしが鳴いていたけれど、私たちの甘い日常は、秋になっても、その次の季節になっても、どこまでも加速していく予感しかしていなかった──。



