一ノ瀬葵。
その名前と「元カノ」という言葉が、私の頭の中で何度も、何度も嫌な音を立ててリフレインしていた。
「陽菜、頼むから怒ってくれよ。黙られるのが一番きつい……」
湊は私の両肩を掴んだまま、今にも泣きそうな顔で私を見つめている。
夏祭りの夜、私が「別れよう」って言ったときと同じ、必死な目。
「……怒ってないよ」
やっとの思いで声を絞り出す。
嘘だった。本当は、胸の奥がドロドロとした嫉妬で焼け付きそうだった。
でも、怒る資格なんて私にあるのだろうか。
中学のとき、湊を「ただの幼馴染」という箱に閉じ込めて、自分の気持ちから逃げていたのは私だ。その間に、湊が誰かと付き合っていたとしても、文句を言える立場じゃない。
「ただ……びっくりしちゃって。湊、女子に興味ないって言ってたから」
「興味なかったんだよ! 本当に!」
湊は焦って、私の肩を掴む手に力を込めた。
「あいつとは、中学の部活のノリで、周りから『付き合っちゃえよ』って言われて……断るのも面倒で、一ヶ月くらい名前だけのカップルだったんだ。本当に、陽菜が思ってるようなことは何もない!」
「……うん、分かった。湊がそう言うなら、信じる」
私は無理やり笑顔を作って、湊の手を優しく下ろした。
完璧な、彼女としての笑顔。
だけど、昨日せっかく消えたはずの「あの痛み」が、また胸の奥でチクリと音を立てていた。
翌日。学校。
嫌な予感というのは、どうしてこうも正確に当たるのだろう。
「みんな、注目ー! 今日からウチのクラスに編入することになった、一ノ瀬さんだ。みんな仲良くしてな」
担任の先生の声に、私はガタッと机を揺らしそうになった。
まさか、同じクラスなんて。
教壇の前に立つ葵さんは、昨日とは違うウチの学校の制服を、まるであつらえたかのように綺麗に着こなしていた。
「一ノ瀬葵です。前の学校から引っ越してきました。早くみんなと馴染めると嬉しいです!」
パチパチと拍手が湧き起こる中、葵さんの視線が、まっすぐに私を捉えた。
そして、フッと、昨日ロータリーで見たのと同じ「目が笑っていない笑顔」を向けてきたのだ。
最悪なことに、葵さんの席は、美羽の席のすぐ近く――つまり、私の斜め後ろになった。
昼休み。
私が湊とお昼を食べるために席を立とうとした、その瞬間だった。
「ねぇ、陽菜ちゃん」
後ろから、トントンと肩を叩かれる。
振り返ると、葵さんがお弁当箱を持って微笑んでいた。
「昨日ぶり。ねぇ、私まだこの学校に友達いなくてさ。もしよかったら、一緒にご飯食べてもいい? 湊くんも一緒でしょ?」
「え……あ、うん……」
断る理由が見つからなかった。
「友達がいないから」なんて言われたら、無下にできるわけがない。
屋上へ向かう階段を上る足取りが、やけに重かった。
いつもの屋上。
先に来て待っていた湊は、私と一緒に葵さんが現れた瞬間、目に見えて顔を引き攣らせた。
「……お前、なんでここにいんだよ」
「ひどいなぁ、湊くん。私、まだ友達いないから、陽菜ちゃんが一緒に食べようって言ってくれたんだよ?」
葵さんはクスッと笑って、当然のように湊の隣のスペースに腰掛けた。
いつもなら、私が座るはずの場所。
「陽菜、こっち来い」
湊が慌てて私を自分の反対側の隣に引き寄せる。
その様子を見て、葵さんはお弁当を開きながら、懐かしむような声を出した。
「ふふ、湊くんってば、相変わらず不器用だね。中学のときもさ、私が部活のマネージャーやってたとき、ドリンク渡すだけで顔真っ赤にしてたもんね?」
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
「葵、それ――」
「あ、そうだ! あのとき二人で買ったお揃いのミサンガ、私まだ部屋に飾ってあるんだよ? 湊くんはもう捨てちゃった?」
「……あぁ、覚えてねぇし、そんなもん速攻で捨てたわ」
湊の声は冷たかった。
だけど、私の耳には「お揃いのミサンガ」というワードだけが、鋭い針のように突き刺さっていた。
美羽のときは、お揃いのキーホルダーも、全部が私を振り向かせるための「嘘」だと分かっていた。
でも、葵さんの口から出るエピソードは、全部、本物なのだ。
私の知らない、湊の過去。
二人が確かに共有していた、特別な時間。
「陽菜ちゃん、どうしたの? ご飯進んでないよ?」
葵さんが、首を傾げて私を覗き込んでくる。その瞳の奥にある、確かな『敵意』。
この人は、美羽みたいに途中で諦めてくれるような人じゃない。
本気で、湊を奪い返しに来ているんだ。
私の新しい恋が、本当の試練を迎えたことを、私は嫌というほど思い知らされていた。
その名前と「元カノ」という言葉が、私の頭の中で何度も、何度も嫌な音を立ててリフレインしていた。
「陽菜、頼むから怒ってくれよ。黙られるのが一番きつい……」
湊は私の両肩を掴んだまま、今にも泣きそうな顔で私を見つめている。
夏祭りの夜、私が「別れよう」って言ったときと同じ、必死な目。
「……怒ってないよ」
やっとの思いで声を絞り出す。
嘘だった。本当は、胸の奥がドロドロとした嫉妬で焼け付きそうだった。
でも、怒る資格なんて私にあるのだろうか。
中学のとき、湊を「ただの幼馴染」という箱に閉じ込めて、自分の気持ちから逃げていたのは私だ。その間に、湊が誰かと付き合っていたとしても、文句を言える立場じゃない。
「ただ……びっくりしちゃって。湊、女子に興味ないって言ってたから」
「興味なかったんだよ! 本当に!」
湊は焦って、私の肩を掴む手に力を込めた。
「あいつとは、中学の部活のノリで、周りから『付き合っちゃえよ』って言われて……断るのも面倒で、一ヶ月くらい名前だけのカップルだったんだ。本当に、陽菜が思ってるようなことは何もない!」
「……うん、分かった。湊がそう言うなら、信じる」
私は無理やり笑顔を作って、湊の手を優しく下ろした。
完璧な、彼女としての笑顔。
だけど、昨日せっかく消えたはずの「あの痛み」が、また胸の奥でチクリと音を立てていた。
翌日。学校。
嫌な予感というのは、どうしてこうも正確に当たるのだろう。
「みんな、注目ー! 今日からウチのクラスに編入することになった、一ノ瀬さんだ。みんな仲良くしてな」
担任の先生の声に、私はガタッと机を揺らしそうになった。
まさか、同じクラスなんて。
教壇の前に立つ葵さんは、昨日とは違うウチの学校の制服を、まるであつらえたかのように綺麗に着こなしていた。
「一ノ瀬葵です。前の学校から引っ越してきました。早くみんなと馴染めると嬉しいです!」
パチパチと拍手が湧き起こる中、葵さんの視線が、まっすぐに私を捉えた。
そして、フッと、昨日ロータリーで見たのと同じ「目が笑っていない笑顔」を向けてきたのだ。
最悪なことに、葵さんの席は、美羽の席のすぐ近く――つまり、私の斜め後ろになった。
昼休み。
私が湊とお昼を食べるために席を立とうとした、その瞬間だった。
「ねぇ、陽菜ちゃん」
後ろから、トントンと肩を叩かれる。
振り返ると、葵さんがお弁当箱を持って微笑んでいた。
「昨日ぶり。ねぇ、私まだこの学校に友達いなくてさ。もしよかったら、一緒にご飯食べてもいい? 湊くんも一緒でしょ?」
「え……あ、うん……」
断る理由が見つからなかった。
「友達がいないから」なんて言われたら、無下にできるわけがない。
屋上へ向かう階段を上る足取りが、やけに重かった。
いつもの屋上。
先に来て待っていた湊は、私と一緒に葵さんが現れた瞬間、目に見えて顔を引き攣らせた。
「……お前、なんでここにいんだよ」
「ひどいなぁ、湊くん。私、まだ友達いないから、陽菜ちゃんが一緒に食べようって言ってくれたんだよ?」
葵さんはクスッと笑って、当然のように湊の隣のスペースに腰掛けた。
いつもなら、私が座るはずの場所。
「陽菜、こっち来い」
湊が慌てて私を自分の反対側の隣に引き寄せる。
その様子を見て、葵さんはお弁当を開きながら、懐かしむような声を出した。
「ふふ、湊くんってば、相変わらず不器用だね。中学のときもさ、私が部活のマネージャーやってたとき、ドリンク渡すだけで顔真っ赤にしてたもんね?」
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。
「葵、それ――」
「あ、そうだ! あのとき二人で買ったお揃いのミサンガ、私まだ部屋に飾ってあるんだよ? 湊くんはもう捨てちゃった?」
「……あぁ、覚えてねぇし、そんなもん速攻で捨てたわ」
湊の声は冷たかった。
だけど、私の耳には「お揃いのミサンガ」というワードだけが、鋭い針のように突き刺さっていた。
美羽のときは、お揃いのキーホルダーも、全部が私を振り向かせるための「嘘」だと分かっていた。
でも、葵さんの口から出るエピソードは、全部、本物なのだ。
私の知らない、湊の過去。
二人が確かに共有していた、特別な時間。
「陽菜ちゃん、どうしたの? ご飯進んでないよ?」
葵さんが、首を傾げて私を覗き込んでくる。その瞳の奥にある、確かな『敵意』。
この人は、美羽みたいに途中で諦めてくれるような人じゃない。
本気で、湊を奪い返しに来ているんだ。
私の新しい恋が、本当の試練を迎えたことを、私は嫌というほど思い知らされていた。



