夏休みが明けた新学期の教室は、まだ冷房が効いていてもどこか気だるい空気が漂っていた。
私と湊が正式に付き合い始めたことは、あえてクラスには大々的に言いふらさなかった。だけど、登下校を一緒にしたり、廊下で話す二人の空気感で、周りは何となく察しているようだった。
そして、美羽。
あれほど夏休みの前まで湊にべったりだった美羽は、始業式の日から、嘘のように私たちに近づいてこなくなった。
話しかけてもこないし、私の腕に絡みついてくることもない。
「……なぁ、陽菜」
昼休み、中庭のベンチでパンを齧りながら、湊が少し心配そうに私を見てきた。
「美羽のこと、気にしてるだろ」
「……うん。まぁ、ね。あんなことがあったから、気まずいのは当然なんだけど……」
湊から聞いた、プリクラの件や美羽の本当の性格。
傷つかなかったと言えば嘘になる。
だけど、私を引き立て役にしていた美羽のあの歪んだ行動は、私への嫌がらせであると同時に、そこまでして湊の視線を引きつけたかった彼女の悲しい足掻きだったんじゃないかって、今なら少しだけ思えるのだ。
「放課後、ちょっと一人で美羽と話してきていい?」
「え!? ダメだろ、何されるか分かんねぇし、俺も行く」
慌てる湊の袖を、私はぎゅっと引っ張った。
「大丈夫。美羽は私の『親友』になりたいって言ってくれた。たとえそれが嘘や作戦だったとしても、私は一瞬でも美羽と過ごせて楽しかったから。ちゃんと、終わりにしたいの」
湊は苦悶の表情を浮かべたけれど、最後は「……何かあったらすぐ呼べよ」と、私の頭をぽんぽんと叩いてくれた。
放課後。
誰もいない、あの夕陽が差し込む教室。
私は、窓際で一人スマホを眺めている美羽の後ろ姿を見つけて、静かに声をかけた。
「美羽」
ビクッと、彼女の細い肩が跳ねた。
ゆっくりと振り返った美羽の顔から、いつものあの「計算された完璧な笑顔」は消えていた。どこか冷めた、だけど酷く寂しそうな、湊の言う『本当の美羽』の目がそこにはあった。
「……何? 陽菜? 湊くんに全部聞いたんでしょ。私のこと、大嫌いになったって言いに来たの?」
自嘲気味に笑う美羽。
私は首を振って、美羽の前の席の椅子を引き、あの日と同じように腰掛けた。
「嫌いになりたくて、ここに来たんだよ。でも……なれなかった」
「は? 意味分かんない。私、陽菜ちゃんのブサイクなプリクラわざとネットに上げたり、夏祭りで湊くんに無理やりキスしたりしたんだよ? 最低じゃん」
「最低だよ」
私はまっすぐに美羽の目を見つめた。
「すっごく傷ついたし、信じてたからボロボロに泣いた。……でもね、美羽。美羽がそこまで必死になっちゃうくらい、湊のことが好きだったんだなっていうのも、分かっちゃったから」
美羽が息を呑むのが分かった。
「私も、幼馴染のポジションに甘えて、ずっと自分の気持ちから逃げてた。美羽が割り込んでこなかったら、私は今でも湊の隣で『ただの幼馴染の笑顔』を貼り付けて、苦しんでたと思う。……美羽のやり方は間違ってたし、許せないところもある。だけど、美羽の恋心まで、全部が嘘だったとは思いたくないの」
美羽の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
彼女は机の上に視線を落とし、握りしめた拳を震わせた。
「……ずるいよ、陽菜ちゃん。そうやって、いっつも正論で、綺麗で……。私なんて、ずっと友達がいなくて、どうやって人に好かれればいいか分からなくて……。だから、可愛い自分を作って、隣にいる大人しい子を下げて、そうやってしか自分を保てなかったの。湊くんのことも……最初は作戦のつもりだった。でも、本当に好きになっちゃったんだよ……!」
ポロポロと、美羽の目から涙が溢れ、机にシミを作っていく。
「私の方が、湊くんのことたくさん見てた。あの日、裏庭でキスしてるフリしたとき、私、本当にキスしちゃおうかって思った。でも……湊くんの目は、私の後ろにいる陽菜ちゃんしか追ってなかった。夏祭りの花火のときも、無理やりキスしたけど……湊くん、すぐに私を突き放して、酷い顔で『最低だ』って言ったんだよ……?」
美羽は涙を袖で拭い、小さく鼻をすすった。
「最初から、私の入る隙間なんて一ミリもなかった。……分かってたよ。分かってたから、余計にめちゃくちゃにしたくなっちゃったの。……ごめんなさい」
初めて聞いた、美羽の本物の、掠れた謝罪の声。
「……もう、諦める」
美羽は顔を上げ、涙で濡れた顔で、だけどどこかすっきりとした表情で微笑んだ。
「これ以上二人を邪魔しても、私が惨めになるだけだしね。……私の負けだよ、陽菜ちゃん」
「美羽……」
「あ、勘違いしないでね? 明日からまた親友に戻ろう、なんて言わないから。私、そんなに良い子じゃないし。……でも、次、もし別の誰かを好きになったら、その時はちゃんと、真っ直ぐ恋をするって決めたの」
そう言って立ち上がった美羽は、カバンを肩にかけると、いつものように背筋をピンと伸ばした。
教室のドアを開ける直前、彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑む。
「陽菜ちゃん。あんまりのんびりしてると、また誰かに湊くん奪っちゃうんだからね」
「……うん。絶対に離さないよ」
私が答えると、美羽は小さく頷き、今度こそ教室を出て行った。
廊下を歩いていく彼女の足音は、以前のどこか焦ったような響きではなく、とても軽やかで、前を向いているように聞こえた。
教室に差し込む夕陽は、今日も相変わらず赤い。
だけど、私の胸を締め付けていたあの苦しい痛みは、いつの間にか消え去っていた。
私と湊が正式に付き合い始めたことは、あえてクラスには大々的に言いふらさなかった。だけど、登下校を一緒にしたり、廊下で話す二人の空気感で、周りは何となく察しているようだった。
そして、美羽。
あれほど夏休みの前まで湊にべったりだった美羽は、始業式の日から、嘘のように私たちに近づいてこなくなった。
話しかけてもこないし、私の腕に絡みついてくることもない。
「……なぁ、陽菜」
昼休み、中庭のベンチでパンを齧りながら、湊が少し心配そうに私を見てきた。
「美羽のこと、気にしてるだろ」
「……うん。まぁ、ね。あんなことがあったから、気まずいのは当然なんだけど……」
湊から聞いた、プリクラの件や美羽の本当の性格。
傷つかなかったと言えば嘘になる。
だけど、私を引き立て役にしていた美羽のあの歪んだ行動は、私への嫌がらせであると同時に、そこまでして湊の視線を引きつけたかった彼女の悲しい足掻きだったんじゃないかって、今なら少しだけ思えるのだ。
「放課後、ちょっと一人で美羽と話してきていい?」
「え!? ダメだろ、何されるか分かんねぇし、俺も行く」
慌てる湊の袖を、私はぎゅっと引っ張った。
「大丈夫。美羽は私の『親友』になりたいって言ってくれた。たとえそれが嘘や作戦だったとしても、私は一瞬でも美羽と過ごせて楽しかったから。ちゃんと、終わりにしたいの」
湊は苦悶の表情を浮かべたけれど、最後は「……何かあったらすぐ呼べよ」と、私の頭をぽんぽんと叩いてくれた。
放課後。
誰もいない、あの夕陽が差し込む教室。
私は、窓際で一人スマホを眺めている美羽の後ろ姿を見つけて、静かに声をかけた。
「美羽」
ビクッと、彼女の細い肩が跳ねた。
ゆっくりと振り返った美羽の顔から、いつものあの「計算された完璧な笑顔」は消えていた。どこか冷めた、だけど酷く寂しそうな、湊の言う『本当の美羽』の目がそこにはあった。
「……何? 陽菜? 湊くんに全部聞いたんでしょ。私のこと、大嫌いになったって言いに来たの?」
自嘲気味に笑う美羽。
私は首を振って、美羽の前の席の椅子を引き、あの日と同じように腰掛けた。
「嫌いになりたくて、ここに来たんだよ。でも……なれなかった」
「は? 意味分かんない。私、陽菜ちゃんのブサイクなプリクラわざとネットに上げたり、夏祭りで湊くんに無理やりキスしたりしたんだよ? 最低じゃん」
「最低だよ」
私はまっすぐに美羽の目を見つめた。
「すっごく傷ついたし、信じてたからボロボロに泣いた。……でもね、美羽。美羽がそこまで必死になっちゃうくらい、湊のことが好きだったんだなっていうのも、分かっちゃったから」
美羽が息を呑むのが分かった。
「私も、幼馴染のポジションに甘えて、ずっと自分の気持ちから逃げてた。美羽が割り込んでこなかったら、私は今でも湊の隣で『ただの幼馴染の笑顔』を貼り付けて、苦しんでたと思う。……美羽のやり方は間違ってたし、許せないところもある。だけど、美羽の恋心まで、全部が嘘だったとは思いたくないの」
美羽の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
彼女は机の上に視線を落とし、握りしめた拳を震わせた。
「……ずるいよ、陽菜ちゃん。そうやって、いっつも正論で、綺麗で……。私なんて、ずっと友達がいなくて、どうやって人に好かれればいいか分からなくて……。だから、可愛い自分を作って、隣にいる大人しい子を下げて、そうやってしか自分を保てなかったの。湊くんのことも……最初は作戦のつもりだった。でも、本当に好きになっちゃったんだよ……!」
ポロポロと、美羽の目から涙が溢れ、机にシミを作っていく。
「私の方が、湊くんのことたくさん見てた。あの日、裏庭でキスしてるフリしたとき、私、本当にキスしちゃおうかって思った。でも……湊くんの目は、私の後ろにいる陽菜ちゃんしか追ってなかった。夏祭りの花火のときも、無理やりキスしたけど……湊くん、すぐに私を突き放して、酷い顔で『最低だ』って言ったんだよ……?」
美羽は涙を袖で拭い、小さく鼻をすすった。
「最初から、私の入る隙間なんて一ミリもなかった。……分かってたよ。分かってたから、余計にめちゃくちゃにしたくなっちゃったの。……ごめんなさい」
初めて聞いた、美羽の本物の、掠れた謝罪の声。
「……もう、諦める」
美羽は顔を上げ、涙で濡れた顔で、だけどどこかすっきりとした表情で微笑んだ。
「これ以上二人を邪魔しても、私が惨めになるだけだしね。……私の負けだよ、陽菜ちゃん」
「美羽……」
「あ、勘違いしないでね? 明日からまた親友に戻ろう、なんて言わないから。私、そんなに良い子じゃないし。……でも、次、もし別の誰かを好きになったら、その時はちゃんと、真っ直ぐ恋をするって決めたの」
そう言って立ち上がった美羽は、カバンを肩にかけると、いつものように背筋をピンと伸ばした。
教室のドアを開ける直前、彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑む。
「陽菜ちゃん。あんまりのんびりしてると、また誰かに湊くん奪っちゃうんだからね」
「……うん。絶対に離さないよ」
私が答えると、美羽は小さく頷き、今度こそ教室を出て行った。
廊下を歩いていく彼女の足音は、以前のどこか焦ったような響きではなく、とても軽やかで、前を向いているように聞こえた。
教室に差し込む夕陽は、今日も相変わらず赤い。
だけど、私の胸を締め付けていたあの苦しい痛みは、いつの間にか消え去っていた。



