朝になって、陽斗の熱は三十七度台まで下がっていた。
それだけで、世界が少しだけ普通に戻った気がした。
カーテンの隙間から入る朝の光は、夜の東京タワーとは違って、何も隠してくれない。
部屋の中にあるものを、静かに全部見せる。
ベッドの横に敷いた布団。
飲みかけの水。
使い終わった体温計。
陽斗の額からはがれかけた冷却シート。
そして、眠れなかった私の顔。
「お母さん」
陽斗が、かすれた声で私を呼んだ。
「ん?」
「学校、休み?」
「今日は休もう」
「佐伯先生に言っといて」
「うん」
「漢字プリント、机の中」
「それは先生に怒られるやつ」
「だから言っといて」
熱が下がっても、口は元気だった。
私は少し笑って、陽斗の髪を撫でた。
「分かった。言っておく」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見ながら、私はスマホを手に取った。
学校への欠席連絡。
いつもなら音葉がしてくれる。
でも今日は、自分でしようと思った。
母として。
そんな当たり前のことに、少しだけ覚悟がいる自分が情けない。
学校に電話を入れると、事務の人が出た。
陽斗の名前とクラスを伝える。
しばらくして、尚さんにつながった。
はい、佐伯です。
昨日とは違う、仕事中の声だった。
「おはようございます。陽斗の母です」
言ってから、胸が少しだけ熱くなった。
陽斗の母。
昨日までは隠していた言葉。
今朝は、自分から言った。
おはようございます。熱、どうですか?
「三十七度台まで下がりました。でも今日は休ませます」
その方がいいですね。水分は?
「取れてます」
よかったです。プリントはあとで音葉さんに渡せます。あ、漢字プリント机の中ですよね。
思わず笑ってしまった。
「陽斗が言ってました」
やっぱり。あいつ、そういうところは自覚あるんですよね。
電話越しの尚さんは、いつもの軽さを少しだけ含んでいた。
でもその奥に、担任としての落ち着きがあった。
「昨日は、ありがとうございました」
何回も言わなくていいです。
「でも」
それより、ちゃんと寝ました?
私は答えに詰まった。
寝てないですね。
「先生って、電話越しでも分かるんですか」
分かります。嘘が雑なので。
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
尚さんは近い。
近すぎて怖い時もある。
でも今は、その近さに少し助けられている。
登坂には、話せそうですか。
心臓が、静かに跳ねた。
「……まだ」
でしょうね。
「その言い方、昨日も聞きました」
何回でも言います。でしょうね。
私は額に手を当てた。
「今、陽斗が熱で寝てるので」
分かってます。今すぐ言えって話じゃないです。
尚さんの声が、少しだけ真面目になる。
でも、灯理さん。時間が経つほど、言葉は重くなります。
その言葉は、朝の光みたいだった。
逃げ場がない。
「分かってます」
その“分かってます”も、何回も聞きました。
「佐伯さん、けっこう厳しいですね」
担任なので。
「私の担任じゃないです」
陽斗の担任です。だから言ってます。
返す言葉がなかった。
尚さんは、私の恋を心配しているだけじゃない。
陽斗を見ている。
私が嘘を重ねれば、いつか陽斗にも影が落ちるかもしれない。
尚さんはそこを見ている。
だから、彼の言葉は痛い。
痛いけれど、信用できた。
電話を切る前に、尚さんが言った。
陽斗には、今日はゆっくり休めって伝えてください。
それと、灯理さんもです。
「はい」
あと。
「はい」
登坂、昨日ちょっと様子変でした。
息が止まった。
「どういう意味ですか」
さあ。俺は本人じゃないので。
「佐伯さん」
でも、東京タワーの方を見てましたよ。朝、職員室の窓から。
それだけ言って、尚さんはいつもの調子で、
では、お大事に。
と電話を切った。
私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
東京タワーの方を見ていた。
利月くんが。
朝の職員室で。
ただの偶然かもしれない。
窓の外を見ただけかもしれない。
でも、私の心は勝手にそこへ意味を置いてしまう。
昨夜のことを思い出していたのだろうか。
美紗子先生のことを。
私のことを。
それとも。
まだ言えなかった、私の秘密の気配を。
リビングに戻ると、音葉が朝食を整えていた。
おかゆと、薄い味噌汁。
陽斗用のゼリー飲料。
私用には、なぜか温かいほうじ茶だけ。
「私は?」
「まず飲んでください」
「食べ物は?」
「食べる気、あります?」
「……ない」
「では、まず飲んでください」
この人は本当に、私の体調まで管理している。
私はほうじ茶を受け取り、ソファに座った。
湯気が上がる。
その向こうに、朝の東京タワーがかすかに見えた。
夜の赤い光とは違う、薄い輪郭。
昨夜、利月くんが立っていた場所。
美紗子先生の言葉が、私たちの間に落ちた場所。
「登坂先生から、連絡は?」
音葉が聞いた。
私はスマホを見る。
夜中に届いた最後のメッセージ。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その一文を、何度も読んだ。
利月くんは知らない。
その子どもが、彼の学校にいる陽斗だということ。
時々廊下で注意している、図書室で本の話をする、あの陽斗だということ。
知らないまま、こんなに優しい言葉をくれる。
それが苦しかった。
「返したんですか」
「まだ」
「なぜ」
「なんて返せばいいか分からない」
音葉はため息をついた。
「普通に返せばいいんです」
「普通って何」
「ご心配ありがとうございます、でいいです」
「それだけ?」
「それだけです。全部を一度に告白しようとするから動けなくなるんです」
たしかに、そうかもしれない。
私はいつも、言うなら全部言わなければと思ってしまう。
だから怖くなって、何も言えなくなる。
まずは、返事。
それだけでいい。
私はスマホを開いた。
昨日はありがとうございました。
熱は少し下がりました。
そばにいられてよかったです。
送信する前に、何度も読み返す。
母であることは、まだ直接言っていない。
でも、隠してもいない。
“そばにいられてよかった”
それは本当だった。
私は送信ボタンを押した。
すぐには既読にならなかった。
それだけで、胸がざわつく。
仕事なら、返信が遅くても気にならない。
相手にも都合がある。
そう割り切れる。
でも利月くんからの返事だけは、数分がやけに長い。
私はスマホを伏せた。
「見ない」
「五秒で見ますよね」
「見ない」
「三」
「やめて」
「二」
スマホが震えた。
音葉が、ほらという顔をした。
私は負けた気持ちで画面を見る。
利月くんからだった。
よかったです。
灯理さんも、少し休んでください。
灯理さん。
その呼び方が、胸に落ちる。
社長ではなく。
母でもなく。
私が彼に見せた、いちばん軽い名前。
でも今の私は、その名前だけでは立っていられない。
私は返事を打ちかけて、やめた。
また、言葉を選びすぎている。
それでも今は、これ以上近づくのが怖かった。
昼過ぎ、陽斗の熱はさらに下がった。
食欲は少しだけ戻り、おかゆを半分食べた。
そのあと、眠いと言ってまた寝室に戻った。
私は彼の寝顔を確認してから、リビングで仕事の資料を開いた。
数字が並んでいる。
売上。
人件費。
契約更新。
新規事業の予定。
どれも大事なことだ。
でも、頭に入ってこない。
ペンを持ったまま、私は何度も東京タワーの方を見てしまう。
高い部屋から見る東京タワー。
足元から見上げる東京タワー。
私はどちらの場所に立ちたいのだろう。
社長としての私がいるのは、高い場所だ。
守るものが多くて、遠くまで見えすぎる場所。
利月くんと会う東京タワーの下は、足元を見る場所。
嘘を抱えたままでも、地面に立っていることを思い出せる場所。
美紗子先生は、私に足元を教えてくれた。
利月くんも、同じ言葉を持っていた。
だから怖い。
私が隠しているものまで、いつか見つけられてしまいそうで。
夕方、陽斗が目を覚ました。
「お母さん」
「ん?」
「明日、学校行けるかな」
「熱が下がって、朝元気だったらね」
「休むとプリントたまる」
「そこ気にするんだ」
「佐伯先生、すぐ言うもん」
「何て?」
「陽斗、あとで泣くの自分だぞって」
私は笑ってしまった。
「佐伯先生らしいね」
陽斗は枕に顔をうずめる。
「あと、登坂先生に借りた本、返す日だった」
「図書室の?」
「うん」
「何借りたの?」
「星の本」
「星?」
「太陽とか月とか、惑星とか載ってるやつ」
胸が、少しだけ鳴った。
太陽。
月。
陽斗と、利月くん。
名前だけで繋げるなんて、馬鹿みたいだと思う。
でも、物語みたいな偶然ばかりが続くと、人は少しだけ信じたくなる。
「面白かった?」
「うん。月って、自分で光ってるわけじゃないんだって」
陽斗は眠そうな声で言った。
「太陽の光を反射してるだけなんだって」
私は、返事ができなかった。
利月。
月の字を持つ人。
そして陽斗。
陽の字を持つ子。
私の胸の中で、名前が静かに並んだ。
「でもさ」
陽斗が続けた。
「光ってるように見えるなら、それでいいよね」
「……どうして?」
「だって、夜に明るいし」
陽斗の言葉はいつも、何気ないふりをして深いところに落ちてくる。
光っているように見えるなら、それでいい。
私は、そうやって生きてきたのかもしれない。
本当は自分で光れていなくても、
社長として、母として、ちゃんとして見えるなら、それでいい。
でも、利月くんの前では。
私は、反射した光じゃなくて、本当の暗さごと見られるのが怖い。
「登坂先生、星好きなの?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「たぶん。本選んでくれた」
「そうなんだ」
「これなら陽斗も読めるって」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を知っている。
ただの児童として。
図書室に来る、星の本を借りる子として。
私の知らない陽斗を、彼は見ていた。
それが、嬉しくて、怖い。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生って、ちょっと静かだけどさ」
「うん」
「俺、嫌いじゃないよ」
その言葉に、私は目を伏せた。
「そっか」
「うん。佐伯先生はうるさいけど好き」
「両方好きってことね」
「まあね」
陽斗は少し照れたように布団をかぶった。
私はその横顔を見つめた。
陽斗は知らない。
母が、その静かな先生に心を揺らしていることを。
その先生に、本当のことを言えずにいることを。
この子を巻き込みたくない。
でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ている。
夜になって、陽斗はもう一度熱を測った。
三十六度八分。
「下がった」
嬉しそうに体温計を見せる陽斗に、私はほっと息を吐いた。
「よかった」
「明日学校行ける?」
「朝もう一回測ってから」
「分かった」
陽斗は少し元気を取り戻し、軽く夕食を食べた。
そのあと、また寝室へ戻る。
私はリビングで、ひとりスマホを見ていた。
利月くんとのメッセージ画面。
何か送るべきか。
送らない方がいいのか。
そんなことを考えている時点で、もう答えは出ている気がした。
会いたい。
でも、会うなら言わなきゃいけない。
私はメッセージ欄に文字を打った。
今度、東京タワーで会えますか。
話したいことがあります。
そこまで打って、指が止まった。
重い。
あまりにも重い。
でも、軽く誘うことはもうできなかった。
私は一度消した。
そして、もう一度打った。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
これなら、少しだけ柔らかい。
でも、意味は同じだった。
私はしばらく画面を見つめていた。
送れば、何かが進む。
送らなければ、何も変わらない。
その時、陽斗の寝室から小さな咳が聞こえた。
私は立ち上がりかけて、すぐに止まった。
大丈夫。
ただの咳だ。
でも、私はもう知っている。
そばにいることから、逃げちゃいけない。
スマホに戻り、私は送信ボタンを押した。
数分後、既読がついた。
心臓が、ゆっくり鳴る。
返事は短かった。
はい。
俺も、話したいことがあります。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
俺も。
利月くんにも、話したいことがある。
それが美紗子先生のことなのか。
東京タワーのことなのか。
それとも、私のことなのか。
分からない。
でも、もう逃げられない。
硝子の鍵が、手の中で冷たく光っている。
次に東京タワーの下に立つ時、
私はきっと、ひとつ鍵を開けなければならない。
たとえその先で、何かが壊れたとしても。
それだけで、世界が少しだけ普通に戻った気がした。
カーテンの隙間から入る朝の光は、夜の東京タワーとは違って、何も隠してくれない。
部屋の中にあるものを、静かに全部見せる。
ベッドの横に敷いた布団。
飲みかけの水。
使い終わった体温計。
陽斗の額からはがれかけた冷却シート。
そして、眠れなかった私の顔。
「お母さん」
陽斗が、かすれた声で私を呼んだ。
「ん?」
「学校、休み?」
「今日は休もう」
「佐伯先生に言っといて」
「うん」
「漢字プリント、机の中」
「それは先生に怒られるやつ」
「だから言っといて」
熱が下がっても、口は元気だった。
私は少し笑って、陽斗の髪を撫でた。
「分かった。言っておく」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見ながら、私はスマホを手に取った。
学校への欠席連絡。
いつもなら音葉がしてくれる。
でも今日は、自分でしようと思った。
母として。
そんな当たり前のことに、少しだけ覚悟がいる自分が情けない。
学校に電話を入れると、事務の人が出た。
陽斗の名前とクラスを伝える。
しばらくして、尚さんにつながった。
はい、佐伯です。
昨日とは違う、仕事中の声だった。
「おはようございます。陽斗の母です」
言ってから、胸が少しだけ熱くなった。
陽斗の母。
昨日までは隠していた言葉。
今朝は、自分から言った。
おはようございます。熱、どうですか?
「三十七度台まで下がりました。でも今日は休ませます」
その方がいいですね。水分は?
「取れてます」
よかったです。プリントはあとで音葉さんに渡せます。あ、漢字プリント机の中ですよね。
思わず笑ってしまった。
「陽斗が言ってました」
やっぱり。あいつ、そういうところは自覚あるんですよね。
電話越しの尚さんは、いつもの軽さを少しだけ含んでいた。
でもその奥に、担任としての落ち着きがあった。
「昨日は、ありがとうございました」
何回も言わなくていいです。
「でも」
それより、ちゃんと寝ました?
私は答えに詰まった。
寝てないですね。
「先生って、電話越しでも分かるんですか」
分かります。嘘が雑なので。
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
尚さんは近い。
近すぎて怖い時もある。
でも今は、その近さに少し助けられている。
登坂には、話せそうですか。
心臓が、静かに跳ねた。
「……まだ」
でしょうね。
「その言い方、昨日も聞きました」
何回でも言います。でしょうね。
私は額に手を当てた。
「今、陽斗が熱で寝てるので」
分かってます。今すぐ言えって話じゃないです。
尚さんの声が、少しだけ真面目になる。
でも、灯理さん。時間が経つほど、言葉は重くなります。
その言葉は、朝の光みたいだった。
逃げ場がない。
「分かってます」
その“分かってます”も、何回も聞きました。
「佐伯さん、けっこう厳しいですね」
担任なので。
「私の担任じゃないです」
陽斗の担任です。だから言ってます。
返す言葉がなかった。
尚さんは、私の恋を心配しているだけじゃない。
陽斗を見ている。
私が嘘を重ねれば、いつか陽斗にも影が落ちるかもしれない。
尚さんはそこを見ている。
だから、彼の言葉は痛い。
痛いけれど、信用できた。
電話を切る前に、尚さんが言った。
陽斗には、今日はゆっくり休めって伝えてください。
それと、灯理さんもです。
「はい」
あと。
「はい」
登坂、昨日ちょっと様子変でした。
息が止まった。
「どういう意味ですか」
さあ。俺は本人じゃないので。
「佐伯さん」
でも、東京タワーの方を見てましたよ。朝、職員室の窓から。
それだけ言って、尚さんはいつもの調子で、
では、お大事に。
と電話を切った。
私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
東京タワーの方を見ていた。
利月くんが。
朝の職員室で。
ただの偶然かもしれない。
窓の外を見ただけかもしれない。
でも、私の心は勝手にそこへ意味を置いてしまう。
昨夜のことを思い出していたのだろうか。
美紗子先生のことを。
私のことを。
それとも。
まだ言えなかった、私の秘密の気配を。
リビングに戻ると、音葉が朝食を整えていた。
おかゆと、薄い味噌汁。
陽斗用のゼリー飲料。
私用には、なぜか温かいほうじ茶だけ。
「私は?」
「まず飲んでください」
「食べ物は?」
「食べる気、あります?」
「……ない」
「では、まず飲んでください」
この人は本当に、私の体調まで管理している。
私はほうじ茶を受け取り、ソファに座った。
湯気が上がる。
その向こうに、朝の東京タワーがかすかに見えた。
夜の赤い光とは違う、薄い輪郭。
昨夜、利月くんが立っていた場所。
美紗子先生の言葉が、私たちの間に落ちた場所。
「登坂先生から、連絡は?」
音葉が聞いた。
私はスマホを見る。
夜中に届いた最後のメッセージ。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その一文を、何度も読んだ。
利月くんは知らない。
その子どもが、彼の学校にいる陽斗だということ。
時々廊下で注意している、図書室で本の話をする、あの陽斗だということ。
知らないまま、こんなに優しい言葉をくれる。
それが苦しかった。
「返したんですか」
「まだ」
「なぜ」
「なんて返せばいいか分からない」
音葉はため息をついた。
「普通に返せばいいんです」
「普通って何」
「ご心配ありがとうございます、でいいです」
「それだけ?」
「それだけです。全部を一度に告白しようとするから動けなくなるんです」
たしかに、そうかもしれない。
私はいつも、言うなら全部言わなければと思ってしまう。
だから怖くなって、何も言えなくなる。
まずは、返事。
それだけでいい。
私はスマホを開いた。
昨日はありがとうございました。
熱は少し下がりました。
そばにいられてよかったです。
送信する前に、何度も読み返す。
母であることは、まだ直接言っていない。
でも、隠してもいない。
“そばにいられてよかった”
それは本当だった。
私は送信ボタンを押した。
すぐには既読にならなかった。
それだけで、胸がざわつく。
仕事なら、返信が遅くても気にならない。
相手にも都合がある。
そう割り切れる。
でも利月くんからの返事だけは、数分がやけに長い。
私はスマホを伏せた。
「見ない」
「五秒で見ますよね」
「見ない」
「三」
「やめて」
「二」
スマホが震えた。
音葉が、ほらという顔をした。
私は負けた気持ちで画面を見る。
利月くんからだった。
よかったです。
灯理さんも、少し休んでください。
灯理さん。
その呼び方が、胸に落ちる。
社長ではなく。
母でもなく。
私が彼に見せた、いちばん軽い名前。
でも今の私は、その名前だけでは立っていられない。
私は返事を打ちかけて、やめた。
また、言葉を選びすぎている。
それでも今は、これ以上近づくのが怖かった。
昼過ぎ、陽斗の熱はさらに下がった。
食欲は少しだけ戻り、おかゆを半分食べた。
そのあと、眠いと言ってまた寝室に戻った。
私は彼の寝顔を確認してから、リビングで仕事の資料を開いた。
数字が並んでいる。
売上。
人件費。
契約更新。
新規事業の予定。
どれも大事なことだ。
でも、頭に入ってこない。
ペンを持ったまま、私は何度も東京タワーの方を見てしまう。
高い部屋から見る東京タワー。
足元から見上げる東京タワー。
私はどちらの場所に立ちたいのだろう。
社長としての私がいるのは、高い場所だ。
守るものが多くて、遠くまで見えすぎる場所。
利月くんと会う東京タワーの下は、足元を見る場所。
嘘を抱えたままでも、地面に立っていることを思い出せる場所。
美紗子先生は、私に足元を教えてくれた。
利月くんも、同じ言葉を持っていた。
だから怖い。
私が隠しているものまで、いつか見つけられてしまいそうで。
夕方、陽斗が目を覚ました。
「お母さん」
「ん?」
「明日、学校行けるかな」
「熱が下がって、朝元気だったらね」
「休むとプリントたまる」
「そこ気にするんだ」
「佐伯先生、すぐ言うもん」
「何て?」
「陽斗、あとで泣くの自分だぞって」
私は笑ってしまった。
「佐伯先生らしいね」
陽斗は枕に顔をうずめる。
「あと、登坂先生に借りた本、返す日だった」
「図書室の?」
「うん」
「何借りたの?」
「星の本」
「星?」
「太陽とか月とか、惑星とか載ってるやつ」
胸が、少しだけ鳴った。
太陽。
月。
陽斗と、利月くん。
名前だけで繋げるなんて、馬鹿みたいだと思う。
でも、物語みたいな偶然ばかりが続くと、人は少しだけ信じたくなる。
「面白かった?」
「うん。月って、自分で光ってるわけじゃないんだって」
陽斗は眠そうな声で言った。
「太陽の光を反射してるだけなんだって」
私は、返事ができなかった。
利月。
月の字を持つ人。
そして陽斗。
陽の字を持つ子。
私の胸の中で、名前が静かに並んだ。
「でもさ」
陽斗が続けた。
「光ってるように見えるなら、それでいいよね」
「……どうして?」
「だって、夜に明るいし」
陽斗の言葉はいつも、何気ないふりをして深いところに落ちてくる。
光っているように見えるなら、それでいい。
私は、そうやって生きてきたのかもしれない。
本当は自分で光れていなくても、
社長として、母として、ちゃんとして見えるなら、それでいい。
でも、利月くんの前では。
私は、反射した光じゃなくて、本当の暗さごと見られるのが怖い。
「登坂先生、星好きなの?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「たぶん。本選んでくれた」
「そうなんだ」
「これなら陽斗も読めるって」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を知っている。
ただの児童として。
図書室に来る、星の本を借りる子として。
私の知らない陽斗を、彼は見ていた。
それが、嬉しくて、怖い。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生って、ちょっと静かだけどさ」
「うん」
「俺、嫌いじゃないよ」
その言葉に、私は目を伏せた。
「そっか」
「うん。佐伯先生はうるさいけど好き」
「両方好きってことね」
「まあね」
陽斗は少し照れたように布団をかぶった。
私はその横顔を見つめた。
陽斗は知らない。
母が、その静かな先生に心を揺らしていることを。
その先生に、本当のことを言えずにいることを。
この子を巻き込みたくない。
でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ている。
夜になって、陽斗はもう一度熱を測った。
三十六度八分。
「下がった」
嬉しそうに体温計を見せる陽斗に、私はほっと息を吐いた。
「よかった」
「明日学校行ける?」
「朝もう一回測ってから」
「分かった」
陽斗は少し元気を取り戻し、軽く夕食を食べた。
そのあと、また寝室へ戻る。
私はリビングで、ひとりスマホを見ていた。
利月くんとのメッセージ画面。
何か送るべきか。
送らない方がいいのか。
そんなことを考えている時点で、もう答えは出ている気がした。
会いたい。
でも、会うなら言わなきゃいけない。
私はメッセージ欄に文字を打った。
今度、東京タワーで会えますか。
話したいことがあります。
そこまで打って、指が止まった。
重い。
あまりにも重い。
でも、軽く誘うことはもうできなかった。
私は一度消した。
そして、もう一度打った。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
これなら、少しだけ柔らかい。
でも、意味は同じだった。
私はしばらく画面を見つめていた。
送れば、何かが進む。
送らなければ、何も変わらない。
その時、陽斗の寝室から小さな咳が聞こえた。
私は立ち上がりかけて、すぐに止まった。
大丈夫。
ただの咳だ。
でも、私はもう知っている。
そばにいることから、逃げちゃいけない。
スマホに戻り、私は送信ボタンを押した。
数分後、既読がついた。
心臓が、ゆっくり鳴る。
返事は短かった。
はい。
俺も、話したいことがあります。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
俺も。
利月くんにも、話したいことがある。
それが美紗子先生のことなのか。
東京タワーのことなのか。
それとも、私のことなのか。
分からない。
でも、もう逃げられない。
硝子の鍵が、手の中で冷たく光っている。
次に東京タワーの下に立つ時、
私はきっと、ひとつ鍵を開けなければならない。
たとえその先で、何かが壊れたとしても。

