タクシーの窓に、東京タワーの赤い光が流れていく。
さっきまで、私は利月くんの隣にいた。
東京タワーの下で、登坂という名前の意味を知った。
登坂美紗子先生。
私を見つけてくれた人。
私が教室に憧れるきっかけになった人。
その先生が、利月くんの母親だった。
そんな偶然があるのだろうか。
あるのだとしたら、私は何に導かれているのだろう。
でも今は、それを考えている場合じゃなかった。
陽斗が熱を出した。
その一言で、私は一瞬で母親に戻った。
社長でもない。
年齢を隠した女でもない。
東京タワーの下で恋に揺れていた私でもない。
陽斗の母。
それだけになる。
マンションに着くと、私はエレベーターのボタンをいつもより強く押した。
早く。
早く上がって。
高層階に住んでいることが、こんなに面倒に思えたのは初めてだった。
部屋に入ると、音葉が玄関まで来た。
「熱は?」
「三十八度二分です。水分は取れています。顔色は悪くないです」
「病院は?」
「今すぐ救急という感じではないと思います。でも、夜中に上がる可能性はあります」
音葉は淡々と言った。
その冷静さに助けられる。
でも同時に、胸が痛む。
本当は、私が最初にそばにいるべきだった。
「陽斗は?」
「寝室です」
私は靴を脱ぐのももどかしく、部屋へ向かった。
陽斗はベッドに横になっていた。
頬が少し赤い。
額に冷却シートを貼って、ぼんやり天井を見ている。
「陽斗」
声をかけると、彼がゆっくりこちらを見た。
「お母さん」
その声が、いつもより少しだけ弱い。
それだけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「ごめんね、遅くなって」
「大丈夫」
陽斗はすぐにそう言った。
大丈夫。
その言葉に、私は一瞬動けなくなった。
私に似ている。
大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言うところが。
「大丈夫じゃなくていいよ」
私はベッドの横に座り、陽斗の額に手を当てた。
熱い。
子どもの熱は、どうしてこんなに怖いのだろう。
数字で見れば分かる。
症状で判断できる。
でも手のひらに触れる熱は、いつも理屈をすり抜ける。
「しんどい?」
「ちょっと」
「寒い?」
「今は平気」
「吐き気は?」
「ない」
「喉は?」
「少し痛い」
私は頷きながら、毛布を直した。
「水、飲める?」
「飲める」
音葉が横からストロー付きのコップを差し出してくれた。
陽斗が少し飲む。
その姿を見て、少しだけ安心した。
「今日、学校でしんどかった?」
「帰ってから」
「先生には言った?」
「言ってない」
「なんで」
「だって、帰れると思ったし」
小学生男子の雑な判断。
私は少しだけ呆れて、でも怒れなかった。
「次からは言って」
「うん」
陽斗は素直に頷いた。
その素直さが、熱のせいに見えて、また胸が痛んだ。
「佐伯先生に言えばよかった」
私が何気なく言うと、陽斗が目だけでこちらを見た。
「お母さん、今日佐伯先生と何話したの?」
心臓が小さく跳ねた。
「陽斗のこと」
「俺、なんかした?」
「してないよ」
「じゃあ何」
「学校で頑張ってるって」
陽斗は少し照れたように目をそらした。
「先生、余計なこと言う」
「いい先生だね」
そう言うと、陽斗は少し考える顔をした。
「佐伯先生、うるさいけど、見てる」
「見てる?」
「うん。忘れ物とかもだけど、なんか、見てる」
その言い方が、子どもらしくて、でも妙に正確だった。
尚さんは見ている。
子どもの嘘に気づく目。
寂しそうな子を見逃さない目。
彼はそう言った。
その言葉の通り、陽斗も彼に見られていることを感じている。
「登坂先生は?」
自分でも、どうして聞いたのか分からなかった。
陽斗は少し眠そうに瞬きをした。
「あんまり話さないけど、優しい」
「同じ学校なんだよね」
「うん。五年の先生。あと、委員会でたまに見る」
「そう」
それだけなのに、胸がざわつく。
陽斗の学校に利月くんがいる。
私がまだ本当を言えていない人が、息子の日常のすぐ近くにいる。
その事実は、思ったより重かった。
「お母さん、登坂先生知ってるの?」
陽斗の声に、私は息を止めた。
子どもは、ふいに核心に触れる。
「昨日、食事会で少しね」
「ふうん」
陽斗はそれ以上聞かなかった。
熱で眠いのだろう。
まぶたが少しずつ落ちていく。
「寝ていいよ」
「お母さん、いる?」
「いるよ」
「仕事は?」
「今日はここにいる」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見て、私は胸の奥で何かが崩れるのを感じた。
母親なのに。
私は、こんな当たり前のことを、この子に確認させている。
お母さん、いる?
その言葉が、静かに刺さる。
「いるよ」
もう一度、小さく言った。
陽斗が眠ったあと、私はしばらくその寝顔を見ていた。
十二歳。
もう小さな子どもではない。
でも、大人でもない。
甘えたい時に、甘えていいと分からなくなる年頃。
私はこの子に、どれだけ我慢を覚えさせてしまったんだろう。
部屋の外へ出ると、音葉がリビングで待っていた。
「病院の夜間相談、念のため控えてあります」
「ありがとう」
「明日の朝、熱が下がらなければ受診ですね」
「うん」
私はソファに座った。
体から力が抜ける。
さっきまで東京タワーの下にいたことが、夢みたいだった。
「登坂先生とは話せましたか」
音葉が聞いた。
私は少しだけ目を伏せた。
「美紗子先生のことは話した」
「お母様だと?」
「うん」
「それで?」
「それで、陽斗の熱で帰ってきた」
「肝心なことは?」
音葉の声は優しいのに、逃げ道がない。
私は首を横に振った。
「言えなかった」
「そうですか」
責められるかと思った。
でも音葉は、それ以上何も言わなかった。
その沈黙の方が、胸に響く。
「言おうとはしたの」
「はい」
「でも、陽斗の電話が来て」
「はい」
「言えなかった」
「はい」
「私、ずるいね」
音葉がゆっくりこちらを見た。
「ずるいです」
即答だった。
私は思わず笑ってしまった。
「そこは慰めるところじゃない?」
「慰めるだけなら誰でもできます」
音葉は静かに言った。
「私は秘書なので、現実を見ます」
「秘書って、恋愛にも厳しいのね」
「社長が恋愛で会社以上に危ない橋を渡っているので」
返す言葉がなかった。
音葉は続けた。
「でも、陽斗くんのことを隠すのは、長くは無理です」
「分かってる」
「尚先生にはもう知られています」
「うん」
「登坂先生にも、いずれ知られます」
「うん」
「社長から言うのと、他から知るのでは、傷の形が違います」
その言葉が、静かに刺さった。
傷の形。
同じ事実でも、伝わり方で傷が変わる。
私は利月くんを傷つけたくない。
でも、もう嘘をついた時点で、傷つける準備は始まっているのかもしれない。
「怖い」
思わず本音が落ちた。
音葉は何も言わず、隣に座った。
「利月くんに、本当の私を見られるのが怖い」
声にしたら、ずっと抱えていたものが形になった。
「社長で、母親で、年上で、嘘をついた女で。そんな私を見られるのが怖い」
「それが本当の灯理さんです」
「分かってる」
「本当の灯理さんを見せないまま好きになられても、苦しいだけです」
分かっている。
分かっていることばかりだ。
でも、分かっているからできるなら、人はこんなに嘘をつかない。
その時、スマホが震えた。
画面を見ると、佐伯尚さんからだった。
陽斗、大丈夫ですか?
私は息を止めた。
尚さんには、もう知られている。
だからこの連絡は、ただの知り合いとしてではなく、担任として来ている。
でも、昨日の食事会で笑った尚さんとしても、そこにいる。
私は返信した。
熱はありますが、水分は取れています。今は寝ました。ご心配ありがとうございます。
すぐに返事が来た。
よかった。明日休むなら学校に連絡ください。
あと、灯理さんも寝てください。
最後の一文に、少し笑ってしまった。
音葉がのぞき込む。
「尚先生ですか」
「うん」
「なんて?」
「私も寝ろって」
「正論です」
「みんな私に正論ばっかり言う」
「正論から逃げるからです」
本当に、秘書は手厳しい。
私はもう一度スマホを見た。
少し迷ってから、尚さんに返信する。
今日はありがとうございました。校門で、変に巻き込んですみません。
返事はすぐだった。
もう巻き込まれてます。
でも、陽斗の担任としては知れてよかったです。
私は画面を見つめた。
陽斗の担任としては。
そうだ。
尚さんは、私の嘘に巻き込まれた男ではなく、まず陽斗の先生なのだ。
それが、今はありがたかった。
登坂には、まだ言えてません。
送るか迷って、結局送った。
しばらく既読がつかなかった。
その数十秒が、やけに長い。
やがて、返事が来た。
でしょうね。
思わず苦笑した。
続けて、もう一通。
でも、言うなら早い方がいいです。
あいつ、たぶん気づくの遅いけど、気づいたら深く考えるタイプなので。
利月くんらしい。
気づくのは遅い。
でも、気づいたら深く考える。
そんな人だから、私は怖いのだ。
軽く流してくれない。
冗談で終わらせてくれない。
きっと、ちゃんと傷つく。
分かっています。
そう返すと、尚さんから短く来た。
分かってるなら、逃げないでください。
私はスマホを胸に当てた。
尚さんの言葉は、時々まっすぐすぎて痛い。
でも、必要な痛みだった。
その夜、私は陽斗の寝室に布団を敷いて横になった。
高層マンションの広い寝室ではなく、息子のベッドの横。
手を伸ばせば、陽斗の額に触れられる距離。
昔、陽斗がもっと小さかった頃は、よくこうして寝ていた。
熱を出すと、私は一晩中眠れなかった。
仕事のことも忘れて、ただ呼吸を数えていた。
いつからだろう。
仕事を優先して、音葉や母に頼ることが当たり前になったのは。
もちろん、そうしなければ回らない日もあった。
私ひとりでは抱えきれないことばかりだった。
でも、だからといって寂しさが消えるわけじゃない。
陽斗が小さく寝返りを打った。
「お母さん……」
寝言みたいな声。
「いるよ」
私はすぐに答えた。
陽斗は目を開けなかった。
でも、少し安心したように息を吐いた。
その瞬間、私は決めた。
利月くんに話そう。
年齢のこと。
社長であること。
母であること。
全部を一度にうまく話せる自信はない。
きっと怖くて、言葉も足りなくなる。
それでも、言わなきゃいけない。
私は、母であることを恥じているわけじゃない。
社長であることを捨てたいわけでもない。
年齢をなかったことにしたいわけでもない。
ただ、彼の前でだけ、少しだけ身軽になりたかった。
それが嘘になってしまった。
だから、今度は自分で鍵を開けなければならない。
夜中、陽斗の熱は少し下がった。
私は安心して、うとうとしかけた。
その時、スマホが静かに震えた。
画面の明かりが、暗い部屋に小さく浮かぶ。
通知は、知らない番号からだった。
登坂です。
音葉さんから連絡先を聞きました。突然すみません。
陽斗くん、大丈夫ですか。
私は目を見開いた。
利月くん。
どうして、陽斗の名前を。
一瞬、頭が真っ白になった。
すぐに分かった。
音葉だ。
きっと音葉が、必要だと思って繋げた。
心臓が大きく鳴る。
陽斗の寝息が、隣で静かに聞こえている。
私は震える指で画面を見つめた。
利月くんが、陽斗の名前を知っている。
まだ、私が母だとは知らないかもしれない。
でも、扉はもう少し開いてしまった。
私はゆっくり文字を打った。
大丈夫です。熱は少し下がりました。ご心配ありがとうございます。
送信ボタンを押す直前、指が止まった。
この返事は、何の立場でするのだろう。
知り合いとして。
母として。
嘘をついた女として。
私は一度、全部消した。
そして、打ち直した。
陽斗は大丈夫です。
私が今、そばにいます。
送った瞬間、胸の奥で鍵が鳴った。
小さく、でもはっきりと。
これは、母の鍵だった。
数分後、利月くんから返事が来た。
よかったです。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その言葉を読んだ瞬間、涙がこぼれた。
なぜ泣いたのか、自分でも分からなかった。
先生としての言葉だったからか。
利月くん自身の優しさだったからか。
それとも、私が一番言ってほしかった言葉だったからか。
私は陽斗の寝顔を見た。
そばにいる。
今夜だけじゃなく、これからも。
私はこの子の母として、利月くんの前に立たなきゃいけない。
東京タワーの下ではなく、
高い部屋の中で、
息子の寝息を聞きながら、
私は初めてそう思った。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
けれど今度の鍵は、閉じるためじゃない。
開けるために、手の中で冷たく光っていた。
さっきまで、私は利月くんの隣にいた。
東京タワーの下で、登坂という名前の意味を知った。
登坂美紗子先生。
私を見つけてくれた人。
私が教室に憧れるきっかけになった人。
その先生が、利月くんの母親だった。
そんな偶然があるのだろうか。
あるのだとしたら、私は何に導かれているのだろう。
でも今は、それを考えている場合じゃなかった。
陽斗が熱を出した。
その一言で、私は一瞬で母親に戻った。
社長でもない。
年齢を隠した女でもない。
東京タワーの下で恋に揺れていた私でもない。
陽斗の母。
それだけになる。
マンションに着くと、私はエレベーターのボタンをいつもより強く押した。
早く。
早く上がって。
高層階に住んでいることが、こんなに面倒に思えたのは初めてだった。
部屋に入ると、音葉が玄関まで来た。
「熱は?」
「三十八度二分です。水分は取れています。顔色は悪くないです」
「病院は?」
「今すぐ救急という感じではないと思います。でも、夜中に上がる可能性はあります」
音葉は淡々と言った。
その冷静さに助けられる。
でも同時に、胸が痛む。
本当は、私が最初にそばにいるべきだった。
「陽斗は?」
「寝室です」
私は靴を脱ぐのももどかしく、部屋へ向かった。
陽斗はベッドに横になっていた。
頬が少し赤い。
額に冷却シートを貼って、ぼんやり天井を見ている。
「陽斗」
声をかけると、彼がゆっくりこちらを見た。
「お母さん」
その声が、いつもより少しだけ弱い。
それだけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
「ごめんね、遅くなって」
「大丈夫」
陽斗はすぐにそう言った。
大丈夫。
その言葉に、私は一瞬動けなくなった。
私に似ている。
大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言うところが。
「大丈夫じゃなくていいよ」
私はベッドの横に座り、陽斗の額に手を当てた。
熱い。
子どもの熱は、どうしてこんなに怖いのだろう。
数字で見れば分かる。
症状で判断できる。
でも手のひらに触れる熱は、いつも理屈をすり抜ける。
「しんどい?」
「ちょっと」
「寒い?」
「今は平気」
「吐き気は?」
「ない」
「喉は?」
「少し痛い」
私は頷きながら、毛布を直した。
「水、飲める?」
「飲める」
音葉が横からストロー付きのコップを差し出してくれた。
陽斗が少し飲む。
その姿を見て、少しだけ安心した。
「今日、学校でしんどかった?」
「帰ってから」
「先生には言った?」
「言ってない」
「なんで」
「だって、帰れると思ったし」
小学生男子の雑な判断。
私は少しだけ呆れて、でも怒れなかった。
「次からは言って」
「うん」
陽斗は素直に頷いた。
その素直さが、熱のせいに見えて、また胸が痛んだ。
「佐伯先生に言えばよかった」
私が何気なく言うと、陽斗が目だけでこちらを見た。
「お母さん、今日佐伯先生と何話したの?」
心臓が小さく跳ねた。
「陽斗のこと」
「俺、なんかした?」
「してないよ」
「じゃあ何」
「学校で頑張ってるって」
陽斗は少し照れたように目をそらした。
「先生、余計なこと言う」
「いい先生だね」
そう言うと、陽斗は少し考える顔をした。
「佐伯先生、うるさいけど、見てる」
「見てる?」
「うん。忘れ物とかもだけど、なんか、見てる」
その言い方が、子どもらしくて、でも妙に正確だった。
尚さんは見ている。
子どもの嘘に気づく目。
寂しそうな子を見逃さない目。
彼はそう言った。
その言葉の通り、陽斗も彼に見られていることを感じている。
「登坂先生は?」
自分でも、どうして聞いたのか分からなかった。
陽斗は少し眠そうに瞬きをした。
「あんまり話さないけど、優しい」
「同じ学校なんだよね」
「うん。五年の先生。あと、委員会でたまに見る」
「そう」
それだけなのに、胸がざわつく。
陽斗の学校に利月くんがいる。
私がまだ本当を言えていない人が、息子の日常のすぐ近くにいる。
その事実は、思ったより重かった。
「お母さん、登坂先生知ってるの?」
陽斗の声に、私は息を止めた。
子どもは、ふいに核心に触れる。
「昨日、食事会で少しね」
「ふうん」
陽斗はそれ以上聞かなかった。
熱で眠いのだろう。
まぶたが少しずつ落ちていく。
「寝ていいよ」
「お母さん、いる?」
「いるよ」
「仕事は?」
「今日はここにいる」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見て、私は胸の奥で何かが崩れるのを感じた。
母親なのに。
私は、こんな当たり前のことを、この子に確認させている。
お母さん、いる?
その言葉が、静かに刺さる。
「いるよ」
もう一度、小さく言った。
陽斗が眠ったあと、私はしばらくその寝顔を見ていた。
十二歳。
もう小さな子どもではない。
でも、大人でもない。
甘えたい時に、甘えていいと分からなくなる年頃。
私はこの子に、どれだけ我慢を覚えさせてしまったんだろう。
部屋の外へ出ると、音葉がリビングで待っていた。
「病院の夜間相談、念のため控えてあります」
「ありがとう」
「明日の朝、熱が下がらなければ受診ですね」
「うん」
私はソファに座った。
体から力が抜ける。
さっきまで東京タワーの下にいたことが、夢みたいだった。
「登坂先生とは話せましたか」
音葉が聞いた。
私は少しだけ目を伏せた。
「美紗子先生のことは話した」
「お母様だと?」
「うん」
「それで?」
「それで、陽斗の熱で帰ってきた」
「肝心なことは?」
音葉の声は優しいのに、逃げ道がない。
私は首を横に振った。
「言えなかった」
「そうですか」
責められるかと思った。
でも音葉は、それ以上何も言わなかった。
その沈黙の方が、胸に響く。
「言おうとはしたの」
「はい」
「でも、陽斗の電話が来て」
「はい」
「言えなかった」
「はい」
「私、ずるいね」
音葉がゆっくりこちらを見た。
「ずるいです」
即答だった。
私は思わず笑ってしまった。
「そこは慰めるところじゃない?」
「慰めるだけなら誰でもできます」
音葉は静かに言った。
「私は秘書なので、現実を見ます」
「秘書って、恋愛にも厳しいのね」
「社長が恋愛で会社以上に危ない橋を渡っているので」
返す言葉がなかった。
音葉は続けた。
「でも、陽斗くんのことを隠すのは、長くは無理です」
「分かってる」
「尚先生にはもう知られています」
「うん」
「登坂先生にも、いずれ知られます」
「うん」
「社長から言うのと、他から知るのでは、傷の形が違います」
その言葉が、静かに刺さった。
傷の形。
同じ事実でも、伝わり方で傷が変わる。
私は利月くんを傷つけたくない。
でも、もう嘘をついた時点で、傷つける準備は始まっているのかもしれない。
「怖い」
思わず本音が落ちた。
音葉は何も言わず、隣に座った。
「利月くんに、本当の私を見られるのが怖い」
声にしたら、ずっと抱えていたものが形になった。
「社長で、母親で、年上で、嘘をついた女で。そんな私を見られるのが怖い」
「それが本当の灯理さんです」
「分かってる」
「本当の灯理さんを見せないまま好きになられても、苦しいだけです」
分かっている。
分かっていることばかりだ。
でも、分かっているからできるなら、人はこんなに嘘をつかない。
その時、スマホが震えた。
画面を見ると、佐伯尚さんからだった。
陽斗、大丈夫ですか?
私は息を止めた。
尚さんには、もう知られている。
だからこの連絡は、ただの知り合いとしてではなく、担任として来ている。
でも、昨日の食事会で笑った尚さんとしても、そこにいる。
私は返信した。
熱はありますが、水分は取れています。今は寝ました。ご心配ありがとうございます。
すぐに返事が来た。
よかった。明日休むなら学校に連絡ください。
あと、灯理さんも寝てください。
最後の一文に、少し笑ってしまった。
音葉がのぞき込む。
「尚先生ですか」
「うん」
「なんて?」
「私も寝ろって」
「正論です」
「みんな私に正論ばっかり言う」
「正論から逃げるからです」
本当に、秘書は手厳しい。
私はもう一度スマホを見た。
少し迷ってから、尚さんに返信する。
今日はありがとうございました。校門で、変に巻き込んですみません。
返事はすぐだった。
もう巻き込まれてます。
でも、陽斗の担任としては知れてよかったです。
私は画面を見つめた。
陽斗の担任としては。
そうだ。
尚さんは、私の嘘に巻き込まれた男ではなく、まず陽斗の先生なのだ。
それが、今はありがたかった。
登坂には、まだ言えてません。
送るか迷って、結局送った。
しばらく既読がつかなかった。
その数十秒が、やけに長い。
やがて、返事が来た。
でしょうね。
思わず苦笑した。
続けて、もう一通。
でも、言うなら早い方がいいです。
あいつ、たぶん気づくの遅いけど、気づいたら深く考えるタイプなので。
利月くんらしい。
気づくのは遅い。
でも、気づいたら深く考える。
そんな人だから、私は怖いのだ。
軽く流してくれない。
冗談で終わらせてくれない。
きっと、ちゃんと傷つく。
分かっています。
そう返すと、尚さんから短く来た。
分かってるなら、逃げないでください。
私はスマホを胸に当てた。
尚さんの言葉は、時々まっすぐすぎて痛い。
でも、必要な痛みだった。
その夜、私は陽斗の寝室に布団を敷いて横になった。
高層マンションの広い寝室ではなく、息子のベッドの横。
手を伸ばせば、陽斗の額に触れられる距離。
昔、陽斗がもっと小さかった頃は、よくこうして寝ていた。
熱を出すと、私は一晩中眠れなかった。
仕事のことも忘れて、ただ呼吸を数えていた。
いつからだろう。
仕事を優先して、音葉や母に頼ることが当たり前になったのは。
もちろん、そうしなければ回らない日もあった。
私ひとりでは抱えきれないことばかりだった。
でも、だからといって寂しさが消えるわけじゃない。
陽斗が小さく寝返りを打った。
「お母さん……」
寝言みたいな声。
「いるよ」
私はすぐに答えた。
陽斗は目を開けなかった。
でも、少し安心したように息を吐いた。
その瞬間、私は決めた。
利月くんに話そう。
年齢のこと。
社長であること。
母であること。
全部を一度にうまく話せる自信はない。
きっと怖くて、言葉も足りなくなる。
それでも、言わなきゃいけない。
私は、母であることを恥じているわけじゃない。
社長であることを捨てたいわけでもない。
年齢をなかったことにしたいわけでもない。
ただ、彼の前でだけ、少しだけ身軽になりたかった。
それが嘘になってしまった。
だから、今度は自分で鍵を開けなければならない。
夜中、陽斗の熱は少し下がった。
私は安心して、うとうとしかけた。
その時、スマホが静かに震えた。
画面の明かりが、暗い部屋に小さく浮かぶ。
通知は、知らない番号からだった。
登坂です。
音葉さんから連絡先を聞きました。突然すみません。
陽斗くん、大丈夫ですか。
私は目を見開いた。
利月くん。
どうして、陽斗の名前を。
一瞬、頭が真っ白になった。
すぐに分かった。
音葉だ。
きっと音葉が、必要だと思って繋げた。
心臓が大きく鳴る。
陽斗の寝息が、隣で静かに聞こえている。
私は震える指で画面を見つめた。
利月くんが、陽斗の名前を知っている。
まだ、私が母だとは知らないかもしれない。
でも、扉はもう少し開いてしまった。
私はゆっくり文字を打った。
大丈夫です。熱は少し下がりました。ご心配ありがとうございます。
送信ボタンを押す直前、指が止まった。
この返事は、何の立場でするのだろう。
知り合いとして。
母として。
嘘をついた女として。
私は一度、全部消した。
そして、打ち直した。
陽斗は大丈夫です。
私が今、そばにいます。
送った瞬間、胸の奥で鍵が鳴った。
小さく、でもはっきりと。
これは、母の鍵だった。
数分後、利月くんから返事が来た。
よかったです。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その言葉を読んだ瞬間、涙がこぼれた。
なぜ泣いたのか、自分でも分からなかった。
先生としての言葉だったからか。
利月くん自身の優しさだったからか。
それとも、私が一番言ってほしかった言葉だったからか。
私は陽斗の寝顔を見た。
そばにいる。
今夜だけじゃなく、これからも。
私はこの子の母として、利月くんの前に立たなきゃいけない。
東京タワーの下ではなく、
高い部屋の中で、
息子の寝息を聞きながら、
私は初めてそう思った。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
けれど今度の鍵は、閉じるためじゃない。
開けるために、手の中で冷たく光っていた。

