硝子の鍵

冬の夜は、音を少し遠くする。

車の走る音も、駅前の人の声も、コンビニの自動ドアが開く音も、全部どこか薄い膜の向こうにあるみたいだった。

私は、待ち合わせ場所の橋の手前に立っていた。

前に、利月くんと歩いた川沿い。
前に、私がつまずいて、彼が手を取ってくれた場所。

あの時の手の温度を、私はまだ覚えている。

覚えているというより、忘れようがなかった。

理由があった手だった。

転びそうだったから。
危なかったから。
支えてくれたから。

でも、今夜は違う。

利月くんは言った。

次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。

その言葉を思い出すだけで、手袋の中の指先が熱くなる。

私は川の水面を見下ろした。

街灯の光が、細く揺れている。

会いたい。

そう思うのに、会う直前になると逃げたくなる。

好きという気持ちは、もっと明るくて、もっと軽くて、もっと扱いやすいものだと思っていた。

でも利月くんへの気持ちは、少し違う。

嬉しいのに怖い。
近づきたいのに、近づいたら自分が何を言ってしまうか分からない。
目を見たいのに、見たら全部ばれてしまいそうになる。

私は、恋をしている。

たぶん。

いや、もう、たぶんではない。

「灯理さん」

声がした。

振り返ると、利月くんが立っていた。

黒いコート。
少しだけ乱れた前髪。
息が白い。

彼は、私を見ていた。

先生の顔ではなく、
陽斗の担任としての顔でもなく、
ただ、私に会いに来た人の顔で。

「こんばんは」

「こんばんは」

挨拶ひとつで、胸が鳴る。

重症だと思う。

利月くんは、私の少し前で立ち止まった。

「待たせましたか」

「少しだけ」

本当は、十分くらい早く来ていた。

でもそれを言うのは恥ずかしかった。

「寒かったですか」

「少しだけ」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

「でも」

「また謝る」

利月くんは少しだけ困った顔をした。

その顔に、私は小さく笑ってしまう。

前より、少しだけ笑える。

前より、少しだけ目を見られる。

それだけで、夜の空気がやわらかくなった。

「歩きますか」

利月くんが言った。

「はい」

私たちは並んで歩き出した。

手はまだ繋いでいない。

でも、二人の間には確かにその約束があった。

手ひとつ分の距離。

近いようで遠い。
遠いようで、もう戻れないくらい近い。

川沿いの遊歩道は、前より人が少なかった。

冬の木々は葉を落として、枝だけになっている。
その向こうに、街の光がちらちら見えた。

「陽斗は」

利月くんが静かに聞いた。

「今日は早めに寝るって言ってました」

「そうですか」

「でも、たぶん起きてます」

利月くんが少し笑った。

「心配しているんですね」

「してますね」

「灯理さんのことをよく見ています」

「見すぎです」

「母親がそれを言いますか」

「言います」

私がそう答えると、利月くんはまた少し笑った。

その小さな笑い声が、胸に入ってくる。

「陽斗には、今日会うことを言いました」

「はい」

「それから」

私は少しだけ言葉に詰まった。

「手を繋ぐかもしれないことも」

利月くんの足が、ほんの少し遅くなった。

「そこまで」

「嘘、つきたくなくて」

「陽斗は、何て」

「学校ではなしって」

利月くんは真面目に頷いた。

「もちろんです」

「図書室もなしって」

「はい」

「廊下もなしって」

「しません」

あまりに真剣に返すから、私は笑ってしまった。

「そんな顔で言わなくても」

「大事なことなので」

「そうだけど」

「陽斗にとっては、学校の登坂でもあるので」

その言葉に、胸が少しだけ静かになる。

利月くんは、ちゃんと見ている。

私だけじゃなくて、陽斗のことも。
自分がどんな立場で、どんな線の上に立っているのかも。

それが嬉しい。

それが、少し苦しくもある。

彼は優しい。

でも、その優しさが、時々距離になる。

私は、利月くんの横顔を見た。

「利月くん」

名前で呼ぶと、彼はすぐにこちらを見た。

まだ慣れない。

私も、たぶん彼も。

「はい」

「今日、ちゃんと会えてよかったです」

言ってから、自分で照れた。

でも、取り消さなかった。

利月くんは少し黙った。

そして、静かに言った。

「俺もです」

たったそれだけ。

でも、その声がまっすぐだった。

橋の近くまで来た時、利月くんが足を止めた。

前に私がつまずいた段差の手前。

私は、あ、と小さく思った。

利月くんも覚えていた。

あの場所を。
あの手を。
あの、一瞬だけ理由があった距離を。

「灯理さん」

「はい」

彼は、ゆっくり私の方を向いた。

「ここから、手を繋いでもいいですか」

胸が大きく鳴った。

ちゃんと聞かれた。

理由を借りずに。
寒さのせいにせずに。
段差のせいにせずに。

私の手を取りたいから、と言うかわりに。

「はい」

声が小さくなった。

でも、ちゃんと届いたと思う。

利月くんは手袋を外した。

私も、片方だけ外す。

冬の空気が指先に触れて、少し冷たい。

彼の手が差し出される。

大きくて、少し硬そうな手。

黒板に字を書く手。
本を持つ手。
陽斗のノートをめくる手。
前に、私を支えてくれた手。

私は、その手に自分の手を重ねた。

利月くんの指が、私の指を包む。

あたたかい。

その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

「ちゃんと繋ぎました」

利月くんが、真面目に言った。

私は笑ってしまった。

「報告するんですか」

「はい」

「誰に?」

「灯理さんに」

「私、今ここにいます」

「はい。なので、言いました」

おかしくて、でも泣きそうになる。

利月くんは、こういう人だ。

不器用で、真面目で、少しずれていて。
でも、嘘をつかない。

手を繋いだまま、私たちは歩いた。

前とは違った。

前は、転ばないように掴まれていた。

今夜は、離さないように繋がれていた。

ただそれだけの違いが、こんなにも胸を満たす。

私は、手の温度に気を取られながら歩いた。

指先から、心臓まで、細い糸が伸びているみたいだった。

「佐伯さんと」

ふいに、利月くんが言った。

私の手が、ほんの少しだけ反応した。

利月くんは気づいたと思う。

でも、手は離れなかった。

「話しましたか」

「はい」

「陽斗のことで」

「それもあります」

正直に言った。

利月くんは、前を見たまま頷いた。

「それ以外も?」

私は少し迷った。

尚さんの言葉が、夜の底から浮かんでくる。

俺も、手くらい繋ぎたかったです。

それを、全部そのまま渡すことはできない。

尚さんの痛みは、尚さんのものだ。

でも、何もなかったことにもできない。

「尚さんは」

私は言葉を選んだ。

「私のことも、陽斗のことも、よく見てくれています」

「はい」

「それに、救われているところもあります」

「はい」

利月くんの声は静かだった。

「でも」

私は繋いだ手を少しだけ握った。

「会いたいと思うのは、利月くんです」

その言葉を言った瞬間、夜の空気が少し止まった気がした。

利月くんも、足を止めた。

私も止まる。

川の音だけが、細く流れている。

「灯理さん」

「はい」

「佐伯に嫉妬しています」

はっきり言われた。

胸が跳ねた。

「はい」

「でも、佐伯が陽斗を見てくれていることも、灯理さんを支えていることも、否定したくないです」

「うん」

「だから、少し難しいです」

「うん」

利月くんは、繋いだ手を見た。

「でも、譲りたくないです」

息が止まる。

「何を?」

聞かなくても分かっていた。

でも、聞きたかった。

彼は少しだけ困ったように、私を見た。

「灯理さんが、俺の前で緊張することも」

「はい」

「目を逸らすことも」

「はい」

「それでも、会いたいと言ってくれることも」

胸が熱くなる。

「手を繋ぎたいと思ってくれることも」

彼の声が、少しだけ低くなる。

「譲りたくないです」

涙が出そうになった。

私は、彼の手を握り返した。

「私、ずるいです」

「はい」

即答だった。

「そこは否定してほしいです」

「できません」

「ひどい」

「でも」

利月くんは、少しだけ私に近づいた。

「ずるいことを隠さないでくれるなら、俺はそこから考えられます」

「考える?」

「はい」

「考えて、どうするんですか」

彼は少し迷って、言った。

「ちゃんと好きでいます」

その言葉で、全部止まった。

ちゃんと好きでいます。

好きです、よりも不器用で。
愛してます、よりも慎重で。
でも、今の利月くんにはいちばん近い言葉だった。

私は何も言えなかった。

喉の奥が、ぎゅっと詰まる。

利月くんは慌てたように少し目を伏せた。

「すみません。変な言い方をしました」

「変じゃないです」

「でも」

「変じゃない」

私は、もう一度言った。

「すごく、利月くんらしい」

彼は、少しだけ困った顔をした。

その顔が好きだと思った。

私は、利月くんを好きだ。

尚さんに救われても。
陽斗を気にしても。
自分の過去が痛んでも。

今、この手を離したくないと思う相手は、この人だった。

「私も」

声が震えた。

「ちゃんと好きでいたいです」

利月くんの目が、静かに揺れた。

その揺れを見た瞬間、私は目を逸らしそうになった。

でも、逸らさなかった。

今日は、逸らしたくなかった。

少しの沈黙。

冬の空気の中で、二人の息だけが白く重なる。

利月くんは、繋いでいない方の手を少しだけ上げて、でも途中で止めた。

「触れてもいいですか」

その一言に、胸がほどけた。

この人は、いつもそうだ。

近づく前に、ちゃんと聞く。

それがもどかしくて、でも、だから安心する。

「はい」

私が答えると、利月くんはゆっくり手を伸ばした。

頬に触れるのかと思った。

でも、彼の手は私の肩にそっと触れただけだった。

強く抱きしめるわけでもない。

奪うわけでもない。

ただ、ここにいることを確かめるみたいに。

そして、彼は少しだけ身をかがめた。

近い。

近すぎる。

心臓が、音を立てている。

「灯理さん」

「はい」

「キスは、まだしません」

耳まで熱くなった。

「言わなくていいです」

「言わないと、俺が間違えそうなので」

「間違えそうなんですか」

聞いてしまってから、後悔した。

利月くんは、少しだけ目を伏せた。

「はい」

その声が低くて、私は息を止めた。

冬の夜が、急に熱を持った。

でも、利月くんはそれ以上近づかなかった。

代わりに、そっと額を寄せた。

私のおでこに、彼のおでこが触れる。

ほんの少し。

軽く。

でも、手を繋いだ時よりも、もっと近い。

視界が、利月くんだけになる。

彼の息が近い。
まつ毛が見える。
声にならない沈黙が、二人の間に落ちる。

「近いです」

私が小さく言うと、

「はい」

利月くんも小さく答えた。

「離れますか」

「……離れなくていいです」

言った瞬間、彼の手が少しだけ私の肩を包んだ。

額をくっつけたまま、私たちはしばらく動かなかった。

キスではない。

抱擁でもない。

でも、たぶん、それよりも今の私たちには深かった。

逃げられないほど近いのに、
壊れないように大切にされている。

私は目を閉じた。

利月くんの温度が、額から胸の奥まで降りてくる。

「利月くん」

「はい」

「私、こわいです」

「はい」

「好きになるの、こわい」

「はい」

「陽斗のこともあるし、尚さんのこともあるし、私自身のことも、まだちゃんと分からない」

「はい」

「でも」

声が震えた。

「離れたくないです」

額が触れたまま、利月くんが小さく息を吸ったのが分かった。

「俺もです」

その一言は、静かだった。

でも、強かった。

「俺も、離れたくないです」

涙が落ちた。

利月くんはそれに気づいて、少しだけ額を離した。

でも、手は離さなかった。

「泣かせましたか」

「泣きました」

「俺が?」

「利月くんが」

彼は困った顔をした。

「すみません」

「謝らないでください」

「はい」

私は涙を拭った。

「嬉しくて泣く時もあります」

利月くんは、少し驚いたように私を見た。

「そうなんですか」

「あります」

「覚えておきます」

また真面目に言うから、泣きながら笑ってしまった。

「何を覚えるんですか」

「灯理さんは、嬉しくても泣く」

「面倒くさいですね」

「面倒ではないです」

「本当に?」

「はい」

彼は、繋いだ手に少し力を込めた。

「大事です」

その言葉に、また泣きそうになる。

大事。

好きより、少し広い言葉。
恋より、少し深い言葉。

利月くんの口から出ると、それは約束みたいに聞こえた。

私たちは、橋の上でしばらく並んで川を見た。

もう額は離れている。

でも、さっき触れた場所がまだ熱い。

おでこに、透明な鍵を置かれたみたいだった。

「第一章みたいですね」

私はふと、そんなことを言った。

「第一章?」

利月くんが不思議そうに私を見る。

「うん。物語の」

「ここで終わるんですか」

「終わらないです」

私は首を振った。

「でも、ひとつ終わった気がする」

利月くんは少し考えた。

「始まった、ではなく?」

「始まったから、終わったんです」

「難しいです」

「私も分かってないです」

二人で笑った。

でも、本当にそうだった。

利月くんに出会ってから、私はずっと扉の前にいた。

開けたいのに、怖くて。
触れたいのに、割れそうで。
名前をつけたいのに、つけたら戻れなくなりそうで。

その扉が、今夜少しだけ開いた。

大きくではない。
ほんの少し。

でも、向こう側から、確かに風が吹いた。

「灯理さん」

「はい」

「次も、会ってくれますか」

「はい」

返事は、すぐに出た。

利月くんは、少しだけ表情をやわらげた。

「次は、最初から手を繋いでもいいですか」

顔が熱くなる。

「毎回聞くんですか」

「必要なら」

「必要じゃない時もあります」

「では」

利月くんは少し迷って、言った。

「繋ぎたい時は、言います」

「はい」

「灯理さんも」

「私も?」

「繋ぎたい時は、言ってください」

そんなこと言えるだろうか。

でも、今夜の私は少しだけ強かった。

「言えるようにします」

「はい」

「たぶん」

「はい」

利月くんが小さく笑った。

駅までの帰り道、私たちは手を繋いだままだった。

途中で、陽斗からメッセージが来た。

帰ってきてる?

私は笑って、利月くんに見せた。

「陽斗です」

「心配していますね」

「ですね」

私は返信した。

今から帰るよ。ちゃんと温かいもの飲んだ。

本当は飲んでいない。

でも、このあと駅で温かいココアでも買えば嘘にはならない。

すぐに返事が来た。

よし。

利月くんが画面を見て、ふっと笑った。

「陽斗らしいです」

「先生にも言いそう」

「言われそうです」

「利月くん、ちゃんと食べてますかって」

「それは俺が灯理さんに言う側です」

「二人して私を見張る」

「必要なので」

「ひどい」

「大事なので」

また、それ。

大事。

その言葉が、今夜は何度も私の中で鳴った。

駅の明かりが近づく。

もうすぐ離れる。

手を離さなければいけない。

そう思った瞬間、胸が少し寂しくなった。

改札の少し手前で、利月くんが立ち止まる。

私も止まった。

手は、まだ繋がっている。

「今日は、ありがとうございました」

利月くんが言った。

「こちらこそ」

「ちゃんと繋げて、よかったです」

「はい」

「額も」

「それは言わなくていいです」

「すみません」

「でも」

私は小さく息を吸った。

「嬉しかったです」

利月くんの目が、やわらかく揺れた。

「俺もです」

もう一度、額が触れそうな距離になった。

でも、今度は触れなかった。

その寸前で止まる。

それで十分だった。

第1章の終わりに、キスはいらない。

言葉にしきれない温度と、繋いだ手と、触れた額。

それだけで、私はもう戻れない。

「帰ります」

「はい」

「また」

「また」

私は手を離した。

離した瞬間、指先が少し寒くなる。

でも、不安ではなかった。

さっきまで繋いでいた温度は、ちゃんと残っていた。

改札を通って振り返ると、利月くんはまだそこにいた。

私を見ていた。

私は小さく手を振った。

彼も、少しだけ手を上げた。

たったそれだけで、胸がいっぱいになる。

電車に乗って、窓の外を見た。

街の光が流れていく。

おでこに、まだ彼の温度が残っている気がした。

手のひらにも。

胸の奥にも。

スマホが震える。

利月くんからだった。

今日、灯理さんに会えてよかったです。

少しして、もう一通。

次も、ちゃんと会いたいです。

私は画面を見つめた。

涙が出そうになって、でも今度は笑った。

返事を打つ。

私も。
次も、ちゃんと会いたいです。

送信。

既読がついた。

返事はすぐには来なかった。

でも、それでよかった。

もう、返事の早さだけで自分の価値を測りたくなかった。

私は窓に映る自分を見た。

少し泣いた顔。
少し笑っている顔。
恋をしている顔。

第1章が終わる。

出会って、迷って、逃げて、近づいて。
そして今夜、私は利月くんと手を繋いだ。

額をくっつけた。

キスはまだ。

でも、もう十分だった。

硝子の鍵は、静かに鳴った。

割れそうで、透明で、触れるのが怖かった鍵。

その鍵を、私はようやく手の中に持った。

扉の向こうには、まだ知らない痛みがある。

教室の影も。
尚さんの優しさも。
陽斗の揺れも。
私自身の戻れない場所も。

きっと、全部が待っている。

でも今夜だけは、まだそこへ行かなくていい。

今夜はただ、
利月くんの額の温度と、
繋いだ手の記憶だけを抱いて帰る。

第一章は、ここで静かに幕を下ろす。

そして私は知っている。

物語は、終わったのではない。

やっと、始まったのだ。

第一章「硝子の鍵」完結
第二章「硝子の鍵~season2」でお会いしましょう。
読んで頂きありがとうございました!