尚さんと別れたあと、私はしばらく駅前に立っていた。
冬の風が、コートの裾を揺らす。
街灯の下で、吐く息が白くほどけた。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
冗談みたいな声だった。
でも、冗談ではなかった。
あの一言が、耳の奥に残っている。
尚さんはいつも軽い。
私が泣く前に笑えるように、先に冗談を置いてくれる。
陽斗のことも、私のことも、利月くんのことも、少し離れた場所からちゃんと見ている。
その人が、今日初めて、ほんの少しだけ自分の痛みを見せた。
俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ。
楽。
その言葉は、胸に残った。
たしかに、尚さんといると楽だった。
目を見て話せる。
冗談を返せる。
息を止めずに笑える。
でも。
利月くんの前では、何もかもうまくできなくなる。
目を見るだけで、胸がいっぱいになる。
返事が少し遅いだけで、不安になる。
手を繋いだだけで、眠れなくなる。
楽じゃない。
なのに、会いたい。
それが答えなのだと思った。
答えなのに、尚さんの背中が少し寂しく見えたことも、嘘ではなかった。
私はスマホを取り出した。
利月くんからのメッセージが、画面に残っている。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その言葉が、少しだけ痛かった。
ありがたい。
本当にそう。
尚さんが陽斗を見てくれていることも、私を現実に戻してくれることも、利月くんの不器用さを翻訳してくれることも。
ありがたい。
でも、それだけではなかった。
私は返信欄を開いた。
佐伯さんは、陽斗のことも私のこともよく見てくれています。
そこまで打って、止まった。
違う。
これは本当だけど、足りない。
尚さんが今日、男としても一歩踏み込んだこと。
私に「俺だったらもっと楽でした」と言ったこと。
「手くらい繋ぎたかった」と言ったこと。
それを利月くんに言うべきなのか。
言ったら、どうなるのだろう。
利月くんはきっと黙る。
怒るかもしれない。
いや、怒るより先に考え込むと思う。
そして、陽斗の担任である尚さんとの関係や、学校のことや、私の気持ちまで全部並べて、また遠くなるかもしれない。
それが怖かった。
私は一度打った文字を消した。
そして、短く送った。
佐伯さんが陽斗を見てくれていて、私も助かっています。
私もちゃんと陽斗を見ます。
既読はすぐについた。
返事は、少し遅れて来た。
はい。
俺も、気をつけます。
短い。
でも、そのあとにもう一通。
灯理さんは、大丈夫ですか。
胸が揺れた。
大丈夫。
その言葉を見て、私はいつものように「大丈夫です」と打ちそうになった。
でも、今日は止めた。
少し、考えています。
正直に送った。
陽斗のことですか。
すぐに返事が来た。
私は画面を見つめた。
陽斗のこと。
それもある。
でも、それだけではない。
尚さんのことも。
私のずるさも。
利月くんへの気持ちも。
全部が混ざっている。
陽斗のこともです。
それだけ送った。
全部は言えなかった。
少しして、利月くんから返事が来る。
話せる時でいいので、聞かせてください。
その言葉に、胸が少し締めつけられた。
聞かせてください。
そう言ってくれるのに、私は全部を渡せない。
「なんでも聞く」と言われた時ほど、どこまで話していいのか分からなくなる。
私はスマホを伏せた。
冬の夜が、静かに降りていた。
家に帰ると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「佐伯先生と話した?」
私はコートを脱ぐ手を止めた。
「なんで」
「今日、佐伯先生がちょっと静かだったから」
子どもは、本当に見ている。
「話したよ。陽斗のこと」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ何」
私はソファに座った。
「陽斗が、少し頑張って普通にしてるって」
陽斗は、ページをめくる手を止めた。
「佐伯先生、そう言ったの?」
「うん」
「先生、見すぎ」
「担任だからね」
「見すぎ」
陽斗は少し不満そうに言った。
でも本気で嫌そうではなかった。
「陽斗」
「なに」
「頑張って普通にしなくていいよ」
陽斗は本を閉じた。
「普通にしてるだけだよ」
「うん」
「でも、ちょっと考える」
「何を?」
陽斗は少しだけ視線を落とした。
「登坂先生が、お母さんの好きな人かもしれないって思うこと」
胸が痛む。
「うん」
「でも、学校では先生だから」
「うん」
「俺、そこ間違えたくない」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
陽斗は、ちゃんと線を引こうとしている。
十一歳の小さな手で、大人たちが曖昧にしてしまいそうな線を。
「ごめんね」
また謝ってしまった。
陽斗は眉を寄せる。
「だから、すぐ謝らない」
「ごめん」
「また謝った」
私は苦笑した。
陽斗は小さく息を吐く。
「俺、嫌じゃないよ」
「うん」
「でも、たまに変な感じになるだけ」
「うん」
「だから、それ言っただけ」
「分かった」
私は頷いた。
「言ってくれてありがとう」
陽斗は少し照れたように目を逸らした。
「別に」
その横顔を見ながら、私は思った。
尚さんが気づいたことは、やっぱり本当だった。
陽斗は、頑張っている。
でも、それをちゃんと言葉にできるなら、まだ大丈夫かもしれない。
私はその言葉を受け止める母でいたい。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
胸が跳ねた。
珍しく、彼の方から。
私は少し迷って、出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
言ってから、少しだけ笑った。
「これは本当に」
それなら、よかったです。
電話の向こうの声は、いつもより少し硬かった。
「どうしました?」
少し沈黙があった。
今日、佐伯と話しましたか。
私は息を止めた。
「はい」
陽斗のことで。
「はい」
それだけですか。
胸が、どくんと鳴った。
利月くんの声は、責めているわけではない。
でも、何かを感じ取っている。
私はすぐには答えられなかった。
すみません。
利月くんが先に謝った。
詰めたいわけじゃないです。
「うん」
でも、佐伯の様子が少し違ったので。
やっぱり。
利月くんも、見ていた。
尚さんがいつもより少し静かだったこと。
いつもの軽さの奥に、何かがあったこと。
「佐伯さんは」
私は言葉を選んだ。
「陽斗のことを、ちゃんと見てくれていました」
はい。
「それから、私にも、ちゃんと見るように言ってくれました」
はい。
そこで終わらせることもできた。
でも、電話の向こうで利月くんが黙って待っている。
その沈黙が、今夜は逃げ道ではなく、場所みたいだった。
私は目を閉じた。
「それから」
声が少し震える。
「佐伯さんも、少しだけ、男の人でした」
言った。
言ってしまった。
電話の向こうが、静かになった。
長い沈黙。
私はスマホを握る手に力を入れた。
「ごめんなさい」
謝らないでください。
利月くんの声は、低かった。
でも、怒ってはいなかった。
佐伯が、何か言ったんですね。
「はい」
灯理さんを困らせることですか。
「困らせるというか」
私は言葉を探した。
「私が、楽な方に逃げていたことを、ちゃんと見ていたんだと思います」
楽な方。
「尚さんとは、目を見て話せるから」
電話の向こうで、利月くんが小さく息を吸った気配がした。
「でも、それは、好きだからじゃなくて」
言いかけて、止まる。
違う。
それも少し違う。
尚さんに全く心が動かなかったわけじゃない。
救われていた。
甘えていた。
必要としていた。
でも、恋の真ん中は利月くんだった。
それを言葉にするのは、こんなにも難しい。
「利月くん」
初めて、電話でそう呼んだ。
少しだけ、彼の呼吸が止まった気がした。
「私は、尚さんに救われています」
はい。
「でも、会いたいのは利月くんです」
電話の向こうが、また静かになった。
今度の沈黙は、少しだけ熱を持っていた。
「楽なのは尚さんです」
私は続けた。
「でも、手を繋ぎたいと思うのは、利月くんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
電話でよかった。
目の前だったら、絶対に言えなかった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
佐伯に、嫉妬していいですか。
息が止まった。
「え」
すみません。
今のは、少し違います。
「違わないです」
自分でも驚くくらい、すぐに言った。
電話の向こうで、利月くんが黙る。
私は胸に手を当てた。
「違わないと思います」
……はい。
彼の声が、少しだけ掠れていた。
嫉妬しています。
その一言で、胸の奥が揺れた。
利月くんが、嫉妬。
いつも考えて、遠慮して、陽斗のことも学校のことも先に置く人が。
尚さんに、嫉妬している。
「利月くん」
はい。
「それ、少し嬉しいって言ったら、だめですか」
だめではないです。
「じゃあ、少し嬉しいです」
そうですか。
声が、ほんの少し柔らかくなった。
でもすぐに、利月くんは真面目な声に戻る。
でも、佐伯が陽斗を見てくれていることは、本当にありがたいと思っています。
「はい」
それと、灯理さんが佐伯に救われていることも、否定したくないです。
胸が痛くなる。
「うん」
でも。
彼はそこで一度止まった。
俺は、灯理さんが俺の前で息を止めることも、手を繋ぎたいと思ってくれることも、簡単に譲りたくはないです。
涙が、じわっと滲んだ。
「利月くん」
はい。
「そういうこと、もっと早く言ってください」
すみません。
「謝るところじゃないです」
電話の向こうで、少しだけ笑った気配がした。
その小さな笑い声に、私は救われる。
「尚さんに、言われました」
何をですか。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引くって」
電話の向こうが、静かになる。
「でも、泣かせるなら黙ってないって」
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
佐伯らしいですね。
「怒りました?」
少し。
「尚さんに?」
自分にです。
「自分に?」
佐伯にそう言わせたのは、俺が灯理さんを不安にさせているからだと思うので。
「違います」
違わないところもあります。
利月くんは、こういう時にごまかさない。
「俺は、言葉が遅いです」
「はい」
でも、遅いことを理由に、灯理さんを不安にさせ続けていいわけではないので。
その言葉が、胸に深く届く。
ちゃんとします。
静かな声だった。
でも、その静けさが強かった。
「ちゃんとって?」
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
心臓が跳ねた。
それから、佐伯に嫉妬していることも、顔に出さないようにします。
思わず笑ってしまった。
「そこは出してもいいです」
だめです。陽斗が見ます。
「確かに」
二人で少し笑った。
でも、笑いの奥に、確かに何かが変わっていた。
尚さんが一歩踏み込んだことで、利月くんも一歩踏み込んだ。
三角形の線が、少しだけ濃くなった。
痛い。
でも、物語が動いている。
「利月くん」
はい。
「私、ずるいです」
はい。
即答だった。
「そこは否定してほしかったです」
すみません。
「謝るところじゃないです」
でも、ずるいと思います。
胸が少し痛む。
でも、利月くんの声は責めていなかった。
佐伯に救われて、俺に会いたいと言うので。
「うん」
でも、それを言ってくれたので、俺はまだ大丈夫です。
「大丈夫?」
はい。
言えないままにされるより、ずっといいです。
涙がこぼれた。
「ありがとう」
はい。
「次、会えますか」
言ってしまった。
今夜は、言葉が止まらない。
会います。
返事は早かった。
迷いがなかった。
いつがいいですか。
私は目を閉じた。
嬉しくて、泣きそうだった。
「近いうち」
近いうち、だと灯理さんがまた不安になります。
「じゃあ」
私は少し笑った。
「明後日」
分かりました。
「いいんですか」
俺が聞きました。
また、心臓が鳴る。
「はい」
明後日、会いましょう。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを握っていた。
尚さんの言葉が残っている。
利月くんの声も残っている。
陽斗の「ちゃんと考えて」も残っている。
全部が、私の中にある。
どれも軽くない。
窓の外には、冬の月があった。
欠けている。
でも、なくなってはいない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの嫉妬も。
私のずるさも。
見えない場所に押し込めても、なくならない。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、言えない名前の形をしていた。
尚。
利月。
陽斗。
そして、私。
呼ぶたびに胸が痛む名前たちが、
冬の夜の中で静かに光っていた。
冬の風が、コートの裾を揺らす。
街灯の下で、吐く息が白くほどけた。
俺も、手くらい繋ぎたかったです。
冗談みたいな声だった。
でも、冗談ではなかった。
あの一言が、耳の奥に残っている。
尚さんはいつも軽い。
私が泣く前に笑えるように、先に冗談を置いてくれる。
陽斗のことも、私のことも、利月くんのことも、少し離れた場所からちゃんと見ている。
その人が、今日初めて、ほんの少しだけ自分の痛みを見せた。
俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ。
楽。
その言葉は、胸に残った。
たしかに、尚さんといると楽だった。
目を見て話せる。
冗談を返せる。
息を止めずに笑える。
でも。
利月くんの前では、何もかもうまくできなくなる。
目を見るだけで、胸がいっぱいになる。
返事が少し遅いだけで、不安になる。
手を繋いだだけで、眠れなくなる。
楽じゃない。
なのに、会いたい。
それが答えなのだと思った。
答えなのに、尚さんの背中が少し寂しく見えたことも、嘘ではなかった。
私はスマホを取り出した。
利月くんからのメッセージが、画面に残っている。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その言葉が、少しだけ痛かった。
ありがたい。
本当にそう。
尚さんが陽斗を見てくれていることも、私を現実に戻してくれることも、利月くんの不器用さを翻訳してくれることも。
ありがたい。
でも、それだけではなかった。
私は返信欄を開いた。
佐伯さんは、陽斗のことも私のこともよく見てくれています。
そこまで打って、止まった。
違う。
これは本当だけど、足りない。
尚さんが今日、男としても一歩踏み込んだこと。
私に「俺だったらもっと楽でした」と言ったこと。
「手くらい繋ぎたかった」と言ったこと。
それを利月くんに言うべきなのか。
言ったら、どうなるのだろう。
利月くんはきっと黙る。
怒るかもしれない。
いや、怒るより先に考え込むと思う。
そして、陽斗の担任である尚さんとの関係や、学校のことや、私の気持ちまで全部並べて、また遠くなるかもしれない。
それが怖かった。
私は一度打った文字を消した。
そして、短く送った。
佐伯さんが陽斗を見てくれていて、私も助かっています。
私もちゃんと陽斗を見ます。
既読はすぐについた。
返事は、少し遅れて来た。
はい。
俺も、気をつけます。
短い。
でも、そのあとにもう一通。
灯理さんは、大丈夫ですか。
胸が揺れた。
大丈夫。
その言葉を見て、私はいつものように「大丈夫です」と打ちそうになった。
でも、今日は止めた。
少し、考えています。
正直に送った。
陽斗のことですか。
すぐに返事が来た。
私は画面を見つめた。
陽斗のこと。
それもある。
でも、それだけではない。
尚さんのことも。
私のずるさも。
利月くんへの気持ちも。
全部が混ざっている。
陽斗のこともです。
それだけ送った。
全部は言えなかった。
少しして、利月くんから返事が来る。
話せる時でいいので、聞かせてください。
その言葉に、胸が少し締めつけられた。
聞かせてください。
そう言ってくれるのに、私は全部を渡せない。
「なんでも聞く」と言われた時ほど、どこまで話していいのか分からなくなる。
私はスマホを伏せた。
冬の夜が、静かに降りていた。
家に帰ると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「佐伯先生と話した?」
私はコートを脱ぐ手を止めた。
「なんで」
「今日、佐伯先生がちょっと静かだったから」
子どもは、本当に見ている。
「話したよ。陽斗のこと」
「俺、何かした?」
「してない」
「じゃあ何」
私はソファに座った。
「陽斗が、少し頑張って普通にしてるって」
陽斗は、ページをめくる手を止めた。
「佐伯先生、そう言ったの?」
「うん」
「先生、見すぎ」
「担任だからね」
「見すぎ」
陽斗は少し不満そうに言った。
でも本気で嫌そうではなかった。
「陽斗」
「なに」
「頑張って普通にしなくていいよ」
陽斗は本を閉じた。
「普通にしてるだけだよ」
「うん」
「でも、ちょっと考える」
「何を?」
陽斗は少しだけ視線を落とした。
「登坂先生が、お母さんの好きな人かもしれないって思うこと」
胸が痛む。
「うん」
「でも、学校では先生だから」
「うん」
「俺、そこ間違えたくない」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
陽斗は、ちゃんと線を引こうとしている。
十一歳の小さな手で、大人たちが曖昧にしてしまいそうな線を。
「ごめんね」
また謝ってしまった。
陽斗は眉を寄せる。
「だから、すぐ謝らない」
「ごめん」
「また謝った」
私は苦笑した。
陽斗は小さく息を吐く。
「俺、嫌じゃないよ」
「うん」
「でも、たまに変な感じになるだけ」
「うん」
「だから、それ言っただけ」
「分かった」
私は頷いた。
「言ってくれてありがとう」
陽斗は少し照れたように目を逸らした。
「別に」
その横顔を見ながら、私は思った。
尚さんが気づいたことは、やっぱり本当だった。
陽斗は、頑張っている。
でも、それをちゃんと言葉にできるなら、まだ大丈夫かもしれない。
私はその言葉を受け止める母でいたい。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
胸が跳ねた。
珍しく、彼の方から。
私は少し迷って、出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
言ってから、少しだけ笑った。
「これは本当に」
それなら、よかったです。
電話の向こうの声は、いつもより少し硬かった。
「どうしました?」
少し沈黙があった。
今日、佐伯と話しましたか。
私は息を止めた。
「はい」
陽斗のことで。
「はい」
それだけですか。
胸が、どくんと鳴った。
利月くんの声は、責めているわけではない。
でも、何かを感じ取っている。
私はすぐには答えられなかった。
すみません。
利月くんが先に謝った。
詰めたいわけじゃないです。
「うん」
でも、佐伯の様子が少し違ったので。
やっぱり。
利月くんも、見ていた。
尚さんがいつもより少し静かだったこと。
いつもの軽さの奥に、何かがあったこと。
「佐伯さんは」
私は言葉を選んだ。
「陽斗のことを、ちゃんと見てくれていました」
はい。
「それから、私にも、ちゃんと見るように言ってくれました」
はい。
そこで終わらせることもできた。
でも、電話の向こうで利月くんが黙って待っている。
その沈黙が、今夜は逃げ道ではなく、場所みたいだった。
私は目を閉じた。
「それから」
声が少し震える。
「佐伯さんも、少しだけ、男の人でした」
言った。
言ってしまった。
電話の向こうが、静かになった。
長い沈黙。
私はスマホを握る手に力を入れた。
「ごめんなさい」
謝らないでください。
利月くんの声は、低かった。
でも、怒ってはいなかった。
佐伯が、何か言ったんですね。
「はい」
灯理さんを困らせることですか。
「困らせるというか」
私は言葉を探した。
「私が、楽な方に逃げていたことを、ちゃんと見ていたんだと思います」
楽な方。
「尚さんとは、目を見て話せるから」
電話の向こうで、利月くんが小さく息を吸った気配がした。
「でも、それは、好きだからじゃなくて」
言いかけて、止まる。
違う。
それも少し違う。
尚さんに全く心が動かなかったわけじゃない。
救われていた。
甘えていた。
必要としていた。
でも、恋の真ん中は利月くんだった。
それを言葉にするのは、こんなにも難しい。
「利月くん」
初めて、電話でそう呼んだ。
少しだけ、彼の呼吸が止まった気がした。
「私は、尚さんに救われています」
はい。
「でも、会いたいのは利月くんです」
電話の向こうが、また静かになった。
今度の沈黙は、少しだけ熱を持っていた。
「楽なのは尚さんです」
私は続けた。
「でも、手を繋ぎたいと思うのは、利月くんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
電話でよかった。
目の前だったら、絶対に言えなかった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
佐伯に、嫉妬していいですか。
息が止まった。
「え」
すみません。
今のは、少し違います。
「違わないです」
自分でも驚くくらい、すぐに言った。
電話の向こうで、利月くんが黙る。
私は胸に手を当てた。
「違わないと思います」
……はい。
彼の声が、少しだけ掠れていた。
嫉妬しています。
その一言で、胸の奥が揺れた。
利月くんが、嫉妬。
いつも考えて、遠慮して、陽斗のことも学校のことも先に置く人が。
尚さんに、嫉妬している。
「利月くん」
はい。
「それ、少し嬉しいって言ったら、だめですか」
だめではないです。
「じゃあ、少し嬉しいです」
そうですか。
声が、ほんの少し柔らかくなった。
でもすぐに、利月くんは真面目な声に戻る。
でも、佐伯が陽斗を見てくれていることは、本当にありがたいと思っています。
「はい」
それと、灯理さんが佐伯に救われていることも、否定したくないです。
胸が痛くなる。
「うん」
でも。
彼はそこで一度止まった。
俺は、灯理さんが俺の前で息を止めることも、手を繋ぎたいと思ってくれることも、簡単に譲りたくはないです。
涙が、じわっと滲んだ。
「利月くん」
はい。
「そういうこと、もっと早く言ってください」
すみません。
「謝るところじゃないです」
電話の向こうで、少しだけ笑った気配がした。
その小さな笑い声に、私は救われる。
「尚さんに、言われました」
何をですか。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引くって」
電話の向こうが、静かになる。
「でも、泣かせるなら黙ってないって」
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
佐伯らしいですね。
「怒りました?」
少し。
「尚さんに?」
自分にです。
「自分に?」
佐伯にそう言わせたのは、俺が灯理さんを不安にさせているからだと思うので。
「違います」
違わないところもあります。
利月くんは、こういう時にごまかさない。
「俺は、言葉が遅いです」
「はい」
でも、遅いことを理由に、灯理さんを不安にさせ続けていいわけではないので。
その言葉が、胸に深く届く。
ちゃんとします。
静かな声だった。
でも、その静けさが強かった。
「ちゃんとって?」
次に会った時、ちゃんと手を繋ぎます。
心臓が跳ねた。
それから、佐伯に嫉妬していることも、顔に出さないようにします。
思わず笑ってしまった。
「そこは出してもいいです」
だめです。陽斗が見ます。
「確かに」
二人で少し笑った。
でも、笑いの奥に、確かに何かが変わっていた。
尚さんが一歩踏み込んだことで、利月くんも一歩踏み込んだ。
三角形の線が、少しだけ濃くなった。
痛い。
でも、物語が動いている。
「利月くん」
はい。
「私、ずるいです」
はい。
即答だった。
「そこは否定してほしかったです」
すみません。
「謝るところじゃないです」
でも、ずるいと思います。
胸が少し痛む。
でも、利月くんの声は責めていなかった。
佐伯に救われて、俺に会いたいと言うので。
「うん」
でも、それを言ってくれたので、俺はまだ大丈夫です。
「大丈夫?」
はい。
言えないままにされるより、ずっといいです。
涙がこぼれた。
「ありがとう」
はい。
「次、会えますか」
言ってしまった。
今夜は、言葉が止まらない。
会います。
返事は早かった。
迷いがなかった。
いつがいいですか。
私は目を閉じた。
嬉しくて、泣きそうだった。
「近いうち」
近いうち、だと灯理さんがまた不安になります。
「じゃあ」
私は少し笑った。
「明後日」
分かりました。
「いいんですか」
俺が聞きました。
また、心臓が鳴る。
「はい」
明後日、会いましょう。
電話を切ったあと、私はしばらくスマホを握っていた。
尚さんの言葉が残っている。
利月くんの声も残っている。
陽斗の「ちゃんと考えて」も残っている。
全部が、私の中にある。
どれも軽くない。
窓の外には、冬の月があった。
欠けている。
でも、なくなってはいない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの嫉妬も。
私のずるさも。
見えない場所に押し込めても、なくならない。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、言えない名前の形をしていた。
尚。
利月。
陽斗。
そして、私。
呼ぶたびに胸が痛む名前たちが、
冬の夜の中で静かに光っていた。

