手を繋いだ翌日、陽斗はいつもより少し静かだった。
それは、私には分からなかった。
朝は普通だった。
「行ってきます」と言って、靴を履いて、鞄を背負って、少しだけ眠そうな顔で家を出た。
昨日のことも、ちゃんと話した。
手を繋いだこと。
楽しかったこと。
ちゃんと帰ってきたこと。
陽斗は「小学生みたい」と笑った。
それから、「ちゃんと考えて」と言った。
だから、私は大丈夫だと思っていた。
けれど、学校での陽斗を見ているのは、私ではない。
佐伯尚さんだった。
昼休みのあと、尚さんからメッセージが来た。
陽斗、今日は普通です。
でも、少し頑張って普通にしてます。
私はその文章を何度も読んだ。
普通。
頑張って普通。
その二つは、全然違う。
胸の奥が冷える。
私のせいですよね。
送ると、既読はすぐについた。
返事もすぐだった。
全部自分のせいにするの、灯理さんの悪い癖です。
私はスマホを握ったまま、何も返せなかった。
そのあと、もう一通。
今日、少し話せますか。
担任として。
担任として。
その言葉に、私は少しだけ身構えた。
尚さんが「担任として」と言う時は、たいてい逃げ道をふさいでくる。
夕方、会社を少し早く抜けて、学校近くの小さな喫茶店に向かった。
学校の敷地内ではない。
でも、近すぎる場所でもない。
尚さんが選んだ店だった。
中に入ると、尚さんはすでに奥の席に座っていた。
スーツの上着を椅子にかけ、手元にはコーヒー。
私に気づくと、いつもの調子で片手を上げた。
「お疲れさまです、社長」
「その呼び方、今日は重いです」
「じゃあ灯理さん」
胸が少しだけ揺れる。
尚さんは、私を灯理さんと呼ぶ時と、社長と呼ぶ時の使い分けがうまい。
近づきすぎないように。
でも、遠くもしすぎないように。
そういう人だ。
「陽斗、何かありましたか」
席につくなり聞くと、尚さんは少しだけ眉を上げた。
「早いですね」
「心配なので」
「ですよね」
尚さんはコーヒーを置いた。
「大きな問題はないです。友達とも話してるし、授業も普通。忘れ物も今日は少なめ」
「それは奇跡ですね」
「奇跡です」
少しだけ笑いが起きる。
でも、すぐに尚さんの表情が真面目になる。
「ただ、いつもより周りを見てます」
胸が痛む。
「周りを?」
「はい。俺の顔も、登坂の顔も。あと、教室の空気も」
私は唇を結んだ。
「やっぱり、私のせい」
「だから、それを今すぐ全部自分のせいにしない」
尚さんの声は少しだけ強かった。
「陽斗は賢いです。大人が思っているよりずっと見てる。だから、変化に気づくのは自然です」
「でも」
「でも、見てください」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「陽斗が“いい子”になりすぎてる時は」
その言葉が、胸の真ん中に刺さった。
いい子。
私はその言葉が少し怖い。
陽斗は優しい。
空気を読む。
私が疲れていると、先に水を持ってくる。
それをずっと、いい子だと思っていた。
でも、それが我慢だったとしたら。
私は何を見落としてきたのだろう。
「灯理さんが恋をするのは、悪いことじゃないです」
尚さんが言った。
その言い方が、思ったより静かだった。
「でも、陽斗が“自分が大人になればいい”って思いすぎないようには、見てください」
私は頷いた。
「はい」
「そこは、登坂にも言いました」
「利月くんに?」
名前が自然に出た。
尚さんの目が、一瞬だけ揺れた気がした。
でも、すぐいつもの顔に戻る。
「はい。あいつにも言いました。陽斗を見る時に、灯理さんの息子として見すぎるなって」
「……ありがとうございます」
「俺は陽斗の担任なので」
いつもの言葉。
でも今日は、少し違って聞こえた。
担任だから。
それは本当。
でも、それだけではない気がした。
尚さんは、私を困らせないように、ずっと自分の立場をその言葉にしまっている。
ふと、そう思った。
「佐伯さん」
「はい」
「いつも、その言葉で逃げてませんか」
言った瞬間、自分でも驚いた。
尚さんも少しだけ目を開いた。
「俺が?」
「はい」
「灯理さんに言われます?」
「私も逃げてばかりなので」
尚さんは、少し間を置いて笑った。
「敵わないな」
その声が、いつもより少し低かった。
「逃げてますよ」
静かに言った。
私は何も言えなくなる。
尚さんは、コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「担任として、って言えば、俺が何を言っても線を越えすぎないで済むので」
心臓が小さく鳴った。
尚さんは笑っていた。
でも、その目は少しも笑っていなかった。
「でも、ひとつだけ言っていいですか」
「……はい」
「俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ」
息が止まった。
喫茶店の音が、遠くなる。
カップの音。
店員さんの足音。
外を通る車の音。
全部が薄くなった。
尚さんは、私を見ていた。
「灯理さん、俺とは目を見て話せるし、冗談も言えるし、泣く前に笑える」
私は何も返せなかった。
「でも、登坂の前だと、笑う前に息を止めるんですよね」
胸の奥を、そっと押されたようだった。
その通りだった。
利月くんの前では、私はうまく笑えない。
目を見ようとするだけで胸がいっぱいになる。
声が震えそうになる。
だから尚さんに逃げていた。
「俺、けっこう頑張ったつもりだったんですけどね」
尚さんは軽く笑った。
軽い声。
でも、その軽さが少しだけ痛かった。
「佐伯さん」
名前を呼んだだけで、続きが出てこなかった。
尚さんは先に手を上げた。
「すみません。今の、担任じゃなくて男の方で言いました」
胸が締めつけられる。
男の方。
その言葉を、私はどう受け止めればいいのか分からなかった。
尚さんは、ずっと近くにいた。
私が利月くんの目を見られない時、話しやすい方へ逃げる場所にいてくれた。
陽斗のことも見てくれた。
利月くんの不器用さを、何度も翻訳してくれた。
でもそれは、ただの優しさではなかったのかもしれない。
「困らせたいわけじゃないです」
尚さんは言った。
「でも、何も言わないでいい人ぶるほど、俺もできた人間じゃないので」
その声に、初めて尚さんの痛みが見えた気がした。
いつも笑っている人。
軽く話して、場を和ませて、相手が逃げやすい出口を作る人。
でもその人にも、出口が必要だったのだと思った。
「私」
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
謝るのは違う気がした。
ありがとうも違う。
嬉しいと言うのも、残酷な気がした。
尚さんは、そんな私を見て、少しだけ笑った。
「ほら。灯理さん、そういう時は俺にもちゃんと言葉なくすんですね」
「……ごめんなさい」
結局、謝ってしまった。
尚さんは肩をすくめる。
「謝るところじゃないです」
それは、利月くんによく言っていた言葉だった。
尚さんの口から聞くと、少しだけ胸が痛んだ。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引きます」
尚さんは言った。
「でも、あいつが灯理さんを泣かせるなら、俺は黙ってないです」
その言葉は、優しい脅しみたいだった。
「陽斗の担任として?」
私が聞くと、尚さんは少し笑った。
「それもあります」
「それ以外も?」
「あります」
まっすぐな答え。
私は目を伏せた。
尚さんは、今日、ちゃんと一歩踏み込んだ。
私を奪いに来たわけじゃない。
でも、自分の存在を私の前に置いた。
俺もここにいる、と。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、登坂に負けたとはまだ言いません」
心臓が跳ねる。
尚さんは笑っていた。
今度は、少しだけいつもの顔だった。
「言ったら、本当に終わるので」
「佐伯さん」
「でも、登坂の方を見てる灯理さんを無理にこっち向かせるほど、雑な男でもないです」
その言葉に、胸が痛くなる。
尚さんは、優しい。
でも、ただの優しさではない。
ちゃんと悔しさもある。
それが、彼を急に生きた人にした。
「だから、今は」
尚さんはコーヒーを飲み干した。
「陽斗の担任として、灯理さんの味方でいます」
「今は?」
「今は」
その余白が怖かった。
でも、どこかで少しだけ安心もした。
尚さんが自分の気持ちをなかったことにしなかったから。
「ありがとうございます」
私はやっと言えた。
尚さんは、ふっと笑った。
「それは、担任の方にですか。男の方にですか」
困った。
本当に困った。
「両方です」
正直に言うと、尚さんは少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「そういうところですよ、灯理さん」
「え?」
「ずるい」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
私はずるい。
利月くんを好きなのに、尚さんの優しさに救われている。
尚さんがいてくれることで、何度も息をしている。
それを分かっていて、手放せないでいる。
「ずるいですよね」
私が言うと、尚さんは首を横に振った。
「今のは、責めてないです」
「でも」
「ずるいくらい、人に入ってくるって意味です」
尚さんの声が少しやわらかくなる。
「だから登坂も、あんなに考え込んでるんでしょうね」
私は何も言えなかった。
尚さんは立ち上がった。
「陽斗のことは、ちゃんと見ます」
「はい」
「でも、灯理さんも見てください。陽斗が普通にしている時ほど」
「はい」
「それから」
「はい」
「登坂に、今日俺と会ったことは言っていいです」
私は顔を上げた。
「いいんですか」
「隠すと面倒になるので」
「そうですね」
「俺の気持ちまで言うかは、灯理さんに任せます」
それは、少し難しい宿題だった。
尚さんは伝票を手に取る。
「払います」
「だめです」
「今日は担任として呼んだので」
「会社の社長として来ました」
「そこ張り合います?」
「張り合います」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
結局、伝票は半分ずつにした。
店を出ると、冬の風が冷たかった。
尚さんはコートの襟を直しながら言った。
「灯理さん」
「はい」
「登坂と手、繋いだんですか」
心臓が飛び跳ねた。
「なんで」
「陽斗の顔で分かりました」
先生って怖い。
本当に怖い。
私は観念して頷いた。
「はい」
尚さんは、少しだけ空を見上げた。
「そっか」
その声は、軽かった。
でも、軽すぎた。
「佐伯さん」
「はい」
「ごめんなさい」
尚さんは、こちらを見た。
「謝るところじゃないです」
また、その言葉。
でも今度は少しだけ笑っていた。
「ただ」
「はい」
「俺も、手くらい繋ぎたかったです」
その一言は、冗談みたいに落ちた。
でも、冗談ではなかった。
私は息を止めた。
尚さんはすぐに笑った。
「今のは忘れてください」
忘れられるわけがない。
「忘れられません」
「じゃあ、覚えててください」
尚さんは、冬の空気の中で少しだけ肩をすくめた。
「俺も、ちゃんと男だったって」
その言葉を残して、尚さんは駅の方へ歩いていった。
私はその背中を、しばらく見ていた。
軽い人。
明るい人。
逃げ場みたいな人。
でも、その背中は少しだけ寂しかった。
家に帰る途中、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日は、陽斗は普通でしたか。
私は画面を見つめた。
すぐには返せなかった。
尚さんと会ったこと。
言われた言葉。
男の方で言いました、という声。
俺も、手くらい繋ぎたかったです、という冗談みたいな本音。
全部が、胸の中で揺れていた。
私は正直に打った。
今日、佐伯さんと話しました。
陽斗のことで。
送信。
少しして既読がつく。
返事は、いつもより早かった。
そうですか。
短い。
でも、その短さに少しだけ緊張が混じっている気がした。
私は続けて打った。
陽斗が少し頑張って普通にしている、と教えてくれました。
私も、ちゃんと見ます。
利月くんから、しばらく返事はなかった。
きっと考えている。
やがて、返事が来た。
俺も気をつけます。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その文章を見て、胸が少し苦しくなった。
利月くんはまだ知らない。
尚さんが、担任としてだけではなく、男としても一歩踏み込んだことを。
言うべきなのか。
今はまだ、分からなかった。
窓の外には、冬の月が浮かんでいた。
欠けていても、そこにある月。
見えない気持ちも、なくなっているわけじゃない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの不安も。
陽斗の小さな頑張りも。
私のずるさも。
全部、そこにある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、尚さんの目の形をしていた。
明るく笑って、
でも本当は少し痛くて、
それでも誰かをちゃんと見ている目。
三角形の、もうひとつの角に灯る鍵だった。
それは、私には分からなかった。
朝は普通だった。
「行ってきます」と言って、靴を履いて、鞄を背負って、少しだけ眠そうな顔で家を出た。
昨日のことも、ちゃんと話した。
手を繋いだこと。
楽しかったこと。
ちゃんと帰ってきたこと。
陽斗は「小学生みたい」と笑った。
それから、「ちゃんと考えて」と言った。
だから、私は大丈夫だと思っていた。
けれど、学校での陽斗を見ているのは、私ではない。
佐伯尚さんだった。
昼休みのあと、尚さんからメッセージが来た。
陽斗、今日は普通です。
でも、少し頑張って普通にしてます。
私はその文章を何度も読んだ。
普通。
頑張って普通。
その二つは、全然違う。
胸の奥が冷える。
私のせいですよね。
送ると、既読はすぐについた。
返事もすぐだった。
全部自分のせいにするの、灯理さんの悪い癖です。
私はスマホを握ったまま、何も返せなかった。
そのあと、もう一通。
今日、少し話せますか。
担任として。
担任として。
その言葉に、私は少しだけ身構えた。
尚さんが「担任として」と言う時は、たいてい逃げ道をふさいでくる。
夕方、会社を少し早く抜けて、学校近くの小さな喫茶店に向かった。
学校の敷地内ではない。
でも、近すぎる場所でもない。
尚さんが選んだ店だった。
中に入ると、尚さんはすでに奥の席に座っていた。
スーツの上着を椅子にかけ、手元にはコーヒー。
私に気づくと、いつもの調子で片手を上げた。
「お疲れさまです、社長」
「その呼び方、今日は重いです」
「じゃあ灯理さん」
胸が少しだけ揺れる。
尚さんは、私を灯理さんと呼ぶ時と、社長と呼ぶ時の使い分けがうまい。
近づきすぎないように。
でも、遠くもしすぎないように。
そういう人だ。
「陽斗、何かありましたか」
席につくなり聞くと、尚さんは少しだけ眉を上げた。
「早いですね」
「心配なので」
「ですよね」
尚さんはコーヒーを置いた。
「大きな問題はないです。友達とも話してるし、授業も普通。忘れ物も今日は少なめ」
「それは奇跡ですね」
「奇跡です」
少しだけ笑いが起きる。
でも、すぐに尚さんの表情が真面目になる。
「ただ、いつもより周りを見てます」
胸が痛む。
「周りを?」
「はい。俺の顔も、登坂の顔も。あと、教室の空気も」
私は唇を結んだ。
「やっぱり、私のせい」
「だから、それを今すぐ全部自分のせいにしない」
尚さんの声は少しだけ強かった。
「陽斗は賢いです。大人が思っているよりずっと見てる。だから、変化に気づくのは自然です」
「でも」
「でも、見てください」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「陽斗が“いい子”になりすぎてる時は」
その言葉が、胸の真ん中に刺さった。
いい子。
私はその言葉が少し怖い。
陽斗は優しい。
空気を読む。
私が疲れていると、先に水を持ってくる。
それをずっと、いい子だと思っていた。
でも、それが我慢だったとしたら。
私は何を見落としてきたのだろう。
「灯理さんが恋をするのは、悪いことじゃないです」
尚さんが言った。
その言い方が、思ったより静かだった。
「でも、陽斗が“自分が大人になればいい”って思いすぎないようには、見てください」
私は頷いた。
「はい」
「そこは、登坂にも言いました」
「利月くんに?」
名前が自然に出た。
尚さんの目が、一瞬だけ揺れた気がした。
でも、すぐいつもの顔に戻る。
「はい。あいつにも言いました。陽斗を見る時に、灯理さんの息子として見すぎるなって」
「……ありがとうございます」
「俺は陽斗の担任なので」
いつもの言葉。
でも今日は、少し違って聞こえた。
担任だから。
それは本当。
でも、それだけではない気がした。
尚さんは、私を困らせないように、ずっと自分の立場をその言葉にしまっている。
ふと、そう思った。
「佐伯さん」
「はい」
「いつも、その言葉で逃げてませんか」
言った瞬間、自分でも驚いた。
尚さんも少しだけ目を開いた。
「俺が?」
「はい」
「灯理さんに言われます?」
「私も逃げてばかりなので」
尚さんは、少し間を置いて笑った。
「敵わないな」
その声が、いつもより少し低かった。
「逃げてますよ」
静かに言った。
私は何も言えなくなる。
尚さんは、コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「担任として、って言えば、俺が何を言っても線を越えすぎないで済むので」
心臓が小さく鳴った。
尚さんは笑っていた。
でも、その目は少しも笑っていなかった。
「でも、ひとつだけ言っていいですか」
「……はい」
「俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ」
息が止まった。
喫茶店の音が、遠くなる。
カップの音。
店員さんの足音。
外を通る車の音。
全部が薄くなった。
尚さんは、私を見ていた。
「灯理さん、俺とは目を見て話せるし、冗談も言えるし、泣く前に笑える」
私は何も返せなかった。
「でも、登坂の前だと、笑う前に息を止めるんですよね」
胸の奥を、そっと押されたようだった。
その通りだった。
利月くんの前では、私はうまく笑えない。
目を見ようとするだけで胸がいっぱいになる。
声が震えそうになる。
だから尚さんに逃げていた。
「俺、けっこう頑張ったつもりだったんですけどね」
尚さんは軽く笑った。
軽い声。
でも、その軽さが少しだけ痛かった。
「佐伯さん」
名前を呼んだだけで、続きが出てこなかった。
尚さんは先に手を上げた。
「すみません。今の、担任じゃなくて男の方で言いました」
胸が締めつけられる。
男の方。
その言葉を、私はどう受け止めればいいのか分からなかった。
尚さんは、ずっと近くにいた。
私が利月くんの目を見られない時、話しやすい方へ逃げる場所にいてくれた。
陽斗のことも見てくれた。
利月くんの不器用さを、何度も翻訳してくれた。
でもそれは、ただの優しさではなかったのかもしれない。
「困らせたいわけじゃないです」
尚さんは言った。
「でも、何も言わないでいい人ぶるほど、俺もできた人間じゃないので」
その声に、初めて尚さんの痛みが見えた気がした。
いつも笑っている人。
軽く話して、場を和ませて、相手が逃げやすい出口を作る人。
でもその人にも、出口が必要だったのだと思った。
「私」
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
謝るのは違う気がした。
ありがとうも違う。
嬉しいと言うのも、残酷な気がした。
尚さんは、そんな私を見て、少しだけ笑った。
「ほら。灯理さん、そういう時は俺にもちゃんと言葉なくすんですね」
「……ごめんなさい」
結局、謝ってしまった。
尚さんは肩をすくめる。
「謝るところじゃないです」
それは、利月くんによく言っていた言葉だった。
尚さんの口から聞くと、少しだけ胸が痛んだ。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引きます」
尚さんは言った。
「でも、あいつが灯理さんを泣かせるなら、俺は黙ってないです」
その言葉は、優しい脅しみたいだった。
「陽斗の担任として?」
私が聞くと、尚さんは少し笑った。
「それもあります」
「それ以外も?」
「あります」
まっすぐな答え。
私は目を伏せた。
尚さんは、今日、ちゃんと一歩踏み込んだ。
私を奪いに来たわけじゃない。
でも、自分の存在を私の前に置いた。
俺もここにいる、と。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、登坂に負けたとはまだ言いません」
心臓が跳ねる。
尚さんは笑っていた。
今度は、少しだけいつもの顔だった。
「言ったら、本当に終わるので」
「佐伯さん」
「でも、登坂の方を見てる灯理さんを無理にこっち向かせるほど、雑な男でもないです」
その言葉に、胸が痛くなる。
尚さんは、優しい。
でも、ただの優しさではない。
ちゃんと悔しさもある。
それが、彼を急に生きた人にした。
「だから、今は」
尚さんはコーヒーを飲み干した。
「陽斗の担任として、灯理さんの味方でいます」
「今は?」
「今は」
その余白が怖かった。
でも、どこかで少しだけ安心もした。
尚さんが自分の気持ちをなかったことにしなかったから。
「ありがとうございます」
私はやっと言えた。
尚さんは、ふっと笑った。
「それは、担任の方にですか。男の方にですか」
困った。
本当に困った。
「両方です」
正直に言うと、尚さんは少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「そういうところですよ、灯理さん」
「え?」
「ずるい」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
私はずるい。
利月くんを好きなのに、尚さんの優しさに救われている。
尚さんがいてくれることで、何度も息をしている。
それを分かっていて、手放せないでいる。
「ずるいですよね」
私が言うと、尚さんは首を横に振った。
「今のは、責めてないです」
「でも」
「ずるいくらい、人に入ってくるって意味です」
尚さんの声が少しやわらかくなる。
「だから登坂も、あんなに考え込んでるんでしょうね」
私は何も言えなかった。
尚さんは立ち上がった。
「陽斗のことは、ちゃんと見ます」
「はい」
「でも、灯理さんも見てください。陽斗が普通にしている時ほど」
「はい」
「それから」
「はい」
「登坂に、今日俺と会ったことは言っていいです」
私は顔を上げた。
「いいんですか」
「隠すと面倒になるので」
「そうですね」
「俺の気持ちまで言うかは、灯理さんに任せます」
それは、少し難しい宿題だった。
尚さんは伝票を手に取る。
「払います」
「だめです」
「今日は担任として呼んだので」
「会社の社長として来ました」
「そこ張り合います?」
「張り合います」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
結局、伝票は半分ずつにした。
店を出ると、冬の風が冷たかった。
尚さんはコートの襟を直しながら言った。
「灯理さん」
「はい」
「登坂と手、繋いだんですか」
心臓が飛び跳ねた。
「なんで」
「陽斗の顔で分かりました」
先生って怖い。
本当に怖い。
私は観念して頷いた。
「はい」
尚さんは、少しだけ空を見上げた。
「そっか」
その声は、軽かった。
でも、軽すぎた。
「佐伯さん」
「はい」
「ごめんなさい」
尚さんは、こちらを見た。
「謝るところじゃないです」
また、その言葉。
でも今度は少しだけ笑っていた。
「ただ」
「はい」
「俺も、手くらい繋ぎたかったです」
その一言は、冗談みたいに落ちた。
でも、冗談ではなかった。
私は息を止めた。
尚さんはすぐに笑った。
「今のは忘れてください」
忘れられるわけがない。
「忘れられません」
「じゃあ、覚えててください」
尚さんは、冬の空気の中で少しだけ肩をすくめた。
「俺も、ちゃんと男だったって」
その言葉を残して、尚さんは駅の方へ歩いていった。
私はその背中を、しばらく見ていた。
軽い人。
明るい人。
逃げ場みたいな人。
でも、その背中は少しだけ寂しかった。
家に帰る途中、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日は、陽斗は普通でしたか。
私は画面を見つめた。
すぐには返せなかった。
尚さんと会ったこと。
言われた言葉。
男の方で言いました、という声。
俺も、手くらい繋ぎたかったです、という冗談みたいな本音。
全部が、胸の中で揺れていた。
私は正直に打った。
今日、佐伯さんと話しました。
陽斗のことで。
送信。
少しして既読がつく。
返事は、いつもより早かった。
そうですか。
短い。
でも、その短さに少しだけ緊張が混じっている気がした。
私は続けて打った。
陽斗が少し頑張って普通にしている、と教えてくれました。
私も、ちゃんと見ます。
利月くんから、しばらく返事はなかった。
きっと考えている。
やがて、返事が来た。
俺も気をつけます。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その文章を見て、胸が少し苦しくなった。
利月くんはまだ知らない。
尚さんが、担任としてだけではなく、男としても一歩踏み込んだことを。
言うべきなのか。
今はまだ、分からなかった。
窓の外には、冬の月が浮かんでいた。
欠けていても、そこにある月。
見えない気持ちも、なくなっているわけじゃない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの不安も。
陽斗の小さな頑張りも。
私のずるさも。
全部、そこにある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、尚さんの目の形をしていた。
明るく笑って、
でも本当は少し痛くて、
それでも誰かをちゃんと見ている目。
三角形の、もうひとつの角に灯る鍵だった。

