手を離したあとも、温度は残っていた。
不思議だった。
もう繋いでいないのに。
もう隣にはいないのに。
家に帰って、コートを脱いで、陽斗に「楽しかった」と話して、いつもの部屋に戻ったあとも。
手のひらだけが、まだ冬の遊歩道にいた。
利月くんの手は、思っていたより温かかった。
強引ではなくて、でも頼りなくもなくて。
いつでも離せるようにしてくれているのに、私が少し握り返すと、ちゃんとそこにいてくれる手だった。
次は、転ばなくても繋いでいいですか。
あのメッセージを見た瞬間、私はスマホを落としかけた。
それから何度も読み返した。
転ばなくても。
つまり、理由がなくても。
私はベッドの上で、手のひらを見つめた。
大人なのに。
社長なのに。
陽斗の母なのに。
手を繋いだだけで、こんなに眠れなくなるなんて思わなかった。
「お母さん」
翌朝、陽斗が食卓で私を見るなり言った。
「寝てないでしょ」
「寝たよ」
「目が寝てない」
「目が?」
「うん。あと、にやにやしてる」
私はカップを持つ手を止めた。
「してない」
「してる」
「してない」
「してるってば」
陽斗はトーストをかじりながら、じっと私を見た。
「昨日、ほんとに歩いただけ?」
心臓が跳ねた。
「歩いただけ」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
陽斗は目を細める。
「その顔、絶対なんかあった」
「なんかって何」
「知らないけど」
「知らないなら言わない」
「大人ってずるい」
私は言葉に詰まった。
ずるい。
たしかに、そうかもしれない。
全部は言えない。
でも、嘘はつきたくない。
その境目で、私はいつも少しだけずるくなる。
「陽斗」
「なに」
「昨日ね」
言いかけて、止まった。
手を繋いだ。
それを言うべきなのか。
言わない方がいいのか。
陽斗にとって利月くんは先生だ。
そこは守らなければならない。
でも、陽斗はもう私が利月くんに会っていることを知っている。
そして、嘘は嫌だと言った。
私は深く息を吸った。
「少しだけ、手を繋いだ」
言った瞬間、顔が熱くなった。
陽斗は、トーストを持ったまま固まった。
「え」
「え、って何」
「お母さんが?」
「そう」
「登坂先生と?」
「うん」
陽斗はしばらく黙った。
その沈黙が怖かった。
でも、私は逃げなかった。
やがて陽斗は、ぽつりと言った。
「小学生みたい」
私はテーブルに突っ伏しそうになった。
「それ言う?」
「だって、手繋いだだけでその顔でしょ」
「その顔って何」
「にやにやと泣きそうが混ざってる」
「そんな顔してる?」
「してる」
陽斗は少しだけ笑った。
怒ってはいない。
嫌そうでもない。
でも、考えている顔だった。
「嫌だった?」
私が聞くと、陽斗はすぐには答えなかった。
それから、トーストを皿に置いた。
「嫌っていうか」
「うん」
「変な感じ」
胸が少し痛む。
「そうだよね」
「登坂先生は先生だから」
「うん」
「でも、お母さんの好きな人でもあるんでしょ」
その言葉に、息が止まった。
好きな人。
陽斗の口から、その言葉を聞くと、胸の奥が変なふうに震えた。
「……うん」
私は頷いた。
「好きな人」
陽斗は、ふうん、と言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「先生は学校では先生でいてくれるんだよね」
「うん」
「俺にも普通にするんだよね」
「うん」
「じゃあ、まあ」
陽斗はまたトーストを持った。
「いいんじゃない」
あまりにもあっさりしていて、私は少し驚いた。
「いいの?」
「だって、俺がダメって言ったらやめるの?」
痛いところを突かれた。
すぐに答えられない。
陽斗はそれを見て、少しだけ大人みたいに笑った。
「ほら」
「でも、陽斗が本当に嫌なら、ちゃんと考える」
「考えるって、やめるとは違うじゃん」
「うん」
「なら、ちゃんと考えて」
その言葉は、子どものわがままではなかった。
むしろ、私よりずっと冷静な言葉だった。
「俺も、ちゃんと考える」
胸が痛かった。
こんなふうに言わせてしまうことが。
でも、少しだけ救われてもいた。
陽斗は、私を拒絶していない。
利月くんを拒絶していない。
ただ、ちゃんと考えてと言っている。
「分かった」
私は頷いた。
「ちゃんと考える」
陽斗は満足したように頷き、それから急に言った。
「でも学校で手繋いだらやだ」
「繋がないよ」
「廊下でとか絶対やめて」
「しないって」
「図書室もなし」
「しません」
「佐伯先生に見られたら終わる」
思わず笑ってしまった。
「尚さん、もう知ってるけどね」
「知ってても見られたら終わる」
「確かに」
陽斗も少し笑った。
その笑いで、張りつめていた空気がほどけた。
朝の光が、テーブルに落ちている。
冬の朝は冷たいけれど、今日の部屋は少しだけ温かかった。
会社に着くと、私はすぐに利月くんへメッセージを送った。
今朝、陽斗に少し話しました。
手を繋いだこと。
送ったあとで、心臓が鳴る。
重かっただろうか。
でも、隠したくなかった。
利月くんからの返事は、昼前に来た。
話してくれたんですね。
ありがとうございます。
そのあとに、もう一通。
陽斗は、どうでしたか。
私は少し考えてから返した。
小学生みたいって言われました。
既読。
少しして、
それは、少し分かります。
私は吹き出しそうになった。
分かるんですか?
はい。
俺も、昨日から少し落ち着かないので。
胸が跳ねた。
利月くんも。
昨日から落ち着かなかった。
その事実だけで、手のひらにまた温度が戻った気がした。
登坂さんも?
はい。
手を繋いだだけなのに?
少し意地悪だったかもしれない。
返事は、しばらく来なかった。
やがて届いた。
だけ、ではなかったです。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
だけ、ではなかった。
利月くんにとっても、あれはちゃんと特別だったのだ。
私は泣きそうになりながら、ゆっくり返す。
私もです。
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
よかったです。
それだけ。
でも、十分だった。
夕方、陽斗が学校から帰ってきた。
いつも通り、玄関で靴を脱ぎながら言う。
「ただいま」
「おかえり」
「今日、登坂先生ふつうだった」
その報告が最近の定番になっている。
「そっか」
「でも、ちょっと手見た」
私は固まった。
「手?」
「俺の手じゃなくて、自分の手」
「自分の?」
「うん。なんか見てた」
陽斗は鞄を置きながら、少しだけにやっとした。
「お母さんと一緒じゃん」
顔が熱くなる。
「陽斗」
「なに」
「それ、登坂先生に言わないで」
「言わないよ。俺そんなに子どもじゃないし」
「子どもです」
「でも空気は読む」
「読まなくていい空気もある」
陽斗は笑った。
「登坂先生、今日も返却日言ってきた」
「普通だね」
「うん。普通」
普通。
その言葉が、こんなにありがたいなんて。
利月くんは、ちゃんと学校で先生でいてくれている。
私とのことを知った陽斗にも、変に近づきすぎず、遠ざけず。
普通にする。
それは簡単なようで、きっと難しい。
夜、私は陽斗と夕食を食べた。
今日は肉だった。
陽斗の希望通り。
「お母さん、ちゃんと食べてる」
「食べてます」
「登坂先生に報告しとく?」
「しなくていい」
「でも心配するよ」
「陽斗が心配しすぎ」
「登坂先生もうつった」
「逆じゃない?」
二人で笑った。
こんな会話ができる日が来るとは思わなかった。
もちろん、すべてが解決したわけじゃない。
陽斗はまだ子どもで、私は母で、利月くんは先生だ。
その線は、いつも目の前にある。
でも、その線を見ないふりしないからこそ、少しだけ進めるのかもしれない。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
珍しかった。
画面に名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。
私は少し深呼吸してから出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
すぐに言って、笑ってしまう。
「これは本当に大丈夫です」
なら、よかったです。
電話越しの声は、少し低くて落ち着いている。
でも、どこか緊張しているようにも聞こえた。
「珍しいですね。登坂さんから電話」
そうですね。
「何かありました?」
少し間があった。
手のことを、陽斗に話したと聞いて。
「あ……はい」
俺も、ちゃんと言っておきたくて。
「何を?」
電話の向こうで、利月くんが息を吸う気配がした。
昨日、手を繋いだことを、軽く考えていません。
胸が、静かに震えた。
灯理さんにも、陽斗にも、学校にも、ちゃんと向き合うつもりです。
「はい」
声が震えた。
でも、それとは別に。
「はい」
手を繋げて、嬉しかったです。
涙が出た。
本当に、この人は。
遅くて、不器用で、でもちゃんと届くところまで来る。
「私も」
私は小さく答えた。
「嬉しかったです」
はい。
「昨日から、手の温度が残ってます」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
電話でよかった。
目の前だったら、きっと言えなかった。
利月くんは、しばらく黙った。
それから、少しだけかすれた声で言った。
俺もです。
その一言で、胸の奥がいっぱいになる。
「登坂さん」
はい。
「次は、転ばなくても繋いでいいって言いましたよね」
言いました。
「……覚えてます?」
覚えています。
「じゃあ」
言葉が喉で止まる。
言いたい。
でも、恥ずかしい。
それでも、言いたい。
「次、ちゃんと繋いでください」
電話の向こうが静かになった。
長い沈黙。
でも、もう怖くはなかった。
少しして、利月くんが言った。
はい。
たった一文字。
でも、ちゃんと約束の音がした。
次は、ちゃんと繋ぎます。
私は目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「はい」
小さく答えた。
その夜、電話を切ったあとも、しばらく眠れなかった。
でも、不安で眠れないのではなかった。
手の温度が、まだ残っていたから。
窓の外に、東京タワーが光っている。
その上の空には、薄い月。
欠けていても、そこにある月。
離れていても、残っている手の温度。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、離したあとの手の中にあった。
繋いだ時間よりも長く、
心に残り続ける、
温かい鍵だった。
不思議だった。
もう繋いでいないのに。
もう隣にはいないのに。
家に帰って、コートを脱いで、陽斗に「楽しかった」と話して、いつもの部屋に戻ったあとも。
手のひらだけが、まだ冬の遊歩道にいた。
利月くんの手は、思っていたより温かかった。
強引ではなくて、でも頼りなくもなくて。
いつでも離せるようにしてくれているのに、私が少し握り返すと、ちゃんとそこにいてくれる手だった。
次は、転ばなくても繋いでいいですか。
あのメッセージを見た瞬間、私はスマホを落としかけた。
それから何度も読み返した。
転ばなくても。
つまり、理由がなくても。
私はベッドの上で、手のひらを見つめた。
大人なのに。
社長なのに。
陽斗の母なのに。
手を繋いだだけで、こんなに眠れなくなるなんて思わなかった。
「お母さん」
翌朝、陽斗が食卓で私を見るなり言った。
「寝てないでしょ」
「寝たよ」
「目が寝てない」
「目が?」
「うん。あと、にやにやしてる」
私はカップを持つ手を止めた。
「してない」
「してる」
「してない」
「してるってば」
陽斗はトーストをかじりながら、じっと私を見た。
「昨日、ほんとに歩いただけ?」
心臓が跳ねた。
「歩いただけ」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
陽斗は目を細める。
「その顔、絶対なんかあった」
「なんかって何」
「知らないけど」
「知らないなら言わない」
「大人ってずるい」
私は言葉に詰まった。
ずるい。
たしかに、そうかもしれない。
全部は言えない。
でも、嘘はつきたくない。
その境目で、私はいつも少しだけずるくなる。
「陽斗」
「なに」
「昨日ね」
言いかけて、止まった。
手を繋いだ。
それを言うべきなのか。
言わない方がいいのか。
陽斗にとって利月くんは先生だ。
そこは守らなければならない。
でも、陽斗はもう私が利月くんに会っていることを知っている。
そして、嘘は嫌だと言った。
私は深く息を吸った。
「少しだけ、手を繋いだ」
言った瞬間、顔が熱くなった。
陽斗は、トーストを持ったまま固まった。
「え」
「え、って何」
「お母さんが?」
「そう」
「登坂先生と?」
「うん」
陽斗はしばらく黙った。
その沈黙が怖かった。
でも、私は逃げなかった。
やがて陽斗は、ぽつりと言った。
「小学生みたい」
私はテーブルに突っ伏しそうになった。
「それ言う?」
「だって、手繋いだだけでその顔でしょ」
「その顔って何」
「にやにやと泣きそうが混ざってる」
「そんな顔してる?」
「してる」
陽斗は少しだけ笑った。
怒ってはいない。
嫌そうでもない。
でも、考えている顔だった。
「嫌だった?」
私が聞くと、陽斗はすぐには答えなかった。
それから、トーストを皿に置いた。
「嫌っていうか」
「うん」
「変な感じ」
胸が少し痛む。
「そうだよね」
「登坂先生は先生だから」
「うん」
「でも、お母さんの好きな人でもあるんでしょ」
その言葉に、息が止まった。
好きな人。
陽斗の口から、その言葉を聞くと、胸の奥が変なふうに震えた。
「……うん」
私は頷いた。
「好きな人」
陽斗は、ふうん、と言った。
それから、少しだけ視線を落とした。
「先生は学校では先生でいてくれるんだよね」
「うん」
「俺にも普通にするんだよね」
「うん」
「じゃあ、まあ」
陽斗はまたトーストを持った。
「いいんじゃない」
あまりにもあっさりしていて、私は少し驚いた。
「いいの?」
「だって、俺がダメって言ったらやめるの?」
痛いところを突かれた。
すぐに答えられない。
陽斗はそれを見て、少しだけ大人みたいに笑った。
「ほら」
「でも、陽斗が本当に嫌なら、ちゃんと考える」
「考えるって、やめるとは違うじゃん」
「うん」
「なら、ちゃんと考えて」
その言葉は、子どものわがままではなかった。
むしろ、私よりずっと冷静な言葉だった。
「俺も、ちゃんと考える」
胸が痛かった。
こんなふうに言わせてしまうことが。
でも、少しだけ救われてもいた。
陽斗は、私を拒絶していない。
利月くんを拒絶していない。
ただ、ちゃんと考えてと言っている。
「分かった」
私は頷いた。
「ちゃんと考える」
陽斗は満足したように頷き、それから急に言った。
「でも学校で手繋いだらやだ」
「繋がないよ」
「廊下でとか絶対やめて」
「しないって」
「図書室もなし」
「しません」
「佐伯先生に見られたら終わる」
思わず笑ってしまった。
「尚さん、もう知ってるけどね」
「知ってても見られたら終わる」
「確かに」
陽斗も少し笑った。
その笑いで、張りつめていた空気がほどけた。
朝の光が、テーブルに落ちている。
冬の朝は冷たいけれど、今日の部屋は少しだけ温かかった。
会社に着くと、私はすぐに利月くんへメッセージを送った。
今朝、陽斗に少し話しました。
手を繋いだこと。
送ったあとで、心臓が鳴る。
重かっただろうか。
でも、隠したくなかった。
利月くんからの返事は、昼前に来た。
話してくれたんですね。
ありがとうございます。
そのあとに、もう一通。
陽斗は、どうでしたか。
私は少し考えてから返した。
小学生みたいって言われました。
既読。
少しして、
それは、少し分かります。
私は吹き出しそうになった。
分かるんですか?
はい。
俺も、昨日から少し落ち着かないので。
胸が跳ねた。
利月くんも。
昨日から落ち着かなかった。
その事実だけで、手のひらにまた温度が戻った気がした。
登坂さんも?
はい。
手を繋いだだけなのに?
少し意地悪だったかもしれない。
返事は、しばらく来なかった。
やがて届いた。
だけ、ではなかったです。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
だけ、ではなかった。
利月くんにとっても、あれはちゃんと特別だったのだ。
私は泣きそうになりながら、ゆっくり返す。
私もです。
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
よかったです。
それだけ。
でも、十分だった。
夕方、陽斗が学校から帰ってきた。
いつも通り、玄関で靴を脱ぎながら言う。
「ただいま」
「おかえり」
「今日、登坂先生ふつうだった」
その報告が最近の定番になっている。
「そっか」
「でも、ちょっと手見た」
私は固まった。
「手?」
「俺の手じゃなくて、自分の手」
「自分の?」
「うん。なんか見てた」
陽斗は鞄を置きながら、少しだけにやっとした。
「お母さんと一緒じゃん」
顔が熱くなる。
「陽斗」
「なに」
「それ、登坂先生に言わないで」
「言わないよ。俺そんなに子どもじゃないし」
「子どもです」
「でも空気は読む」
「読まなくていい空気もある」
陽斗は笑った。
「登坂先生、今日も返却日言ってきた」
「普通だね」
「うん。普通」
普通。
その言葉が、こんなにありがたいなんて。
利月くんは、ちゃんと学校で先生でいてくれている。
私とのことを知った陽斗にも、変に近づきすぎず、遠ざけず。
普通にする。
それは簡単なようで、きっと難しい。
夜、私は陽斗と夕食を食べた。
今日は肉だった。
陽斗の希望通り。
「お母さん、ちゃんと食べてる」
「食べてます」
「登坂先生に報告しとく?」
「しなくていい」
「でも心配するよ」
「陽斗が心配しすぎ」
「登坂先生もうつった」
「逆じゃない?」
二人で笑った。
こんな会話ができる日が来るとは思わなかった。
もちろん、すべてが解決したわけじゃない。
陽斗はまだ子どもで、私は母で、利月くんは先生だ。
その線は、いつも目の前にある。
でも、その線を見ないふりしないからこそ、少しだけ進めるのかもしれない。
夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。
珍しかった。
画面に名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。
私は少し深呼吸してから出た。
「はい」
今、大丈夫ですか。
「大丈夫です」
すぐに言って、笑ってしまう。
「これは本当に大丈夫です」
なら、よかったです。
電話越しの声は、少し低くて落ち着いている。
でも、どこか緊張しているようにも聞こえた。
「珍しいですね。登坂さんから電話」
そうですね。
「何かありました?」
少し間があった。
手のことを、陽斗に話したと聞いて。
「あ……はい」
俺も、ちゃんと言っておきたくて。
「何を?」
電話の向こうで、利月くんが息を吸う気配がした。
昨日、手を繋いだことを、軽く考えていません。
胸が、静かに震えた。
灯理さんにも、陽斗にも、学校にも、ちゃんと向き合うつもりです。
「はい」
声が震えた。
でも、それとは別に。
「はい」
手を繋げて、嬉しかったです。
涙が出た。
本当に、この人は。
遅くて、不器用で、でもちゃんと届くところまで来る。
「私も」
私は小さく答えた。
「嬉しかったです」
はい。
「昨日から、手の温度が残ってます」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
電話でよかった。
目の前だったら、きっと言えなかった。
利月くんは、しばらく黙った。
それから、少しだけかすれた声で言った。
俺もです。
その一言で、胸の奥がいっぱいになる。
「登坂さん」
はい。
「次は、転ばなくても繋いでいいって言いましたよね」
言いました。
「……覚えてます?」
覚えています。
「じゃあ」
言葉が喉で止まる。
言いたい。
でも、恥ずかしい。
それでも、言いたい。
「次、ちゃんと繋いでください」
電話の向こうが静かになった。
長い沈黙。
でも、もう怖くはなかった。
少しして、利月くんが言った。
はい。
たった一文字。
でも、ちゃんと約束の音がした。
次は、ちゃんと繋ぎます。
私は目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「はい」
小さく答えた。
その夜、電話を切ったあとも、しばらく眠れなかった。
でも、不安で眠れないのではなかった。
手の温度が、まだ残っていたから。
窓の外に、東京タワーが光っている。
その上の空には、薄い月。
欠けていても、そこにある月。
離れていても、残っている手の温度。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、離したあとの手の中にあった。
繋いだ時間よりも長く、
心に残り続ける、
温かい鍵だった。

