星を見に行った夜から、三日が経った。
三日。
たった三日なのに、私はその間に何度もマフラーに触れた。
利月くんから借りたままのマフラー。
返さなきゃ、と思う。
でも、返したくないとも思う。
前は、返すことが次に会う理由だった。
今は、返さないことも、まだ繋がっている証拠みたいに感じてしまう。
我ながら面倒くさい。
でも、恋はだいたい面倒くさい生き物なのだと思う。
心の中で小さな猫が、毛糸玉を全部ほどいて走り回っている。
「お母さん」
朝、陽斗が玄関で靴を履きながら私を見た。
「なに?」
「マフラー、まだ返してないの?」
心臓が跳ねる。
「……うん」
「借りパク?」
「違う」
「登坂先生、細かいのに返却日は言わないんだ」
「本じゃないからね」
「でも図書室だったら延滞」
「マフラーは図書室じゃない」
陽斗は少し笑った。
それから、何でもない顔で言った。
「返したら、また借りれば?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「簡単に言うね」
「大人は難しくしすぎ」
そう言って、陽斗は鞄を背負った。
「今日、図書室行く?」
私が聞くと、陽斗は少しだけ呆れた顔をした。
「また登坂先生のこと?」
「違う。星座の本」
「同じじゃん」
言い返せなかった。
陽斗はドアを開ける前に、少しだけ振り返った。
「お母さん」
「うん」
「楽しいのはいいけど、ちゃんと寝てね」
胸が、少し痛くなる。
「うん」
「あと、にやにやは減らして」
「それは努力します」
「できなさそう」
「できる」
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあと、私はしばらく玄関に立っていた。
陽斗は、少しずつ受け入れてくれている。
でも、見ている。
ちゃんと、私の変化を見ている。
だから私は、浮かれるだけではいけない。
けれど。
浮かれてしまう。
その日の夕方、利月くんからメッセージが届いた。
今日、陽斗が星座の本を返しました。
オリオン座、家でも見えたと言っていました。
私は少し笑った。
はい。
あの日のあと、ずっと星を探しています。
すぐには返ってこなかった。
でも、前ほど怖くはなかった。
利月くんの沈黙は、もう空白ではない。
考えている時間だと、少しずつ分かってきたから。
しばらくして、返事が来た。
灯理さんは、見つけるのが上手くなりましたか。
私は窓の外を見た。
夕方の空に、まだ星は見えない。
まだ下手です。
でも、見上げるようにはなりました。
送ってから、少し恥ずかしくなった。
また変に詩みたいなことを言ってしまった。
でも利月くんからの返事は、静かだった。
それで十分だと思います。
胸が、ふっと温かくなる。
十分。
そんな言葉を、私は自分にあまり言ってこなかった。
いつも、まだ足りないと思っていた。
母としても。
社長としても。
娘としても。
女としても。
でも利月くんは、時々こうやって、私の足元に小さな椅子を置いてくれる。
座っていいですよ、とは言わない。
でも、置いてくれる。
私はその不器用な優しさに、また少し泣きそうになる。
週末、少し歩きませんか。
そのメッセージが届いたのは、夜だった。
私は画面を見つめた。
歩く。
星でも、マフラーでも、本でもなく。
少し歩く。
理由がどんどん少なくなっている。
それが怖い。
でも、嬉しい。
はい。
歩きたいです。
送ったあと、私はスマホを胸に当てた。
今度は、陽斗にすぐ話そうと思った。
隠さない。
嘘をつかない。
でも、全部を背負わせない。
その線引きは難しいけれど、逃げないと決めた。
「陽斗」
リビングで宿題をしている陽斗に声をかける。
「なに?」
「週末、少し出かけてもいい?」
陽斗は鉛筆を止めた。
「登坂先生?」
「うん」
「今度は星?」
「歩くだけ」
「歩くだけ?」
陽斗の目が少しだけ細くなる。
「大人の歩くだけって怪しい」
「怪しくない」
「ほんと?」
「ほんと」
陽斗は少し考えた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰る?」
「帰る」
「楽しかったら楽しかったって言う?」
「言う」
陽斗は頷いた。
「じゃあいい」
その簡単な許可に、胸が痛いくらい温かくなった。
「ありがとう」
「別に」
陽斗はまたノートに目を落とす。
でも、すぐに顔を上げた。
「お母さん」
「うん?」
「登坂先生といる時、ちゃんと食べてる?」
「そこ?」
「登坂先生、細かいから言いそう」
私は笑ってしまった。
「言われるかもね」
「言われてきな」
「なんで」
「お母さん、言われないと食べないから」
本当に、子どもはよく見ている。
週末、待ち合わせ場所は川沿いの遊歩道だった。
冬の夕方。
日が落ちる少し前で、空は青から紫へ変わる途中だった。
川面には街の灯りが細く揺れている。
東京タワーは見えない。
星も、まだ見えない。
でも空は広かった。
利月くんは、橋の手前に立っていた。
黒いコート。
手には、小さな紙袋。
私に気づくと、少しだけ姿勢を正した。
「灯理さん」
「登坂さん」
名前を呼ぶだけで、まだ少し緊張する。
でも今日は、目を逸らさなかった。
少しだけ。
一秒より長く。
「今日は、見てくれますね」
また言われた。
私は頬が熱くなる。
「毎回それ言います?」
「嬉しいので」
胸が跳ねた。
「そういうこと、さらっと言わないでください」
「さらっとではないです」
「え?」
「けっこう頑張って言っています」
ずるい。
そんなふうに言われたら、何も返せなくなる。
利月くんは少しだけ照れたように視線を落とし、紙袋を差し出した。
「これ」
「何ですか?」
「カイロです」
私は思わず笑った。
「また?」
「今日は長く歩くかもしれないので」
「細かい」
「はい」
「自覚あり」
「あります」
彼は真面目に頷く。
私は紙袋を受け取った。
中には使い捨てカイロが二つと、小さなチョコレートが入っていた。
「チョコ?」
「歩くと、少しお腹が空くかと思って」
「私、子どもですか」
「食べないよりいいです」
陽斗と同じことを言う。
胸の奥が、ふわっと温かくなる。
「陽斗にも、ちゃんと食べてきなって言われました」
「陽斗らしいですね」
「二人して私を食べさせようとしてる」
「必要なので」
「先生みたい」
「今日は、先生じゃないつもりです」
利月くんはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
その表情に、私はまた胸が鳴った。
遊歩道を、並んで歩いた。
川沿いの風は冷たい。
でも、マフラーとカイロのおかげで思ったより平気だった。
二人の間には、手ひとつ分くらいの距離があった。
近い。
でも、触れない。
その距離が、ずっと気になっていた。
歩幅は合っている。
会話も続く。
でも、手は触れない。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「今日は大丈夫です」
言ってから、慌てて付け足した。
「本当に」
利月くんが少し笑った。
「それならよかったです」
「私、大丈夫って言うと疑われますね」
「はい」
「即答」
「灯理さんの大丈夫は、たまに信用できません」
「たまに?」
「かなり」
「ひどい」
「でも、最近は言い直してくれるので」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないと言う。
私はそれを、この人の前で少しずつ覚えている。
橋に近づくと、足元の石畳が少し uneven になっていた。
私は話しながら歩いていて、段差に気づくのが遅れた。
「あ」
靴先が引っかかる。
体が前に傾いた。
その瞬間、利月くんの手が私の手首を掴んだ。
強すぎず、でもしっかりと。
「大丈夫ですか」
近い声。
私は息を止めた。
「……大丈夫です」
すぐに言って、また利月くんの眉が動いた。
私は慌てて言い直す。
「びっくりしました」
「はい」
「転んではないです」
「はい」
彼の手は、まだ私の手首にあった。
温かい。
冬の冷たい空気の中で、そこだけがはっきり温かかった。
私は手首を見る。
利月くんも、それに気づいた。
普通なら、すぐ離す。
きっと今までの利月くんなら、すみませんと言って離した。
でも。
今日は、離さなかった。
手首を掴んでいた指が、少しだけ緩む。
そして、そのまま私の手に触れた。
指先と指先。
ほんの一瞬の迷い。
それから、利月くんが私の手を取った。
ゆっくり。
確かめるみたいに。
私は動けなかった。
手を繋いだ。
初めて。
言葉よりもずっと静かに。
抱きしめるよりもずっと控えめに。
でも、今までのどんな言葉より、はっきりと。
「登坂さん」
声が震えた。
「はい」
「これは」
何と聞けばいいか分からない。
転ばないためですか。
寒いからですか。
それとも。
利月くんは、私の手を見て、それから少しだけ視線を逸らした。
「転ばないように」
「はい」
「という理由もあります」
理由も。
胸が大きく鳴った。
「他には?」
聞いた。
聞いてしまった。
利月くんは、少しだけ困った顔をした。
でも、逃げなかった。
「繋ぎたかったので」
息が止まった。
風の音が遠くなる。
川の光も、街の音も、全部ぼやけた。
繋ぎたかったので。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
「早いですか」
利月くんが聞いた。
その声は、少しだけ不安そうだった。
私は首を横に振った。
「早くないです」
言ってから、少し笑った。
「むしろ、遅いです」
利月くんは目を見開いた。
「遅いですか」
「はい」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつもの言葉を言いながら、涙が出そうになった。
手が、温かい。
大人なのに。
社長なのに。
母なのに。
手を繋いだだけで、こんなに胸がいっぱいになるなんて思わなかった。
利月くんの手は、大きかった。
でも、強引ではない。
いつでも離せるように、でも離したくないように。
そんな握り方だった。
「嫌だったら」
利月くんが言いかける。
私はその手を、少しだけ握り返した。
言葉より先に。
利月くんが黙る。
私は顔を上げた。
「嫌じゃないです」
言えた。
ちゃんと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
「よかったです」
その声が、少しだけ柔らかかった。
私たちは、そのまま歩いた。
手を繋いだまま。
何を話したのか、あまり覚えていない。
たぶん、たいした話はしていない。
川の水が冷たそうだとか。
冬は日が落ちるのが早いとか。
陽斗がチョコを見たら絶対食べたがるとか。
そんなこと。
でも、全部が特別だった。
手を繋いでいるだけで、同じ道の空気が変わる。
街灯がひとつずつ灯り始めた。
空には、まだ星は少ない。
けれど、私はもう見上げるのを忘れていた。
隣にある手の方が、ずっと気になっていたから。
しばらく歩いて、橋の上で立ち止まった。
川に街の灯りが揺れている。
遠くに小さな月が見えた。
細くて、頼りない月。
でも、ちゃんとそこにある。
「月」
私が言うと、利月くんも空を見た。
「見えますね」
「欠けてますね」
「でも、なくなっているわけではありません」
陽斗が言っていた言葉。
私は少し笑った。
「陽斗みたい」
「はい」
利月くんも笑った。
その横顔を見て、胸がまた熱くなる。
この人が、私の息子を知っている。
私を知ろうとしてくれている。
そして今、私の手を握っている。
全部が不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
その両方が、手の中で同じ温度になっていた。
帰り道、駅の近くで立ち止まった。
手を離すタイミングが分からない。
利月くんも、たぶん分からなかった。
二人とも少し黙って、繋いだ手を見た。
「ここで」
利月くんが言った。
「はい」
「帰り、気をつけてください」
「はい」
でも手は離れない。
私は少しだけ笑った。
「登坂さん」
「はい」
「手」
「はい」
「離さないと、帰れません」
利月くんは、はっとしたような顔をした。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
でも、今度は私もすぐには離さなかった。
ほんの少しだけ、握り返す。
そのあと、ゆっくり離した。
手のひらに、温度が残った。
離したのに、まだ繋いでいるみたいだった。
「また」
利月くんが言った。
「また、歩きましょう」
胸が鳴る。
「はい」
私は頷いた。
「また」
帰宅すると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「歩いただけ?」
心臓が跳ねた。
「歩いただけ」
「ほんと?」
「ほんと」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
陽斗は私の顔をじっと見た。
「にやにやしてる」
「してない」
「してる」
「寒かったから」
「寒いとにやにやするの?」
「する時もある」
「ないでしょ」
私はコートを脱ぎながら、笑ってしまった。
陽斗は本を閉じた。
「楽しかった?」
私は、今度は迷わなかった。
「うん」
「楽しかった」
陽斗は、そう、と言った。
それから少しだけ目を細めた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉で、胸がまた温かくなった。
私はちゃんと帰ってくる。
この子のところへ。
そのうえで、また会いに行く。
夜、部屋に戻って、スマホを開いた。
利月くんからメッセージが届いていた。
今日はありがとうございました。
手、急でしたよね。
私は笑った。
急ではありました。
少しして、返事が来る。
すみません。
謝るところじゃないです。
既読。
少し間が空いた。
でも、繋げてよかったです。
胸が、また熱くなる。
私は手のひらを見た。
まだ温度が残っている気がした。
私もです。
送信。
しばらくして、利月くんから最後のメッセージが来た。
次は、転ばなくても繋いでいいですか。
私はスマホを落としそうになった。
その場でしゃがみ込みたくなった。
ずるい。
本当に、ずるい。
震える指で返す。
はい。
それだけ。
でも、私にはそれが精一杯だった。
窓の外には、東京タワーが光っていた。
その上に、細い月。
欠けていても、なくなっているわけではない。
離しても、手の温度は残っている。
硝子の鍵は、またひとつ開いた。
今度の鍵は、手のひらの形をしていた。
言葉より先に、
好きより静かに、
冬の夜に初めて繋がった鍵だった。
三日。
たった三日なのに、私はその間に何度もマフラーに触れた。
利月くんから借りたままのマフラー。
返さなきゃ、と思う。
でも、返したくないとも思う。
前は、返すことが次に会う理由だった。
今は、返さないことも、まだ繋がっている証拠みたいに感じてしまう。
我ながら面倒くさい。
でも、恋はだいたい面倒くさい生き物なのだと思う。
心の中で小さな猫が、毛糸玉を全部ほどいて走り回っている。
「お母さん」
朝、陽斗が玄関で靴を履きながら私を見た。
「なに?」
「マフラー、まだ返してないの?」
心臓が跳ねる。
「……うん」
「借りパク?」
「違う」
「登坂先生、細かいのに返却日は言わないんだ」
「本じゃないからね」
「でも図書室だったら延滞」
「マフラーは図書室じゃない」
陽斗は少し笑った。
それから、何でもない顔で言った。
「返したら、また借りれば?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「簡単に言うね」
「大人は難しくしすぎ」
そう言って、陽斗は鞄を背負った。
「今日、図書室行く?」
私が聞くと、陽斗は少しだけ呆れた顔をした。
「また登坂先生のこと?」
「違う。星座の本」
「同じじゃん」
言い返せなかった。
陽斗はドアを開ける前に、少しだけ振り返った。
「お母さん」
「うん」
「楽しいのはいいけど、ちゃんと寝てね」
胸が、少し痛くなる。
「うん」
「あと、にやにやは減らして」
「それは努力します」
「できなさそう」
「できる」
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあと、私はしばらく玄関に立っていた。
陽斗は、少しずつ受け入れてくれている。
でも、見ている。
ちゃんと、私の変化を見ている。
だから私は、浮かれるだけではいけない。
けれど。
浮かれてしまう。
その日の夕方、利月くんからメッセージが届いた。
今日、陽斗が星座の本を返しました。
オリオン座、家でも見えたと言っていました。
私は少し笑った。
はい。
あの日のあと、ずっと星を探しています。
すぐには返ってこなかった。
でも、前ほど怖くはなかった。
利月くんの沈黙は、もう空白ではない。
考えている時間だと、少しずつ分かってきたから。
しばらくして、返事が来た。
灯理さんは、見つけるのが上手くなりましたか。
私は窓の外を見た。
夕方の空に、まだ星は見えない。
まだ下手です。
でも、見上げるようにはなりました。
送ってから、少し恥ずかしくなった。
また変に詩みたいなことを言ってしまった。
でも利月くんからの返事は、静かだった。
それで十分だと思います。
胸が、ふっと温かくなる。
十分。
そんな言葉を、私は自分にあまり言ってこなかった。
いつも、まだ足りないと思っていた。
母としても。
社長としても。
娘としても。
女としても。
でも利月くんは、時々こうやって、私の足元に小さな椅子を置いてくれる。
座っていいですよ、とは言わない。
でも、置いてくれる。
私はその不器用な優しさに、また少し泣きそうになる。
週末、少し歩きませんか。
そのメッセージが届いたのは、夜だった。
私は画面を見つめた。
歩く。
星でも、マフラーでも、本でもなく。
少し歩く。
理由がどんどん少なくなっている。
それが怖い。
でも、嬉しい。
はい。
歩きたいです。
送ったあと、私はスマホを胸に当てた。
今度は、陽斗にすぐ話そうと思った。
隠さない。
嘘をつかない。
でも、全部を背負わせない。
その線引きは難しいけれど、逃げないと決めた。
「陽斗」
リビングで宿題をしている陽斗に声をかける。
「なに?」
「週末、少し出かけてもいい?」
陽斗は鉛筆を止めた。
「登坂先生?」
「うん」
「今度は星?」
「歩くだけ」
「歩くだけ?」
陽斗の目が少しだけ細くなる。
「大人の歩くだけって怪しい」
「怪しくない」
「ほんと?」
「ほんと」
陽斗は少し考えた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰る?」
「帰る」
「楽しかったら楽しかったって言う?」
「言う」
陽斗は頷いた。
「じゃあいい」
その簡単な許可に、胸が痛いくらい温かくなった。
「ありがとう」
「別に」
陽斗はまたノートに目を落とす。
でも、すぐに顔を上げた。
「お母さん」
「うん?」
「登坂先生といる時、ちゃんと食べてる?」
「そこ?」
「登坂先生、細かいから言いそう」
私は笑ってしまった。
「言われるかもね」
「言われてきな」
「なんで」
「お母さん、言われないと食べないから」
本当に、子どもはよく見ている。
週末、待ち合わせ場所は川沿いの遊歩道だった。
冬の夕方。
日が落ちる少し前で、空は青から紫へ変わる途中だった。
川面には街の灯りが細く揺れている。
東京タワーは見えない。
星も、まだ見えない。
でも空は広かった。
利月くんは、橋の手前に立っていた。
黒いコート。
手には、小さな紙袋。
私に気づくと、少しだけ姿勢を正した。
「灯理さん」
「登坂さん」
名前を呼ぶだけで、まだ少し緊張する。
でも今日は、目を逸らさなかった。
少しだけ。
一秒より長く。
「今日は、見てくれますね」
また言われた。
私は頬が熱くなる。
「毎回それ言います?」
「嬉しいので」
胸が跳ねた。
「そういうこと、さらっと言わないでください」
「さらっとではないです」
「え?」
「けっこう頑張って言っています」
ずるい。
そんなふうに言われたら、何も返せなくなる。
利月くんは少しだけ照れたように視線を落とし、紙袋を差し出した。
「これ」
「何ですか?」
「カイロです」
私は思わず笑った。
「また?」
「今日は長く歩くかもしれないので」
「細かい」
「はい」
「自覚あり」
「あります」
彼は真面目に頷く。
私は紙袋を受け取った。
中には使い捨てカイロが二つと、小さなチョコレートが入っていた。
「チョコ?」
「歩くと、少しお腹が空くかと思って」
「私、子どもですか」
「食べないよりいいです」
陽斗と同じことを言う。
胸の奥が、ふわっと温かくなる。
「陽斗にも、ちゃんと食べてきなって言われました」
「陽斗らしいですね」
「二人して私を食べさせようとしてる」
「必要なので」
「先生みたい」
「今日は、先生じゃないつもりです」
利月くんはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
その表情に、私はまた胸が鳴った。
遊歩道を、並んで歩いた。
川沿いの風は冷たい。
でも、マフラーとカイロのおかげで思ったより平気だった。
二人の間には、手ひとつ分くらいの距離があった。
近い。
でも、触れない。
その距離が、ずっと気になっていた。
歩幅は合っている。
会話も続く。
でも、手は触れない。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「今日は大丈夫です」
言ってから、慌てて付け足した。
「本当に」
利月くんが少し笑った。
「それならよかったです」
「私、大丈夫って言うと疑われますね」
「はい」
「即答」
「灯理さんの大丈夫は、たまに信用できません」
「たまに?」
「かなり」
「ひどい」
「でも、最近は言い直してくれるので」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃないと言う。
私はそれを、この人の前で少しずつ覚えている。
橋に近づくと、足元の石畳が少し uneven になっていた。
私は話しながら歩いていて、段差に気づくのが遅れた。
「あ」
靴先が引っかかる。
体が前に傾いた。
その瞬間、利月くんの手が私の手首を掴んだ。
強すぎず、でもしっかりと。
「大丈夫ですか」
近い声。
私は息を止めた。
「……大丈夫です」
すぐに言って、また利月くんの眉が動いた。
私は慌てて言い直す。
「びっくりしました」
「はい」
「転んではないです」
「はい」
彼の手は、まだ私の手首にあった。
温かい。
冬の冷たい空気の中で、そこだけがはっきり温かかった。
私は手首を見る。
利月くんも、それに気づいた。
普通なら、すぐ離す。
きっと今までの利月くんなら、すみませんと言って離した。
でも。
今日は、離さなかった。
手首を掴んでいた指が、少しだけ緩む。
そして、そのまま私の手に触れた。
指先と指先。
ほんの一瞬の迷い。
それから、利月くんが私の手を取った。
ゆっくり。
確かめるみたいに。
私は動けなかった。
手を繋いだ。
初めて。
言葉よりもずっと静かに。
抱きしめるよりもずっと控えめに。
でも、今までのどんな言葉より、はっきりと。
「登坂さん」
声が震えた。
「はい」
「これは」
何と聞けばいいか分からない。
転ばないためですか。
寒いからですか。
それとも。
利月くんは、私の手を見て、それから少しだけ視線を逸らした。
「転ばないように」
「はい」
「という理由もあります」
理由も。
胸が大きく鳴った。
「他には?」
聞いた。
聞いてしまった。
利月くんは、少しだけ困った顔をした。
でも、逃げなかった。
「繋ぎたかったので」
息が止まった。
風の音が遠くなる。
川の光も、街の音も、全部ぼやけた。
繋ぎたかったので。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
「早いですか」
利月くんが聞いた。
その声は、少しだけ不安そうだった。
私は首を横に振った。
「早くないです」
言ってから、少し笑った。
「むしろ、遅いです」
利月くんは目を見開いた。
「遅いですか」
「はい」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつもの言葉を言いながら、涙が出そうになった。
手が、温かい。
大人なのに。
社長なのに。
母なのに。
手を繋いだだけで、こんなに胸がいっぱいになるなんて思わなかった。
利月くんの手は、大きかった。
でも、強引ではない。
いつでも離せるように、でも離したくないように。
そんな握り方だった。
「嫌だったら」
利月くんが言いかける。
私はその手を、少しだけ握り返した。
言葉より先に。
利月くんが黙る。
私は顔を上げた。
「嫌じゃないです」
言えた。
ちゃんと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
「よかったです」
その声が、少しだけ柔らかかった。
私たちは、そのまま歩いた。
手を繋いだまま。
何を話したのか、あまり覚えていない。
たぶん、たいした話はしていない。
川の水が冷たそうだとか。
冬は日が落ちるのが早いとか。
陽斗がチョコを見たら絶対食べたがるとか。
そんなこと。
でも、全部が特別だった。
手を繋いでいるだけで、同じ道の空気が変わる。
街灯がひとつずつ灯り始めた。
空には、まだ星は少ない。
けれど、私はもう見上げるのを忘れていた。
隣にある手の方が、ずっと気になっていたから。
しばらく歩いて、橋の上で立ち止まった。
川に街の灯りが揺れている。
遠くに小さな月が見えた。
細くて、頼りない月。
でも、ちゃんとそこにある。
「月」
私が言うと、利月くんも空を見た。
「見えますね」
「欠けてますね」
「でも、なくなっているわけではありません」
陽斗が言っていた言葉。
私は少し笑った。
「陽斗みたい」
「はい」
利月くんも笑った。
その横顔を見て、胸がまた熱くなる。
この人が、私の息子を知っている。
私を知ろうとしてくれている。
そして今、私の手を握っている。
全部が不思議だった。
でも、嫌ではなかった。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
その両方が、手の中で同じ温度になっていた。
帰り道、駅の近くで立ち止まった。
手を離すタイミングが分からない。
利月くんも、たぶん分からなかった。
二人とも少し黙って、繋いだ手を見た。
「ここで」
利月くんが言った。
「はい」
「帰り、気をつけてください」
「はい」
でも手は離れない。
私は少しだけ笑った。
「登坂さん」
「はい」
「手」
「はい」
「離さないと、帰れません」
利月くんは、はっとしたような顔をした。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
でも、今度は私もすぐには離さなかった。
ほんの少しだけ、握り返す。
そのあと、ゆっくり離した。
手のひらに、温度が残った。
離したのに、まだ繋いでいるみたいだった。
「また」
利月くんが言った。
「また、歩きましょう」
胸が鳴る。
「はい」
私は頷いた。
「また」
帰宅すると、陽斗はリビングで本を読んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
「歩いただけ?」
心臓が跳ねた。
「歩いただけ」
「ほんと?」
「ほんと」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
陽斗は私の顔をじっと見た。
「にやにやしてる」
「してない」
「してる」
「寒かったから」
「寒いとにやにやするの?」
「する時もある」
「ないでしょ」
私はコートを脱ぎながら、笑ってしまった。
陽斗は本を閉じた。
「楽しかった?」
私は、今度は迷わなかった。
「うん」
「楽しかった」
陽斗は、そう、と言った。
それから少しだけ目を細めた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉で、胸がまた温かくなった。
私はちゃんと帰ってくる。
この子のところへ。
そのうえで、また会いに行く。
夜、部屋に戻って、スマホを開いた。
利月くんからメッセージが届いていた。
今日はありがとうございました。
手、急でしたよね。
私は笑った。
急ではありました。
少しして、返事が来る。
すみません。
謝るところじゃないです。
既読。
少し間が空いた。
でも、繋げてよかったです。
胸が、また熱くなる。
私は手のひらを見た。
まだ温度が残っている気がした。
私もです。
送信。
しばらくして、利月くんから最後のメッセージが来た。
次は、転ばなくても繋いでいいですか。
私はスマホを落としそうになった。
その場でしゃがみ込みたくなった。
ずるい。
本当に、ずるい。
震える指で返す。
はい。
それだけ。
でも、私にはそれが精一杯だった。
窓の外には、東京タワーが光っていた。
その上に、細い月。
欠けていても、なくなっているわけではない。
離しても、手の温度は残っている。
硝子の鍵は、またひとつ開いた。
今度の鍵は、手のひらの形をしていた。
言葉より先に、
好きより静かに、
冬の夜に初めて繋がった鍵だった。

