週末の夜、私はクローゼットの前でまた迷っていた。
星を見に行くだけ。
そう言い聞かせた。
デートではない。
少なくとも、利月くんはきっとそう呼ばない。
でも、ただの用事でもない。
だから困る。
黒のコートを羽織ってみる。
少し重い。
白いニットに替えてみる。
少し甘い。
結局、いつものコートに、利月くんから借りたマフラーを巻いた。
まだ返していないマフラー。
返す理由にもなるし、返さない理由にもなる。
私は鏡の中の自分を見た。
社長には少し柔らかい。
母には少し浮かれている。
恋をしている女としては、たぶん臆病すぎる。
でも、これが今の私だった。
「お母さん」
リビングから陽斗の声がした。
「なに?」
「マフラー、またそれ?」
心臓が跳ねる。
「寒いから」
「ふうん」
陽斗はゲーム機を持ったまま、こちらを見ていた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰ってくる?」
「帰ってくる」
「星、見えるといいね」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まった。
陽斗は、子どもなのに。
私が思うよりずっと、大人みたいにこちらを見ている。
「うん」
私は頷いた。
「見えたら、教えるね」
「写真撮ってきて」
「星の写真、難しいよ」
「登坂先生なら撮れるんじゃない?」
「なんで」
「細かいから」
思わず笑ってしまった。
「細かいと写真撮れるの?」
「たぶん」
陽斗は少しだけ笑った。
それから、ふいに真面目な顔になった。
「お母さん」
「うん」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいからね」
息が止まった。
「え?」
「俺に気使って、普通だったとか言わなくていいよ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
「……うん」
「でも、にやにやしすぎたら言う」
「それは言わないで」
「言う」
陽斗はまたゲーム画面に目を戻した。
私はしばらく、その横顔を見ていた。
この子に、私は何度助けられているんだろう。
母親なのに。
守らなきゃいけないのは私なのに。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める直前、陽斗がもう一度言った。
「寒いから、ちゃんと帰ってきてね」
私は振り返って笑った。
「うん。ちゃんと帰ってくる」
待ち合わせ場所は、都心から少し離れた小さな展望広場だった。
有名な夜景スポットではない。
人も多すぎない。
利月くんが選んだ場所だった。
星が見えやすいかは分かりません。
でも、少し空が広いです。
その説明が、やっぱり利月くんらしかった。
確約しない。
でも、ちゃんと探してくれる。
広場に着くと、冬の風が頬に触れた。
冷たい。
でも、嫌な冷たさではなかった。
空は、思っていたより暗い。
街明かりはあるけれど、ビルの隙間から見える夜空には、いくつかの星が光っていた。
利月くんは、柵の近くに立っていた。
黒いコート。
首元にはマフラーがない。
私が借りているからだ。
それに気づいた瞬間、胸が少し鳴った。
「登坂さん」
声をかけると、利月くんが振り返った。
「灯理さん」
彼の目が、私の首元で少し止まった。
「寒くないですか」
「マフラーがあるので」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を伏せた。
「なら、よかったです」
その一言が、静かに胸に落ちる。
「登坂さんは寒くないんですか」
「少し」
「マフラー返します」
「今日はいいです」
「でも」
「灯理さんが寒い方が困ります」
まただ。
こういうことを、急に言う。
私は視線を逸らした。
「そういうこと、普通に言わないでください」
「普通に言ってしまいました」
「分かってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
冬の風の中で、その言葉が白く溶けた。
利月くんは空を見上げた。
「オリオン座、見えますね」
「どれですか」
「そこです」
彼が指をさす。
私は同じ方向を見た。
星はたくさんあるようで、少ないようで、どれが何なのか分からない。
「分かりません」
正直に言うと、利月くんが少し笑った。
「真ん中に三つ並んでいる星があります」
「三つ?」
「はい。あれがオリオンのベルトです」
「ベルト?」
「そうです」
「星座って、名前の付け方がけっこう大胆ですね」
「そうですね」
利月くんの声が、少し楽しそうだった。
私はもう一度空を見る。
三つ並んだ星。
あった。
「あ、分かった」
思わず声が明るくなる。
「見えました?」
「見えました」
「よかったです」
たったそれだけなのに、嬉しかった。
星を見つけたことより、隣で利月くんが少し安心したように笑ったことが。
「陽斗に言えます」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「写真は難しいと思います」
「陽斗にも言われました。登坂先生なら撮れるんじゃないかって」
「なぜ俺なら」
「細かいからだそうです」
利月くんは、少しだけ固まった。
「陽斗は、俺のことを細かい先生だと思っていますね」
「かなり」
「自覚はあります」
「あるんですね」
「あります」
二人で少し笑った。
笑いながら、私は空を見上げた。
冬の星は、思っていたより静かだった。
東京タワーみたいに強く光らない。
街の中に埋もれそうなくらい小さい。
でも、見つけるとちゃんとそこにある。
「星って」
私はぽつりと言った。
「探さないと見えないんですね」
利月くんが、こちらを見る気配がした。
「はい」
「東京タワーは、嫌でも目に入るのに」
「星は、見上げないといけません」
その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
見上げないといけない。
私は、いつも何を見ていたんだろう。
会社の数字。
陽斗の予定。
父と母の体調。
東京タワーの光。
見えるものばかりを追って、見上げないと分からないものを、たくさん見逃してきたのかもしれない。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗、どうでしたか」
やっぱり、そこを聞く。
私は利月くんを見た。
「行ってらっしゃいって言ってくれました」
「そうですか」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいって」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗が?」
「はい」
「……大人ですね」
「そうなんです」
私はマフラーに少しだけ顔をうずめた。
「でも、大人にさせすぎてるのかなって、思う時があります」
利月くんはすぐには答えなかった。
風が吹く。
マフラーの端が少し揺れた。
「陽斗は」
彼はゆっくり言った。
「大人になろうとしているというより、灯理さんを見ているんだと思います」
「私を?」
「はい」
「それが、つらいです」
本音が落ちた。
「私がちゃんとしないから、陽斗が先に見てしまう」
「灯理さん」
「はい」
「ちゃんとしないからではなくて、大事だから見るんだと思います」
言葉が、胸に静かに入ってくる。
「子どもは、どうでもいい大人のことをそんなに見ません」
私は目を伏せた。
「そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思います」
利月くんの声は、強くはなかった。
でも、逃げ道のない優しさがあった。
「陽斗は、灯理さんが大事なんだと思います」
涙が出そうになった。
「登坂さんは、そういうことを急に言います」
「またですか」
「またです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
私たちは、また少し笑った。
でも、胸の奥は熱かった。
利月くんは、私を甘やかすために言っているわけじゃない。
ただ、見たことを言う。
考えたことを、少し遅れて、少し不器用に渡してくる。
その言葉は、時々私を泣かせる。
星を見ながら、しばらく歩いた。
展望広場の周りには、小さな遊歩道があった。
人は少ない。
街の音は遠く、足音だけが近くにある。
隣にいる。
それだけのことに、まだ慣れない。
手は繋がない。
でも、歩幅はいつの間にか少し合っていた。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「大丈夫です」
言った瞬間、利月くんがこちらを見る。
私は小さく笑って、言い直した。
「少し寒いです」
彼は頷いた。
「車まで戻りますか」
「もう少しだけ歩きたいです」
「分かりました」
利月くんは、自分のコートのポケットから使い捨てカイロを出した。
「え」
「持ってきました」
「用意よすぎません?」
「寒いと思ったので」
「登坂さん、細かい」
「陽斗に言われます」
私は笑ってしまった。
彼は少し照れたように、カイロを私に差し出した。
「使ってください」
「ありがとうございます」
受け取る時、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、前よりもその一瞬を怖がらなかった。
利月くんも、手をすぐには引っ込めなかった。
触れているわけではない。
でも、触れそうな距離にいた。
それだけで、胸がゆっくり熱くなった。
「灯理さん」
利月くんの声が、少し低くなる。
「はい」
「こうして会うのは」
彼は言葉を探した。
「やっぱり、早いと思う時もあります」
私は息を止めた。
「はい」
「でも、遅らせれば安全になるとも思えません」
風が止まったように感じた。
「会わないで考えているだけでは、分からないことがあります」
利月くんは、私を見る。
「今日、来てよかったです」
胸が、熱くなった。
「私も」
声が震える。
「来てよかったです」
利月くんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で見たものより少し柔らかかった。
先生でもなく。
社長と向き合う人でもなく。
陽斗のことを考える大人でもありながら。
それでも今、私に会いに来た人の顔だった。
帰る時間になって、私は少しだけ寂しくなった。
陽斗には遅くならないと言った。
ちゃんと帰ると約束した。
だから帰る。
それが、今の私たちには必要なことだった。
駐車場へ向かう途中、利月くんが言った。
「陽斗に、オリオン座見えたと伝えてください」
「はい」
「写真は」
「撮れませんでした」
「そうですね」
「細かい先生でも無理でしたね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
二人でまた笑う。
車の前で立ち止まる。
別れ際の空気は、いつも少し難しい。
手を振るだけでいいのか。
何か言うべきなのか。
マフラーを返すべきなのか。
私は首元に手を当てた。
「マフラー」
「今日はそのままで」
「また?」
「はい」
「返せないですね」
「次に会う理由が必要なので」
前より、少しだけ自然に言った。
私は笑ってしまう。
「それ、気に入ってます?」
「はい」
「正直」
「はい」
利月くんも、少しだけ笑った。
私は車のドアを開ける前に、彼を見た。
今度は、ちゃんと。
「登坂さん」
「はい」
「今日は、楽しかったです」
陽斗に言っていいと言われた言葉。
私はまず、利月くんに伝えたかった。
利月くんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「俺も、楽しかったです」
短い。
でも、ちゃんと届いた。
私は車に乗った。
窓越しに、利月くんが小さく手を上げる。
その上に、冬の星が光っていた。
帰り道、私は空を見上げることはできなかった。
運転中だから。
でも、胸の中にはオリオン座があった。
三つ並んだ星。
見上げなければ見つけられない光。
家に着くと、陽斗はまだ起きていた。
「おかえり」
「ただいま」
「星、見えた?」
「見えたよ」
「オリオン座?」
「うん。三つ並んでるやつ」
陽斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かったんだ」
「登坂さんが教えてくれた」
「やっぱ細かい」
「でも、分かりやすかった」
陽斗は頷いた。
「楽しかった?」
私は少しだけ息を吸った。
「うん」
今度は迷わなかった。
「楽しかった」
陽斗は、そう、とだけ言った。
でも、その顔は少し安心しているように見えた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉に、胸があたたかくなる。
私はこの子のもとへ帰ってくる。
それを忘れない限り、きっと少しずつ進める。
部屋に戻り、窓の外を見る。
東京タワーは赤く光っていた。
その上の空に、オリオン座は見えない。
でも、見えないからといって、なくなったわけじゃない。
私はスマホを開き、利月くんにメッセージを送った。
陽斗に、楽しかったと話しました。
ちゃんと帰ってきたね、と言われました。
返事は少しして届いた。
陽斗らしいですね。
もう一通。
ちゃんと帰ってくれて、ありがとうございます。
その言葉に、私は静かに笑った。
ちゃんと帰る。
母として。
大人として。
そして、また会いたい人のところへ行くために。
また、星を見に行きたいです。
送ると、既読がついた。
少し間が空いた。
はい。
次は、もう少し星が多い場所を探します。
私は泣きそうになりながら笑った。
次。
また、次がある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、オリオンの下に落ちていた。
冷たい夜に、
手を繋がなくても隣にいられることを知った、
小さな星の鍵だった。
星を見に行くだけ。
そう言い聞かせた。
デートではない。
少なくとも、利月くんはきっとそう呼ばない。
でも、ただの用事でもない。
だから困る。
黒のコートを羽織ってみる。
少し重い。
白いニットに替えてみる。
少し甘い。
結局、いつものコートに、利月くんから借りたマフラーを巻いた。
まだ返していないマフラー。
返す理由にもなるし、返さない理由にもなる。
私は鏡の中の自分を見た。
社長には少し柔らかい。
母には少し浮かれている。
恋をしている女としては、たぶん臆病すぎる。
でも、これが今の私だった。
「お母さん」
リビングから陽斗の声がした。
「なに?」
「マフラー、またそれ?」
心臓が跳ねる。
「寒いから」
「ふうん」
陽斗はゲーム機を持ったまま、こちらを見ていた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰ってくる?」
「帰ってくる」
「星、見えるといいね」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まった。
陽斗は、子どもなのに。
私が思うよりずっと、大人みたいにこちらを見ている。
「うん」
私は頷いた。
「見えたら、教えるね」
「写真撮ってきて」
「星の写真、難しいよ」
「登坂先生なら撮れるんじゃない?」
「なんで」
「細かいから」
思わず笑ってしまった。
「細かいと写真撮れるの?」
「たぶん」
陽斗は少しだけ笑った。
それから、ふいに真面目な顔になった。
「お母さん」
「うん」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいからね」
息が止まった。
「え?」
「俺に気使って、普通だったとか言わなくていいよ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
「……うん」
「でも、にやにやしすぎたら言う」
「それは言わないで」
「言う」
陽斗はまたゲーム画面に目を戻した。
私はしばらく、その横顔を見ていた。
この子に、私は何度助けられているんだろう。
母親なのに。
守らなきゃいけないのは私なのに。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める直前、陽斗がもう一度言った。
「寒いから、ちゃんと帰ってきてね」
私は振り返って笑った。
「うん。ちゃんと帰ってくる」
待ち合わせ場所は、都心から少し離れた小さな展望広場だった。
有名な夜景スポットではない。
人も多すぎない。
利月くんが選んだ場所だった。
星が見えやすいかは分かりません。
でも、少し空が広いです。
その説明が、やっぱり利月くんらしかった。
確約しない。
でも、ちゃんと探してくれる。
広場に着くと、冬の風が頬に触れた。
冷たい。
でも、嫌な冷たさではなかった。
空は、思っていたより暗い。
街明かりはあるけれど、ビルの隙間から見える夜空には、いくつかの星が光っていた。
利月くんは、柵の近くに立っていた。
黒いコート。
首元にはマフラーがない。
私が借りているからだ。
それに気づいた瞬間、胸が少し鳴った。
「登坂さん」
声をかけると、利月くんが振り返った。
「灯理さん」
彼の目が、私の首元で少し止まった。
「寒くないですか」
「マフラーがあるので」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を伏せた。
「なら、よかったです」
その一言が、静かに胸に落ちる。
「登坂さんは寒くないんですか」
「少し」
「マフラー返します」
「今日はいいです」
「でも」
「灯理さんが寒い方が困ります」
まただ。
こういうことを、急に言う。
私は視線を逸らした。
「そういうこと、普通に言わないでください」
「普通に言ってしまいました」
「分かってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
冬の風の中で、その言葉が白く溶けた。
利月くんは空を見上げた。
「オリオン座、見えますね」
「どれですか」
「そこです」
彼が指をさす。
私は同じ方向を見た。
星はたくさんあるようで、少ないようで、どれが何なのか分からない。
「分かりません」
正直に言うと、利月くんが少し笑った。
「真ん中に三つ並んでいる星があります」
「三つ?」
「はい。あれがオリオンのベルトです」
「ベルト?」
「そうです」
「星座って、名前の付け方がけっこう大胆ですね」
「そうですね」
利月くんの声が、少し楽しそうだった。
私はもう一度空を見る。
三つ並んだ星。
あった。
「あ、分かった」
思わず声が明るくなる。
「見えました?」
「見えました」
「よかったです」
たったそれだけなのに、嬉しかった。
星を見つけたことより、隣で利月くんが少し安心したように笑ったことが。
「陽斗に言えます」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「写真は難しいと思います」
「陽斗にも言われました。登坂先生なら撮れるんじゃないかって」
「なぜ俺なら」
「細かいからだそうです」
利月くんは、少しだけ固まった。
「陽斗は、俺のことを細かい先生だと思っていますね」
「かなり」
「自覚はあります」
「あるんですね」
「あります」
二人で少し笑った。
笑いながら、私は空を見上げた。
冬の星は、思っていたより静かだった。
東京タワーみたいに強く光らない。
街の中に埋もれそうなくらい小さい。
でも、見つけるとちゃんとそこにある。
「星って」
私はぽつりと言った。
「探さないと見えないんですね」
利月くんが、こちらを見る気配がした。
「はい」
「東京タワーは、嫌でも目に入るのに」
「星は、見上げないといけません」
その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
見上げないといけない。
私は、いつも何を見ていたんだろう。
会社の数字。
陽斗の予定。
父と母の体調。
東京タワーの光。
見えるものばかりを追って、見上げないと分からないものを、たくさん見逃してきたのかもしれない。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗、どうでしたか」
やっぱり、そこを聞く。
私は利月くんを見た。
「行ってらっしゃいって言ってくれました」
「そうですか」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいって」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗が?」
「はい」
「……大人ですね」
「そうなんです」
私はマフラーに少しだけ顔をうずめた。
「でも、大人にさせすぎてるのかなって、思う時があります」
利月くんはすぐには答えなかった。
風が吹く。
マフラーの端が少し揺れた。
「陽斗は」
彼はゆっくり言った。
「大人になろうとしているというより、灯理さんを見ているんだと思います」
「私を?」
「はい」
「それが、つらいです」
本音が落ちた。
「私がちゃんとしないから、陽斗が先に見てしまう」
「灯理さん」
「はい」
「ちゃんとしないからではなくて、大事だから見るんだと思います」
言葉が、胸に静かに入ってくる。
「子どもは、どうでもいい大人のことをそんなに見ません」
私は目を伏せた。
「そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思います」
利月くんの声は、強くはなかった。
でも、逃げ道のない優しさがあった。
「陽斗は、灯理さんが大事なんだと思います」
涙が出そうになった。
「登坂さんは、そういうことを急に言います」
「またですか」
「またです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
私たちは、また少し笑った。
でも、胸の奥は熱かった。
利月くんは、私を甘やかすために言っているわけじゃない。
ただ、見たことを言う。
考えたことを、少し遅れて、少し不器用に渡してくる。
その言葉は、時々私を泣かせる。
星を見ながら、しばらく歩いた。
展望広場の周りには、小さな遊歩道があった。
人は少ない。
街の音は遠く、足音だけが近くにある。
隣にいる。
それだけのことに、まだ慣れない。
手は繋がない。
でも、歩幅はいつの間にか少し合っていた。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「大丈夫です」
言った瞬間、利月くんがこちらを見る。
私は小さく笑って、言い直した。
「少し寒いです」
彼は頷いた。
「車まで戻りますか」
「もう少しだけ歩きたいです」
「分かりました」
利月くんは、自分のコートのポケットから使い捨てカイロを出した。
「え」
「持ってきました」
「用意よすぎません?」
「寒いと思ったので」
「登坂さん、細かい」
「陽斗に言われます」
私は笑ってしまった。
彼は少し照れたように、カイロを私に差し出した。
「使ってください」
「ありがとうございます」
受け取る時、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、前よりもその一瞬を怖がらなかった。
利月くんも、手をすぐには引っ込めなかった。
触れているわけではない。
でも、触れそうな距離にいた。
それだけで、胸がゆっくり熱くなった。
「灯理さん」
利月くんの声が、少し低くなる。
「はい」
「こうして会うのは」
彼は言葉を探した。
「やっぱり、早いと思う時もあります」
私は息を止めた。
「はい」
「でも、遅らせれば安全になるとも思えません」
風が止まったように感じた。
「会わないで考えているだけでは、分からないことがあります」
利月くんは、私を見る。
「今日、来てよかったです」
胸が、熱くなった。
「私も」
声が震える。
「来てよかったです」
利月くんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で見たものより少し柔らかかった。
先生でもなく。
社長と向き合う人でもなく。
陽斗のことを考える大人でもありながら。
それでも今、私に会いに来た人の顔だった。
帰る時間になって、私は少しだけ寂しくなった。
陽斗には遅くならないと言った。
ちゃんと帰ると約束した。
だから帰る。
それが、今の私たちには必要なことだった。
駐車場へ向かう途中、利月くんが言った。
「陽斗に、オリオン座見えたと伝えてください」
「はい」
「写真は」
「撮れませんでした」
「そうですね」
「細かい先生でも無理でしたね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
二人でまた笑う。
車の前で立ち止まる。
別れ際の空気は、いつも少し難しい。
手を振るだけでいいのか。
何か言うべきなのか。
マフラーを返すべきなのか。
私は首元に手を当てた。
「マフラー」
「今日はそのままで」
「また?」
「はい」
「返せないですね」
「次に会う理由が必要なので」
前より、少しだけ自然に言った。
私は笑ってしまう。
「それ、気に入ってます?」
「はい」
「正直」
「はい」
利月くんも、少しだけ笑った。
私は車のドアを開ける前に、彼を見た。
今度は、ちゃんと。
「登坂さん」
「はい」
「今日は、楽しかったです」
陽斗に言っていいと言われた言葉。
私はまず、利月くんに伝えたかった。
利月くんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「俺も、楽しかったです」
短い。
でも、ちゃんと届いた。
私は車に乗った。
窓越しに、利月くんが小さく手を上げる。
その上に、冬の星が光っていた。
帰り道、私は空を見上げることはできなかった。
運転中だから。
でも、胸の中にはオリオン座があった。
三つ並んだ星。
見上げなければ見つけられない光。
家に着くと、陽斗はまだ起きていた。
「おかえり」
「ただいま」
「星、見えた?」
「見えたよ」
「オリオン座?」
「うん。三つ並んでるやつ」
陽斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かったんだ」
「登坂さんが教えてくれた」
「やっぱ細かい」
「でも、分かりやすかった」
陽斗は頷いた。
「楽しかった?」
私は少しだけ息を吸った。
「うん」
今度は迷わなかった。
「楽しかった」
陽斗は、そう、とだけ言った。
でも、その顔は少し安心しているように見えた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉に、胸があたたかくなる。
私はこの子のもとへ帰ってくる。
それを忘れない限り、きっと少しずつ進める。
部屋に戻り、窓の外を見る。
東京タワーは赤く光っていた。
その上の空に、オリオン座は見えない。
でも、見えないからといって、なくなったわけじゃない。
私はスマホを開き、利月くんにメッセージを送った。
陽斗に、楽しかったと話しました。
ちゃんと帰ってきたね、と言われました。
返事は少しして届いた。
陽斗らしいですね。
もう一通。
ちゃんと帰ってくれて、ありがとうございます。
その言葉に、私は静かに笑った。
ちゃんと帰る。
母として。
大人として。
そして、また会いたい人のところへ行くために。
また、星を見に行きたいです。
送ると、既読がついた。
少し間が空いた。
はい。
次は、もう少し星が多い場所を探します。
私は泣きそうになりながら笑った。
次。
また、次がある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、オリオンの下に落ちていた。
冷たい夜に、
手を繋がなくても隣にいられることを知った、
小さな星の鍵だった。

