硝子の鍵

冬の空気は、嘘を薄くする。

朝、窓を開けた瞬間に入り込んでくる冷たさは、眠気も、迷いも、少しだけ遠慮なくさらっていく。

私はその冷たい空気を吸い込んで、窓の向こうを見た。

東京タワーは、朝の街の中で静かに立っている。

夜ほど赤くない。
でも、ちゃんとそこにある。

「お母さん、寒い」

背後で陽斗が言った。

「じゃあ窓閉める」

「なんで開けたの」

「空気入れ替え」

「冬に?」

「冬でも空気は入れ替えるの」

「大人ってたまに意味分かんない」

陽斗は制服の袖を引っ張りながら、ダイニングに座った。

テーブルには、トーストとスープ。
陽斗は不満そうにそれを見た。

「肉は?」

「朝から肉はない」

「冬は肉だよ」

「夏も言ってたよ、それ」

「肉は季語じゃないから」

その言い方が妙にもっともらしくて、私は笑ってしまった。

陽斗はスープを飲みながら、ふと私を見る。

「今日、登坂先生に本返す」

「冬の星座の本?」

「うん」

「どうだった?」

「オリオン座、分かりやすい。あと冬は空気が澄んでるから星が見えやすいんだって」

「へえ」

「登坂先生が言ってた」

その名前が出るだけで、胸の奥が少し鳴る。

もう、前みたいに全部隠さなきゃとは思わない。
でも、陽斗の前ではまだ、丁寧に扱わなければならない名前だった。

「登坂先生、星好きなのかな」

陽斗が言った。

「どうだろうね」

「お母さん、聞いてみれば」

私はスープのカップを置きそうになった。

「なんで私が」

「会うんでしょ?」

心臓が跳ねた。

「……まだ決まってない」

「ふうん」

陽斗のふうんは、最近やけに大人びている。

「陽斗」

「なに」

「嫌だったら、ちゃんと言ってね」

陽斗は少しだけ眉を寄せた。

「だから、嫌とは言ってない」

「うん」

「でも、学校では先生でいてほしい」

「それは、ちゃんと話した」

「ならいい」

陽斗はトーストをかじった。

「あと、お母さんも母でいてね」

その言葉に、胸が静かに止まった。

「……うん」

「それだけ」

陽斗は何でもないことみたいに言った。

でも、その一言は私の中に深く落ちた。

母でいてね。

恋をしても。
誰かに会いたいと思っても。
スマホを見てにやにやしても。

私は、陽斗の母でいる。

それは、足枷ではなく、私の足元だった。

「分かった」

私が答えると、陽斗は少しだけ安心したように頷いた。

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい」

玄関で見送ると、陽斗はドアを開ける直前に振り返った。

「今日、寒いからちゃんと食べなよ」

「陽斗に言われた」

「登坂先生にも言われそう」

「言わないで」

「言っとく」

「やめて」

陽斗は笑って出ていった。

ドアが閉まる。

部屋が静かになる。

私はスープの湯気を見つめながら、少しだけ笑った。

陽斗は、私を許してくれたわけではない。

まだ様子を見ている。
母がどうするのかを、静かに見ている。

だから私は、ちゃんとしなければならない。

完璧じゃなくていい。
でも、逃げないで。

その日の昼、利月くんからメッセージが届いた。

陽斗が冬の星座の本を返しました。
オリオン座が見たいと言っていました。

私は画面を見て、少し笑った。

家でも話していました。
冬は星が見えやすいって。

少しして、返事が来る。

はい。
空気が澄んでいるので。

先生の返事。

でも、そのあとにもう一通届いた。

灯理さんは、星を見ますか。

私は指を止めた。

星。

東京タワーではなく、星。

あまり見ていなかったかもしれません。
東京タワーばかり見ていたので。

送信してから、少し恥ずかしくなった。

でも、利月くんの返事は静かだった。

それも、灯理さんらしいです。

また急に。

私は画面を見ながら、胸が温かくなる。

どういう意味ですか?

少し間が空いた。

高いものを見ているようで、たぶん足元を確かめている感じがします。

息が止まった。

利月くんは、時々こういうことを言う。

私が自分でも言葉にできないものを、少し不器用に、でもまっすぐ拾ってしまう。

そう言われると、また泣きます。

送ると、すぐに返ってきた。

すみません。

私は笑った。

謝るところじゃないです。

いつもの言葉。

それだけで、昼の会社の空気が少し柔らかくなった。

その日の夕方、父の病院の帰りだという母から連絡が入った。

父は、ひとまず大きな異常はなかったらしい。
低血圧と疲れ。しばらく様子を見ることになった。

電話を切ると、私は椅子にもたれた。

安心したはずなのに、体から力が抜けて、急に疲れが出た。

社長の椅子は、今日も大きい。

でも、今日は少しだけ背中を預けられた。

音葉が書類を持って入ってくる。

「お父様、どうでしたか」

「大きなことはなかったって」

「よかったです」

「うん」

音葉は私の顔を見て、少しだけ目を細めた。

「今日は、帰ってください」

「まだ書類が」

「明日で間に合います」

「社長が帰っていいの?」

「社長だから帰ってください」

「どういうこと」

「倒れられると困ります」

私は笑った。

「最近みんなに倒れる前提で言われる」

「倒れそうな顔をしているからです」

否定できなかった。

私は机の上を片づけ、コートを手に取った。

会社を出ると、外の空気は朝よりずっと冷たかった。

駅へ向かう道の途中で、空を見上げる。

街明かりの中でも、いくつかの星が見えた。

冬の星。

陽斗が見たいと言ったオリオン座は、まだ見つけられない。

私はスマホを取り出し、利月くんにメッセージを送った。

星、見ようとしたけど、どれがオリオン座か分かりません。

返事は、少し遅れて来た。

今、外ですか。

会社を出たところです。

すぐに返事が来た。

寒いので、長く外にいないでください。

先生みたい。

そう思って、少し笑った。

星の話をしたのは登坂さんです。

そうでした。

少し間が空く。

でも、風邪をひいたら困ります。

胸が小さく鳴った。

誰が?

送ってから、少し意地悪だったと思った。

返事は、少しだけ遅かった。

俺が。

私は足を止めた。

冷たい風が頬に当たる。

画面の文字が、夜の中で小さく光っている。

俺が。

短い。

でも、今の利月くんにしては、とてもまっすぐだった。

私はすぐには返せなかった。

嬉しくて、少し怖くて。

そういうこと、急に言わないでください。

送ると、返事は早かった。

すみません。

謝るところじゃないです。

難しいです。

いつもの会話。

でも、今日はその中に少しだけ甘さがあった。

駅に着く前に、またメッセージが届いた。

週末、少しだけ星を見に行きませんか。

私は立ち止まった。

星を見に行く。

それは、デートなのだろうか。

いや、利月くんはきっとそう呼ばない。

でも、マフラーでも、本でも、東京タワーでもなく。

星を見に行く。

会う理由としては、少しだけきれいすぎる。

私はしばらく画面を見つめた。

陽斗も?

送ってから、自分で驚いた。

なぜそう聞いたのだろう。

利月くんからの返事は、少し遅かった。

灯理さんがそうしたいなら、陽斗も。
でも、俺は灯理さんと話したい気持ちもあります。

胸が熱くなる。

ちゃんと、陽斗のことも入れてくれる。

でも、私に会いたいことも隠さない。

私はホームのベンチに座り、冷えた指で返信を打った。

まずは、私だけでもいいですか。

送ってから、心臓が鳴った。

私だけ。

母であることを忘れるわけではない。
でも、母ではない時間も少しだけほしい。

利月くんからの返事は、短かった。

はい。

それだけ。

けれど、そのあとにもう一通。

でも、陽斗に嘘をつかない形にしましょう。

私は目を伏せた。

そうだ。

そこを、この人は外さない。

だから信じられる。

分かりました。
ちゃんと話します。

返事はすぐだった。

はい。

たった二文字。

でも、そこに私たちの約束があった。

家に帰ると、陽斗はリビングで冬の星座の本を見ていた。

「おかえり」

「ただいま」

私はコートを脱ぎながら、少しだけ緊張した。

「陽斗」

「なに?」

「週末、少しだけ出かけてもいい?」

陽斗は本から顔を上げた。

「登坂先生?」

もう隠す必要はなかった。

「うん」

「星?」

「なんで分かるの」

「今日その話したから」

陽斗は本を閉じた。

「俺も行くやつ?」

私は少しだけ息を吸った。

「今回は、私だけで行きたい」

言った。

言ってしまった。

陽斗は、しばらく私を見ていた。

その沈黙が怖かった。

でも、逃げなかった。

「分かった」

陽斗は短く言った。

「いいの?」

「いいよ」

「本当に?」

「お母さん、俺に聞きすぎ」

「だって」

「俺は行きたいって言ってないし」

その言い方に、少し笑いそうになる。

でも陽斗は、すぐに真面目な顔になった。

「でも、遅くならないで」

「うん」

「あと、ちゃんと帰ってきて」

胸が痛い。

当たり前の言葉なのに。

「帰ってくるよ」

「それならいい」

陽斗はまた本を開いた。

「お母さんも、オリオン座見つけてきなよ」

私は泣きそうになりながら笑った。

「うん」

「分かんなかったら登坂先生に聞けば」

「そうする」

「細かく教えてくれるよ」

「うん、たぶん」

陽斗は少しだけ笑った。

その笑顔に、私は救われた。

週末の約束は、まだ名前がなかった。

デートとは呼ばない。
恋人でもない。
でも、ただの用事でもない。

冬の星を見に行く。

それだけのことが、私には大きな扉の前に立つように思えた。

夜、窓の外には東京タワーが光っていた。

その少し上に、小さな星が見える。

私はスマホを開き、利月くんに送った。

陽斗に話しました。
行ってきていいと言ってくれました。
遅くならないで、ちゃんと帰ってきてって。

すぐには返ってこなかった。

でも、待てた。

冬の夜は静かだった。

しばらくして、返事が来た。

陽斗らしいですね。

そのあと、もう一通。

ちゃんと帰します。

その文字を読んだ瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。

私はゆっくり返した。

はい。
ちゃんと帰ります。

送ってから、東京タワーを見た。

高いものだって、足元から立っている。

私は今、その足元を少しずつ確かめている。

母でいること。
社長でいること。
誰かに会いたいと思うこと。

どれも手放さずに、冬の入口に立っている。

硝子の鍵は、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、冬の星の形をしていた。

冷たい夜の中で、
見上げなければ見つからない、
でも確かにそこにある光だった。