その週から、街は少しずつ冬の顔になっていった。
朝の空気は冷たくて、窓を開けると頬の奥まで澄んだ風が入ってくる。
東京タワーは昼間より、夕方から夜にかけての方がずっと近く感じた。
赤い光が灯るたび、私は利月くんのことを思い出す。
東京タワーの下で話したこと。
マフラーをかけられた夜。
カフェで、好きより先の言葉の手前まで行ったこと。
愛してますって言うには、まだ怖いです。
その言葉は、言われたわけじゃないのに、私の中で何度も響いた。
好きです、よりも深く。
愛してます、よりも不器用に。
まるで、扉の向こうから聞こえてくる足音みたいだった。
「お母さん」
朝食の席で、陽斗が私を呼んだ。
「なに?」
「最近、スマホ見る時の顔ちがう」
飲みかけていた味噌汁でむせそうになった。
「違わない」
「違う」
「どう違うの」
「通知来てほしい顔」
核心を、そんな普通の顔で投げないでほしい。
私は箸を置いた。
「陽斗、最近鋭すぎない?」
「お母さんが分かりやすすぎるんじゃない?」
その言い方が、どこか尚さんに似ていて、少しだけ腹が立つ。
「佐伯先生に似てきた」
「やめて」
「うつってる」
「最悪」
陽斗は笑った。
でも、その笑いのあとで、少しだけ真面目な顔になる。
「登坂先生?」
私はすぐには答えられなかった。
嘘をつくことは簡単だった。
違うよ。
仕事の連絡。
ただの先生。
そう言えばいい。
でも、陽斗はもう何も分からない子どもではない。
そして私は、もう大事な人たちの前で、自分を軽い嘘で守りたくなかった。
「うん」
短く答えた。
陽斗は、そっか、とだけ言った。
思ったより静かな反応だった。
「嫌?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「嫌とかじゃない」
「うん」
「でも、学校ではちょっと変な感じ」
胸が静かに沈む。
「だよね」
「登坂先生は普通だけど」
「うん」
「俺がちょっと、あ、この人お母さんの……って思う」
最後まで言わなかった。
でも、言いたいことは分かった。
この人は、お母さんの好きな人かもしれない。
その気配を、陽斗は学校で感じている。
私が一番避けたかったことだった。
「ごめん」
気づいたら、謝っていた。
陽斗はすぐに眉を寄せた。
「なんで謝るの」
「陽斗を変な気持ちにさせてるから」
「別に、変な気持ちにはなるけど、嫌とは言ってない」
その言い方が、あまりにも陽斗らしくて、胸が少し痛い。
「お母さん」
「うん」
「俺に全部言わなくていいけど、嘘はやだ」
箸を持つ手が止まった。
「うん」
「あと、登坂先生にも変にしてほしくない」
「うん」
「先生は先生でいてほしい」
その言葉に、私は目を伏せた。
陽斗にとって、利月くんはまず先生なのだ。
図書室で本を選んでくれる先生。
廊下で早歩きを注意する先生。
細かいけど、ちゃんと見てくれる先生。
そこを壊してはいけない。
恋がどれだけ大きくなっても。
「分かった」
私は言った。
「ちゃんと、登坂さんにも話す」
陽斗は頷いた。
「あと」
「うん」
「お母さんが嬉しそうなのは、別に嫌じゃない」
胸がぎゅっとなる。
「そうなの?」
「うん。でも、にやにやはちょっと嫌」
「にやにやしてる?」
「してる」
「そんなに?」
「通知来た時とか、めっちゃしてる」
私は両手で顔を押さえた。
「恥ずかしい」
「大人なのに」
「大人でも恥ずかしいよ」
陽斗は笑って、残りのご飯をかきこんだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関で見送る時、陽斗は靴を履きながら振り返った。
「今日、図書室行く」
「うん」
「普通にするから」
その一言に、胸が少し熱くなった。
「ありがとう」
「別に」
陽斗は照れたように顔をそらして、ドアを開けた。
その背中を見送ったあと、私はしばらく玄関に立っていた。
恋をするということは、私ひとりの胸が騒ぐことだと思っていた。
でも違う。
私が母である以上、恋の波は陽斗にも届く。
それを怖いと思う。
でも、怖いからといってなかったことにはできない。
会社に着いてすぐ、私は利月くんにメッセージを送った。
今朝、陽斗と少し話しました。
学校では、登坂さんには先生でいてほしいと言っていました。
送ったあと、胸が少し重くなった。
この文章は、利月くんを責めるものではない。
でも、重い。
ただ好きと言い合うだけでは終わらない私たちの現実が、文字の中にある。
返事は、昼前に来た。
分かりました。
それは守ります。
短い。
でも、迷いのない返事だった。
続けて、もう一通。
陽斗にとって、学校での俺は先生でいるべきだと思います。
私は画面を見つめた。
ちゃんと分かってくれている。
そのことに安心する。
でも同時に、少し寂しくもなる。
恋人のように近づきたい気持ちと、
先生として距離を保ってほしい気持ち。
どちらも本当だった。
ありがとうございます。
そう言ってくれて安心しました。
送ると、しばらくして返事が来た。
でも、灯理さんと会いたい気持ちがなくなるわけではないです。
胸が、静かに鳴った。
利月くんは、こういうことを急に言う。
欲しい時には少し遅れて、油断した時にまっすぐ来る。
私は指先で画面をなぞった。
私もです。
それだけ返した。
それ以上書くと、泣いてしまいそうだった。
夕方、陽斗は本当に図書室へ行ったらしい。
帰ってきてすぐ、鞄から一冊の本を出した。
「これ借りた」
表紙には、冬の星座が描かれていた。
オリオン座。
冷たい夜空。
小さな白い星。
「冬っぽいね」
私が言うと、陽斗は頷いた。
「登坂先生が、冬は星がよく見えるって」
「そうなんだ」
「あと、今日は普通だった」
陽斗が、何でもないことみたいに言う。
「普通?」
「うん。返却日言われて、早歩き注意されて、星座の本すすめられた」
「そっか」
「でも、ちょっとだけ言われた」
「何を?」
陽斗は本をテーブルに置いた。
「お母さんのこと、心配してるけど、学校では陽斗の先生でいるからって」
息が止まった。
利月くん。
ちゃんと、言ったんだ。
陽斗に。
私が頼む前に。
いや、頼んだからこそ。
でも、必要な言葉を逃げずに伝えてくれた。
「嫌だった?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「嫌じゃない」
「うん」
「ちゃんと言ってくれたから、普通でいいかなって思った」
涙が出そうになった。
子どもは、大人が思うよりずっとまっすぐだ。
曖昧にされる方が、きっと怖い。
「そっか」
私は小さく答えた。
「登坂先生、やっぱ細かいけどちゃんとしてるね」
「うん」
「お母さん、にやにやしてる」
「してない」
「してる」
「これは安心した顔」
「同じじゃん」
陽斗は笑った。
その笑い声を聞いて、胸の奥の緊張が少しほどけた。
夜、私は利月くんにメッセージを送った。
陽斗から聞きました。
ちゃんと話してくれて、ありがとうございました。
返事は、少し遅れて来た。
余計だったかもしれないと思いました。
私はすぐに返した。
余計じゃなかったです。
既読。
少し間があく。
陽斗が、ちゃんと聞いてくれました。
その一文を読んで、私は微笑んだ。
あの子、子どもだけど、ちゃんと聞きます。
はい。
そこは灯理さんに似ていると思いました。
また急に。
胸がじわっと熱くなる。
私、ちゃんと聞けてますか?
送ってから、少し怖くなった。
返事は、すぐではなかった。
でも、待てた。
窓の外には、東京タワーと、細い月。
冬の入口の夜だった。
しばらくして、利月くんから返事が来た。
聞こうとしてくれています。
それが、俺には嬉しいです。
私はスマホを胸に当てた。
ちゃんとできている、ではない。
聞こうとしてくれている。
その言い方が、利月くんらしかった。
完璧じゃなくていい。
戻ろうとしていること。
聞こうとしていること。
見ようとしていること。
そこを見てくれる。
ありがとうございます。
私も、登坂さんが陽斗の先生でいてくれて嬉しいです。
送信すると、しばらくして返事が来た。
先生でいることと、灯理さんに会いたいこと。
どちらも大事にしたいです。
涙が出た。
まただ。
また、この人は急に核心に触れる。
私はゆっくり返した。
私も、母でいることと、登坂さんに会いたいこと。
どちらも大事にしたいです。
既読がついた。
返事は短かった。
はい。
たった二文字。
でも、その二文字の中に、私たちの現実がちゃんと入っていた。
恋だけでは進めない。
でも、恋をなかったことにもしない。
母でいること。
先生でいること。
それでも、会いたいと思うこと。
冬の夜は冷たい。
けれど、窓の外の東京タワーは赤く光っていた。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、冬の入口に落ちていた。
冷たい空気の中で、
母と先生と、まだ名前のない恋を、
同じ手の中に持とうとする鍵だった。

