週末、私は鏡の前で三回服を替えた。
一回目は、社長っぽすぎた。
二回目は、母親っぽすぎた。
三回目は、自分でも何を目指しているのか分からなくなった。
黒のニットに、柔らかい色のスカート。
派手ではない。
地味すぎもしない。
でも、少しだけ会いに行く気持ちがある。
そんな服。
「お母さん、どこ行くの?」
リビングから陽斗の声がした。
私は一瞬、鏡の中の自分と目が合う。
「少し出かける」
「仕事?」
「仕事じゃない」
言ってから、胸が小さく鳴った。
仕事じゃない。
それだけで、少し特別に聞こえる。
陽斗はソファに寝転がったまま、ゲーム機を持っていた。
「登坂先生?」
直球。
本当にこの子は、いつからこんなにまっすぐ投げるようになったんだろう。
「……うん」
私はごまかさなかった。
全部は話せない。
でも、もう嘘を重ねたくもなかった。
陽斗はゲーム画面を見たまま言った。
「ふうん」
「ふうんって何」
「別に」
「気になる?」
「ちょっと」
ゲームの音が小さく鳴る。
「でも、お母さんが困ってないならいい」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
この子は、また私を先に見ている。
「困ってる時もあるよ」
私は正直に言った。
陽斗が顔を上げる。
「嫌な困り方?」
前にも似たようなことを聞かれた。
私は少し考えて、首を横に振った。
「嫌じゃない」
「じゃあいいんじゃない」
陽斗はまたゲームに視線を戻した。
「登坂先生、細かいけど悪い人じゃないし」
「細かいは固定なんだ」
「固定」
少し笑ってしまった。
「陽斗」
「なに」
「まだ、学校では普通にしててね」
「してるし」
「本当に?」
「お母さんの方が普通じゃないと思う」
言い返せなかった。
陽斗はゲームを止めて、こちらを見る。
「俺、別に子どもだけど、何も分かんないわけじゃないからね」
胸が、少し痛んだ。
「うん」
「でも、全部聞きたいわけでもない」
その言葉に、私は目を伏せた。
子どもは、大人が思うより分かっている。
でも、全部を背負いたいわけじゃない。
私はそれを忘れちゃいけない。
「分かった」
私がそう言うと、陽斗は少しだけ笑った。
「いってらっしゃい」
その言葉が、いつもより少し大人びて聞こえた。
「行ってきます」
私は小さく答えた。
待ち合わせは、小さな本屋だった。
駅から少し離れていて、学校からも会社からも遠い。
一階が本屋で、二階に小さなカフェがある。
利月くんが選んだ場所だった。
人が多すぎず、でも密室ではないので。
その説明があまりにも利月くんらしくて、私はメッセージを見た時に少し笑ってしまった。
デートではない。
たぶん、利月くんはそう思っている。
でも、仕事でもない。
東京タワーで秘密を話す夜でもない。
マフラーを返すだけの用事でもない。
ただ、会う。
その理由のなさが、私をいちばん緊張させた。
本屋に入ると、紙の匂いがした。
新しい本の匂い。
静かな音楽。
棚の間をゆっくり歩く人たち。
利月くんは、児童書の棚の前にいた。
黒いコートではなく、少し柔らかい色のニットにジャケット。
先生でも、東京タワーの下の人でもなく、休日の男の人だった。
その姿を見た瞬間、胸が忙しくなる。
「登坂さん」
声をかけると、彼が振り返った。
「灯理さん」
目が合う。
今日は、逸らさなかった。
二秒くらい。
私にしては、かなり頑張った。
利月くんは少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「今日は、見てくれるんですね」
顔が熱くなる。
「今の、言います?」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
それだけで、少し呼吸ができた。
「早かったんですね」
私が言うと、利月くんは手元の本を棚に戻した。
「少し」
「どれくらい?」
「三十分くらい」
「それは少しじゃないです」
「落ち着かなかったので」
その言葉に、胸が鳴った。
利月くんも、緊張していたのだろうか。
そう思うと、私だけが浮かれているわけじゃない気がして、少し安心した。
「何見てたんですか」
「陽斗に合いそうな本を」
やっぱり先生だった。
私は思わず笑ってしまう。
「今日、陽斗はいないですよ」
「はい」
「なのに陽斗の本?」
「癖です」
「先生ですね」
そう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。
「今日は、先生じゃないつもりだったんですけど」
その声が、少しだけ小さくなる。
私は棚の本に触れながら言った。
「先生の登坂さんも、嫌いじゃないです」
利月くんがこちらを見る。
「細かい先生でも?」
「陽斗が言うには、細かいけどちゃんと見てる先生なので」
「それは、褒められてますか」
「かなり」
彼は少しだけ安心したように目を伏せた。
その表情が、私には少し愛おしかった。
本屋の中を、二人でゆっくり歩いた。
最初は児童書。
次に教育書。
それから、小説の棚。
利月くんは、本を選ぶ時に背表紙をじっと見る。
手に取って、少しページをめくって、また戻す。
その動きが静かで、丁寧だった。
「登坂さんって、本屋でも真面目ですね」
「本屋で不真面目になる人いますか」
「いるかも」
「たとえば?」
「タイトルだけ見て勝手に妄想するとか」
「灯理さんですか」
「私ですね」
利月くんが少し笑った。
その笑顔を見るだけで、胸がまた少し浮く。
私は一冊の小説を手に取った。
表紙には、古い鍵の絵が描かれていた。
「鍵」
思わずつぶやく。
「好きなんですか」
「最近、気になります」
「どうして?」
私は少しだけ考えた。
「閉じるものでもあるけど、開けるものでもあるから」
利月くんは、何も言わずに聞いていた。
「私はずっと、鍵って閉じるためのものだと思ってたんです。知られたくないものをしまっておくためのもの」
「はい」
「でも最近、開けるためにもあるんだなって」
利月くんの目が、少しだけやわらかくなる。
「灯理さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
「また急に褒めてます?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ慣れていません」
私は笑ってしまった。
「褒める練習中?」
「そうかもしれません」
利月くんは真面目な顔で言うから、余計におかしかった。
本を買ったあと、二階のカフェに上がった。
窓際の席に座る。
外には小さな通りが見える。
東京タワーは見えない。
それが、少し新鮮だった。
東京タワーがなくても、利月くんと向かい合っている。
それだけで、今日は十分だった。
「陽斗」
利月くんが、カップを置きながら言った。
「今朝、何か言っていましたか」
「何かって?」
「俺と会うこと」
私は少し驚いた。
「気になるんですか」
「気になります」
正直な答えだった。
「登坂先生はいい先生だって」
「それは、前も聞きました」
「あと、私が困ってないならいいって」
利月くんの指が、カップの横で止まった。
「陽斗が?」
「はい」
「大人ですね」
「大人っぽくさせちゃったのかもしれません」
口にした瞬間、胸が少し痛む。
利月くんはすぐには答えなかった。
でも、沈黙のあとで静かに言った。
「大人っぽい子が、必ず寂しいとは限りません」
私は顔を上げた。
「でも」
「でも、寂しくないとも限らない」
利月くんは、私の逃げ道も甘えも、どちらも雑に扱わなかった。
「だから、見ていくしかないと思います」
「見ていく」
「はい」
「私、見逃してばかりだった気がします」
「気づいたなら、そこから見ればいいと思います」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
「そういうこと、さらっと言いますよね」
「さらっと言ってますか」
「はい。刺してます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
何度目かの言葉。
でも、その繰り返しはもう、私たちだけの合図みたいになっていた。
しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。
沈黙が、前ほど怖くない。
東京タワーの下の沈黙とは違う。
カフェの明るい沈黙。
私は少しだけ勇気を出して聞いた。
「これは、何ですか」
利月くんが顔を上げる。
「何、とは」
「今日のこれ」
言ってから、恥ずかしくなる。
「デートではないって、言ってましたよね」
利月くんは、少しだけ視線を落とした。
「はい」
「じゃあ、何ですか」
困らせている。
分かっている。
でも聞きたかった。
名前がほしかった。
恋人ではない。
デートではない。
でも、ただの知り合いでもない。
この関係の置き場所が、分からなかった。
利月くんは、長く考えた。
私は待った。
スマホの返事を待つ時より、ずっと近い距離で。
「名前をつけるには、まだ早いと思います」
彼は言った。
胸が少しだけ沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、名前がないから大事じゃない、とは思いません」
私は息を止めた。
「今日、ここに来たのは、マフラーのためだけではありません」
「はい」
「灯理さんに会いたかったからです」
また、その言葉。
会いたかった。
何度聞いても、胸が震える。
「でも、デートと呼んだら、何かを急がせる気がしました」
「私を?」
「灯理さんも。俺も。陽斗も」
陽斗。
その名前が入るところが、利月くんらしかった。
少しじれったい。
でも、ちゃんと大事にしてくれている。
「だから、今は」
利月くんは少しだけ困ったように笑った。
「名前のない約束でいいですか」
私は、目を伏せた。
名前のない約束。
それは少し寂しくて、でも少し優しかった。
「いいです」
私は頷いた。
「でも、いつか名前つけてくださいね」
利月くんが、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事だけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
焦らなくていい。
でも、止まっているわけでもない。
私たちは、名前のない場所にいる。
でも、そこに二人で立っている。
帰り際、本屋の袋を持った利月くんが言った。
「これ」
差し出されたのは、さっき私が見ていた鍵の表紙の小説だった。
「え?」
「買いました」
「なんで?」
「灯理さんが、気にしていたので」
そんなふうに見ていたのか。
私は袋を受け取れずに、彼を見た。
「もらえません」
「重いですか」
「重いというか」
「本です」
「そういう意味じゃなくて」
利月くんは少し困った顔をする。
「すみません。こういうの、慣れていなくて」
私は笑ってしまった。
「でしょうね」
「はい」
彼は本の袋を少しだけ下げた。
「でも、渡したかったんです」
その言葉に、胸がやわらかくなる。
プレゼントというには小さい。
でも、ただの本ではない。
私が一瞬見たものを、彼が覚えていた。
それが嬉しかった。
「ありがとうございます」
私は袋を受け取った。
指先が少し触れた。
ほんの少し。
それだけなのに、胸が跳ねた。
利月くんも、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
気づいたのだと思う。
触れたことに。
二人とも、何も言わなかった。
本屋を出ると、夕方の空は少し青く残っていた。
夜でもなく、昼でもない時間。
今の私たちみたいだと思った。
恋人でもなく、ただの知り合いでもない。
デートでもなく、用事だけでもない。
名前のない関係。
でも、私はもうそれを怖いだけだとは思わなかった。
「灯理さん」
利月くんが呼んだ。
「はい」
「次も、こういうふうに会えますか」
胸が鳴った。
次。
ちゃんと次と言った。
「はい」
私は答えた。
「会いたいです」
利月くんは、少しだけ目を細めた。
「俺もです」
短い。
でも、今の私にはちゃんと届いた。
帰りの車の中で、私は本の袋を抱えていた。
硝子の鍵。
そのタイトルが、袋の中から静かに私を見ている気がした。
鍵は閉じるためだけじゃない。
開けるためにもある。
名前のない関係にも、きっと鍵はある。
まだ開かない扉。
まだ怖くて触れられない言葉。
まだ言えない未来。
でも、その前に立つことを、私はもうやめたくなかった。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、名前のない約束の形をしていた。
寂しさと嬉しさが、同じ輪っかに通された、
小さくて静かな鍵だった。
一回目は、社長っぽすぎた。
二回目は、母親っぽすぎた。
三回目は、自分でも何を目指しているのか分からなくなった。
黒のニットに、柔らかい色のスカート。
派手ではない。
地味すぎもしない。
でも、少しだけ会いに行く気持ちがある。
そんな服。
「お母さん、どこ行くの?」
リビングから陽斗の声がした。
私は一瞬、鏡の中の自分と目が合う。
「少し出かける」
「仕事?」
「仕事じゃない」
言ってから、胸が小さく鳴った。
仕事じゃない。
それだけで、少し特別に聞こえる。
陽斗はソファに寝転がったまま、ゲーム機を持っていた。
「登坂先生?」
直球。
本当にこの子は、いつからこんなにまっすぐ投げるようになったんだろう。
「……うん」
私はごまかさなかった。
全部は話せない。
でも、もう嘘を重ねたくもなかった。
陽斗はゲーム画面を見たまま言った。
「ふうん」
「ふうんって何」
「別に」
「気になる?」
「ちょっと」
ゲームの音が小さく鳴る。
「でも、お母さんが困ってないならいい」
その言葉に、胸がぎゅっとなる。
この子は、また私を先に見ている。
「困ってる時もあるよ」
私は正直に言った。
陽斗が顔を上げる。
「嫌な困り方?」
前にも似たようなことを聞かれた。
私は少し考えて、首を横に振った。
「嫌じゃない」
「じゃあいいんじゃない」
陽斗はまたゲームに視線を戻した。
「登坂先生、細かいけど悪い人じゃないし」
「細かいは固定なんだ」
「固定」
少し笑ってしまった。
「陽斗」
「なに」
「まだ、学校では普通にしててね」
「してるし」
「本当に?」
「お母さんの方が普通じゃないと思う」
言い返せなかった。
陽斗はゲームを止めて、こちらを見る。
「俺、別に子どもだけど、何も分かんないわけじゃないからね」
胸が、少し痛んだ。
「うん」
「でも、全部聞きたいわけでもない」
その言葉に、私は目を伏せた。
子どもは、大人が思うより分かっている。
でも、全部を背負いたいわけじゃない。
私はそれを忘れちゃいけない。
「分かった」
私がそう言うと、陽斗は少しだけ笑った。
「いってらっしゃい」
その言葉が、いつもより少し大人びて聞こえた。
「行ってきます」
私は小さく答えた。
待ち合わせは、小さな本屋だった。
駅から少し離れていて、学校からも会社からも遠い。
一階が本屋で、二階に小さなカフェがある。
利月くんが選んだ場所だった。
人が多すぎず、でも密室ではないので。
その説明があまりにも利月くんらしくて、私はメッセージを見た時に少し笑ってしまった。
デートではない。
たぶん、利月くんはそう思っている。
でも、仕事でもない。
東京タワーで秘密を話す夜でもない。
マフラーを返すだけの用事でもない。
ただ、会う。
その理由のなさが、私をいちばん緊張させた。
本屋に入ると、紙の匂いがした。
新しい本の匂い。
静かな音楽。
棚の間をゆっくり歩く人たち。
利月くんは、児童書の棚の前にいた。
黒いコートではなく、少し柔らかい色のニットにジャケット。
先生でも、東京タワーの下の人でもなく、休日の男の人だった。
その姿を見た瞬間、胸が忙しくなる。
「登坂さん」
声をかけると、彼が振り返った。
「灯理さん」
目が合う。
今日は、逸らさなかった。
二秒くらい。
私にしては、かなり頑張った。
利月くんは少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「今日は、見てくれるんですね」
顔が熱くなる。
「今の、言います?」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
それだけで、少し呼吸ができた。
「早かったんですね」
私が言うと、利月くんは手元の本を棚に戻した。
「少し」
「どれくらい?」
「三十分くらい」
「それは少しじゃないです」
「落ち着かなかったので」
その言葉に、胸が鳴った。
利月くんも、緊張していたのだろうか。
そう思うと、私だけが浮かれているわけじゃない気がして、少し安心した。
「何見てたんですか」
「陽斗に合いそうな本を」
やっぱり先生だった。
私は思わず笑ってしまう。
「今日、陽斗はいないですよ」
「はい」
「なのに陽斗の本?」
「癖です」
「先生ですね」
そう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。
「今日は、先生じゃないつもりだったんですけど」
その声が、少しだけ小さくなる。
私は棚の本に触れながら言った。
「先生の登坂さんも、嫌いじゃないです」
利月くんがこちらを見る。
「細かい先生でも?」
「陽斗が言うには、細かいけどちゃんと見てる先生なので」
「それは、褒められてますか」
「かなり」
彼は少しだけ安心したように目を伏せた。
その表情が、私には少し愛おしかった。
本屋の中を、二人でゆっくり歩いた。
最初は児童書。
次に教育書。
それから、小説の棚。
利月くんは、本を選ぶ時に背表紙をじっと見る。
手に取って、少しページをめくって、また戻す。
その動きが静かで、丁寧だった。
「登坂さんって、本屋でも真面目ですね」
「本屋で不真面目になる人いますか」
「いるかも」
「たとえば?」
「タイトルだけ見て勝手に妄想するとか」
「灯理さんですか」
「私ですね」
利月くんが少し笑った。
その笑顔を見るだけで、胸がまた少し浮く。
私は一冊の小説を手に取った。
表紙には、古い鍵の絵が描かれていた。
「鍵」
思わずつぶやく。
「好きなんですか」
「最近、気になります」
「どうして?」
私は少しだけ考えた。
「閉じるものでもあるけど、開けるものでもあるから」
利月くんは、何も言わずに聞いていた。
「私はずっと、鍵って閉じるためのものだと思ってたんです。知られたくないものをしまっておくためのもの」
「はい」
「でも最近、開けるためにもあるんだなって」
利月くんの目が、少しだけやわらかくなる。
「灯理さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
「また急に褒めてます?」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ慣れていません」
私は笑ってしまった。
「褒める練習中?」
「そうかもしれません」
利月くんは真面目な顔で言うから、余計におかしかった。
本を買ったあと、二階のカフェに上がった。
窓際の席に座る。
外には小さな通りが見える。
東京タワーは見えない。
それが、少し新鮮だった。
東京タワーがなくても、利月くんと向かい合っている。
それだけで、今日は十分だった。
「陽斗」
利月くんが、カップを置きながら言った。
「今朝、何か言っていましたか」
「何かって?」
「俺と会うこと」
私は少し驚いた。
「気になるんですか」
「気になります」
正直な答えだった。
「登坂先生はいい先生だって」
「それは、前も聞きました」
「あと、私が困ってないならいいって」
利月くんの指が、カップの横で止まった。
「陽斗が?」
「はい」
「大人ですね」
「大人っぽくさせちゃったのかもしれません」
口にした瞬間、胸が少し痛む。
利月くんはすぐには答えなかった。
でも、沈黙のあとで静かに言った。
「大人っぽい子が、必ず寂しいとは限りません」
私は顔を上げた。
「でも」
「でも、寂しくないとも限らない」
利月くんは、私の逃げ道も甘えも、どちらも雑に扱わなかった。
「だから、見ていくしかないと思います」
「見ていく」
「はい」
「私、見逃してばかりだった気がします」
「気づいたなら、そこから見ればいいと思います」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
「そういうこと、さらっと言いますよね」
「さらっと言ってますか」
「はい。刺してます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
何度目かの言葉。
でも、その繰り返しはもう、私たちだけの合図みたいになっていた。
しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。
沈黙が、前ほど怖くない。
東京タワーの下の沈黙とは違う。
カフェの明るい沈黙。
私は少しだけ勇気を出して聞いた。
「これは、何ですか」
利月くんが顔を上げる。
「何、とは」
「今日のこれ」
言ってから、恥ずかしくなる。
「デートではないって、言ってましたよね」
利月くんは、少しだけ視線を落とした。
「はい」
「じゃあ、何ですか」
困らせている。
分かっている。
でも聞きたかった。
名前がほしかった。
恋人ではない。
デートではない。
でも、ただの知り合いでもない。
この関係の置き場所が、分からなかった。
利月くんは、長く考えた。
私は待った。
スマホの返事を待つ時より、ずっと近い距離で。
「名前をつけるには、まだ早いと思います」
彼は言った。
胸が少しだけ沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、名前がないから大事じゃない、とは思いません」
私は息を止めた。
「今日、ここに来たのは、マフラーのためだけではありません」
「はい」
「灯理さんに会いたかったからです」
また、その言葉。
会いたかった。
何度聞いても、胸が震える。
「でも、デートと呼んだら、何かを急がせる気がしました」
「私を?」
「灯理さんも。俺も。陽斗も」
陽斗。
その名前が入るところが、利月くんらしかった。
少しじれったい。
でも、ちゃんと大事にしてくれている。
「だから、今は」
利月くんは少しだけ困ったように笑った。
「名前のない約束でいいですか」
私は、目を伏せた。
名前のない約束。
それは少し寂しくて、でも少し優しかった。
「いいです」
私は頷いた。
「でも、いつか名前つけてくださいね」
利月くんが、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい」
その返事だけで、胸の奥に小さな灯りがともる。
焦らなくていい。
でも、止まっているわけでもない。
私たちは、名前のない場所にいる。
でも、そこに二人で立っている。
帰り際、本屋の袋を持った利月くんが言った。
「これ」
差し出されたのは、さっき私が見ていた鍵の表紙の小説だった。
「え?」
「買いました」
「なんで?」
「灯理さんが、気にしていたので」
そんなふうに見ていたのか。
私は袋を受け取れずに、彼を見た。
「もらえません」
「重いですか」
「重いというか」
「本です」
「そういう意味じゃなくて」
利月くんは少し困った顔をする。
「すみません。こういうの、慣れていなくて」
私は笑ってしまった。
「でしょうね」
「はい」
彼は本の袋を少しだけ下げた。
「でも、渡したかったんです」
その言葉に、胸がやわらかくなる。
プレゼントというには小さい。
でも、ただの本ではない。
私が一瞬見たものを、彼が覚えていた。
それが嬉しかった。
「ありがとうございます」
私は袋を受け取った。
指先が少し触れた。
ほんの少し。
それだけなのに、胸が跳ねた。
利月くんも、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
気づいたのだと思う。
触れたことに。
二人とも、何も言わなかった。
本屋を出ると、夕方の空は少し青く残っていた。
夜でもなく、昼でもない時間。
今の私たちみたいだと思った。
恋人でもなく、ただの知り合いでもない。
デートでもなく、用事だけでもない。
名前のない関係。
でも、私はもうそれを怖いだけだとは思わなかった。
「灯理さん」
利月くんが呼んだ。
「はい」
「次も、こういうふうに会えますか」
胸が鳴った。
次。
ちゃんと次と言った。
「はい」
私は答えた。
「会いたいです」
利月くんは、少しだけ目を細めた。
「俺もです」
短い。
でも、今の私にはちゃんと届いた。
帰りの車の中で、私は本の袋を抱えていた。
硝子の鍵。
そのタイトルが、袋の中から静かに私を見ている気がした。
鍵は閉じるためだけじゃない。
開けるためにもある。
名前のない関係にも、きっと鍵はある。
まだ開かない扉。
まだ怖くて触れられない言葉。
まだ言えない未来。
でも、その前に立つことを、私はもうやめたくなかった。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、名前のない約束の形をしていた。
寂しさと嬉しさが、同じ輪っかに通された、
小さくて静かな鍵だった。

