マフラーを返してもらう。
それだけの理由なら、たぶん自然だった。
会う理由としては十分で、踏み込みすぎてもいない。
灯理さんにも、陽斗にも、学校にも、余計な影を落とさずに済む。
そう思った。
思おうとした。
けれど、メッセージ画面を見つめながら、俺は自分がそんなに冷静ではないことに気づいていた。
明日、少しだけ会えますか。
マフラーを返したいです。
灯理さんから届いたその文を、何度も読んだ。
少しだけ。
マフラーを返したい。
その言葉の後ろに、会いたいという気持ちがあるのかどうか。
勝手に期待するのはよくない。
分かっている。
分かっているのに、胸のどこかが勝手に期待してしまう。
俺は返信欄を開いた。
はい。
仕事のあとなら。
そこまでは打てた。
問題は、そのあとだった。
どこで会うか。
東京タワー。
最初に浮かんだのは、やっぱりそこだった。
でも、指は止まった。
東京タワーは、もうただの場所ではない。
母の記憶がある。
灯理さんの秘密が開いた場所でもある。
俺たちが、少しずつ互いの鍵を見せ合った場所でもある。
だからこそ、軽く使ってはいけない気がした。
それに、あそこは夜の場所だ。
眠れない時に行く場所。
誰にも言えないことを話す場所。
弱くなることを許してしまう場所。
マフラーを返してもらうために会うなら、違う。
もっと普通の場所。
でも、普通とは何だろう。
カフェ。
そう思った瞬間、自分で少し戸惑った。
カフェで会う。
それは、どう見ても少しだけデートに近い。
デート。
その言葉が頭に浮かんで、すぐに消した。
早い。
まだ早い。
灯理さんのことは、好きだ。
そう言った。
好きだけで終わらせたくない、とも言った。
でも、だからといって今すぐ全部を恋人同士の形にしていいわけではない。
陽斗がいる。
陽斗は俺の学校の児童で、佐伯のクラスの子で、図書室に来る子で、月の本を借りる子で。
そして、灯理さんの息子だ。
俺が軽く踏み込めば、その影は灯理さんだけではなく陽斗にも届く。
それが怖い。
怖いと思うことが、臆病なのか誠実なのか、まだ自分でも分からなかった。
ただひとつ分かるのは、雑にはしたくないということだった。
灯理さんのことも。
陽斗のことも。
俺はもう一度、スマホを見た。
返信はまだ途中だった。
はい。
仕事のあとなら。
その下に、ゆっくり打つ。
東京タワーじゃなくてもいいですか。
送った。
すぐに既読がついた。
少しして、灯理さんから返事が来る。
はい。
どこにしますか。
どこにしますか。
その一文に、また指が止まる。
俺が決めるのか。
いや、俺が誘う流れなのだから、決めるべきなのだろう。
でも、学校の近くは避けたい。
陽斗や保護者、同僚に見られる可能性がある。
それが悪いことだと決まったわけではない。
けれど、まだ説明できる段階でもない。
俺は正直に打った。
学校の近くではない方がいいですよね。
返事はすぐだった。
はい。
陽斗のこともありますし。
その一文で、少しだけ息がしやすくなった。
灯理さんも、同じところを見ている。
恋のことだけではなく、陽斗のことを先に置いてくれている。
当然のことなのかもしれない。
でも、その当然が嬉しかった。
俺は地図アプリを開いた。
学校から離れている。
灯理さんの会社にも近すぎない。
人が多すぎず、暗すぎず、席の間隔がある。
条件ばかりが増えていく。
本当に、何をしているんだろう。
カフェを探しているだけなのに、まるで教材選びみたいに慎重になっている。
でも、これでいい。
たぶん、俺はこういう男なのだ。
勢いで抱きしめたり、迷いなく好きだと言い続けたり、すぐに未来を約束したりはできない。
その代わり、場所を選ぶ。
時間を考える。
陽斗のことを考える。
灯理さんが帰りやすいかも考える。
ロマンチックではない。
でも、俺なりに大事にしているつもりだった。
では、人の少ないカフェを探します。
送ると、少しして返事が来た。
ありがとうございます。
そのあとに、もう一通。
デートみたいですね。
画面を見て、固まった。
デート。
灯理さんの方から、その言葉が来た。
冗談かもしれない。
軽く言っただけかもしれない。
でも、心臓が大きく鳴った。
返信欄を開いて、閉じる。
何と返せばいい。
そうですね、と言えばいいのか。
違います、と言えばいいのか。
違います、は違う。
でも、そうですね、とも言い切れない。
俺はしばらく画面を見つめたまま、言葉を探した。
そして、正直に打った。
デートと呼ぶには、まだ少し早い気がします。
送信した瞬間、言い方が硬すぎたかもしれないと思った。
拒絶みたいに見えないだろうか。
慌てて、もう一文打つ。
でも、会いたい気持ちまで早いとは思っていません。
送ってから、スマホを伏せた。
顔が熱い。
何を言っているんだ、俺は。
でも、嘘ではなかった。
デートという言葉を使うには、まだ早い。
でも、会いたい。
それは本当だった。
しばらくして、スマホが震えた。
灯理さんからだった。
そういうところ、登坂さんですね。
その次に、
でも、嬉しいです。
短い言葉。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけた。
俺は返信した。
俺もです。
また短い。
でも、今はそれで精一杯だった。
⸻
翌日、カフェに着いたのは約束の二十分前だった。
早すぎる。
自分でもそう思った。
でも、遅れるよりはいい。
店内は静かで、窓際の席は空いていた。
俺は奥の席を選んだ。
入り口から見えにくい。
でも、閉じすぎてもいない。
灯理さんが怖くならない場所。
そう考えて席を選んでいる自分に、少しだけ苦笑した。
メニューを開いても、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
カフェラテ。
紅茶。
コーヒー。
どれでもいい。
問題は、飲み物ではなかった。
マフラーを返してもらう。
少しだけ話す。
それだけ。
それだけのはずなのに、心臓が落ち着かない。
灯理さんは、昨日の夜、好きだと言った。
俺も、好きですと言った。
でも、その言葉の後に何が続くのか、まだ分からない。
好きです、と言ったら恋人になるわけではない。
少なくとも、俺たちの場合は違う。
陽斗がいる。
学校がある。
灯理さんの会社がある。
年齢のことも、家族のことも、まだ何も軽くなっていない。
それでも。
好きだと言ったあとに会うのは、やっぱり特別だった。
ドアベルが鳴った。
顔を上げる。
灯理さんが入ってきた。
黒のコート。
少し迷ったような表情。
手には、紙袋。
俺のマフラーが入っているのだろう。
目が合った。
ほんの一瞬。
灯理さんは、また少しだけ視線を逸らした。
その仕草を見るたびに、胸が痛む。
嫌われているわけではない。
それはもう聞いた。
俺の方が緊張するのだと、彼女は言った。
隣にいるだけで精一杯だと。
分かっているのに、目を逸らされるとまだ少し不安になる。
俺も、面倒くさい。
「お待たせしました」
灯理さんが席に来た。
「いえ」
俺は立ち上がりかけて、やめた。
不自然になる。
でも座ったままも変だったかもしれない。
自分の動きが、全部ぎこちない。
灯理さんが少し笑った。
「今、立つか迷いました?」
「はい」
正直に答えると、彼女は小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけ緊張が解けた。
「マフラー、ありがとうございました」
灯理さんが紙袋を差し出す。
受け取る。
中には、きれいに畳まれたマフラーが入っていた。
俺はそれを見て、なぜか少し寂しくなった。
返してもらうために会ったのに。
返されたら、理由がひとつなくなる。
そんなことを思ってしまう自分に、少し驚いた。
「使いましたか」
聞くと、灯理さんは頷いた。
「はい」
「寒かったですか」
「寒かったです」
「なら、よかったです」
「マフラーとして?」
灯理さんが少しだけ意地悪く聞く。
俺は言葉に詰まった。
それだけではない。
でも、何と言えばいい。
温めたかった?
それは変だ。
守りたかった?
もっと変だ。
会う理由がほしかった?
それは、少し本当すぎる。
「それだけではないです」
やっと言った。
「でも、うまく言えません」
灯理さんは、少しだけ目を細めた。
「考えてからでいいです」
その言葉に、胸が静かになった。
待ってくれている。
俺の遅い言葉を、急かさずに。
「灯理さん、待つの上手くなりました?」
聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「少しだけ」
「俺のせいですか」
「だいぶ」
胸が痛くなった。
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
でも、そのいつもが少しずつ二人のものになっている気がした。
飲み物を注文して、少しだけ沈黙が落ちた。
東京タワーの下では、沈黙が似合った。
夜風や光が、言葉の間を埋めてくれた。
でもカフェの沈黙は違う。
カップの音。
店員の足音。
遠くの席の話し声。
日常の音がある。
ここで黙っていると、本当に何を話せばいいのか分からなくなる。
先に口を開いたのは、灯理さんだった。
「陽斗、今日普通だったって言ってました」
「はい」
「登坂先生も普通だったって」
「普通でいるの、意識しました」
「それ、不自然じゃないですか」
「不自然にならないように、意識しました」
灯理さんが笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で泣きそうに笑う顔とは少し違っていた。
日常の中の笑顔。
俺はその顔を、もっと見たいと思った。
「陽斗に」
灯理さんがカップを両手で包みながら言った。
「少しだけ、気づかれました」
「何を」
「私が、登坂さんのことを気にしていること」
心臓が静かに鳴る。
「マフラーも見つかりました」
「すみません」
「謝らないでください」
「でも」
「陽斗は、登坂先生はいい先生だって言っていました」
言葉が止まった。
陽斗が。
「細かいけど、静かだけど、ちゃんと見てるって」
胸の奥に、ゆっくり何かが落ちた。
嬉しい。
たぶん、単純にそう思った。
教師として。
ひとりの大人として。
そして、灯理さんの大事な子どもにそう言ってもらえたことが。
「それは、嬉しいです」
やっと言うと、灯理さんは少しだけ微笑んだ。
「困る人じゃないならいいって」
その一言に、俺はカップに伸ばしかけた手を止めた。
困る人。
陽斗にとって。
灯理さんにとって。
俺は、どういう人になるのだろう。
なりたいのだろう。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、陽斗にとって困る人にはなりたくないです」
彼女の目が少し揺れた。
「はい」
「もちろん、灯理さんにとっても」
言いながら、自分の言葉の重さに少しだけ怖くなる。
俺は、どこまで踏み込もうとしているのだろう。
でも止められなかった。
「今すぐ、全部うまくできるとは思っていません」
「はい」
「学校のことも、陽斗のことも、灯理さんの立場も、考えなきゃいけないことがあります」
「はい」
「でも」
俺は息を吸った。
「それでも、会いたいと思っています」
やっと言えた。
デートとは呼べない。
でも、会いたい。
その言葉なら、今の俺にも言える。
灯理さんの目が、少しだけ潤んだ。
「私もです」
小さな声。
でも、ちゃんと届いた。
「会いたいです」
その言葉を受け取った瞬間、胸の奥が熱くなった。
好きです、と言われた時とはまた違う。
会いたい。
その具体的な言葉は、逃げ場がない。
俺は灯理さんを見た。
彼女は、今度は目を逸らさなかった。
長くはない。
それでも、前より長く。
その数秒で、十分だった。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、好きという言葉を」
そこまで言って、止まった。
軽く使えない。
そう言おうとしていた。
でも、言葉が思ったより奥から出てきてしまっていた。
好き。
その言葉だけで足りるのか。
灯理さんのことを知ってしまった。
社長として立つ彼女。
母として陽斗を見つめる彼女。
教室を離れた日の痛みを抱えている彼女。
父のことで電話をかけてきた夜の、弱い声の彼女。
全部を知ってしまった。
少なくとも、その一部に触れてしまった。
それなのに、好きです、だけでいいのか。
「軽く使えません」
やっと続ける。
灯理さんは黙っていた。
「たぶん、俺が今思っていることは、好きという言葉より重いです」
言ってから、自分でも心臓が鳴った。
重い。
あまりにも正直だった。
「それは」
灯理さんが言いかけて、止まる。
俺はカップの縁を見た。
逃げたい。
でも、逃げない。
「灯理さんのことを、軽く好きだとは言えないです」
声が少し掠れた。
「陽斗のことも、社長としての灯理さんも、教室を離れた灯理さんも、全部知ってしまったので」
知ってしまった。
そう。
もう知らなかった頃には戻れない。
「だから、好きです、とだけ言うと、なんだか足りない気がします」
顔を上げる。
灯理さんと目が合った。
今度は、彼女も逸らさなかった。
「でも、愛してますって言うには、まだ怖いです」
言った。
言ってしまった。
空気が止まった気がした。
愛してます。
その言葉を口にした瞬間、自分の中でも何かが大きく動いた。
言うつもりはなかった。
少なくとも、今日言うつもりではなかった。
でも、好きより重い言葉を探したら、そこに触れてしまった。
灯理さんの目が大きく揺れた。
「登坂さん」
「はい」
「それ、ほとんど言ってます」
返す言葉がなかった。
少し遅れて、自分でも気づく。
たしかに、ほとんど言っている。
「……そうですね」
「自覚なかったんですか」
「言ってから、少し」
灯理さんは泣きそうな顔で笑った。
その顔を見て、胸が締めつけられる。
泣かせたいわけじゃない。
でも、何も動かさずにいることも、もうできなかった。
灯理さんは、カップを置いた。
「私は」
その声は、少し震えていた。
「好きです」
息が止まる。
「まだ、愛してますって言う勇気はないです」
正直な言葉。
「でも、あなたのことが好きです。目を見られないくらい。返事を待つだけで苦しくなるくらい。隣にいると、嬉しすぎて困るくらい」
涙が、彼女の目に浮かぶ。
「好きです」
二回目の好きが、胸の真ん中に届いた。
俺はしばらく何も言えなかった。
言葉が追いつかなかった。
でも、黙ったままではいけない。
これは、ちゃんと返すべき言葉だ。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで一度、止まる。
軽くない。
でも、怖がってばかりもいられない。
「好きです」
静かな声だった。
自分でも驚くくらい、静かだった。
でも、確かに言った。
「でも」
俺は続けた。
「たぶん、好きだけで終わらせたくないです」
灯理さんの涙が、頬を伝った。
「はい」
その返事だけで、十分だった。
カフェの片隅で、俺たちはしばらく黙っていた。
手を繋ぐこともなかった。
抱きしめることもなかった。
でも、言葉だけでこんなに近づいてしまうのかと思った。
それが少し怖くて、でも、嬉しかった。
店を出ると、夜風が冷たかった。
灯理さんが少し肩をすくめる。
紙袋の中には、返してもらったマフラーがある。
俺はそれを取り出した。
「え?」
灯理さんが目を丸くする。
「寒いなら」
「返したばかりです」
「はい」
「また貸すんですか」
少しだけ迷った。
でも、今度は言えた。
「次に会う理由が、もう一つ増えます」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
灯理さんは泣き笑いの顔になった。
「ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
何度目か分からないやり取り。
でも今夜は、それが約束みたいに聞こえた。
俺は彼女の首元にマフラーをかけた。
前より少しだけ自然にできた気がする。
それでも、指先は少しぎこちなかった。
灯理さんは目を閉じて、ほんの少しだけマフラーに顔をうずめた。
その仕草を見た瞬間、抱きしめたいと思った。
でも、しなかった。
まだ早い。
そう思ったのは、臆病だからかもしれない。
でも、今日の俺たちには、この距離が必要だった。
「登坂さん」
「はい」
「次は、ちゃんと決めてください」
「何をですか」
「会う日」
胸が鳴った。
会う日。
次がある。
俺は少し考えた。
デートと呼ぶには、まだ早い。
でも、会いたい気持ちまで早いとは思わない。
「週末、少しだけ時間ありますか」
「あります」
即答だった。
灯理さんも自分で驚いたような顔をした。
俺は少し笑った。
「無理しないでください」
「無理じゃないです」
「では」
言葉を選ぶ。
会いましょう。
それだけなのに、少し緊張した。
「会いましょう」
灯理さんは頷いた。
「はい」
夜の街に、東京タワーは見えなかった。
それでも、足元から立っている感じがした。
デートとは、まだ呼べない。
でも、ただの用事でもない。
俺たちはその中間で、まだ名前のない約束をした。
硝子の鍵は、音もなくひとつ回った。
好きより先の言葉には、まだ届かない。
でも、その手前に立つことを、俺はもう怖いだけだとは思わなかった。
それだけの理由なら、たぶん自然だった。
会う理由としては十分で、踏み込みすぎてもいない。
灯理さんにも、陽斗にも、学校にも、余計な影を落とさずに済む。
そう思った。
思おうとした。
けれど、メッセージ画面を見つめながら、俺は自分がそんなに冷静ではないことに気づいていた。
明日、少しだけ会えますか。
マフラーを返したいです。
灯理さんから届いたその文を、何度も読んだ。
少しだけ。
マフラーを返したい。
その言葉の後ろに、会いたいという気持ちがあるのかどうか。
勝手に期待するのはよくない。
分かっている。
分かっているのに、胸のどこかが勝手に期待してしまう。
俺は返信欄を開いた。
はい。
仕事のあとなら。
そこまでは打てた。
問題は、そのあとだった。
どこで会うか。
東京タワー。
最初に浮かんだのは、やっぱりそこだった。
でも、指は止まった。
東京タワーは、もうただの場所ではない。
母の記憶がある。
灯理さんの秘密が開いた場所でもある。
俺たちが、少しずつ互いの鍵を見せ合った場所でもある。
だからこそ、軽く使ってはいけない気がした。
それに、あそこは夜の場所だ。
眠れない時に行く場所。
誰にも言えないことを話す場所。
弱くなることを許してしまう場所。
マフラーを返してもらうために会うなら、違う。
もっと普通の場所。
でも、普通とは何だろう。
カフェ。
そう思った瞬間、自分で少し戸惑った。
カフェで会う。
それは、どう見ても少しだけデートに近い。
デート。
その言葉が頭に浮かんで、すぐに消した。
早い。
まだ早い。
灯理さんのことは、好きだ。
そう言った。
好きだけで終わらせたくない、とも言った。
でも、だからといって今すぐ全部を恋人同士の形にしていいわけではない。
陽斗がいる。
陽斗は俺の学校の児童で、佐伯のクラスの子で、図書室に来る子で、月の本を借りる子で。
そして、灯理さんの息子だ。
俺が軽く踏み込めば、その影は灯理さんだけではなく陽斗にも届く。
それが怖い。
怖いと思うことが、臆病なのか誠実なのか、まだ自分でも分からなかった。
ただひとつ分かるのは、雑にはしたくないということだった。
灯理さんのことも。
陽斗のことも。
俺はもう一度、スマホを見た。
返信はまだ途中だった。
はい。
仕事のあとなら。
その下に、ゆっくり打つ。
東京タワーじゃなくてもいいですか。
送った。
すぐに既読がついた。
少しして、灯理さんから返事が来る。
はい。
どこにしますか。
どこにしますか。
その一文に、また指が止まる。
俺が決めるのか。
いや、俺が誘う流れなのだから、決めるべきなのだろう。
でも、学校の近くは避けたい。
陽斗や保護者、同僚に見られる可能性がある。
それが悪いことだと決まったわけではない。
けれど、まだ説明できる段階でもない。
俺は正直に打った。
学校の近くではない方がいいですよね。
返事はすぐだった。
はい。
陽斗のこともありますし。
その一文で、少しだけ息がしやすくなった。
灯理さんも、同じところを見ている。
恋のことだけではなく、陽斗のことを先に置いてくれている。
当然のことなのかもしれない。
でも、その当然が嬉しかった。
俺は地図アプリを開いた。
学校から離れている。
灯理さんの会社にも近すぎない。
人が多すぎず、暗すぎず、席の間隔がある。
条件ばかりが増えていく。
本当に、何をしているんだろう。
カフェを探しているだけなのに、まるで教材選びみたいに慎重になっている。
でも、これでいい。
たぶん、俺はこういう男なのだ。
勢いで抱きしめたり、迷いなく好きだと言い続けたり、すぐに未来を約束したりはできない。
その代わり、場所を選ぶ。
時間を考える。
陽斗のことを考える。
灯理さんが帰りやすいかも考える。
ロマンチックではない。
でも、俺なりに大事にしているつもりだった。
では、人の少ないカフェを探します。
送ると、少しして返事が来た。
ありがとうございます。
そのあとに、もう一通。
デートみたいですね。
画面を見て、固まった。
デート。
灯理さんの方から、その言葉が来た。
冗談かもしれない。
軽く言っただけかもしれない。
でも、心臓が大きく鳴った。
返信欄を開いて、閉じる。
何と返せばいい。
そうですね、と言えばいいのか。
違います、と言えばいいのか。
違います、は違う。
でも、そうですね、とも言い切れない。
俺はしばらく画面を見つめたまま、言葉を探した。
そして、正直に打った。
デートと呼ぶには、まだ少し早い気がします。
送信した瞬間、言い方が硬すぎたかもしれないと思った。
拒絶みたいに見えないだろうか。
慌てて、もう一文打つ。
でも、会いたい気持ちまで早いとは思っていません。
送ってから、スマホを伏せた。
顔が熱い。
何を言っているんだ、俺は。
でも、嘘ではなかった。
デートという言葉を使うには、まだ早い。
でも、会いたい。
それは本当だった。
しばらくして、スマホが震えた。
灯理さんからだった。
そういうところ、登坂さんですね。
その次に、
でも、嬉しいです。
短い言葉。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけた。
俺は返信した。
俺もです。
また短い。
でも、今はそれで精一杯だった。
⸻
翌日、カフェに着いたのは約束の二十分前だった。
早すぎる。
自分でもそう思った。
でも、遅れるよりはいい。
店内は静かで、窓際の席は空いていた。
俺は奥の席を選んだ。
入り口から見えにくい。
でも、閉じすぎてもいない。
灯理さんが怖くならない場所。
そう考えて席を選んでいる自分に、少しだけ苦笑した。
メニューを開いても、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
カフェラテ。
紅茶。
コーヒー。
どれでもいい。
問題は、飲み物ではなかった。
マフラーを返してもらう。
少しだけ話す。
それだけ。
それだけのはずなのに、心臓が落ち着かない。
灯理さんは、昨日の夜、好きだと言った。
俺も、好きですと言った。
でも、その言葉の後に何が続くのか、まだ分からない。
好きです、と言ったら恋人になるわけではない。
少なくとも、俺たちの場合は違う。
陽斗がいる。
学校がある。
灯理さんの会社がある。
年齢のことも、家族のことも、まだ何も軽くなっていない。
それでも。
好きだと言ったあとに会うのは、やっぱり特別だった。
ドアベルが鳴った。
顔を上げる。
灯理さんが入ってきた。
黒のコート。
少し迷ったような表情。
手には、紙袋。
俺のマフラーが入っているのだろう。
目が合った。
ほんの一瞬。
灯理さんは、また少しだけ視線を逸らした。
その仕草を見るたびに、胸が痛む。
嫌われているわけではない。
それはもう聞いた。
俺の方が緊張するのだと、彼女は言った。
隣にいるだけで精一杯だと。
分かっているのに、目を逸らされるとまだ少し不安になる。
俺も、面倒くさい。
「お待たせしました」
灯理さんが席に来た。
「いえ」
俺は立ち上がりかけて、やめた。
不自然になる。
でも座ったままも変だったかもしれない。
自分の動きが、全部ぎこちない。
灯理さんが少し笑った。
「今、立つか迷いました?」
「はい」
正直に答えると、彼女は小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけ緊張が解けた。
「マフラー、ありがとうございました」
灯理さんが紙袋を差し出す。
受け取る。
中には、きれいに畳まれたマフラーが入っていた。
俺はそれを見て、なぜか少し寂しくなった。
返してもらうために会ったのに。
返されたら、理由がひとつなくなる。
そんなことを思ってしまう自分に、少し驚いた。
「使いましたか」
聞くと、灯理さんは頷いた。
「はい」
「寒かったですか」
「寒かったです」
「なら、よかったです」
「マフラーとして?」
灯理さんが少しだけ意地悪く聞く。
俺は言葉に詰まった。
それだけではない。
でも、何と言えばいい。
温めたかった?
それは変だ。
守りたかった?
もっと変だ。
会う理由がほしかった?
それは、少し本当すぎる。
「それだけではないです」
やっと言った。
「でも、うまく言えません」
灯理さんは、少しだけ目を細めた。
「考えてからでいいです」
その言葉に、胸が静かになった。
待ってくれている。
俺の遅い言葉を、急かさずに。
「灯理さん、待つの上手くなりました?」
聞くと、彼女は少しだけ笑った。
「少しだけ」
「俺のせいですか」
「だいぶ」
胸が痛くなった。
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
でも、そのいつもが少しずつ二人のものになっている気がした。
飲み物を注文して、少しだけ沈黙が落ちた。
東京タワーの下では、沈黙が似合った。
夜風や光が、言葉の間を埋めてくれた。
でもカフェの沈黙は違う。
カップの音。
店員の足音。
遠くの席の話し声。
日常の音がある。
ここで黙っていると、本当に何を話せばいいのか分からなくなる。
先に口を開いたのは、灯理さんだった。
「陽斗、今日普通だったって言ってました」
「はい」
「登坂先生も普通だったって」
「普通でいるの、意識しました」
「それ、不自然じゃないですか」
「不自然にならないように、意識しました」
灯理さんが笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で泣きそうに笑う顔とは少し違っていた。
日常の中の笑顔。
俺はその顔を、もっと見たいと思った。
「陽斗に」
灯理さんがカップを両手で包みながら言った。
「少しだけ、気づかれました」
「何を」
「私が、登坂さんのことを気にしていること」
心臓が静かに鳴る。
「マフラーも見つかりました」
「すみません」
「謝らないでください」
「でも」
「陽斗は、登坂先生はいい先生だって言っていました」
言葉が止まった。
陽斗が。
「細かいけど、静かだけど、ちゃんと見てるって」
胸の奥に、ゆっくり何かが落ちた。
嬉しい。
たぶん、単純にそう思った。
教師として。
ひとりの大人として。
そして、灯理さんの大事な子どもにそう言ってもらえたことが。
「それは、嬉しいです」
やっと言うと、灯理さんは少しだけ微笑んだ。
「困る人じゃないならいいって」
その一言に、俺はカップに伸ばしかけた手を止めた。
困る人。
陽斗にとって。
灯理さんにとって。
俺は、どういう人になるのだろう。
なりたいのだろう。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、陽斗にとって困る人にはなりたくないです」
彼女の目が少し揺れた。
「はい」
「もちろん、灯理さんにとっても」
言いながら、自分の言葉の重さに少しだけ怖くなる。
俺は、どこまで踏み込もうとしているのだろう。
でも止められなかった。
「今すぐ、全部うまくできるとは思っていません」
「はい」
「学校のことも、陽斗のことも、灯理さんの立場も、考えなきゃいけないことがあります」
「はい」
「でも」
俺は息を吸った。
「それでも、会いたいと思っています」
やっと言えた。
デートとは呼べない。
でも、会いたい。
その言葉なら、今の俺にも言える。
灯理さんの目が、少しだけ潤んだ。
「私もです」
小さな声。
でも、ちゃんと届いた。
「会いたいです」
その言葉を受け取った瞬間、胸の奥が熱くなった。
好きです、と言われた時とはまた違う。
会いたい。
その具体的な言葉は、逃げ場がない。
俺は灯理さんを見た。
彼女は、今度は目を逸らさなかった。
長くはない。
それでも、前より長く。
その数秒で、十分だった。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、好きという言葉を」
そこまで言って、止まった。
軽く使えない。
そう言おうとしていた。
でも、言葉が思ったより奥から出てきてしまっていた。
好き。
その言葉だけで足りるのか。
灯理さんのことを知ってしまった。
社長として立つ彼女。
母として陽斗を見つめる彼女。
教室を離れた日の痛みを抱えている彼女。
父のことで電話をかけてきた夜の、弱い声の彼女。
全部を知ってしまった。
少なくとも、その一部に触れてしまった。
それなのに、好きです、だけでいいのか。
「軽く使えません」
やっと続ける。
灯理さんは黙っていた。
「たぶん、俺が今思っていることは、好きという言葉より重いです」
言ってから、自分でも心臓が鳴った。
重い。
あまりにも正直だった。
「それは」
灯理さんが言いかけて、止まる。
俺はカップの縁を見た。
逃げたい。
でも、逃げない。
「灯理さんのことを、軽く好きだとは言えないです」
声が少し掠れた。
「陽斗のことも、社長としての灯理さんも、教室を離れた灯理さんも、全部知ってしまったので」
知ってしまった。
そう。
もう知らなかった頃には戻れない。
「だから、好きです、とだけ言うと、なんだか足りない気がします」
顔を上げる。
灯理さんと目が合った。
今度は、彼女も逸らさなかった。
「でも、愛してますって言うには、まだ怖いです」
言った。
言ってしまった。
空気が止まった気がした。
愛してます。
その言葉を口にした瞬間、自分の中でも何かが大きく動いた。
言うつもりはなかった。
少なくとも、今日言うつもりではなかった。
でも、好きより重い言葉を探したら、そこに触れてしまった。
灯理さんの目が大きく揺れた。
「登坂さん」
「はい」
「それ、ほとんど言ってます」
返す言葉がなかった。
少し遅れて、自分でも気づく。
たしかに、ほとんど言っている。
「……そうですね」
「自覚なかったんですか」
「言ってから、少し」
灯理さんは泣きそうな顔で笑った。
その顔を見て、胸が締めつけられる。
泣かせたいわけじゃない。
でも、何も動かさずにいることも、もうできなかった。
灯理さんは、カップを置いた。
「私は」
その声は、少し震えていた。
「好きです」
息が止まる。
「まだ、愛してますって言う勇気はないです」
正直な言葉。
「でも、あなたのことが好きです。目を見られないくらい。返事を待つだけで苦しくなるくらい。隣にいると、嬉しすぎて困るくらい」
涙が、彼女の目に浮かぶ。
「好きです」
二回目の好きが、胸の真ん中に届いた。
俺はしばらく何も言えなかった。
言葉が追いつかなかった。
でも、黙ったままではいけない。
これは、ちゃんと返すべき言葉だ。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで一度、止まる。
軽くない。
でも、怖がってばかりもいられない。
「好きです」
静かな声だった。
自分でも驚くくらい、静かだった。
でも、確かに言った。
「でも」
俺は続けた。
「たぶん、好きだけで終わらせたくないです」
灯理さんの涙が、頬を伝った。
「はい」
その返事だけで、十分だった。
カフェの片隅で、俺たちはしばらく黙っていた。
手を繋ぐこともなかった。
抱きしめることもなかった。
でも、言葉だけでこんなに近づいてしまうのかと思った。
それが少し怖くて、でも、嬉しかった。
店を出ると、夜風が冷たかった。
灯理さんが少し肩をすくめる。
紙袋の中には、返してもらったマフラーがある。
俺はそれを取り出した。
「え?」
灯理さんが目を丸くする。
「寒いなら」
「返したばかりです」
「はい」
「また貸すんですか」
少しだけ迷った。
でも、今度は言えた。
「次に会う理由が、もう一つ増えます」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
灯理さんは泣き笑いの顔になった。
「ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
何度目か分からないやり取り。
でも今夜は、それが約束みたいに聞こえた。
俺は彼女の首元にマフラーをかけた。
前より少しだけ自然にできた気がする。
それでも、指先は少しぎこちなかった。
灯理さんは目を閉じて、ほんの少しだけマフラーに顔をうずめた。
その仕草を見た瞬間、抱きしめたいと思った。
でも、しなかった。
まだ早い。
そう思ったのは、臆病だからかもしれない。
でも、今日の俺たちには、この距離が必要だった。
「登坂さん」
「はい」
「次は、ちゃんと決めてください」
「何をですか」
「会う日」
胸が鳴った。
会う日。
次がある。
俺は少し考えた。
デートと呼ぶには、まだ早い。
でも、会いたい気持ちまで早いとは思わない。
「週末、少しだけ時間ありますか」
「あります」
即答だった。
灯理さんも自分で驚いたような顔をした。
俺は少し笑った。
「無理しないでください」
「無理じゃないです」
「では」
言葉を選ぶ。
会いましょう。
それだけなのに、少し緊張した。
「会いましょう」
灯理さんは頷いた。
「はい」
夜の街に、東京タワーは見えなかった。
それでも、足元から立っている感じがした。
デートとは、まだ呼べない。
でも、ただの用事でもない。
俺たちはその中間で、まだ名前のない約束をした。
硝子の鍵は、音もなくひとつ回った。
好きより先の言葉には、まだ届かない。
でも、その手前に立つことを、俺はもう怖いだけだとは思わなかった。

