硝子の鍵

利月くんのマフラーは、部屋に戻ってもまだ温かかった。

もちろん、本当に温かいわけじゃない。

夜の風にさらされて、タクシーの中で少し冷えて、部屋に入る頃にはただの布になっていたはずだ。

それなのに、首元に残った感触が消えなかった。

次に会う理由になります。

あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が変なふうに鳴る。

利月くんは、たぶん計算して言ったわけじゃない。

むしろ、言ってから自分で少し驚いていた。

そういうところが、ずるい。

言葉が少ない。
返事は遅い。
安心させるのも下手。

なのに、ふいに心の一番深いところへ鍵を落としていく。

私はマフラーをそっと外して、ソファの背もたれに置いた。

返さなきゃ。

そう思うのに、少しだけ返したくなかった。

借りている間は、まだ次がある気がするから。

「お母さん、それ誰の?」

背後から声がして、私は飛び上がりそうになった。

振り返ると、陽斗が寝ぼけた顔で立っていた。

「起きたの?」

「水飲みに来た」

陽斗は私ではなく、ソファの上のマフラーを見ている。

「お母さんのじゃないよね」

心臓が跳ねた。

「借りたの」

「誰に?」

「……知り合い」

「ふうん」

陽斗は冷蔵庫から水を出して、コップに注ぐ。

子どもは、こういう時の「ふうん」が一番怖い。

何も知らない顔をして、ちゃんと何かを拾っている。

「男の人?」

むせそうになった。

「なんで」

「匂いが違う」

「犬みたいなこと言わないで」

「ホプよりは分かる」

「張り合わないで」

陽斗は少し笑って、水を飲んだ。

それから、もう一度マフラーを見る。

「登坂先生?」

時間が止まった。

「……なんで」

声が小さくなった。

陽斗は、まっすぐ私を見た。

「お母さん、最近その名前の時だけ変だから」

子どもは怖い。

大人が鍵をかけたつもりの扉を、何気ない顔で開けようとする。

私はすぐには答えられなかった。

陽斗に嘘をつきたくない。
でも、全部を話すには早すぎる。

利月くんとのことは、まだ形になっていない。

好きなのか。
これからどうなるのか。
学校での距離はどうするのか。

何も決まっていない。

「登坂先生に、借りた」

私はゆっくり答えた。

陽斗の目が、少しだけ大きくなる。

「やっぱり」

「やっぱりって何」

「なんとなく」

「陽斗」

私はソファに座り直した。

「まだ、ちゃんと話せることじゃないの」

陽斗はコップを持ったまま黙っていた。

「でも、嘘をつきたいわけじゃない」

そう言うと、陽斗は少しだけ目を伏せた。

「登坂先生、いい先生だよ」

胸が、痛いくらい柔らかくなる。

「うん」

「細かいけど」

「うん」

「静かだけど、ちゃんと見てる」

「うん」

陽斗は少し考えてから言った。

「お母さんが困る人じゃないなら、いい」

その言葉に、涙が出そうになった。

小学五年生の子に、そんなことを言わせてしまう自分が情けない。

でも同時に、この子がちゃんと私を見ていることが、たまらなく愛しかった。

「困る時もあるかも」

私は正直に言った。

「でも、嫌な困り方じゃない」

「何それ」

「お母さんにもまだ分かんない」

陽斗は呆れたように笑った。

「大人なのに?」

「大人でも分からないことあるよ」

「ふうん」

陽斗はコップをシンクに置いた。

「じゃあ、分かったら教えて」

「うん」

「あと、明日学校で変な感じにしないでね」

「それはお母さんが言いたい」

「俺は普通にするし」

「本当に?」

「普通に返却日守る」

「そこ?」

陽斗は少し笑って、寝室へ戻っていった。

私はその背中を見送った。

陽斗に、少しだけ知られた。

それでも、世界は壊れなかった。

壊れなかったことに、私は少しだけ驚いていた。

翌日、マフラーを返す約束はしていなかった。

けれど朝、利月くんからメッセージが届いた。

昨日のマフラー、急がなくて大丈夫です。

私は画面を見て、少し笑った。

返さなくていい、と言わないところが利月くんらしい。

陽斗に見つかりました。

送ってから、少しだけ緊張した。

既読は、少し遅れてついた。

返事が来るまでの数分、私は落ち着かなかった。

すみません。

やっぱり謝る。

私は笑ってしまった。

謝るところじゃないです。

すぐには返ってこなかった。

そして、少ししてから届いた。

陽斗、何か言っていましたか。

私は迷った。

そのまま伝えていいのか。

でも、隠すほどのことでもない。

登坂先生はいい先生だと言っていました。
細かいけど、静かだけど、ちゃんと見てるって。

送信。

今度は、既読がつくまで少し時間がかかった。

返事も、しばらく来なかった。

利月くんは、たぶん今、ちゃんと受け取っている。

そう思った。

前なら、その沈黙に不安になった。

今も不安はある。

でも少しだけ、待てる。

やがて、返事が来た。

それは、嬉しいです。

短い。

でも、胸に届く。

続けて、もう一通。

陽斗には、ちゃんと普通でいます。

私は画面を見ながら、小さく息を吐いた。

私も、ちゃんと母でいます。

そう返した。

少し間が空いて、

はい。

それだけ。

でも、その「はい」がなぜか頼もしかった。

夕方、陽斗はいつも通り帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

私は少し緊張していた。

朝のやり取りのあと、学校で利月くんと陽斗がどう接したのか気になっていた。

でも陽斗はいつも通り鞄を置き、冷蔵庫から水を出し、当たり前のように言った。

「登坂先生、普通だった」

「え?」

「お母さん、気にしてると思って」

また読まれている。

私は少し情けなくなった。

「普通って?」

「返却日言われた」

「それが普通なんだ」

「うん。あと、廊下早歩きしてたら注意された」

「走ってたんでしょ」

「早歩き」

陽斗は口を尖らせた。

「でも、普通だったよ」

その一言に、私は救われた。

利月くんは、ちゃんと普通でいてくれた。

陽斗の前で、急に特別な顔をしなかった。
変に距離を取ることも、近づきすぎることもしなかった。

ちゃんと先生でいてくれた。

それが、こんなにありがたいなんて思わなかった。

夜、私はマフラーを紙袋に入れた。

返したくない気持ちはまだある。

でも、返すことでまた会える。

その理由を、利月くんがくれた。

明日、少しだけ会えますか。
マフラーを返したいです。

送ると、返事は二十分後だった。

はい。
仕事のあとなら。

そのあとに、もう一通。

東京タワーじゃなくてもいいですか。

胸が鳴った。

東京タワーではない場所。

夜の秘密ではない場所。

少しずつ、私たちは別の場所へ出ようとしている。

はい。
どこにしますか。

返事は、やっぱり少し遅かった。

学校の近くではない方がいいですよね。

現実。

ちゃんと現実を見てくれている言葉だった。

私は少し苦笑した。

はい。
陽斗のこともありますし。

では、人の少ないカフェを探します。

人の少ないカフェ。

ものすごく普通の提案なのに、胸がいっぱいになる。

東京タワーの下で泣きそうな話ばかりしてきた私たちが、カフェで会う。

それだけで、恋が少しだけ日常に降りてくる気がした。

翌日の夜、指定されたカフェは、大通りから少し入った静かな場所にあった。

照明は暗すぎず、明るすぎず、席と席の距離も少しある。

利月くんらしい選び方だと思った。

店に入ると、彼はもう席に座っていた。

黒いコート。
手元には水のグラス。
少し緊張したように、メニューを見ている。

「お待たせしました」

私が声をかけると、利月くんは顔を上げた。

「いえ」

目が合う。

私は、また少しだけ逸らしそうになった。

でも、今日は頑張って一秒だけ見た。

一秒。

たったそれだけなのに、胸が忙しい。

「マフラー」

私は紙袋を差し出した。

「ありがとうございました」

利月くんは受け取って、少しだけ手を止めた。

「使いましたか」

「はい」

「寒かったですか」

「寒かったです」

そう答えると、彼は少しだけ安心したような顔をした。

「ならよかったです」

私は笑った。

「マフラーの役目として?」

「はい」

「それだけ?」

少しだけ意地悪に聞いてしまった。

利月くんは、困ったように目を伏せた。

「それだけではないです」

心臓が跳ねる。

「でも、うまく言えません」

「考えてからでいいです」

私がそう言うと、利月くんは少しだけ私を見た。

「灯理さん、待つの上手くなりました?」

「少しだけ」

「俺のせいですか」

「だいぶ」

彼は本気で申し訳なさそうな顔をした。

「すみません」

「だから、謝るところじゃないです」

いつもの言葉。

それだけで、少し緊張がほどける。

カフェラテが運ばれてきた。

湯気が上がる。

東京タワーの下では、いつも立って話していた。
寒い夜風の中で、言葉を探していた。

こうして向かい合って座ると、何を話せばいいのか分からなくなる。

でも、それも少し可笑しかった。

「陽斗」

利月くんが静かに切り出した。

「今日、普通でした」

「聞きました」

「陽斗から?」

「はい。登坂先生、普通だったって」

利月くんは少しだけ苦笑した。

「普通でいるの、意識しました」

「不自然ですね」

「不自然にならないように意識しました」

「結果、普通だったみたいです」

「よかったです」

本当にほっとした顔をした。

その顔を見て、私は胸がやわらかくなる。

利月くんは、陽斗を大事に扱おうとしている。

私との関係だけで突っ走らない。
学校での立場を忘れない。
陽斗の違和感をちゃんと気にする。

それは時々じれったい。

でも、きっと誠実なのだ。

「陽斗に」

私はカップを両手で包みながら言った。

「少しだけ、気づかれました」

利月くんの表情が変わる。

「何を」

「私が、登坂さんのことを気にしていること」

彼は黙った。

「マフラーも見つかりました」

「すみません」

「謝らないでください」

「でも」

「陽斗は、登坂先生はいい先生だって言っていました」

利月くんは視線を落とした。

「……それは、嬉しいです」

「困る人じゃないならいいって」

彼の指先が、カップの横で止まった。

「陽斗が?」

「はい」

私は少しだけ笑った。

「十一歳なのに、大人みたいなこと言うんです」

「灯理さんに似ていますね」

「いいところですか、それ」

「いいところだと思います」

すぐに返ってきた。

そういうところ。

利月くんは、たまに迷わず言う。

私は目を伏せた。

「また急に」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

彼は困ったように笑った。

それから、少しだけ真面目な顔になる。

「灯理さん」

「はい」

「俺は、陽斗にとって困る人にはなりたくないです」

胸が静かになる。

「はい」

「もちろん、灯理さんにとっても」

言葉が続いて、私は彼を見た。

利月くんは、カップの縁ではなく、私を見ていた。

「今すぐ、全部うまくできるとは思っていません」

「はい」

「学校のことも、陽斗のことも、灯理さんの立場も、考えなきゃいけないことがあります」

「はい」

「でも」

彼は少しだけ息を吸った。

「それでも、会いたいと思っています」

言葉が、ゆっくり胸に落ちてきた。

会いたい。

また、その言葉。

前より少しだけはっきりしている。

私はカップを持つ手に力を入れた。

「私もです」

声が震えた。

「会いたいです」

利月くんは、少しだけ目を細めた。

その目を見るのが、やっぱり少し怖い。

でも今日は逸らさなかった。

長くはない。

でも、前より長く見られた。

「灯理さん」

「はい」

「俺は、好きという言葉を」

そこで彼は止まった。

心臓が、耳の奥で鳴る。

好き。

言うの?

言わないの?

私は息を止めた。

利月くんは、苦しそうに視線を少し落とした。

「軽く使えません」

ああ。

そう来たか。

胸が少しだけ痛む。

でも、彼は続けた。

「たぶん、俺が今思っていることは、好きという言葉より重いです」

時間が止まった気がした。

カフェの音が遠くなる。

カップを置く音。
誰かの小さな笑い声。
店員さんの足音。

全部が遠い。

「重い?」

やっと聞き返す。

利月くんは、自分でも困ったような顔をしていた。

「はい」

「それは」

私は言いかけて、言葉を飲み込んだ。

言わせたい。

でも、言わせるのが怖い。

その言葉をもらったら、もう戻れなくなる気がした。

利月くんは、カップを見つめたまま、ゆっくり言った。

「灯理さんのことを、軽く好きだとは言えないです」

胸が震える。

「陽斗のことも、社長としての灯理さんも、教室を離れた灯理さんも、全部知ってしまったので」

知ってしまった。

その言葉が、また胸に落ちる。

「だから、好きです、とだけ言うと、なんだか足りない気がします」

利月くんは顔を上げた。

目が合う。

今度は逸らせなかった。

「でも、愛してますって言うには、まだ怖いです」

息が止まった。

愛してます。

その言葉が、利月くんの声で落ちた。

言われたわけではない。

言うには怖いと言われただけ。

それなのに、胸の奥が一気に熱くなる。

「登坂さん」

声が震える。

「それ、ほとんど言ってます」

利月くんは、今さら自分の言葉に気づいたように、少し固まった。

「……そうですね」

「自覚なかったんですか」

「言ってから、少し」

私は泣きそうになりながら笑った。

本当にこの人は。

不器用で、遅くて、でも一度言葉を探し始めると、急に深いところまで来てしまう。

「私は」

私はカップを置いた。

「好きです」

利月くんは私を見る。

「まだ、愛してますって言う勇気はないです」

正直に言った。

「でも、あなたのことが好きです。目を見られないくらい。返事を待つだけで苦しくなるくらい。隣にいると、嬉しすぎて困るくらい」

涙が出てきた。

「好きです」

二回目。

今度は、逃げ道のない言葉だった。

利月くんは、しばらく何も言わなかった。

でも、その沈黙は怖くなかった。

彼の目が、ちゃんと私を見ていたから。

「灯理さん」

「はい」

「俺も」

そこでまた、彼は一度止まった。

けれど今度は、逃げるためではなかった。

ちゃんと言葉を選んでいる。

「好きです」

静かな声だった。

大きな告白ではない。
ドラマみたいな台詞でもない。

でも、利月くんの声で、確かに届いた。

「でも」

彼は続けた。

「たぶん、好きだけで終わらせたくないです」

涙が、頬を伝った。

「はい」

それ以上、何も言えなかった。

カフェの片隅で、私たちはしばらく黙っていた。

手は繋がなかった。

抱きしめられもしなかった。

でも、言葉だけで、こんなに近づくことがあるのだと知った。

帰り際、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。

私はマフラーを返してしまったことを、少しだけ惜しく思った。

すると利月くんが、紙袋からマフラーを取り出した。

「え?」

「寒いなら」

「返したばかりです」

「はい」

「また貸すんですか」

「次に会う理由が、もう一つ増えます」

彼はそう言って、少しだけ照れたように目を逸らした。

私は泣き笑いになった。

「ずるいです」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

もう何度目か分からない言葉。

でも、今夜はそのやり取りが、ほとんど約束みたいに聞こえた。

利月くんはマフラーを私にかけた。

前より少しだけ自然に。

それでも、指先は少しぎこちなかった。

私は目を閉じる。

温かい。

「登坂さん」

「はい」

「次は、ちゃんと決めてください」

「何をですか」

「会う日」

利月くんは少し考えた。

「週末、空いていますか」

胸が鳴る。

「空けます」

「無理しないでください」

「無理じゃないです」

「では、会いましょう」

その言葉に、私は頷いた。

「はい」

夜の街の中で、東京タワーは見えなかった。

でも、もう大丈夫だった。

今夜は、あの塔が見えなくても立っていられる。

目の前に、利月くんがいたから。

硝子の鍵は、またひとつ開いた。

それは、好きより先にある言葉を、
まだ怖がりながら見つめるための鍵だった。

愛してます。

まだ言えない。

でも、その言葉の手前で、私たちは確かに立っていた。