利月くんのマフラーは、部屋に戻ってもまだ温かかった。
もちろん、本当に温かいわけじゃない。
夜の風にさらされて、タクシーの中で少し冷えて、部屋に入る頃にはただの布になっていたはずだ。
それなのに、首元に残った感触が消えなかった。
次に会う理由になります。
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が変なふうに鳴る。
利月くんは、たぶん計算して言ったわけじゃない。
むしろ、言ってから自分で少し驚いていた。
そういうところが、ずるい。
言葉が少ない。
返事は遅い。
安心させるのも下手。
なのに、ふいに心の一番深いところへ鍵を落としていく。
私はマフラーをそっと外して、ソファの背もたれに置いた。
返さなきゃ。
そう思うのに、少しだけ返したくなかった。
借りている間は、まだ次がある気がするから。
「お母さん、それ誰の?」
背後から声がして、私は飛び上がりそうになった。
振り返ると、陽斗が寝ぼけた顔で立っていた。
「起きたの?」
「水飲みに来た」
陽斗は私ではなく、ソファの上のマフラーを見ている。
「お母さんのじゃないよね」
心臓が跳ねた。
「借りたの」
「誰に?」
「……知り合い」
「ふうん」
陽斗は冷蔵庫から水を出して、コップに注ぐ。
子どもは、こういう時の「ふうん」が一番怖い。
何も知らない顔をして、ちゃんと何かを拾っている。
「男の人?」
むせそうになった。
「なんで」
「匂いが違う」
「犬みたいなこと言わないで」
「ホプよりは分かる」
「張り合わないで」
陽斗は少し笑って、水を飲んだ。
それから、もう一度マフラーを見る。
「登坂先生?」
時間が止まった。
「……なんで」
声が小さくなった。
陽斗は、まっすぐ私を見た。
「お母さん、最近その名前の時だけ変だから」
子どもは怖い。
大人が鍵をかけたつもりの扉を、何気ない顔で開けようとする。
私はすぐには答えられなかった。
陽斗に嘘をつきたくない。
でも、全部を話すには早すぎる。
利月くんとのことは、まだ形になっていない。
好きなのか。
これからどうなるのか。
学校での距離はどうするのか。
何も決まっていない。
「登坂先生に、借りた」
私はゆっくり答えた。
陽斗の目が、少しだけ大きくなる。
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「なんとなく」
「陽斗」
私はソファに座り直した。
「まだ、ちゃんと話せることじゃないの」
陽斗はコップを持ったまま黙っていた。
「でも、嘘をつきたいわけじゃない」
そう言うと、陽斗は少しだけ目を伏せた。
「登坂先生、いい先生だよ」
胸が、痛いくらい柔らかくなる。
「うん」
「細かいけど」
「うん」
「静かだけど、ちゃんと見てる」
「うん」
陽斗は少し考えてから言った。
「お母さんが困る人じゃないなら、いい」
その言葉に、涙が出そうになった。
小学五年生の子に、そんなことを言わせてしまう自分が情けない。
でも同時に、この子がちゃんと私を見ていることが、たまらなく愛しかった。
「困る時もあるかも」
私は正直に言った。
「でも、嫌な困り方じゃない」
「何それ」
「お母さんにもまだ分かんない」
陽斗は呆れたように笑った。
「大人なのに?」
「大人でも分からないことあるよ」
「ふうん」
陽斗はコップをシンクに置いた。
「じゃあ、分かったら教えて」
「うん」
「あと、明日学校で変な感じにしないでね」
「それはお母さんが言いたい」
「俺は普通にするし」
「本当に?」
「普通に返却日守る」
「そこ?」
陽斗は少し笑って、寝室へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
陽斗に、少しだけ知られた。
それでも、世界は壊れなかった。
壊れなかったことに、私は少しだけ驚いていた。
翌日、マフラーを返す約束はしていなかった。
けれど朝、利月くんからメッセージが届いた。
昨日のマフラー、急がなくて大丈夫です。
私は画面を見て、少し笑った。
返さなくていい、と言わないところが利月くんらしい。
陽斗に見つかりました。
送ってから、少しだけ緊張した。
既読は、少し遅れてついた。
返事が来るまでの数分、私は落ち着かなかった。
すみません。
やっぱり謝る。
私は笑ってしまった。
謝るところじゃないです。
すぐには返ってこなかった。
そして、少ししてから届いた。
陽斗、何か言っていましたか。
私は迷った。
そのまま伝えていいのか。
でも、隠すほどのことでもない。
登坂先生はいい先生だと言っていました。
細かいけど、静かだけど、ちゃんと見てるって。
送信。
今度は、既読がつくまで少し時間がかかった。
返事も、しばらく来なかった。
利月くんは、たぶん今、ちゃんと受け取っている。
そう思った。
前なら、その沈黙に不安になった。
今も不安はある。
でも少しだけ、待てる。
やがて、返事が来た。
それは、嬉しいです。
短い。
でも、胸に届く。
続けて、もう一通。
陽斗には、ちゃんと普通でいます。
私は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
私も、ちゃんと母でいます。
そう返した。
少し間が空いて、
はい。
それだけ。
でも、その「はい」がなぜか頼もしかった。
夕方、陽斗はいつも通り帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
私は少し緊張していた。
朝のやり取りのあと、学校で利月くんと陽斗がどう接したのか気になっていた。
でも陽斗はいつも通り鞄を置き、冷蔵庫から水を出し、当たり前のように言った。
「登坂先生、普通だった」
「え?」
「お母さん、気にしてると思って」
また読まれている。
私は少し情けなくなった。
「普通って?」
「返却日言われた」
「それが普通なんだ」
「うん。あと、廊下早歩きしてたら注意された」
「走ってたんでしょ」
「早歩き」
陽斗は口を尖らせた。
「でも、普通だったよ」
その一言に、私は救われた。
利月くんは、ちゃんと普通でいてくれた。
陽斗の前で、急に特別な顔をしなかった。
変に距離を取ることも、近づきすぎることもしなかった。
ちゃんと先生でいてくれた。
それが、こんなにありがたいなんて思わなかった。
夜、私はマフラーを紙袋に入れた。
返したくない気持ちはまだある。
でも、返すことでまた会える。
その理由を、利月くんがくれた。
明日、少しだけ会えますか。
マフラーを返したいです。
送ると、返事は二十分後だった。
はい。
仕事のあとなら。
そのあとに、もう一通。
東京タワーじゃなくてもいいですか。
胸が鳴った。
東京タワーではない場所。
夜の秘密ではない場所。
少しずつ、私たちは別の場所へ出ようとしている。
はい。
どこにしますか。
返事は、やっぱり少し遅かった。
学校の近くではない方がいいですよね。
現実。
ちゃんと現実を見てくれている言葉だった。
私は少し苦笑した。
はい。
陽斗のこともありますし。
では、人の少ないカフェを探します。
人の少ないカフェ。
ものすごく普通の提案なのに、胸がいっぱいになる。
東京タワーの下で泣きそうな話ばかりしてきた私たちが、カフェで会う。
それだけで、恋が少しだけ日常に降りてくる気がした。
翌日の夜、指定されたカフェは、大通りから少し入った静かな場所にあった。
照明は暗すぎず、明るすぎず、席と席の距離も少しある。
利月くんらしい選び方だと思った。
店に入ると、彼はもう席に座っていた。
黒いコート。
手元には水のグラス。
少し緊張したように、メニューを見ている。
「お待たせしました」
私が声をかけると、利月くんは顔を上げた。
「いえ」
目が合う。
私は、また少しだけ逸らしそうになった。
でも、今日は頑張って一秒だけ見た。
一秒。
たったそれだけなのに、胸が忙しい。
「マフラー」
私は紙袋を差し出した。
「ありがとうございました」
利月くんは受け取って、少しだけ手を止めた。
「使いましたか」
「はい」
「寒かったですか」
「寒かったです」
そう答えると、彼は少しだけ安心したような顔をした。
「ならよかったです」
私は笑った。
「マフラーの役目として?」
「はい」
「それだけ?」
少しだけ意地悪に聞いてしまった。
利月くんは、困ったように目を伏せた。
「それだけではないです」
心臓が跳ねる。
「でも、うまく言えません」
「考えてからでいいです」
私がそう言うと、利月くんは少しだけ私を見た。
「灯理さん、待つの上手くなりました?」
「少しだけ」
「俺のせいですか」
「だいぶ」
彼は本気で申し訳なさそうな顔をした。
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
いつもの言葉。
それだけで、少し緊張がほどける。
カフェラテが運ばれてきた。
湯気が上がる。
東京タワーの下では、いつも立って話していた。
寒い夜風の中で、言葉を探していた。
こうして向かい合って座ると、何を話せばいいのか分からなくなる。
でも、それも少し可笑しかった。
「陽斗」
利月くんが静かに切り出した。
「今日、普通でした」
「聞きました」
「陽斗から?」
「はい。登坂先生、普通だったって」
利月くんは少しだけ苦笑した。
「普通でいるの、意識しました」
「不自然ですね」
「不自然にならないように意識しました」
「結果、普通だったみたいです」
「よかったです」
本当にほっとした顔をした。
その顔を見て、私は胸がやわらかくなる。
利月くんは、陽斗を大事に扱おうとしている。
私との関係だけで突っ走らない。
学校での立場を忘れない。
陽斗の違和感をちゃんと気にする。
それは時々じれったい。
でも、きっと誠実なのだ。
「陽斗に」
私はカップを両手で包みながら言った。
「少しだけ、気づかれました」
利月くんの表情が変わる。
「何を」
「私が、登坂さんのことを気にしていること」
彼は黙った。
「マフラーも見つかりました」
「すみません」
「謝らないでください」
「でも」
「陽斗は、登坂先生はいい先生だって言っていました」
利月くんは視線を落とした。
「……それは、嬉しいです」
「困る人じゃないならいいって」
彼の指先が、カップの横で止まった。
「陽斗が?」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「十一歳なのに、大人みたいなこと言うんです」
「灯理さんに似ていますね」
「いいところですか、それ」
「いいところだと思います」
すぐに返ってきた。
そういうところ。
利月くんは、たまに迷わず言う。
私は目を伏せた。
「また急に」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
彼は困ったように笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、陽斗にとって困る人にはなりたくないです」
胸が静かになる。
「はい」
「もちろん、灯理さんにとっても」
言葉が続いて、私は彼を見た。
利月くんは、カップの縁ではなく、私を見ていた。
「今すぐ、全部うまくできるとは思っていません」
「はい」
「学校のことも、陽斗のことも、灯理さんの立場も、考えなきゃいけないことがあります」
「はい」
「でも」
彼は少しだけ息を吸った。
「それでも、会いたいと思っています」
言葉が、ゆっくり胸に落ちてきた。
会いたい。
また、その言葉。
前より少しだけはっきりしている。
私はカップを持つ手に力を入れた。
「私もです」
声が震えた。
「会いたいです」
利月くんは、少しだけ目を細めた。
その目を見るのが、やっぱり少し怖い。
でも今日は逸らさなかった。
長くはない。
でも、前より長く見られた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、好きという言葉を」
そこで彼は止まった。
心臓が、耳の奥で鳴る。
好き。
言うの?
言わないの?
私は息を止めた。
利月くんは、苦しそうに視線を少し落とした。
「軽く使えません」
ああ。
そう来たか。
胸が少しだけ痛む。
でも、彼は続けた。
「たぶん、俺が今思っていることは、好きという言葉より重いです」
時間が止まった気がした。
カフェの音が遠くなる。
カップを置く音。
誰かの小さな笑い声。
店員さんの足音。
全部が遠い。
「重い?」
やっと聞き返す。
利月くんは、自分でも困ったような顔をしていた。
「はい」
「それは」
私は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
言わせたい。
でも、言わせるのが怖い。
その言葉をもらったら、もう戻れなくなる気がした。
利月くんは、カップを見つめたまま、ゆっくり言った。
「灯理さんのことを、軽く好きだとは言えないです」
胸が震える。
「陽斗のことも、社長としての灯理さんも、教室を離れた灯理さんも、全部知ってしまったので」
知ってしまった。
その言葉が、また胸に落ちる。
「だから、好きです、とだけ言うと、なんだか足りない気がします」
利月くんは顔を上げた。
目が合う。
今度は逸らせなかった。
「でも、愛してますって言うには、まだ怖いです」
息が止まった。
愛してます。
その言葉が、利月くんの声で落ちた。
言われたわけではない。
言うには怖いと言われただけ。
それなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
「登坂さん」
声が震える。
「それ、ほとんど言ってます」
利月くんは、今さら自分の言葉に気づいたように、少し固まった。
「……そうですね」
「自覚なかったんですか」
「言ってから、少し」
私は泣きそうになりながら笑った。
本当にこの人は。
不器用で、遅くて、でも一度言葉を探し始めると、急に深いところまで来てしまう。
「私は」
私はカップを置いた。
「好きです」
利月くんは私を見る。
「まだ、愛してますって言う勇気はないです」
正直に言った。
「でも、あなたのことが好きです。目を見られないくらい。返事を待つだけで苦しくなるくらい。隣にいると、嬉しすぎて困るくらい」
涙が出てきた。
「好きです」
二回目。
今度は、逃げ道のない言葉だった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
でも、その沈黙は怖くなかった。
彼の目が、ちゃんと私を見ていたから。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこでまた、彼は一度止まった。
けれど今度は、逃げるためではなかった。
ちゃんと言葉を選んでいる。
「好きです」
静かな声だった。
大きな告白ではない。
ドラマみたいな台詞でもない。
でも、利月くんの声で、確かに届いた。
「でも」
彼は続けた。
「たぶん、好きだけで終わらせたくないです」
涙が、頬を伝った。
「はい」
それ以上、何も言えなかった。
カフェの片隅で、私たちはしばらく黙っていた。
手は繋がなかった。
抱きしめられもしなかった。
でも、言葉だけで、こんなに近づくことがあるのだと知った。
帰り際、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
私はマフラーを返してしまったことを、少しだけ惜しく思った。
すると利月くんが、紙袋からマフラーを取り出した。
「え?」
「寒いなら」
「返したばかりです」
「はい」
「また貸すんですか」
「次に会う理由が、もう一つ増えます」
彼はそう言って、少しだけ照れたように目を逸らした。
私は泣き笑いになった。
「ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
もう何度目か分からない言葉。
でも、今夜はそのやり取りが、ほとんど約束みたいに聞こえた。
利月くんはマフラーを私にかけた。
前より少しだけ自然に。
それでも、指先は少しぎこちなかった。
私は目を閉じる。
温かい。
「登坂さん」
「はい」
「次は、ちゃんと決めてください」
「何をですか」
「会う日」
利月くんは少し考えた。
「週末、空いていますか」
胸が鳴る。
「空けます」
「無理しないでください」
「無理じゃないです」
「では、会いましょう」
その言葉に、私は頷いた。
「はい」
夜の街の中で、東京タワーは見えなかった。
でも、もう大丈夫だった。
今夜は、あの塔が見えなくても立っていられる。
目の前に、利月くんがいたから。
硝子の鍵は、またひとつ開いた。
それは、好きより先にある言葉を、
まだ怖がりながら見つめるための鍵だった。
愛してます。
まだ言えない。
でも、その言葉の手前で、私たちは確かに立っていた。
もちろん、本当に温かいわけじゃない。
夜の風にさらされて、タクシーの中で少し冷えて、部屋に入る頃にはただの布になっていたはずだ。
それなのに、首元に残った感触が消えなかった。
次に会う理由になります。
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が変なふうに鳴る。
利月くんは、たぶん計算して言ったわけじゃない。
むしろ、言ってから自分で少し驚いていた。
そういうところが、ずるい。
言葉が少ない。
返事は遅い。
安心させるのも下手。
なのに、ふいに心の一番深いところへ鍵を落としていく。
私はマフラーをそっと外して、ソファの背もたれに置いた。
返さなきゃ。
そう思うのに、少しだけ返したくなかった。
借りている間は、まだ次がある気がするから。
「お母さん、それ誰の?」
背後から声がして、私は飛び上がりそうになった。
振り返ると、陽斗が寝ぼけた顔で立っていた。
「起きたの?」
「水飲みに来た」
陽斗は私ではなく、ソファの上のマフラーを見ている。
「お母さんのじゃないよね」
心臓が跳ねた。
「借りたの」
「誰に?」
「……知り合い」
「ふうん」
陽斗は冷蔵庫から水を出して、コップに注ぐ。
子どもは、こういう時の「ふうん」が一番怖い。
何も知らない顔をして、ちゃんと何かを拾っている。
「男の人?」
むせそうになった。
「なんで」
「匂いが違う」
「犬みたいなこと言わないで」
「ホプよりは分かる」
「張り合わないで」
陽斗は少し笑って、水を飲んだ。
それから、もう一度マフラーを見る。
「登坂先生?」
時間が止まった。
「……なんで」
声が小さくなった。
陽斗は、まっすぐ私を見た。
「お母さん、最近その名前の時だけ変だから」
子どもは怖い。
大人が鍵をかけたつもりの扉を、何気ない顔で開けようとする。
私はすぐには答えられなかった。
陽斗に嘘をつきたくない。
でも、全部を話すには早すぎる。
利月くんとのことは、まだ形になっていない。
好きなのか。
これからどうなるのか。
学校での距離はどうするのか。
何も決まっていない。
「登坂先生に、借りた」
私はゆっくり答えた。
陽斗の目が、少しだけ大きくなる。
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「なんとなく」
「陽斗」
私はソファに座り直した。
「まだ、ちゃんと話せることじゃないの」
陽斗はコップを持ったまま黙っていた。
「でも、嘘をつきたいわけじゃない」
そう言うと、陽斗は少しだけ目を伏せた。
「登坂先生、いい先生だよ」
胸が、痛いくらい柔らかくなる。
「うん」
「細かいけど」
「うん」
「静かだけど、ちゃんと見てる」
「うん」
陽斗は少し考えてから言った。
「お母さんが困る人じゃないなら、いい」
その言葉に、涙が出そうになった。
小学五年生の子に、そんなことを言わせてしまう自分が情けない。
でも同時に、この子がちゃんと私を見ていることが、たまらなく愛しかった。
「困る時もあるかも」
私は正直に言った。
「でも、嫌な困り方じゃない」
「何それ」
「お母さんにもまだ分かんない」
陽斗は呆れたように笑った。
「大人なのに?」
「大人でも分からないことあるよ」
「ふうん」
陽斗はコップをシンクに置いた。
「じゃあ、分かったら教えて」
「うん」
「あと、明日学校で変な感じにしないでね」
「それはお母さんが言いたい」
「俺は普通にするし」
「本当に?」
「普通に返却日守る」
「そこ?」
陽斗は少し笑って、寝室へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
陽斗に、少しだけ知られた。
それでも、世界は壊れなかった。
壊れなかったことに、私は少しだけ驚いていた。
翌日、マフラーを返す約束はしていなかった。
けれど朝、利月くんからメッセージが届いた。
昨日のマフラー、急がなくて大丈夫です。
私は画面を見て、少し笑った。
返さなくていい、と言わないところが利月くんらしい。
陽斗に見つかりました。
送ってから、少しだけ緊張した。
既読は、少し遅れてついた。
返事が来るまでの数分、私は落ち着かなかった。
すみません。
やっぱり謝る。
私は笑ってしまった。
謝るところじゃないです。
すぐには返ってこなかった。
そして、少ししてから届いた。
陽斗、何か言っていましたか。
私は迷った。
そのまま伝えていいのか。
でも、隠すほどのことでもない。
登坂先生はいい先生だと言っていました。
細かいけど、静かだけど、ちゃんと見てるって。
送信。
今度は、既読がつくまで少し時間がかかった。
返事も、しばらく来なかった。
利月くんは、たぶん今、ちゃんと受け取っている。
そう思った。
前なら、その沈黙に不安になった。
今も不安はある。
でも少しだけ、待てる。
やがて、返事が来た。
それは、嬉しいです。
短い。
でも、胸に届く。
続けて、もう一通。
陽斗には、ちゃんと普通でいます。
私は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
私も、ちゃんと母でいます。
そう返した。
少し間が空いて、
はい。
それだけ。
でも、その「はい」がなぜか頼もしかった。
夕方、陽斗はいつも通り帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
私は少し緊張していた。
朝のやり取りのあと、学校で利月くんと陽斗がどう接したのか気になっていた。
でも陽斗はいつも通り鞄を置き、冷蔵庫から水を出し、当たり前のように言った。
「登坂先生、普通だった」
「え?」
「お母さん、気にしてると思って」
また読まれている。
私は少し情けなくなった。
「普通って?」
「返却日言われた」
「それが普通なんだ」
「うん。あと、廊下早歩きしてたら注意された」
「走ってたんでしょ」
「早歩き」
陽斗は口を尖らせた。
「でも、普通だったよ」
その一言に、私は救われた。
利月くんは、ちゃんと普通でいてくれた。
陽斗の前で、急に特別な顔をしなかった。
変に距離を取ることも、近づきすぎることもしなかった。
ちゃんと先生でいてくれた。
それが、こんなにありがたいなんて思わなかった。
夜、私はマフラーを紙袋に入れた。
返したくない気持ちはまだある。
でも、返すことでまた会える。
その理由を、利月くんがくれた。
明日、少しだけ会えますか。
マフラーを返したいです。
送ると、返事は二十分後だった。
はい。
仕事のあとなら。
そのあとに、もう一通。
東京タワーじゃなくてもいいですか。
胸が鳴った。
東京タワーではない場所。
夜の秘密ではない場所。
少しずつ、私たちは別の場所へ出ようとしている。
はい。
どこにしますか。
返事は、やっぱり少し遅かった。
学校の近くではない方がいいですよね。
現実。
ちゃんと現実を見てくれている言葉だった。
私は少し苦笑した。
はい。
陽斗のこともありますし。
では、人の少ないカフェを探します。
人の少ないカフェ。
ものすごく普通の提案なのに、胸がいっぱいになる。
東京タワーの下で泣きそうな話ばかりしてきた私たちが、カフェで会う。
それだけで、恋が少しだけ日常に降りてくる気がした。
翌日の夜、指定されたカフェは、大通りから少し入った静かな場所にあった。
照明は暗すぎず、明るすぎず、席と席の距離も少しある。
利月くんらしい選び方だと思った。
店に入ると、彼はもう席に座っていた。
黒いコート。
手元には水のグラス。
少し緊張したように、メニューを見ている。
「お待たせしました」
私が声をかけると、利月くんは顔を上げた。
「いえ」
目が合う。
私は、また少しだけ逸らしそうになった。
でも、今日は頑張って一秒だけ見た。
一秒。
たったそれだけなのに、胸が忙しい。
「マフラー」
私は紙袋を差し出した。
「ありがとうございました」
利月くんは受け取って、少しだけ手を止めた。
「使いましたか」
「はい」
「寒かったですか」
「寒かったです」
そう答えると、彼は少しだけ安心したような顔をした。
「ならよかったです」
私は笑った。
「マフラーの役目として?」
「はい」
「それだけ?」
少しだけ意地悪に聞いてしまった。
利月くんは、困ったように目を伏せた。
「それだけではないです」
心臓が跳ねる。
「でも、うまく言えません」
「考えてからでいいです」
私がそう言うと、利月くんは少しだけ私を見た。
「灯理さん、待つの上手くなりました?」
「少しだけ」
「俺のせいですか」
「だいぶ」
彼は本気で申し訳なさそうな顔をした。
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
いつもの言葉。
それだけで、少し緊張がほどける。
カフェラテが運ばれてきた。
湯気が上がる。
東京タワーの下では、いつも立って話していた。
寒い夜風の中で、言葉を探していた。
こうして向かい合って座ると、何を話せばいいのか分からなくなる。
でも、それも少し可笑しかった。
「陽斗」
利月くんが静かに切り出した。
「今日、普通でした」
「聞きました」
「陽斗から?」
「はい。登坂先生、普通だったって」
利月くんは少しだけ苦笑した。
「普通でいるの、意識しました」
「不自然ですね」
「不自然にならないように意識しました」
「結果、普通だったみたいです」
「よかったです」
本当にほっとした顔をした。
その顔を見て、私は胸がやわらかくなる。
利月くんは、陽斗を大事に扱おうとしている。
私との関係だけで突っ走らない。
学校での立場を忘れない。
陽斗の違和感をちゃんと気にする。
それは時々じれったい。
でも、きっと誠実なのだ。
「陽斗に」
私はカップを両手で包みながら言った。
「少しだけ、気づかれました」
利月くんの表情が変わる。
「何を」
「私が、登坂さんのことを気にしていること」
彼は黙った。
「マフラーも見つかりました」
「すみません」
「謝らないでください」
「でも」
「陽斗は、登坂先生はいい先生だって言っていました」
利月くんは視線を落とした。
「……それは、嬉しいです」
「困る人じゃないならいいって」
彼の指先が、カップの横で止まった。
「陽斗が?」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「十一歳なのに、大人みたいなこと言うんです」
「灯理さんに似ていますね」
「いいところですか、それ」
「いいところだと思います」
すぐに返ってきた。
そういうところ。
利月くんは、たまに迷わず言う。
私は目を伏せた。
「また急に」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
彼は困ったように笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、陽斗にとって困る人にはなりたくないです」
胸が静かになる。
「はい」
「もちろん、灯理さんにとっても」
言葉が続いて、私は彼を見た。
利月くんは、カップの縁ではなく、私を見ていた。
「今すぐ、全部うまくできるとは思っていません」
「はい」
「学校のことも、陽斗のことも、灯理さんの立場も、考えなきゃいけないことがあります」
「はい」
「でも」
彼は少しだけ息を吸った。
「それでも、会いたいと思っています」
言葉が、ゆっくり胸に落ちてきた。
会いたい。
また、その言葉。
前より少しだけはっきりしている。
私はカップを持つ手に力を入れた。
「私もです」
声が震えた。
「会いたいです」
利月くんは、少しだけ目を細めた。
その目を見るのが、やっぱり少し怖い。
でも今日は逸らさなかった。
長くはない。
でも、前より長く見られた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、好きという言葉を」
そこで彼は止まった。
心臓が、耳の奥で鳴る。
好き。
言うの?
言わないの?
私は息を止めた。
利月くんは、苦しそうに視線を少し落とした。
「軽く使えません」
ああ。
そう来たか。
胸が少しだけ痛む。
でも、彼は続けた。
「たぶん、俺が今思っていることは、好きという言葉より重いです」
時間が止まった気がした。
カフェの音が遠くなる。
カップを置く音。
誰かの小さな笑い声。
店員さんの足音。
全部が遠い。
「重い?」
やっと聞き返す。
利月くんは、自分でも困ったような顔をしていた。
「はい」
「それは」
私は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
言わせたい。
でも、言わせるのが怖い。
その言葉をもらったら、もう戻れなくなる気がした。
利月くんは、カップを見つめたまま、ゆっくり言った。
「灯理さんのことを、軽く好きだとは言えないです」
胸が震える。
「陽斗のことも、社長としての灯理さんも、教室を離れた灯理さんも、全部知ってしまったので」
知ってしまった。
その言葉が、また胸に落ちる。
「だから、好きです、とだけ言うと、なんだか足りない気がします」
利月くんは顔を上げた。
目が合う。
今度は逸らせなかった。
「でも、愛してますって言うには、まだ怖いです」
息が止まった。
愛してます。
その言葉が、利月くんの声で落ちた。
言われたわけではない。
言うには怖いと言われただけ。
それなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
「登坂さん」
声が震える。
「それ、ほとんど言ってます」
利月くんは、今さら自分の言葉に気づいたように、少し固まった。
「……そうですね」
「自覚なかったんですか」
「言ってから、少し」
私は泣きそうになりながら笑った。
本当にこの人は。
不器用で、遅くて、でも一度言葉を探し始めると、急に深いところまで来てしまう。
「私は」
私はカップを置いた。
「好きです」
利月くんは私を見る。
「まだ、愛してますって言う勇気はないです」
正直に言った。
「でも、あなたのことが好きです。目を見られないくらい。返事を待つだけで苦しくなるくらい。隣にいると、嬉しすぎて困るくらい」
涙が出てきた。
「好きです」
二回目。
今度は、逃げ道のない言葉だった。
利月くんは、しばらく何も言わなかった。
でも、その沈黙は怖くなかった。
彼の目が、ちゃんと私を見ていたから。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこでまた、彼は一度止まった。
けれど今度は、逃げるためではなかった。
ちゃんと言葉を選んでいる。
「好きです」
静かな声だった。
大きな告白ではない。
ドラマみたいな台詞でもない。
でも、利月くんの声で、確かに届いた。
「でも」
彼は続けた。
「たぶん、好きだけで終わらせたくないです」
涙が、頬を伝った。
「はい」
それ以上、何も言えなかった。
カフェの片隅で、私たちはしばらく黙っていた。
手は繋がなかった。
抱きしめられもしなかった。
でも、言葉だけで、こんなに近づくことがあるのだと知った。
帰り際、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
私はマフラーを返してしまったことを、少しだけ惜しく思った。
すると利月くんが、紙袋からマフラーを取り出した。
「え?」
「寒いなら」
「返したばかりです」
「はい」
「また貸すんですか」
「次に会う理由が、もう一つ増えます」
彼はそう言って、少しだけ照れたように目を逸らした。
私は泣き笑いになった。
「ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
もう何度目か分からない言葉。
でも、今夜はそのやり取りが、ほとんど約束みたいに聞こえた。
利月くんはマフラーを私にかけた。
前より少しだけ自然に。
それでも、指先は少しぎこちなかった。
私は目を閉じる。
温かい。
「登坂さん」
「はい」
「次は、ちゃんと決めてください」
「何をですか」
「会う日」
利月くんは少し考えた。
「週末、空いていますか」
胸が鳴る。
「空けます」
「無理しないでください」
「無理じゃないです」
「では、会いましょう」
その言葉に、私は頷いた。
「はい」
夜の街の中で、東京タワーは見えなかった。
でも、もう大丈夫だった。
今夜は、あの塔が見えなくても立っていられる。
目の前に、利月くんがいたから。
硝子の鍵は、またひとつ開いた。
それは、好きより先にある言葉を、
まだ怖がりながら見つめるための鍵だった。
愛してます。
まだ言えない。
でも、その言葉の手前で、私たちは確かに立っていた。

