どちらも、今の灯理さんなので。
その一文を、私は何度も読み返した。
社長の私も。
東京タワーの下で、少し困った顔をしている私も。
陽斗の母である私も。
教室を離れたまま、まだどこかで泣いている私も。
どれかひとつだけを選ばなくていい。
利月くんは、そう言ってくれた。
本人は、きっとそんな大きなことを言ったつもりはないのだと思う。
ただ、考えて、言葉を探して、ようやく置いてくれただけ。
でも私は、その言葉に救われてしまった。
救われたくせに、また欲張りになる。
もっと会いたい。
もっと話したい。
もっと、私を見てほしい。
人の心は厄介だ。
鍵をひとつ開けても、次の扉がすぐ見える。
その夜、私は陽斗が寝たあとも、リビングで東京タワーを見ていた。
写真集は、テーブルの上に置かれている。
陽斗が開いたままにしていたページには、夜の東京タワーが写っていた。
下から見上げた赤い塔。
私はその写真の端を指でなぞった。
行きたい。
そう思った。
眠れない夜じゃなくても。
泣きたい夜じゃなくても。
言い訳がなくても。
ただ、利月くんに会いたかった。
スマホを手に取る。
メッセージ画面を開いて、閉じる。
また開く。
こんなことを何度繰り返せば気が済むのだろう。
私は深呼吸して、文字を打った。
今夜、東京タワーに行きます。
そこまで打って、指が止まる。
誘っているみたい。
いや、誘っている。
私は消そうとして、やめた。
逃げないと決めた。
だったら、会いたい時に会いたいとまでは言えなくても、行くことくらいは言ってもいい。
少し迷って、もう一文足した。
もし起きていて、無理じゃなければ。
弱い。
逃げ道だらけの誘い。
でも、今の私にはこれが精一杯だった。
送信する。
すぐに既読はつかなかった。
私はスマホを伏せた。
見ない。
見ないと決めたのに、三十秒後には見ていた。
まだ未読。
「もう」
自分に呆れて、ソファに背中を預ける。
陽斗の寝息が、寝室の方からかすかに聞こえる気がした。
私は立ち上がり、そっと寝室をのぞいた。
陽斗は布団を半分蹴って寝ていた。
「寒いよ」
小さく言って、布団をかけ直す。
その寝顔を見たら、少しだけ胸が静かになった。
私はこの子の母だ。
どこへ行くにも、この事実を置いてはいけない。
リビングに戻ると、スマホが光っていた。
利月くんから。
行きます。
それだけだった。
たった三文字。
でも、胸の奥で何かが鳴った。
行きます。
考えるより先に、指が震えた。
無理しないでください。
送ると、すぐに返事が来た。
無理ではないです。
短い。
でも、まっすぐだった。
私はコートを羽織った。
音葉にはメッセージを入れた。
少しだけ東京タワー行ってくる。陽斗は寝てる。
すぐ返事が来た。
分かりました。
逃げ道ではなく、会いに行くならいいと思います。
気をつけて。
音葉は、時々ひどいくらい分かっている。
私は小さく笑って、部屋を出た。
夜の東京タワーの下は、いつもより人が少なかった。
風が冷たい。
でも、今日はあまり怖くなかった。
私はいつもの場所に立った。
足元から見上げる東京タワー。
高い。
でも、ちゃんと下から立っている。
美紗子先生の声が、胸の奥で静かに響く。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
私は足元を見た。
ヒールの先。
街灯に照らされた舗道。
少し震える自分の手。
ちゃんと立っている。
まだ不安でも。
まだ怖くても。
私はここに立っている。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し乱れた髪。
急いで来たのか、息がほんの少しだけ白い。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「こんばんは」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「灯理さんが行くって言ったので」
「それだけで?」
「はい」
あまりにも普通に言うから、私は少し困った。
「それだけで来るんですか」
利月くんは、少し考えた。
「それだけ、ではないです」
「え?」
彼は東京タワーを見上げた。
「俺も、会いたかったので」
心臓が、変な音を立てた。
今、何て。
聞き返したかった。
でも、聞き返したら消えてしまいそうだった。
私は慌てて視線を東京タワーに向けた。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
いつものやり取り。
でも今夜は、その奥にほんの少し熱がある。
私は手をコートのポケットに入れた。
指先が冷えている。
「今日は、何かあったんですか」
利月くんが聞いた。
「何かがあったわけじゃないです」
「はい」
「ただ」
私は言葉を探した。
ただ、会いたかった。
そのまま言うには、まだ勇気が足りない。
でも、今夜は逃げたくない。
「今の私を見てくれたのが、嬉しかったんです」
利月くんは黙って聞いていた。
「でも、嬉しかったら、もっと会いたくなりました」
言ってしまった。
顔が熱い。
東京タワーの赤い光のせいにしたい。
利月くんは、何も言わない。
沈黙。
でも、その沈黙は前ほど怖くなかった。
利月くんは、逃げるために黙っているわけではない。
言葉を探している。
そう思えるようになっていた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、まだうまく言えないことが多いです」
「知っています」
利月くんが少しだけ困った顔をした。
「そこ、すぐ言いますね」
「事実なので」
「音葉さんみたいです」
「それはちょっと嫌です」
彼が小さく笑った。
その笑顔を見て、私はやっと少しだけ息をした。
「でも」
利月くんが続けた。
「会いたいと言われたら、会いに来たいとは思います」
胸が、また鳴る。
「言ってないです」
「言ってませんでした?」
「もっと会いたくなった、とは言いました」
「それは、会いたいとは違うんですか」
真面目に聞いてくる。
私は負けた。
「……同じです」
利月くんは、少しだけ頷いた。
「じゃあ、来てよかったです」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
私は東京タワーを見上げた。
泣きそうだった。
最近の私は、すぐ泣きそうになる。
でも、それは弱くなったからではないのかもしれない。
今までしまっていたものが、少しずつ外に出てきているだけなのかもしれない。
「登坂さん」
「はい」
「私、まだ怖いです」
「はい」
「年齢も、陽斗のことも、社長のことも。あなたが知って、それでもここに来てくれてるのが嬉しいけど、いつかやっぱり無理だって言われるのが怖い」
利月くんは、すぐには答えなかった。
冷たい風が、私たちの間を通る。
「無理なことは、あると思います」
その答えに、胸が少し沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、それは灯理さんが無理という意味じゃないです」
私は彼を見た。
「学校のこと。陽斗のこと。立場のこと。考えなきゃいけないことは、たぶんあります」
「はい」
「そこを何も考えずに、ただ好きですと言ったら、たぶん無責任です」
好き。
その言葉が彼の口から出た瞬間、胸が跳ねた。
でも彼は、告白として言ったわけではない。
それでも、その言葉は私の中で光った。
「だから俺は、考えます」
利月くんは言った。
「でも、考えることと、離れることは同じじゃないです」
涙がこぼれそうになった。
「それ、ちゃんと言ってくれるんですね」
「尚に言われました」
「尚さんに?」
「言葉が少ないって」
思わず笑ってしまった。
「言いそう」
「はい。腹が立つくらい正しかったです」
「佐伯さんは、そういうところあります」
「灯理さんも、そう思いますか」
「はい」
少しだけ二人で笑った。
尚さんの名前が出ても、今夜は変な痛みがなかった。
利月くんが、少しだけこちらを見る。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯と話している時の灯理さんは、楽しそうです」
胸が一瞬ぎゅっとなる。
でも、逃げずに聞いた。
「はい」
「でも、今日話してくれたので、少し分かりました」
「何が?」
「俺とは、楽じゃないんですよね」
私は困って笑った。
「そこだけ言うと、すごく嫌な感じです」
「違いますか」
「違わないです」
「じゃあ」
「楽じゃないけど」
私は彼を見た。
今度は、逸らさなかった。
ほんの数秒。
それでも、私にとっては大きな数秒だった。
「会いたいのは、登坂さんです」
言った。
今度は、はっきりと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
沈黙。
東京タワーの光が、彼の横顔に落ちる。
私は心臓の音が聞こえそうだった。
言いすぎた。
でも、もう戻せない。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで、彼は言葉を止めた。
胸が止まりそうになる。
言って。
言ってほしい。
でも、急かしたくない。
利月くんは、視線を少し落とした。
「俺も、会いたいと思って来ました」
好き、ではなかった。
でも、今の彼にとっては、きっと精一杯だった。
私はゆっくり頷いた。
「はい」
それだけで十分。
十分だと思いたい。
その時、冷たい風が強く吹いた。
思わず肩をすくめる。
「寒いですか」
利月くんが聞いた。
「少し」
私は笑ってごまかした。
「でも大丈夫です」
言った瞬間、利月くんの眉が少し寄った。
大丈夫。
私の悪い癖。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいんですよね」
彼が言った。
美紗子先生の言葉。
私が彼に話した言葉。
今度は、利月くんの口から返ってきた。
私は目を伏せた。
「寒いです」
正直に言った。
利月くんは少しだけ頷いた。
そして、自分のマフラーを外した。
「え、いいです」
「寒いなら」
「でも」
「風邪ひいたら、陽斗に怒られます」
それはずるい。
陽斗の名前を出されたら、断りにくい。
利月くんは、少し不器用な手つきで私の首元にマフラーをかけた。
近い。
近すぎる。
彼の指先が、ほんの少し私の髪に触れた。
息が止まる。
目の前に、利月くんのコートの襟。
冷たい夜気と、ほのかに残る柔らかい香り。
私は動けなかった。
「すみません」
利月くんが小さく言った。
「いえ」
声が出ない。
心臓が、うるさい。
彼は一歩下がった。
「これで少しは」
「……温かいです」
マフラーは、確かに温かかった。
でもそれ以上に、首元から胸の奥まで熱が広がっていた。
触れたわけではない。
手を繋いだわけでも、抱きしめられたわけでもない。
ただ、マフラーをかけられただけ。
それだけなのに、私の中では何かが大きく動いた。
「登坂さん」
「はい」
「こういうの、慣れてます?」
聞いてから、何を聞いているんだろうと思った。
利月くんは、少し驚いた顔をした。
「慣れてないです」
「ですよね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「はい」
少しだけ笑う。
その笑いが、夜の中に溶けた。
しばらく二人で東京タワーを見上げていた。
私は利月くんのマフラーに顔を少しうずめた。
あたたかい。
誰かのものを身につけることが、こんなに心細くて、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「灯理さん」
利月くんが静かに呼んだ。
「はい」
「今度は、ちゃんと明るい時間にも会いませんか」
「え?」
「東京タワーじゃない場所で」
胸が鳴った。
夜ではなく。
眠れない時でもなく。
秘密を話すためでもなく。
明るい時間に。
普通に会う。
それは、今までよりずっと恋に近い言葉だった。
「いいんですか」
思わず聞いてしまった。
「俺が誘ってます」
利月くんは、少しだけ困ったように言った。
「そうですね」
「はい」
「行きたいです」
私は答えた。
今度は、逃げ道なしで。
利月くんは、小さく頷いた。
「じゃあ、考えます」
「そこは決めてくれないんですか」
「考えます」
私は笑ってしまった。
「本当に登坂さんですね」
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
何度も繰り返した言葉。
でも、今夜はその繰り返しすら愛おしかった。
帰る頃、マフラーを返そうとすると、利月くんは首を横に振った。
「今日はそのままで」
「でも」
「次に会う理由になります」
その言葉に、私は固まった。
利月くんも、自分で言ったあとに少し驚いたような顔をした。
たぶん、考えるより先に出た言葉だった。
私はマフラーを握った。
「……ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
声が震えた。
嬉しくて。
怖くて。
また会える理由が、私の首元に残っている。
東京タワーの下で、私は利月くんのマフラーを巻いたまま、タクシーに乗った。
窓の外で、彼が小さく手を上げる。
その姿が遠ざかっていく。
私はマフラーに触れた。
温かい。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
音もなく、でも確かに。
その鍵は、手を繋ぐ一歩手前にあった。
触れたいと言えない二人が、
それでも少しだけ近づくための、
不器用で温かい鍵だった。
その一文を、私は何度も読み返した。
社長の私も。
東京タワーの下で、少し困った顔をしている私も。
陽斗の母である私も。
教室を離れたまま、まだどこかで泣いている私も。
どれかひとつだけを選ばなくていい。
利月くんは、そう言ってくれた。
本人は、きっとそんな大きなことを言ったつもりはないのだと思う。
ただ、考えて、言葉を探して、ようやく置いてくれただけ。
でも私は、その言葉に救われてしまった。
救われたくせに、また欲張りになる。
もっと会いたい。
もっと話したい。
もっと、私を見てほしい。
人の心は厄介だ。
鍵をひとつ開けても、次の扉がすぐ見える。
その夜、私は陽斗が寝たあとも、リビングで東京タワーを見ていた。
写真集は、テーブルの上に置かれている。
陽斗が開いたままにしていたページには、夜の東京タワーが写っていた。
下から見上げた赤い塔。
私はその写真の端を指でなぞった。
行きたい。
そう思った。
眠れない夜じゃなくても。
泣きたい夜じゃなくても。
言い訳がなくても。
ただ、利月くんに会いたかった。
スマホを手に取る。
メッセージ画面を開いて、閉じる。
また開く。
こんなことを何度繰り返せば気が済むのだろう。
私は深呼吸して、文字を打った。
今夜、東京タワーに行きます。
そこまで打って、指が止まる。
誘っているみたい。
いや、誘っている。
私は消そうとして、やめた。
逃げないと決めた。
だったら、会いたい時に会いたいとまでは言えなくても、行くことくらいは言ってもいい。
少し迷って、もう一文足した。
もし起きていて、無理じゃなければ。
弱い。
逃げ道だらけの誘い。
でも、今の私にはこれが精一杯だった。
送信する。
すぐに既読はつかなかった。
私はスマホを伏せた。
見ない。
見ないと決めたのに、三十秒後には見ていた。
まだ未読。
「もう」
自分に呆れて、ソファに背中を預ける。
陽斗の寝息が、寝室の方からかすかに聞こえる気がした。
私は立ち上がり、そっと寝室をのぞいた。
陽斗は布団を半分蹴って寝ていた。
「寒いよ」
小さく言って、布団をかけ直す。
その寝顔を見たら、少しだけ胸が静かになった。
私はこの子の母だ。
どこへ行くにも、この事実を置いてはいけない。
リビングに戻ると、スマホが光っていた。
利月くんから。
行きます。
それだけだった。
たった三文字。
でも、胸の奥で何かが鳴った。
行きます。
考えるより先に、指が震えた。
無理しないでください。
送ると、すぐに返事が来た。
無理ではないです。
短い。
でも、まっすぐだった。
私はコートを羽織った。
音葉にはメッセージを入れた。
少しだけ東京タワー行ってくる。陽斗は寝てる。
すぐ返事が来た。
分かりました。
逃げ道ではなく、会いに行くならいいと思います。
気をつけて。
音葉は、時々ひどいくらい分かっている。
私は小さく笑って、部屋を出た。
夜の東京タワーの下は、いつもより人が少なかった。
風が冷たい。
でも、今日はあまり怖くなかった。
私はいつもの場所に立った。
足元から見上げる東京タワー。
高い。
でも、ちゃんと下から立っている。
美紗子先生の声が、胸の奥で静かに響く。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
私は足元を見た。
ヒールの先。
街灯に照らされた舗道。
少し震える自分の手。
ちゃんと立っている。
まだ不安でも。
まだ怖くても。
私はここに立っている。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し乱れた髪。
急いで来たのか、息がほんの少しだけ白い。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「こんばんは」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「灯理さんが行くって言ったので」
「それだけで?」
「はい」
あまりにも普通に言うから、私は少し困った。
「それだけで来るんですか」
利月くんは、少し考えた。
「それだけ、ではないです」
「え?」
彼は東京タワーを見上げた。
「俺も、会いたかったので」
心臓が、変な音を立てた。
今、何て。
聞き返したかった。
でも、聞き返したら消えてしまいそうだった。
私は慌てて視線を東京タワーに向けた。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
いつものやり取り。
でも今夜は、その奥にほんの少し熱がある。
私は手をコートのポケットに入れた。
指先が冷えている。
「今日は、何かあったんですか」
利月くんが聞いた。
「何かがあったわけじゃないです」
「はい」
「ただ」
私は言葉を探した。
ただ、会いたかった。
そのまま言うには、まだ勇気が足りない。
でも、今夜は逃げたくない。
「今の私を見てくれたのが、嬉しかったんです」
利月くんは黙って聞いていた。
「でも、嬉しかったら、もっと会いたくなりました」
言ってしまった。
顔が熱い。
東京タワーの赤い光のせいにしたい。
利月くんは、何も言わない。
沈黙。
でも、その沈黙は前ほど怖くなかった。
利月くんは、逃げるために黙っているわけではない。
言葉を探している。
そう思えるようになっていた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、まだうまく言えないことが多いです」
「知っています」
利月くんが少しだけ困った顔をした。
「そこ、すぐ言いますね」
「事実なので」
「音葉さんみたいです」
「それはちょっと嫌です」
彼が小さく笑った。
その笑顔を見て、私はやっと少しだけ息をした。
「でも」
利月くんが続けた。
「会いたいと言われたら、会いに来たいとは思います」
胸が、また鳴る。
「言ってないです」
「言ってませんでした?」
「もっと会いたくなった、とは言いました」
「それは、会いたいとは違うんですか」
真面目に聞いてくる。
私は負けた。
「……同じです」
利月くんは、少しだけ頷いた。
「じゃあ、来てよかったです」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
私は東京タワーを見上げた。
泣きそうだった。
最近の私は、すぐ泣きそうになる。
でも、それは弱くなったからではないのかもしれない。
今までしまっていたものが、少しずつ外に出てきているだけなのかもしれない。
「登坂さん」
「はい」
「私、まだ怖いです」
「はい」
「年齢も、陽斗のことも、社長のことも。あなたが知って、それでもここに来てくれてるのが嬉しいけど、いつかやっぱり無理だって言われるのが怖い」
利月くんは、すぐには答えなかった。
冷たい風が、私たちの間を通る。
「無理なことは、あると思います」
その答えに、胸が少し沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、それは灯理さんが無理という意味じゃないです」
私は彼を見た。
「学校のこと。陽斗のこと。立場のこと。考えなきゃいけないことは、たぶんあります」
「はい」
「そこを何も考えずに、ただ好きですと言ったら、たぶん無責任です」
好き。
その言葉が彼の口から出た瞬間、胸が跳ねた。
でも彼は、告白として言ったわけではない。
それでも、その言葉は私の中で光った。
「だから俺は、考えます」
利月くんは言った。
「でも、考えることと、離れることは同じじゃないです」
涙がこぼれそうになった。
「それ、ちゃんと言ってくれるんですね」
「尚に言われました」
「尚さんに?」
「言葉が少ないって」
思わず笑ってしまった。
「言いそう」
「はい。腹が立つくらい正しかったです」
「佐伯さんは、そういうところあります」
「灯理さんも、そう思いますか」
「はい」
少しだけ二人で笑った。
尚さんの名前が出ても、今夜は変な痛みがなかった。
利月くんが、少しだけこちらを見る。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯と話している時の灯理さんは、楽しそうです」
胸が一瞬ぎゅっとなる。
でも、逃げずに聞いた。
「はい」
「でも、今日話してくれたので、少し分かりました」
「何が?」
「俺とは、楽じゃないんですよね」
私は困って笑った。
「そこだけ言うと、すごく嫌な感じです」
「違いますか」
「違わないです」
「じゃあ」
「楽じゃないけど」
私は彼を見た。
今度は、逸らさなかった。
ほんの数秒。
それでも、私にとっては大きな数秒だった。
「会いたいのは、登坂さんです」
言った。
今度は、はっきりと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
沈黙。
東京タワーの光が、彼の横顔に落ちる。
私は心臓の音が聞こえそうだった。
言いすぎた。
でも、もう戻せない。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで、彼は言葉を止めた。
胸が止まりそうになる。
言って。
言ってほしい。
でも、急かしたくない。
利月くんは、視線を少し落とした。
「俺も、会いたいと思って来ました」
好き、ではなかった。
でも、今の彼にとっては、きっと精一杯だった。
私はゆっくり頷いた。
「はい」
それだけで十分。
十分だと思いたい。
その時、冷たい風が強く吹いた。
思わず肩をすくめる。
「寒いですか」
利月くんが聞いた。
「少し」
私は笑ってごまかした。
「でも大丈夫です」
言った瞬間、利月くんの眉が少し寄った。
大丈夫。
私の悪い癖。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいんですよね」
彼が言った。
美紗子先生の言葉。
私が彼に話した言葉。
今度は、利月くんの口から返ってきた。
私は目を伏せた。
「寒いです」
正直に言った。
利月くんは少しだけ頷いた。
そして、自分のマフラーを外した。
「え、いいです」
「寒いなら」
「でも」
「風邪ひいたら、陽斗に怒られます」
それはずるい。
陽斗の名前を出されたら、断りにくい。
利月くんは、少し不器用な手つきで私の首元にマフラーをかけた。
近い。
近すぎる。
彼の指先が、ほんの少し私の髪に触れた。
息が止まる。
目の前に、利月くんのコートの襟。
冷たい夜気と、ほのかに残る柔らかい香り。
私は動けなかった。
「すみません」
利月くんが小さく言った。
「いえ」
声が出ない。
心臓が、うるさい。
彼は一歩下がった。
「これで少しは」
「……温かいです」
マフラーは、確かに温かかった。
でもそれ以上に、首元から胸の奥まで熱が広がっていた。
触れたわけではない。
手を繋いだわけでも、抱きしめられたわけでもない。
ただ、マフラーをかけられただけ。
それだけなのに、私の中では何かが大きく動いた。
「登坂さん」
「はい」
「こういうの、慣れてます?」
聞いてから、何を聞いているんだろうと思った。
利月くんは、少し驚いた顔をした。
「慣れてないです」
「ですよね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「はい」
少しだけ笑う。
その笑いが、夜の中に溶けた。
しばらく二人で東京タワーを見上げていた。
私は利月くんのマフラーに顔を少しうずめた。
あたたかい。
誰かのものを身につけることが、こんなに心細くて、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「灯理さん」
利月くんが静かに呼んだ。
「はい」
「今度は、ちゃんと明るい時間にも会いませんか」
「え?」
「東京タワーじゃない場所で」
胸が鳴った。
夜ではなく。
眠れない時でもなく。
秘密を話すためでもなく。
明るい時間に。
普通に会う。
それは、今までよりずっと恋に近い言葉だった。
「いいんですか」
思わず聞いてしまった。
「俺が誘ってます」
利月くんは、少しだけ困ったように言った。
「そうですね」
「はい」
「行きたいです」
私は答えた。
今度は、逃げ道なしで。
利月くんは、小さく頷いた。
「じゃあ、考えます」
「そこは決めてくれないんですか」
「考えます」
私は笑ってしまった。
「本当に登坂さんですね」
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
何度も繰り返した言葉。
でも、今夜はその繰り返しすら愛おしかった。
帰る頃、マフラーを返そうとすると、利月くんは首を横に振った。
「今日はそのままで」
「でも」
「次に会う理由になります」
その言葉に、私は固まった。
利月くんも、自分で言ったあとに少し驚いたような顔をした。
たぶん、考えるより先に出た言葉だった。
私はマフラーを握った。
「……ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
声が震えた。
嬉しくて。
怖くて。
また会える理由が、私の首元に残っている。
東京タワーの下で、私は利月くんのマフラーを巻いたまま、タクシーに乗った。
窓の外で、彼が小さく手を上げる。
その姿が遠ざかっていく。
私はマフラーに触れた。
温かい。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
音もなく、でも確かに。
その鍵は、手を繋ぐ一歩手前にあった。
触れたいと言えない二人が、
それでも少しだけ近づくための、
不器用で温かい鍵だった。

