会議室を出たあとも、胸の奥がずっと熱かった。
登坂さんの方が、緊張するんです。
隣にいるだけで精一杯で。
目を見て話すと、何か全部ばれそうで。
言ってしまった。
社長として出席した地域教育の打ち合わせで、
教育支援センターの廊下の隅で、
私はまるで子どもみたいなことを利月くんに言ってしまった。
恥ずかしい。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
でも、不思議と後悔はしていなかった。
ずっと誤解されたくなかった。
私が尚さんと話すのは、尚さんの方がいいからじゃない。
尚さんは話しやすい。
返事が怖くない。
言葉の受け皿が広くて、転んでも笑ってくれる気がする。
でも利月くんは違う。
目を見るだけで、心の奥にしまっていたものが全部光ってしまう。
だから逃げていた。
一番話したい人の隣にいるのに、
一番見たい人の目を見られなかった。
そのことを、やっと言えた。
会社に戻る車の中で、音葉が隣から私を見た。
「言えました?」
「何を」
「登坂先生に」
「……少し」
「目を見られない件ですか」
私は思わず音葉を見た。
「なんで知ってるの」
「顔に書いてあります」
「もうその顔システム怖い」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生、どうでした?」
「困ってた」
「でしょうね」
「でも、笑ってた」
そう言うと、音葉は静かに頷いた。
「なら、伝わったんだと思います」
伝わった。
本当にそうならいい。
利月くんは、言葉をすぐに返す人ではない。
その場で完璧に安心させてくれるわけでもない。
でも、受け取った言葉をどこかに置きっぱなしにはしない人だ。
あとから、少し遅れて、ちゃんと考えた言葉をくれる。
私はそれを少しずつ覚え始めていた。
会社に戻ると、現実はすぐに私を社長の椅子へ座らせた。
確認する書類。
決裁の印鑑。
取引先からの電話。
社員の相談。
さっきまでの私は、目を見られない恋をしている女だった。
でも今は、社長の顔で話している。
不思議だ。
人はひとつの顔だけで生きていない。
社長の私。
母の私。
娘の私。
恋をしている私。
教室を離れたまま、まだ少し泣いている私。
全部が私なのに、私はずっと、どれかひとつだけを本当だと思ってほしかった。
利月くんの前では、ただの灯理でいたかった。
でも、もうそれだけでは立てない。
それを彼に知られてしまった。
怖い。
でも、少しだけ楽だった。
夜、家に帰ると、陽斗がリビングで東京タワーの写真集を広げていた。
「ただいま」
「おかえり」
陽斗は顔を上げる。
「お母さん、これ見て」
テーブルの上には、夜の東京タワーの写真があった。
赤い光。
暗い空。
足元に広がる小さな街の灯り。
私は息を止めた。
「綺麗だね」
「お母さん、東京タワー好きでしょ」
「うん」
「なんで?」
その質問に、すぐには答えられなかった。
なんで。
子どもの頃、美紗子先生が教えてくれたから。
高いものも、足元から立っていると知ったから。
眠れない夜に、あの光を見ると少し息ができるから。
利月くんと、何度もそこで会ったから。
理由はいくつもある。
でも、陽斗に全部は言えない。
「そこにあると、安心するからかな」
私が答えると、陽斗は少し考えた。
「ふうん。山みたいな感じ?」
「山?」
「遠くにあって、いつも見えるやつ」
「それ、ちょっと分かる」
陽斗はページをめくった。
「登坂先生も好きって言ってた」
胸が、小さく鳴った。
「東京タワーを?」
「うん。下から見るのがいいって」
私は黙った。
陽斗は何も知らずに続ける。
「お母さんも、下から見たことある?」
「あるよ」
「上った?」
「昔、一度だけ」
「どっちが好き?」
私は窓の外を見た。
遠くに東京タワーが見える。
高い部屋から見る光。
でも、私が本当に息をしやすいのは、きっとあの足元だった。
「下からかな」
陽斗は得意げに笑った。
「登坂先生と一緒じゃん」
その言葉に、私は思わず目を伏せた。
一緒。
その響きだけで、胸が忙しくなる。
「お母さん、顔赤い?」
「赤くない」
「赤い」
「照明」
「便利だね、照明」
陽斗は笑った。
子どもは、本当に油断ならない。
夕食のあと、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日、話してくれてありがとうございました。
私は画面を見つめた。
短い。
でも、それだけで胸が揺れる。
こちらこそ、変なことを言ってすみません。
送ると、少し間が空いた。
変ではなかったです。
その一文に、私は少しだけ息を吐いた。
続けて、もう一通。
ただ、少し驚きました。
やっぱり。
私は苦笑して返す。
ですよね。
今度はすぐに既読がついた。
でも返事は、少し遅かった。
その間、私はまたスマホを見つめてしまう。
早く返してほしい。
でも、軽く返してほしくない。
どちらも本音で、自分でも面倒だと思う。
ようやく届いたメッセージは、利月くんらしく、少し不器用だった。
俺は、灯理さんが佐伯と話している方が自然に見えていました。
だから、そういうことなのかと思っていました。
胸が痛んだ。
やっぱり、そう見えていた。
私はすぐに返信した。
違います。
尚さんは話しやすいだけです。
送ってから、少し考える。
そして、もう一文足した。
登坂さんは、話す前に緊張します。
既読。
しばらく沈黙。
私はスマホを握ったまま、呼吸を浅くした。
返ってきたのは、短い文章だった。
それは、悪いことですか。
私は少し驚いた。
悪いこと。
考えたことがなかった。
緊張することは、怖いことだと思っていた。
うまく話せないことは、失敗だと思っていた。
でも、悪いことなのだろうか。
私はゆっくり文字を打った。
悪いことではないと思います。
でも、うまくできない自分が恥ずかしいです。
送信。
すぐに既読がついた。
そしてまた、少し待った。
利月くんは、たぶん考えている。
そう思うと、待つ時間が少しだけ怖くなくなる。
俺も、うまくできていません。
その一文に、胸が止まった。
返事も遅いですし、安心させる言葉もあまり出てきません。
でも、灯理さんを困らせたいわけではないです。
涙が出そうになった。
分かっている。
分かっているけれど、本人の口から言われると、心の中のほどけていない糸が少し緩む。
分かっています。
困らせたい人じゃないって、分かってます。
私はそう返した。
少し迷ってから、もう一文。
でも、たまにヤキモキします。
既読がついて、しばらくしてから返事が来た。
すみません。
また謝る。
私は笑ってしまった。
そこは謝るところじゃないです。
難しいです。
このやり取りに、私は少し救われる。
完璧じゃない会話。
でも、続いている会話。
それが嬉しかった。
その時、陽斗がテーブルの向こうから顔を上げた。
「お母さん、にやにやしてる」
「してない」
「してる」
「漢字やって」
「ごまかした」
私はスマホを伏せて、陽斗のノートを見る。
「ここ、書き順違う」
「細かい」
「登坂先生みたい?」
「お母さん、今ちょっと嬉しそうに言った」
「言ってない」
陽斗はじっと私を見た。
「やっぱりお母さん、登坂先生好きなの?」
心臓が跳ねる。
「先生として」
「ふうん」
陽斗はそれ以上言わなかった。
でも、その目は少しだけ何かを考えているように見えた。
子どもは、知らないふりをすることもある。
私はそれを知っている。
宿題が終わり、陽斗が寝室へ行ったあと、私はもう一度スマホを開いた。
利月くんから、メッセージが届いていた。
陽斗に、今日東京タワーの話をされました。
私は少し笑った。
家でも写真集を見ていました。
そうですか。
少し間が空く。
陽斗が、「お母さんも下から見る方が好きだって」と言っていました。
私は画面を見つめた。
陽斗。
言ったんだ。
利月くんと、私の話を。
知らないまま、私たちの間に小さな橋をかけている。
そう言いました。
私が返すと、利月くんからすぐに返事が来た。
俺も、下から見る方が好きです。
知っている。
それはもう、何度も聞いた。
でも今日は、その一文が少し違って見えた。
同じものを、同じ角度から見ている。
それだけで、心が少し近づく。
さらにもう一通、届いた。
灯理さんは、上から見る東京タワーも似合いそうですけど。
私は首を傾げた。
どういう意味ですか?
少し間が空いた。
すみません。
うまく言えません。
利月くんらしい。
私は待った。
今度は、画面を急かさずに。
数分後、返事が来た。
社長として、高い場所からいろいろ見ている灯理さんも、たぶん灯理さんなので。
でも、東京タワーの下で少し困った顔をしている灯理さんも、同じ人だと思います。
胸が、静かに震えた。
社長の私。
東京タワーの下で、ただの灯理になりたかった私。
その両方を、同じ人だと言ってくれた。
どちらも、今の灯理さんなので。
その一文で、私は息ができなくなった。
今の灯理。
若く見える私ではなく。
嘘をつく前の私でもなく。
教室を離れる前の私でもなく。
今の私。
社長で、母で、年上で、嘘をついてしまって、でも向き合おうとしている私。
その私を、利月くんは見ようとしてくれている。
涙がこぼれた。
私は震える指で返信した。
そう言われると、泣きます。
既読。
すぐに返事が来た。
すみません。
また謝る。
私は泣きながら笑った。
だから、謝るところじゃないです。
少しして、返事。
本当に難しいです。
私はスマホを胸に当てた。
利月くんは、安心させるのが上手な人ではない。
欲しい言葉を、欲しい瞬間にくれる人でもない。
でも時々、何気なく、私の一番深いところを肯定する。
それが嬉しくて、苦しい。
私はまだ、自分の全部を好きにはなれない。
でも、今の私を見てくれる人がいる。
そのことが、夜の中で小さな灯りになった。
窓の外で、東京タワーが光っている。
私はその光を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、今の私を見ていた。
若くも、軽くも、綺麗なだけでもない。
たくさんの嘘と本当を抱えた、
今ここにいる私の形をしていた。
登坂さんの方が、緊張するんです。
隣にいるだけで精一杯で。
目を見て話すと、何か全部ばれそうで。
言ってしまった。
社長として出席した地域教育の打ち合わせで、
教育支援センターの廊下の隅で、
私はまるで子どもみたいなことを利月くんに言ってしまった。
恥ずかしい。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
でも、不思議と後悔はしていなかった。
ずっと誤解されたくなかった。
私が尚さんと話すのは、尚さんの方がいいからじゃない。
尚さんは話しやすい。
返事が怖くない。
言葉の受け皿が広くて、転んでも笑ってくれる気がする。
でも利月くんは違う。
目を見るだけで、心の奥にしまっていたものが全部光ってしまう。
だから逃げていた。
一番話したい人の隣にいるのに、
一番見たい人の目を見られなかった。
そのことを、やっと言えた。
会社に戻る車の中で、音葉が隣から私を見た。
「言えました?」
「何を」
「登坂先生に」
「……少し」
「目を見られない件ですか」
私は思わず音葉を見た。
「なんで知ってるの」
「顔に書いてあります」
「もうその顔システム怖い」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生、どうでした?」
「困ってた」
「でしょうね」
「でも、笑ってた」
そう言うと、音葉は静かに頷いた。
「なら、伝わったんだと思います」
伝わった。
本当にそうならいい。
利月くんは、言葉をすぐに返す人ではない。
その場で完璧に安心させてくれるわけでもない。
でも、受け取った言葉をどこかに置きっぱなしにはしない人だ。
あとから、少し遅れて、ちゃんと考えた言葉をくれる。
私はそれを少しずつ覚え始めていた。
会社に戻ると、現実はすぐに私を社長の椅子へ座らせた。
確認する書類。
決裁の印鑑。
取引先からの電話。
社員の相談。
さっきまでの私は、目を見られない恋をしている女だった。
でも今は、社長の顔で話している。
不思議だ。
人はひとつの顔だけで生きていない。
社長の私。
母の私。
娘の私。
恋をしている私。
教室を離れたまま、まだ少し泣いている私。
全部が私なのに、私はずっと、どれかひとつだけを本当だと思ってほしかった。
利月くんの前では、ただの灯理でいたかった。
でも、もうそれだけでは立てない。
それを彼に知られてしまった。
怖い。
でも、少しだけ楽だった。
夜、家に帰ると、陽斗がリビングで東京タワーの写真集を広げていた。
「ただいま」
「おかえり」
陽斗は顔を上げる。
「お母さん、これ見て」
テーブルの上には、夜の東京タワーの写真があった。
赤い光。
暗い空。
足元に広がる小さな街の灯り。
私は息を止めた。
「綺麗だね」
「お母さん、東京タワー好きでしょ」
「うん」
「なんで?」
その質問に、すぐには答えられなかった。
なんで。
子どもの頃、美紗子先生が教えてくれたから。
高いものも、足元から立っていると知ったから。
眠れない夜に、あの光を見ると少し息ができるから。
利月くんと、何度もそこで会ったから。
理由はいくつもある。
でも、陽斗に全部は言えない。
「そこにあると、安心するからかな」
私が答えると、陽斗は少し考えた。
「ふうん。山みたいな感じ?」
「山?」
「遠くにあって、いつも見えるやつ」
「それ、ちょっと分かる」
陽斗はページをめくった。
「登坂先生も好きって言ってた」
胸が、小さく鳴った。
「東京タワーを?」
「うん。下から見るのがいいって」
私は黙った。
陽斗は何も知らずに続ける。
「お母さんも、下から見たことある?」
「あるよ」
「上った?」
「昔、一度だけ」
「どっちが好き?」
私は窓の外を見た。
遠くに東京タワーが見える。
高い部屋から見る光。
でも、私が本当に息をしやすいのは、きっとあの足元だった。
「下からかな」
陽斗は得意げに笑った。
「登坂先生と一緒じゃん」
その言葉に、私は思わず目を伏せた。
一緒。
その響きだけで、胸が忙しくなる。
「お母さん、顔赤い?」
「赤くない」
「赤い」
「照明」
「便利だね、照明」
陽斗は笑った。
子どもは、本当に油断ならない。
夕食のあと、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日、話してくれてありがとうございました。
私は画面を見つめた。
短い。
でも、それだけで胸が揺れる。
こちらこそ、変なことを言ってすみません。
送ると、少し間が空いた。
変ではなかったです。
その一文に、私は少しだけ息を吐いた。
続けて、もう一通。
ただ、少し驚きました。
やっぱり。
私は苦笑して返す。
ですよね。
今度はすぐに既読がついた。
でも返事は、少し遅かった。
その間、私はまたスマホを見つめてしまう。
早く返してほしい。
でも、軽く返してほしくない。
どちらも本音で、自分でも面倒だと思う。
ようやく届いたメッセージは、利月くんらしく、少し不器用だった。
俺は、灯理さんが佐伯と話している方が自然に見えていました。
だから、そういうことなのかと思っていました。
胸が痛んだ。
やっぱり、そう見えていた。
私はすぐに返信した。
違います。
尚さんは話しやすいだけです。
送ってから、少し考える。
そして、もう一文足した。
登坂さんは、話す前に緊張します。
既読。
しばらく沈黙。
私はスマホを握ったまま、呼吸を浅くした。
返ってきたのは、短い文章だった。
それは、悪いことですか。
私は少し驚いた。
悪いこと。
考えたことがなかった。
緊張することは、怖いことだと思っていた。
うまく話せないことは、失敗だと思っていた。
でも、悪いことなのだろうか。
私はゆっくり文字を打った。
悪いことではないと思います。
でも、うまくできない自分が恥ずかしいです。
送信。
すぐに既読がついた。
そしてまた、少し待った。
利月くんは、たぶん考えている。
そう思うと、待つ時間が少しだけ怖くなくなる。
俺も、うまくできていません。
その一文に、胸が止まった。
返事も遅いですし、安心させる言葉もあまり出てきません。
でも、灯理さんを困らせたいわけではないです。
涙が出そうになった。
分かっている。
分かっているけれど、本人の口から言われると、心の中のほどけていない糸が少し緩む。
分かっています。
困らせたい人じゃないって、分かってます。
私はそう返した。
少し迷ってから、もう一文。
でも、たまにヤキモキします。
既読がついて、しばらくしてから返事が来た。
すみません。
また謝る。
私は笑ってしまった。
そこは謝るところじゃないです。
難しいです。
このやり取りに、私は少し救われる。
完璧じゃない会話。
でも、続いている会話。
それが嬉しかった。
その時、陽斗がテーブルの向こうから顔を上げた。
「お母さん、にやにやしてる」
「してない」
「してる」
「漢字やって」
「ごまかした」
私はスマホを伏せて、陽斗のノートを見る。
「ここ、書き順違う」
「細かい」
「登坂先生みたい?」
「お母さん、今ちょっと嬉しそうに言った」
「言ってない」
陽斗はじっと私を見た。
「やっぱりお母さん、登坂先生好きなの?」
心臓が跳ねる。
「先生として」
「ふうん」
陽斗はそれ以上言わなかった。
でも、その目は少しだけ何かを考えているように見えた。
子どもは、知らないふりをすることもある。
私はそれを知っている。
宿題が終わり、陽斗が寝室へ行ったあと、私はもう一度スマホを開いた。
利月くんから、メッセージが届いていた。
陽斗に、今日東京タワーの話をされました。
私は少し笑った。
家でも写真集を見ていました。
そうですか。
少し間が空く。
陽斗が、「お母さんも下から見る方が好きだって」と言っていました。
私は画面を見つめた。
陽斗。
言ったんだ。
利月くんと、私の話を。
知らないまま、私たちの間に小さな橋をかけている。
そう言いました。
私が返すと、利月くんからすぐに返事が来た。
俺も、下から見る方が好きです。
知っている。
それはもう、何度も聞いた。
でも今日は、その一文が少し違って見えた。
同じものを、同じ角度から見ている。
それだけで、心が少し近づく。
さらにもう一通、届いた。
灯理さんは、上から見る東京タワーも似合いそうですけど。
私は首を傾げた。
どういう意味ですか?
少し間が空いた。
すみません。
うまく言えません。
利月くんらしい。
私は待った。
今度は、画面を急かさずに。
数分後、返事が来た。
社長として、高い場所からいろいろ見ている灯理さんも、たぶん灯理さんなので。
でも、東京タワーの下で少し困った顔をしている灯理さんも、同じ人だと思います。
胸が、静かに震えた。
社長の私。
東京タワーの下で、ただの灯理になりたかった私。
その両方を、同じ人だと言ってくれた。
どちらも、今の灯理さんなので。
その一文で、私は息ができなくなった。
今の灯理。
若く見える私ではなく。
嘘をつく前の私でもなく。
教室を離れる前の私でもなく。
今の私。
社長で、母で、年上で、嘘をついてしまって、でも向き合おうとしている私。
その私を、利月くんは見ようとしてくれている。
涙がこぼれた。
私は震える指で返信した。
そう言われると、泣きます。
既読。
すぐに返事が来た。
すみません。
また謝る。
私は泣きながら笑った。
だから、謝るところじゃないです。
少しして、返事。
本当に難しいです。
私はスマホを胸に当てた。
利月くんは、安心させるのが上手な人ではない。
欲しい言葉を、欲しい瞬間にくれる人でもない。
でも時々、何気なく、私の一番深いところを肯定する。
それが嬉しくて、苦しい。
私はまだ、自分の全部を好きにはなれない。
でも、今の私を見てくれる人がいる。
そのことが、夜の中で小さな灯りになった。
窓の外で、東京タワーが光っている。
私はその光を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、今の私を見ていた。
若くも、軽くも、綺麗なだけでもない。
たくさんの嘘と本当を抱えた、
今ここにいる私の形をしていた。

