翌朝、目が覚めた時、私は最初にスマホを見た。
画面には、昨夜のメッセージが残っている。
電話してくれて、ありがとうございました。
たった一文。
それなのに、何度読んでも胸の奥が少しだけ温かくなる。
昨日の夜、私は初めて利月くんに電話をした。
父の体調が悪くなって、実家に行って、社長でも母でも娘でもある自分が、全部いっぺんに重くなった夜。
利月くんは、完璧なことは言わなかった。
すぐ行きますとも言わなかった。
大丈夫ですよとも、簡単には言わなかった。
でも、電話に出てくれた。
起きています、と言ってくれた。
それだけで、私は少しだけ息ができた。
「お母さん、今日も母親濃度高い?」
玄関で陽斗が靴を履きながら聞いてきた。
「今日は普通濃度」
「何パー?」
「六十五パー」
「高めじゃん」
「最近キャンペーン中だから」
陽斗は笑いながら鞄を背負った。
「今日、佐伯先生にプリント出さなきゃ」
「忘れないでね」
「言われなくても覚えてる」
「昨日もそう言ってたよ」
「それは昨日の俺」
どこかで聞いた言い回しに、私は笑ってしまった。
「佐伯先生みたい」
「やめて。うつった」
「いい先生じゃん」
「うるさいけどね」
陽斗はそう言いながら、少しだけ嬉しそうだった。
「登坂先生には?」
聞いてから、自分でまた聞いてしまったと思った。
陽斗はちらりと私を見る。
「お母さん、登坂先生のこと好きなの?」
心臓が止まるかと思った。
「え?」
声が裏返りそうになる。
陽斗は、からかうでもなく、ただ不思議そうに私を見ていた。
「最近よく聞くから」
「先生としてね。参観日で会ったから、気になって」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳だ。
でも陽斗は、ふうん、と言っただけだった。
「登坂先生、今日も図書室いると思うよ」
「そうなんだ」
「うん。星座の本、まだ途中」
「そっか」
陽斗はドアを開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあと、私はしばらく動けなかった。
子どもは、気づく。
大人が隠したつもりでいるものの輪郭に、何気ない顔で触れてくる。
好きなの?
陽斗の声が、胸の中に残る。
好き。
その言葉を、私は昨夜、電話越しに利月くんに言ってしまった。
そういうところが好きです、と。
軽い逃げ道を残した言い方だったけれど、それでも好きという言葉は外に出た。
利月くんは、すぐに同じ言葉を返さなかった。
でも、それでよかった。
たぶん、よかった。
会社に着くと、音葉がいつものように予定を確認していた。
「本日、夕方に学校の先生方との地域教育関連の打ち合わせがあります」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
「聞いてない」
「先週お伝えしました」
「私の脳みそ、今週いろいろありすぎて書類が迷子」
「でしょうね」
音葉は淡々とタブレットを見た。
「参加者に、佐伯先生と登坂先生が入っています」
その瞬間、胸が大きく鳴った。
「二人とも?」
「はい」
「会社に来るの?」
「会場は教育支援センターです。社長は協賛企業側として出席です」
そうだった。
会社として、地域の教育活動を支援する話が進んでいた。
父の代から続く社会貢献の一部。
以前の私なら、仕事として普通に出席していたはずだ。
でも今は違う。
尚さんは、陽斗の担任で、私の嘘を最初に知った人。
利月くんは、私が好きになってしまった人で、私の本当を知って、それでも逃げていないと言ってくれた人。
その二人に、社長として会う。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
「無理なら、代理を立てますか」
音葉が聞いた。
私は少し考えて、首を横に振った。
「行く」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、行く」
言ってから、自分で少し驚いた。
大丈夫じゃないけど。
最近の私は、その言葉を少しずつ言えるようになっている。
夕方、教育支援センターの会議室には、地域の学校関係者と企業の担当者が集まっていた。
私は会社の代表として、いつもの顔で挨拶をした。
「本日はよろしくお願いいたします」
社長としての声。
資料を受け取り、名刺を交換し、席につく。
その流れは慣れている。
慣れているはずなのに、利月くんが会議室に入ってきた瞬間、私は資料の文字が読めなくなった。
黒いスーツ。
学校で見る先生の顔とも、東京タワーの下で見る顔とも違う。
少し緊張しているように見えた。
尚さんは、その隣でいつものように自然な表情をしている。
私と目が合うと、小さく会釈した。
利月くんも、少し遅れて私を見る。
目が合った。
ほんの一瞬。
私はすぐに視線を逸らしてしまった。
だめだ。
見られない。
昨夜、電話であんなに話したのに。
「電話してくれてありがとうございました」と言ってくれたのに。
目の前にいると、やっぱり目が見られない。
隣にいるだけで、胸が忙しくなる。
見たら、好きだと全部出てしまいそうだった。
会議は淡々と進んだ。
地域の子どもたち向けの読書支援。
放課後の居場所づくり。
企業協賛による教材購入。
私は資料を見ながら、必要なところで意見を述べた。
「図書室の本を増やすなら、子どもたちが自分で選べる仕組みもあった方がいいと思います」
そう言うと、利月くんが顔を上げた。
視線を感じる。
でも、私は資料を見たまま続けた。
「大人が必要だと思う本と、子どもが手を伸ばす本は違うので」
その言葉を聞いて、利月くんが少しだけ頷いたのが分かった。
尚さんが隣から言う。
「それ、すごく分かります。うちの五年も、こっちが読ませたい本より、意外な本持ってきますからね」
会議室に少し笑いが起きた。
尚さんは、場をやわらげるのがうまい。
私はその空気に助けられるように、尚さんの方を見た。
「陽斗も、そうですか」
言ってから、しまったと思った。
会議の場で、息子の名前を出してしまった。
でも尚さんは自然に笑った。
「陽斗は、最近ずっと宇宙です。月、星座、東京タワー」
「東京タワーは宇宙ですか」
「本人の中ではたぶん繋がってます」
尚さんの軽い返しに、また少し笑いが起きる。
私は、ほっとしてしまった。
尚さんの方は見られる。
普通に話せる。
でも、隣にいる利月くんの方は見られない。
そのことに自分で気づいて、胸が痛んだ。
違う。
尚さんがいいわけじゃない。
尚さんは、話しやすい。
逃げ込める。
言葉が怖くない。
でも利月くんは、違う。
目を見るだけで、胸の奥の隠していたものが光ってしまう。
だから私は、また尚さんに逃げている。
会議が終わり、参加者たちがそれぞれ席を立った。
私は資料をまとめながら、深く息を吐いた。
「社長」
尚さんが近づいてきた。
その呼び方に、少しだけ現実に戻される。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
尚さんはいつもの調子で笑った。
「今日、ちゃんと社長でしたね」
「普段は?」
「普段も社長ですけど、今日は名刺が強かったです」
「何それ」
私は思わず笑った。
こういう会話は楽だ。
笑えばいい。
返せばいい。
尚さんは、私が笑いやすい場所を作ってくれる。
「陽斗、今日はちゃんとプリント出しましたよ」
「本当ですか」
「奇跡です」
「本人に言ってあげてください」
「言いました。褒めたら調子に乗ってました」
「目に浮かびます」
笑いながら話していると、少し離れた場所で利月くんがこちらを見ているのに気づいた。
胸が跳ねる。
でも、また視線を逸らしてしまった。
尚さんは、それを見逃さなかった。
「灯理さん」
小さな声で呼ばれる。
「はい」
「逃げてますね」
「……何から」
「登坂から」
心臓が、嫌な音を立てた。
「逃げてません」
「逃げてます」
尚さんははっきり言った。
「俺に話しかけるの、楽なのは分かりますけど」
「そんなこと」
「ありますよね」
言い返せなかった。
尚さんは、意地悪く笑うわけでもなく、ただ少し困ったように私を見る。
「登坂、あれでけっこう気にしてますよ」
「何を?」
「灯理さんが俺とは普通に話すのに、自分とは目を合わせないこと」
息が止まった。
「え……」
「たぶん、あいつは言いません。言わないで一人で考えます」
尚さんは少しだけ肩をすくめた。
「それで勝手に、灯理さんは俺といる方が楽なんだろうなって思います」
違う。
すぐに心の中で叫んだ。
違うのに。
楽なのは、そうかもしれない。
でも好きだから話せない人と、楽だから話せる人は、全然違う。
「違います」
小さく声が出た。
尚さんは、少しだけ笑った。
「俺に言ってどうするんですか」
その通りだった。
言う相手が違う。
私は資料を胸に抱えたまま、利月くんの方を見た。
彼は他の先生と短く話していた。
けれど、どこか静かで、少し遠い。
東京タワーの下では、あんなに近くに立ってくれたのに。
ここではまた、先生と社長の距離に戻ってしまう。
私がそうしている。
私が、目を逸らしている。
「行ってください」
尚さんが言った。
「今?」
「今じゃないと、また逃げます」
「佐伯さん、厳しい」
「担任なので」
「私の担任じゃないです」
「知ってます」
そのやり取りに少しだけ笑えた。
でも足は重かった。
私は利月くんの方へ歩いた。
近づくたびに、胸がうるさくなる。
利月くんが私に気づいた。
「灯理さん」
名前を呼ばれる。
その声だけで、目を逸らしたくなる。
でも、今日は逃げない。
少しだけ顔を上げた。
目が合う。
たったそれだけで、息が詰まった。
「お疲れさまでした」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「お疲れさまでした」
会話が止まる。
何を言えばいいのか分からない。
昨夜は電話で話せた。
好きだと言ってしまった。
声を聞けて落ち着いたと言った。
なのに、目の前にいると何も出てこない。
「今日の話」
利月くんが先に言った。
「よかったです」
「え?」
「子どもが自分で本を選べる仕組み」
「ああ」
私は少しだけほっとした。
仕事の話なら、話せる。
「昔、学校で働いていた時に思っていたんです。大人が読ませたい本だけじゃなくて、子どもが自分で見つける本も大事だなって」
利月くんは静かに聞いていた。
「陽斗も、そういうタイプですしね」
「はい」
利月くんの声が少しやわらかくなる。
「星座の本、楽しそうに借りていきました」
「ありがとうございます。いつも見てくれて」
言ってから、胸が少し熱くなった。
利月くんは、少しだけ視線を落とした。
「見すぎないようにします」
その言い方が真面目すぎて、私は思わず笑ってしまった。
「そこ、そんなに反省してるんですか」
「はい」
「陽斗、嫌がってないですよ」
「でも、変だと思われたみたいなので」
「ちょっとだけ」
利月くんが本気で困った顔をした。
その顔を見て、少しだけ力が抜ける。
やっぱり、この人は不器用だ。
でも、その不器用さが好きなのだと思う。
私は勇気を出して、言った。
「今日、私が佐伯さんとばかり話していたの」
利月くんの表情が、少しだけ止まる。
「はい」
「違うんです」
言葉が足りない。
でも、言わなきゃ。
「佐伯さんの方がいいとか、話したいとか、そういう意味じゃなくて」
胸が苦しい。
目を見て話せない。
でも、逸らしたら伝わらない。
私は震えそうになる視線を、なんとか利月くんに戻した。
「登坂さんの方が、緊張するんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
利月くんは何も言わなかった。
私は慌てて続ける。
「隣にいるだけで精一杯で。目を見て話すと、何か全部ばれそうで」
声が小さくなる。
「だから、楽に話せる佐伯さんの方を向いてしまっただけです」
これで伝わるのだろうか。
言えば言うほど、恥ずかしい。
大人なのに。
社長なのに。
陽斗の母なのに。
こんな中学生みたいなことを、私は会議室の隅で言っている。
利月くんは、しばらく私を見ていた。
そして、小さく息を吐いた。
「そうだったんですね」
「はい」
「俺は」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「灯理さんは、佐伯と話している方が楽しそうだと思っていました」
胸が痛んだ。
やっぱり。
「違います」
私はすぐに言った。
「楽なんです。楽しいんじゃなくて、楽」
「楽」
「はい」
「俺は、楽じゃないんですか」
その質問が、あまりにまっすぐで、私は一瞬固まった。
「楽じゃないです」
正直に言うと、利月くんが少しだけ目を見開いた。
「すみません」
「違う、悪い意味じゃなくて」
私は慌てた。
「楽じゃないけど、嫌じゃないです。むしろ……」
むしろ。
好きだから。
そこまで言いそうになって、止まる。
でも、もう一度だけ勇気を出した。
「むしろ、近くにいると嬉しすぎて、困ります」
言ってしまった。
顔が熱い。
資料で隠したい。
いや、もう隠せない。
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「灯理さん」
「はい」
「そういうことを、急に言うのは」
「ずるいですか」
「はい」
私は、少しだけ笑った。
「知ってます」
利月くんも、ほんの少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の張りつめていたものがほどける。
目はまだ、長くは見られない。
でも、一瞬なら見られた。
その一瞬だけで、今日は十分だった。
帰り際、尚さんが遠くからこちらを見て、親指を立てた。
私は慌てて目で怒った。
尚さんは笑っていた。
利月くんは、その様子を見て少しだけ首を傾げる。
「佐伯、何かしました?」
「何もしてません」
「してますね」
「してません」
利月くんが、少しだけ笑った。
その笑い方に、もう嫉妬や不安は見えなかった。
たぶん、少しだけ伝わったのだと思う。
私は帰りの車で、東京タワーを見た。
夜の光が、遠くに浮かんでいる。
隣にいるのに話せない人。
目を見るだけで胸がいっぱいになる人。
でも今日は、そのことを少しだけ伝えられた。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、隣にいるのに震えるほど近い、
そんな距離の形をしていた。
画面には、昨夜のメッセージが残っている。
電話してくれて、ありがとうございました。
たった一文。
それなのに、何度読んでも胸の奥が少しだけ温かくなる。
昨日の夜、私は初めて利月くんに電話をした。
父の体調が悪くなって、実家に行って、社長でも母でも娘でもある自分が、全部いっぺんに重くなった夜。
利月くんは、完璧なことは言わなかった。
すぐ行きますとも言わなかった。
大丈夫ですよとも、簡単には言わなかった。
でも、電話に出てくれた。
起きています、と言ってくれた。
それだけで、私は少しだけ息ができた。
「お母さん、今日も母親濃度高い?」
玄関で陽斗が靴を履きながら聞いてきた。
「今日は普通濃度」
「何パー?」
「六十五パー」
「高めじゃん」
「最近キャンペーン中だから」
陽斗は笑いながら鞄を背負った。
「今日、佐伯先生にプリント出さなきゃ」
「忘れないでね」
「言われなくても覚えてる」
「昨日もそう言ってたよ」
「それは昨日の俺」
どこかで聞いた言い回しに、私は笑ってしまった。
「佐伯先生みたい」
「やめて。うつった」
「いい先生じゃん」
「うるさいけどね」
陽斗はそう言いながら、少しだけ嬉しそうだった。
「登坂先生には?」
聞いてから、自分でまた聞いてしまったと思った。
陽斗はちらりと私を見る。
「お母さん、登坂先生のこと好きなの?」
心臓が止まるかと思った。
「え?」
声が裏返りそうになる。
陽斗は、からかうでもなく、ただ不思議そうに私を見ていた。
「最近よく聞くから」
「先生としてね。参観日で会ったから、気になって」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳だ。
でも陽斗は、ふうん、と言っただけだった。
「登坂先生、今日も図書室いると思うよ」
「そうなんだ」
「うん。星座の本、まだ途中」
「そっか」
陽斗はドアを開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあと、私はしばらく動けなかった。
子どもは、気づく。
大人が隠したつもりでいるものの輪郭に、何気ない顔で触れてくる。
好きなの?
陽斗の声が、胸の中に残る。
好き。
その言葉を、私は昨夜、電話越しに利月くんに言ってしまった。
そういうところが好きです、と。
軽い逃げ道を残した言い方だったけれど、それでも好きという言葉は外に出た。
利月くんは、すぐに同じ言葉を返さなかった。
でも、それでよかった。
たぶん、よかった。
会社に着くと、音葉がいつものように予定を確認していた。
「本日、夕方に学校の先生方との地域教育関連の打ち合わせがあります」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
「聞いてない」
「先週お伝えしました」
「私の脳みそ、今週いろいろありすぎて書類が迷子」
「でしょうね」
音葉は淡々とタブレットを見た。
「参加者に、佐伯先生と登坂先生が入っています」
その瞬間、胸が大きく鳴った。
「二人とも?」
「はい」
「会社に来るの?」
「会場は教育支援センターです。社長は協賛企業側として出席です」
そうだった。
会社として、地域の教育活動を支援する話が進んでいた。
父の代から続く社会貢献の一部。
以前の私なら、仕事として普通に出席していたはずだ。
でも今は違う。
尚さんは、陽斗の担任で、私の嘘を最初に知った人。
利月くんは、私が好きになってしまった人で、私の本当を知って、それでも逃げていないと言ってくれた人。
その二人に、社長として会う。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
「無理なら、代理を立てますか」
音葉が聞いた。
私は少し考えて、首を横に振った。
「行く」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、行く」
言ってから、自分で少し驚いた。
大丈夫じゃないけど。
最近の私は、その言葉を少しずつ言えるようになっている。
夕方、教育支援センターの会議室には、地域の学校関係者と企業の担当者が集まっていた。
私は会社の代表として、いつもの顔で挨拶をした。
「本日はよろしくお願いいたします」
社長としての声。
資料を受け取り、名刺を交換し、席につく。
その流れは慣れている。
慣れているはずなのに、利月くんが会議室に入ってきた瞬間、私は資料の文字が読めなくなった。
黒いスーツ。
学校で見る先生の顔とも、東京タワーの下で見る顔とも違う。
少し緊張しているように見えた。
尚さんは、その隣でいつものように自然な表情をしている。
私と目が合うと、小さく会釈した。
利月くんも、少し遅れて私を見る。
目が合った。
ほんの一瞬。
私はすぐに視線を逸らしてしまった。
だめだ。
見られない。
昨夜、電話であんなに話したのに。
「電話してくれてありがとうございました」と言ってくれたのに。
目の前にいると、やっぱり目が見られない。
隣にいるだけで、胸が忙しくなる。
見たら、好きだと全部出てしまいそうだった。
会議は淡々と進んだ。
地域の子どもたち向けの読書支援。
放課後の居場所づくり。
企業協賛による教材購入。
私は資料を見ながら、必要なところで意見を述べた。
「図書室の本を増やすなら、子どもたちが自分で選べる仕組みもあった方がいいと思います」
そう言うと、利月くんが顔を上げた。
視線を感じる。
でも、私は資料を見たまま続けた。
「大人が必要だと思う本と、子どもが手を伸ばす本は違うので」
その言葉を聞いて、利月くんが少しだけ頷いたのが分かった。
尚さんが隣から言う。
「それ、すごく分かります。うちの五年も、こっちが読ませたい本より、意外な本持ってきますからね」
会議室に少し笑いが起きた。
尚さんは、場をやわらげるのがうまい。
私はその空気に助けられるように、尚さんの方を見た。
「陽斗も、そうですか」
言ってから、しまったと思った。
会議の場で、息子の名前を出してしまった。
でも尚さんは自然に笑った。
「陽斗は、最近ずっと宇宙です。月、星座、東京タワー」
「東京タワーは宇宙ですか」
「本人の中ではたぶん繋がってます」
尚さんの軽い返しに、また少し笑いが起きる。
私は、ほっとしてしまった。
尚さんの方は見られる。
普通に話せる。
でも、隣にいる利月くんの方は見られない。
そのことに自分で気づいて、胸が痛んだ。
違う。
尚さんがいいわけじゃない。
尚さんは、話しやすい。
逃げ込める。
言葉が怖くない。
でも利月くんは、違う。
目を見るだけで、胸の奥の隠していたものが光ってしまう。
だから私は、また尚さんに逃げている。
会議が終わり、参加者たちがそれぞれ席を立った。
私は資料をまとめながら、深く息を吐いた。
「社長」
尚さんが近づいてきた。
その呼び方に、少しだけ現実に戻される。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
尚さんはいつもの調子で笑った。
「今日、ちゃんと社長でしたね」
「普段は?」
「普段も社長ですけど、今日は名刺が強かったです」
「何それ」
私は思わず笑った。
こういう会話は楽だ。
笑えばいい。
返せばいい。
尚さんは、私が笑いやすい場所を作ってくれる。
「陽斗、今日はちゃんとプリント出しましたよ」
「本当ですか」
「奇跡です」
「本人に言ってあげてください」
「言いました。褒めたら調子に乗ってました」
「目に浮かびます」
笑いながら話していると、少し離れた場所で利月くんがこちらを見ているのに気づいた。
胸が跳ねる。
でも、また視線を逸らしてしまった。
尚さんは、それを見逃さなかった。
「灯理さん」
小さな声で呼ばれる。
「はい」
「逃げてますね」
「……何から」
「登坂から」
心臓が、嫌な音を立てた。
「逃げてません」
「逃げてます」
尚さんははっきり言った。
「俺に話しかけるの、楽なのは分かりますけど」
「そんなこと」
「ありますよね」
言い返せなかった。
尚さんは、意地悪く笑うわけでもなく、ただ少し困ったように私を見る。
「登坂、あれでけっこう気にしてますよ」
「何を?」
「灯理さんが俺とは普通に話すのに、自分とは目を合わせないこと」
息が止まった。
「え……」
「たぶん、あいつは言いません。言わないで一人で考えます」
尚さんは少しだけ肩をすくめた。
「それで勝手に、灯理さんは俺といる方が楽なんだろうなって思います」
違う。
すぐに心の中で叫んだ。
違うのに。
楽なのは、そうかもしれない。
でも好きだから話せない人と、楽だから話せる人は、全然違う。
「違います」
小さく声が出た。
尚さんは、少しだけ笑った。
「俺に言ってどうするんですか」
その通りだった。
言う相手が違う。
私は資料を胸に抱えたまま、利月くんの方を見た。
彼は他の先生と短く話していた。
けれど、どこか静かで、少し遠い。
東京タワーの下では、あんなに近くに立ってくれたのに。
ここではまた、先生と社長の距離に戻ってしまう。
私がそうしている。
私が、目を逸らしている。
「行ってください」
尚さんが言った。
「今?」
「今じゃないと、また逃げます」
「佐伯さん、厳しい」
「担任なので」
「私の担任じゃないです」
「知ってます」
そのやり取りに少しだけ笑えた。
でも足は重かった。
私は利月くんの方へ歩いた。
近づくたびに、胸がうるさくなる。
利月くんが私に気づいた。
「灯理さん」
名前を呼ばれる。
その声だけで、目を逸らしたくなる。
でも、今日は逃げない。
少しだけ顔を上げた。
目が合う。
たったそれだけで、息が詰まった。
「お疲れさまでした」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「お疲れさまでした」
会話が止まる。
何を言えばいいのか分からない。
昨夜は電話で話せた。
好きだと言ってしまった。
声を聞けて落ち着いたと言った。
なのに、目の前にいると何も出てこない。
「今日の話」
利月くんが先に言った。
「よかったです」
「え?」
「子どもが自分で本を選べる仕組み」
「ああ」
私は少しだけほっとした。
仕事の話なら、話せる。
「昔、学校で働いていた時に思っていたんです。大人が読ませたい本だけじゃなくて、子どもが自分で見つける本も大事だなって」
利月くんは静かに聞いていた。
「陽斗も、そういうタイプですしね」
「はい」
利月くんの声が少しやわらかくなる。
「星座の本、楽しそうに借りていきました」
「ありがとうございます。いつも見てくれて」
言ってから、胸が少し熱くなった。
利月くんは、少しだけ視線を落とした。
「見すぎないようにします」
その言い方が真面目すぎて、私は思わず笑ってしまった。
「そこ、そんなに反省してるんですか」
「はい」
「陽斗、嫌がってないですよ」
「でも、変だと思われたみたいなので」
「ちょっとだけ」
利月くんが本気で困った顔をした。
その顔を見て、少しだけ力が抜ける。
やっぱり、この人は不器用だ。
でも、その不器用さが好きなのだと思う。
私は勇気を出して、言った。
「今日、私が佐伯さんとばかり話していたの」
利月くんの表情が、少しだけ止まる。
「はい」
「違うんです」
言葉が足りない。
でも、言わなきゃ。
「佐伯さんの方がいいとか、話したいとか、そういう意味じゃなくて」
胸が苦しい。
目を見て話せない。
でも、逸らしたら伝わらない。
私は震えそうになる視線を、なんとか利月くんに戻した。
「登坂さんの方が、緊張するんです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
利月くんは何も言わなかった。
私は慌てて続ける。
「隣にいるだけで精一杯で。目を見て話すと、何か全部ばれそうで」
声が小さくなる。
「だから、楽に話せる佐伯さんの方を向いてしまっただけです」
これで伝わるのだろうか。
言えば言うほど、恥ずかしい。
大人なのに。
社長なのに。
陽斗の母なのに。
こんな中学生みたいなことを、私は会議室の隅で言っている。
利月くんは、しばらく私を見ていた。
そして、小さく息を吐いた。
「そうだったんですね」
「はい」
「俺は」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「灯理さんは、佐伯と話している方が楽しそうだと思っていました」
胸が痛んだ。
やっぱり。
「違います」
私はすぐに言った。
「楽なんです。楽しいんじゃなくて、楽」
「楽」
「はい」
「俺は、楽じゃないんですか」
その質問が、あまりにまっすぐで、私は一瞬固まった。
「楽じゃないです」
正直に言うと、利月くんが少しだけ目を見開いた。
「すみません」
「違う、悪い意味じゃなくて」
私は慌てた。
「楽じゃないけど、嫌じゃないです。むしろ……」
むしろ。
好きだから。
そこまで言いそうになって、止まる。
でも、もう一度だけ勇気を出した。
「むしろ、近くにいると嬉しすぎて、困ります」
言ってしまった。
顔が熱い。
資料で隠したい。
いや、もう隠せない。
利月くんは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ困ったように笑った。
「灯理さん」
「はい」
「そういうことを、急に言うのは」
「ずるいですか」
「はい」
私は、少しだけ笑った。
「知ってます」
利月くんも、ほんの少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥の張りつめていたものがほどける。
目はまだ、長くは見られない。
でも、一瞬なら見られた。
その一瞬だけで、今日は十分だった。
帰り際、尚さんが遠くからこちらを見て、親指を立てた。
私は慌てて目で怒った。
尚さんは笑っていた。
利月くんは、その様子を見て少しだけ首を傾げる。
「佐伯、何かしました?」
「何もしてません」
「してますね」
「してません」
利月くんが、少しだけ笑った。
その笑い方に、もう嫉妬や不安は見えなかった。
たぶん、少しだけ伝わったのだと思う。
私は帰りの車で、東京タワーを見た。
夜の光が、遠くに浮かんでいる。
隣にいるのに話せない人。
目を見るだけで胸がいっぱいになる人。
でも今日は、そのことを少しだけ伝えられた。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、隣にいるのに震えるほど近い、
そんな距離の形をしていた。

