父は、夜が深くなる頃には少し落ち着いていた。
血圧はまだ低めだったけれど、顔色は来た時より戻っている。
母も、ようやく少しだけ椅子に座った。
「灯理、もう帰っていいわよ」
母は何度目か分からない言葉を言った。
「まだいる」
「陽斗くんは?」
「音葉が見てくれてる」
「あなた、明日も仕事でしょう」
「うん」
「なら、少しは寝なさい」
母にそう言われて、私は少しだけ笑った。
「それ、お母さんもね」
母は返事をせず、父の方を見た。
昔からそうだった。
母は、自分のことを後回しにする。
父も、弱っているくせに大したことないと言う。
私は、大丈夫じゃない時ほど大丈夫と言う。
家族って、似なくていいところほど似る。
父はソファで目を閉じていた。
眠っているのかと思ったけれど、私が立ち上がると、低い声がした。
「灯理」
「なに?」
「帰れ」
「命令?」
「お願いだ」
その言い方が、父にしては珍しく柔らかかった。
私は少し黙った。
「お父さん、明日ちゃんと病院行って」
「ああ」
「絶対ね」
「ああ」
「適当に返事してない?」
「してない」
私は母を見た。
母は小さく頷いた。
「私が連れていくわ」
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ安心した。
玄関を出ると、夜の空気が冷たかった。
車に乗り込んで、エンジンをかける。
すぐに走り出す気になれず、ハンドルに手を置いたまま、しばらく前を見ていた。
疲れていた。
会社のこと。
陽斗のこと。
父のこと。
母のこと。
利月くんのこと。
全部が、胸の中で絡まっている。
スマホを開く。
利月くんのメッセージが、そこに残っていた。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
起きています。
たった五文字なのに、こんなに心に残るなんて思わなかった。
私は電話のボタンを見つめた。
押せば、繋がるかもしれない。
でも、迷惑かもしれない。
本当は寝ようとしているかもしれない。
「いつでも」と言ったとしても、本当に今かけていいのか分からない。
こういう時の私は、いつも勝手に相手の気持ちを決めてしまう。
迷惑だよね。
重いよね。
困るよね。
そうやって、言う前から自分を引っ込める。
でも。
今日は少しだけ、頼ってみたかった。
私は深く息を吸って、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やっぱり切ろう。
そう思った瞬間、電話が繋がった。
はい。
利月くんの声だった。
低くて、少しだけ眠そうで、それでもちゃんと起きている声。
私は何も言えなくなった。
灯理さん?
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がほどけそうになる。
「……ごめんなさい」
最初に出たのは、やっぱり謝罪だった。
謝らなくていいです。
すぐに返ってきた。
その声が、静かで、優しかった。
「起きてましたか」
起きてます。
「無理してません?」
少し間があった。
少しは。
私は思わず笑ってしまった。
「そこ、嘘つかないんですね」
嘘つくと、たぶん灯理さん怒るので。
「怒らないです」
怒らないけど、気にすると思います。
当たっている。
私はハンドルに額を預けそうになった。
「お父さん、少し落ち着きました」
よかったです。
「明日、病院行ってもらいます」
その方が安心ですね。
「うん」
会話は、短い。
特別な慰めもない。
ドラマみたいに、今すぐ行きますとも言わない。
でも、声がある。
その声が、今の私には必要だった。
灯理さんは、大丈夫ですか。
利月くんが聞いた。
私はすぐに「大丈夫」と言いそうになった。
けれど、その言葉を飲み込んだ。
大丈夫じゃない時に、大丈夫と言うのは、もうやめたい。
少なくとも、この人の前では。
「大丈夫じゃないかもしれません」
そう言うと、電話の向こうが少し静かになった。
怖くなって、私はすぐに続けた。
「でも、今すぐどうにかなるとかじゃなくて。ただ、ちょっと疲れたなって」
はい。
「お父さんのことも、お母さんのことも、会社のことも、陽斗のことも、全部大事なんです」
はい。
「でも、全部大事だと、どこから守ればいいのか分からなくなる」
言葉にしたら、急に涙が出てきた。
私は慌てて窓の外を見た。
泣くつもりじゃなかった。
灯理さん。
利月くんの声が、少しだけ近くなる。
全部を同じ力で守ろうとしたら、たぶん倒れます。
その言葉は、優しいというより、現実的だった。
でも、今の私にはそれがよかった。
「倒れたら困りますね」
困ります。
「誰が?」
陽斗が。
少しだけ笑った。
「そこ、私じゃないんですね」
灯理さんもです。
あとから足すところが、本当に利月くんらしい。
「後付けっぽい」
後付けではないです。
電話越しに、彼が少し困っているのが分かった。
その不器用さに、涙が少しだけ止まる。
「登坂さん」
はい。
「私、ちゃんと向き合えてるのかな」
何にですか。
「家族に。会社に。陽斗に」
少し間があった。
利月くんは、こういう時すぐ答えない。
前なら、その間が怖かった。
でも今は、彼がちゃんと考えている時間だと少しだけ分かる。
ちゃんとできているかは、俺には分かりません。
正直な答えだった。
でも、一生懸命向き合ってる人を、俺は弱いとは思いません。
涙がまたこぼれた。
「そういうこと、急に言わないでください」
すみません。
「謝らなくていいです」
難しいです。
「本当に難しいですね」
私は泣きながら笑った。
利月くんは、王子様みたいに何もかも察してくれるわけじゃない。
私が欲しい言葉を、いつもぴったりくれるわけでもない。
でも、こういう時に逃げない。
私が大丈夫じゃないと言った時に、ちゃんとそこにいてくれる。
それだけで、今夜は十分だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
電話の向こうから、ほんの少し生活音が聞こえる。
利月くんがグラスを置く音。
遠くで車が通る音。
それだけで、彼もどこかの部屋で、ちゃんと生きている人なのだと思った。
「登坂さん」
はい。
「本当は」
言いかけて、止まる。
会いたい。
その言葉が喉の奥まで来ていた。
でも言えなかった。
父のことを話している夜に、会いたいなんて重い気がした。
利月くんを困らせる気がした。
私は言葉を変えた。
「声聞いたら、少し落ち着きました」
なら、よかったです。
「ありがとうございます」
こちらこそ。
「こちらこそ?」
電話してくれて。
胸が、静かに震えた。
「迷惑じゃなかったですか」
迷惑なら出ません。
その答えがあまりに普通で、私はまた笑ってしまった。
「そういうところ、好きです」
言ってから、息が止まった。
しまった。
電話の向こうが、静かになった。
「ごめんなさい。今のは」
今のは?
利月くんの声が、少しだけ低くなった。
私は目を閉じた。
逃げたい。
でも、もう逃げたくない。
「そのままです」
言った。
小さな声だったけれど、ちゃんと言った。
「そういう、変に取り繕わないところが、好きです」
電話の向こうで、利月くんが息を吸った気配がした。
灯理さん。
「はい」
そういうことを、急に言うのはずるいです。
私は思わず笑ってしまった。
「この前、私も言われました」
言いました。
「お互い様ですね」
そうですね。
少しだけ、空気がやわらかくなる。
でも、利月くんはすぐには甘い言葉を返さなかった。
好きです、とも言わなかった。
少し前の私なら、それで傷ついたかもしれない。
でも今夜は、分かった。
彼は、軽く返せない人なのだ。
雑にできるほど、軽くない。
その言葉を、私は信じたいと思った。
灯理さん。
「はい」
今は、ちゃんと帰ってください。
「はい」
家に着いたら、陽斗の顔を見てください。
「うん」
それで、できれば寝てください。
「できれば?」
たぶん寝ないと思うので。
「ひどい」
当たってますか。
「当たってます」
彼が少しだけ笑った気がした。
電話越しの小さな笑い声。
それだけで、夜が少しだけ優しくなる。
「登坂さんも寝てください」
はい。
「本当に?」
たぶん。
「たぶんは信用ならないです」
陽斗みたいなこと言いますね。
その名前が出ても、もう胸が痛いだけではなかった。
陽斗のことを、利月くんが自然に口にする。
それはまだ少し怖い。
でも、少しだけ嬉しい。
「陽斗、登坂さんのこと好きですよ」
言ってから、少し照れた。
学校では、細かい先生だと思われてます。
「でも、嫌いじゃないって言ってました」
それは、よかったです。
声が少し柔らかくなった。
利月くんは、子どもの言葉に弱いのかもしれない。
「私も、嫌いじゃないです」
そこは、好きって言ったあとに戻さないでください。
私は声を出して笑ってしまった。
こんな夜に笑えるなんて思わなかった。
「すみません」
謝るところです。
「はい」
しばらくして、私は電話を切った。
通話時間は、思ったより長くなっていた。
それでも、名残惜しかった。
家に帰ると、陽斗はもう寝ていた。
私はそっと寝室を覗く。
布団から少しだけ足が出ている。
子どもらしい寝相に、胸がやわらかくなる。
「ただいま」
小さく言う。
陽斗は返事をしない。
でも、利月くんの言葉を思い出す。
子どもは、起きていなくても分かるので。
私は陽斗の布団を直し、そっと頭を撫でた。
「いるよ」
返事はない。
でも、今夜はそれでよかった。
リビングに戻ると、窓の外に東京タワーが見えた。
私はスマホを開く。
利月くんから、メッセージが届いていた。
着きましたか。
本当に、不器用な人。
電話したのに、まだ心配してくれる。
私は笑いながら返信した。
着きました。
陽斗の顔も見ました。
すぐに既読がついた。
よかったです。
おやすみなさい。
私は少し迷ってから送った。
おやすみなさい。
起きていてくれて、ありがとうございました。
返事は少しだけ遅れた。
電話してくれて、ありがとうございました。
その一文を見て、また泣きそうになった。
支えられることを、私はずっと怖がっていた。
誰かに頼ると、自分が弱くなる気がした。
社長の椅子から落ちる気がした。
母としての自分が足りないと言われる気がした。
でも今夜、私は少しだけ分かった。
支えられることは、落ちることではない。
立ち続けるために、誰かの声を借りる夜があってもいい。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、声の形をしていた。
触れられないのに温かくて、
見えないのに確かにそこにある。
夜の奥で、小さく光る鍵だった。
血圧はまだ低めだったけれど、顔色は来た時より戻っている。
母も、ようやく少しだけ椅子に座った。
「灯理、もう帰っていいわよ」
母は何度目か分からない言葉を言った。
「まだいる」
「陽斗くんは?」
「音葉が見てくれてる」
「あなた、明日も仕事でしょう」
「うん」
「なら、少しは寝なさい」
母にそう言われて、私は少しだけ笑った。
「それ、お母さんもね」
母は返事をせず、父の方を見た。
昔からそうだった。
母は、自分のことを後回しにする。
父も、弱っているくせに大したことないと言う。
私は、大丈夫じゃない時ほど大丈夫と言う。
家族って、似なくていいところほど似る。
父はソファで目を閉じていた。
眠っているのかと思ったけれど、私が立ち上がると、低い声がした。
「灯理」
「なに?」
「帰れ」
「命令?」
「お願いだ」
その言い方が、父にしては珍しく柔らかかった。
私は少し黙った。
「お父さん、明日ちゃんと病院行って」
「ああ」
「絶対ね」
「ああ」
「適当に返事してない?」
「してない」
私は母を見た。
母は小さく頷いた。
「私が連れていくわ」
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ安心した。
玄関を出ると、夜の空気が冷たかった。
車に乗り込んで、エンジンをかける。
すぐに走り出す気になれず、ハンドルに手を置いたまま、しばらく前を見ていた。
疲れていた。
会社のこと。
陽斗のこと。
父のこと。
母のこと。
利月くんのこと。
全部が、胸の中で絡まっている。
スマホを開く。
利月くんのメッセージが、そこに残っていた。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
起きています。
たった五文字なのに、こんなに心に残るなんて思わなかった。
私は電話のボタンを見つめた。
押せば、繋がるかもしれない。
でも、迷惑かもしれない。
本当は寝ようとしているかもしれない。
「いつでも」と言ったとしても、本当に今かけていいのか分からない。
こういう時の私は、いつも勝手に相手の気持ちを決めてしまう。
迷惑だよね。
重いよね。
困るよね。
そうやって、言う前から自分を引っ込める。
でも。
今日は少しだけ、頼ってみたかった。
私は深く息を吸って、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
やっぱり切ろう。
そう思った瞬間、電話が繋がった。
はい。
利月くんの声だった。
低くて、少しだけ眠そうで、それでもちゃんと起きている声。
私は何も言えなくなった。
灯理さん?
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がほどけそうになる。
「……ごめんなさい」
最初に出たのは、やっぱり謝罪だった。
謝らなくていいです。
すぐに返ってきた。
その声が、静かで、優しかった。
「起きてましたか」
起きてます。
「無理してません?」
少し間があった。
少しは。
私は思わず笑ってしまった。
「そこ、嘘つかないんですね」
嘘つくと、たぶん灯理さん怒るので。
「怒らないです」
怒らないけど、気にすると思います。
当たっている。
私はハンドルに額を預けそうになった。
「お父さん、少し落ち着きました」
よかったです。
「明日、病院行ってもらいます」
その方が安心ですね。
「うん」
会話は、短い。
特別な慰めもない。
ドラマみたいに、今すぐ行きますとも言わない。
でも、声がある。
その声が、今の私には必要だった。
灯理さんは、大丈夫ですか。
利月くんが聞いた。
私はすぐに「大丈夫」と言いそうになった。
けれど、その言葉を飲み込んだ。
大丈夫じゃない時に、大丈夫と言うのは、もうやめたい。
少なくとも、この人の前では。
「大丈夫じゃないかもしれません」
そう言うと、電話の向こうが少し静かになった。
怖くなって、私はすぐに続けた。
「でも、今すぐどうにかなるとかじゃなくて。ただ、ちょっと疲れたなって」
はい。
「お父さんのことも、お母さんのことも、会社のことも、陽斗のことも、全部大事なんです」
はい。
「でも、全部大事だと、どこから守ればいいのか分からなくなる」
言葉にしたら、急に涙が出てきた。
私は慌てて窓の外を見た。
泣くつもりじゃなかった。
灯理さん。
利月くんの声が、少しだけ近くなる。
全部を同じ力で守ろうとしたら、たぶん倒れます。
その言葉は、優しいというより、現実的だった。
でも、今の私にはそれがよかった。
「倒れたら困りますね」
困ります。
「誰が?」
陽斗が。
少しだけ笑った。
「そこ、私じゃないんですね」
灯理さんもです。
あとから足すところが、本当に利月くんらしい。
「後付けっぽい」
後付けではないです。
電話越しに、彼が少し困っているのが分かった。
その不器用さに、涙が少しだけ止まる。
「登坂さん」
はい。
「私、ちゃんと向き合えてるのかな」
何にですか。
「家族に。会社に。陽斗に」
少し間があった。
利月くんは、こういう時すぐ答えない。
前なら、その間が怖かった。
でも今は、彼がちゃんと考えている時間だと少しだけ分かる。
ちゃんとできているかは、俺には分かりません。
正直な答えだった。
でも、一生懸命向き合ってる人を、俺は弱いとは思いません。
涙がまたこぼれた。
「そういうこと、急に言わないでください」
すみません。
「謝らなくていいです」
難しいです。
「本当に難しいですね」
私は泣きながら笑った。
利月くんは、王子様みたいに何もかも察してくれるわけじゃない。
私が欲しい言葉を、いつもぴったりくれるわけでもない。
でも、こういう時に逃げない。
私が大丈夫じゃないと言った時に、ちゃんとそこにいてくれる。
それだけで、今夜は十分だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
電話の向こうから、ほんの少し生活音が聞こえる。
利月くんがグラスを置く音。
遠くで車が通る音。
それだけで、彼もどこかの部屋で、ちゃんと生きている人なのだと思った。
「登坂さん」
はい。
「本当は」
言いかけて、止まる。
会いたい。
その言葉が喉の奥まで来ていた。
でも言えなかった。
父のことを話している夜に、会いたいなんて重い気がした。
利月くんを困らせる気がした。
私は言葉を変えた。
「声聞いたら、少し落ち着きました」
なら、よかったです。
「ありがとうございます」
こちらこそ。
「こちらこそ?」
電話してくれて。
胸が、静かに震えた。
「迷惑じゃなかったですか」
迷惑なら出ません。
その答えがあまりに普通で、私はまた笑ってしまった。
「そういうところ、好きです」
言ってから、息が止まった。
しまった。
電話の向こうが、静かになった。
「ごめんなさい。今のは」
今のは?
利月くんの声が、少しだけ低くなった。
私は目を閉じた。
逃げたい。
でも、もう逃げたくない。
「そのままです」
言った。
小さな声だったけれど、ちゃんと言った。
「そういう、変に取り繕わないところが、好きです」
電話の向こうで、利月くんが息を吸った気配がした。
灯理さん。
「はい」
そういうことを、急に言うのはずるいです。
私は思わず笑ってしまった。
「この前、私も言われました」
言いました。
「お互い様ですね」
そうですね。
少しだけ、空気がやわらかくなる。
でも、利月くんはすぐには甘い言葉を返さなかった。
好きです、とも言わなかった。
少し前の私なら、それで傷ついたかもしれない。
でも今夜は、分かった。
彼は、軽く返せない人なのだ。
雑にできるほど、軽くない。
その言葉を、私は信じたいと思った。
灯理さん。
「はい」
今は、ちゃんと帰ってください。
「はい」
家に着いたら、陽斗の顔を見てください。
「うん」
それで、できれば寝てください。
「できれば?」
たぶん寝ないと思うので。
「ひどい」
当たってますか。
「当たってます」
彼が少しだけ笑った気がした。
電話越しの小さな笑い声。
それだけで、夜が少しだけ優しくなる。
「登坂さんも寝てください」
はい。
「本当に?」
たぶん。
「たぶんは信用ならないです」
陽斗みたいなこと言いますね。
その名前が出ても、もう胸が痛いだけではなかった。
陽斗のことを、利月くんが自然に口にする。
それはまだ少し怖い。
でも、少しだけ嬉しい。
「陽斗、登坂さんのこと好きですよ」
言ってから、少し照れた。
学校では、細かい先生だと思われてます。
「でも、嫌いじゃないって言ってました」
それは、よかったです。
声が少し柔らかくなった。
利月くんは、子どもの言葉に弱いのかもしれない。
「私も、嫌いじゃないです」
そこは、好きって言ったあとに戻さないでください。
私は声を出して笑ってしまった。
こんな夜に笑えるなんて思わなかった。
「すみません」
謝るところです。
「はい」
しばらくして、私は電話を切った。
通話時間は、思ったより長くなっていた。
それでも、名残惜しかった。
家に帰ると、陽斗はもう寝ていた。
私はそっと寝室を覗く。
布団から少しだけ足が出ている。
子どもらしい寝相に、胸がやわらかくなる。
「ただいま」
小さく言う。
陽斗は返事をしない。
でも、利月くんの言葉を思い出す。
子どもは、起きていなくても分かるので。
私は陽斗の布団を直し、そっと頭を撫でた。
「いるよ」
返事はない。
でも、今夜はそれでよかった。
リビングに戻ると、窓の外に東京タワーが見えた。
私はスマホを開く。
利月くんから、メッセージが届いていた。
着きましたか。
本当に、不器用な人。
電話したのに、まだ心配してくれる。
私は笑いながら返信した。
着きました。
陽斗の顔も見ました。
すぐに既読がついた。
よかったです。
おやすみなさい。
私は少し迷ってから送った。
おやすみなさい。
起きていてくれて、ありがとうございました。
返事は少しだけ遅れた。
電話してくれて、ありがとうございました。
その一文を見て、また泣きそうになった。
支えられることを、私はずっと怖がっていた。
誰かに頼ると、自分が弱くなる気がした。
社長の椅子から落ちる気がした。
母としての自分が足りないと言われる気がした。
でも今夜、私は少しだけ分かった。
支えられることは、落ちることではない。
立ち続けるために、誰かの声を借りる夜があってもいい。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、声の形をしていた。
触れられないのに温かくて、
見えないのに確かにそこにある。
夜の奥で、小さく光る鍵だった。

