翌朝、私はいつもより早く会社に着いた。
まだ誰もいない役員フロアは、空気が少し冷たい。
窓の外には、朝の東京タワーがぼんやり立っていた。
夜の赤い光をまとっていない東京タワーは、少しだけ素顔に見える。
きらびやかではない。
でも、ちゃんとそこにある。
私は自分の席に座った。
大きすぎる椅子。
父が使っていた頃は、もっと自然に見えた。
父が座ると、その椅子は父の一部みたいだった。
でも私が座ると、時々、椅子の方が私を試しているように感じる。
あなたは本当にここに座る人間ですか。
そんなふうに。
私は机の上に置いた書類を見た。
決裁書類。
契約書。
新しい事業の企画書。
銀行との面談予定。
社長としての私は、今日もやることがある。
母としての私も、陽斗の朝を見送ってきた。
そして女としての私は、昨夜の利月くんのメッセージを何度も思い出している。
雑にできるほど、軽くないです。
その一文は、まだ胸の奥に残っていた。
好きだとは言われていない。
付き合おうとも言われていない。
でも、軽くない。
それだけで、私の心は昨日から何度も同じ場所で立ち止まっている。
「社長」
ドアが開いて、音葉が入ってきた。
手にはいつものタブレットと書類。
「早いですね」
「眠れなくて」
「登坂先生ですか」
「仕事です」
「嘘が雑です」
この人は、本当に容赦がない。
私は苦笑して、書類に目を落とした。
「今日、銀行の人来るんだっけ」
「はい。十一時です。それから午後に役員会があります」
「役員会、議題は」
「新規事業の投資額と、来期の人員計画です」
「重いね」
「社長の椅子は軽くありません」
音葉は淡々と言った。
その言葉が、胸に少し刺さる。
社長の椅子は軽くない。
分かっている。
分かっているから、逃げずに座ってきた。
教室を離れた日から、ずっと。
「音葉」
「はい」
「私、社長に向いてると思う?」
音葉は少しだけ動きを止めた。
それから、すぐには答えなかった。
いつもなら即答する人なのに。
その沈黙に、少し不安になる。
「向いているかは分かりません」
正直な答えだった。
胸が少しだけ沈む。
でも音葉は続けた。
「でも、逃げずに座り続けている人だとは思います」
私は顔を上げた。
「それ、褒めてる?」
「はい」
「また独特な褒め方」
「社長に必要なのは、向いていることより、逃げないことだと思います」
逃げない。
利月くんの言葉と重なる。
でも、逃げてはいません。
私は小さく息を吐いた。
逃げない人たちに囲まれている。
音葉も。
尚さんも。
利月くんも。
そして私は、いつも逃げているようで、実は逃げきれずに戻ってくる。
陽斗のところへ。
会社へ。
東京タワーへ。
「今日の役員会、私ちゃんと座れるかな」
「座れます」
「どうして言い切るの」
「今まで座ってきたので」
音葉の言葉は、今日も静かに私を立たせる。
午前中の銀行面談は、思ったより重かった。
数字は嘘をつかない。
会社を継いだばかりの頃、私はそれが怖かった。
人の感情より、数字の方が冷たいと思っていた。
でも今は、少し違う。
数字は冷たいのではなく、ただ正直なのだ。
そこに向き合う人間の方が、勝手に温度を持ち込む。
「今後の見通しについて、もう少し具体的な資料をいただけますか」
銀行担当者の声に、私は頷いた。
「来週までにまとめます」
「よろしくお願いします」
笑顔で終えた。
扉が閉まった瞬間、肩から力が抜ける。
音葉が横で言った。
「お疲れさまでした」
「疲れた」
「顔には出ていませんでした」
「それはよかった」
社長としての私は、今日もちゃんとしているらしい。
でも、ちゃんとしている顔を続けるたびに、どこかで何かが少しずつ削れる。
昼休み、スマホを見ると利月くんからメッセージが来ていた。
陽斗、今日は星座の本を返して、次は東京タワーの写真集を借りました。
思わず、息を止めた。
東京タワー。
陽斗が。
私はすぐに返信した。
東京タワー?
少しして返事が来る。
はい。
俺がすすめたわけではなく、陽斗が自分で選びました。
胸の奥が、静かに震えた。
陽斗は何も知らない。
東京タワーが、私と利月くんにとって特別な場所になりかけていることも。
美紗子先生の言葉がそこにあることも。
それなのに、陽斗は自分でその本を選んだ。
偶然。
ただの偶然。
そう思おうとしても、心は勝手に意味を探してしまう。
面白いですね。
そう返すと、少し間が空いた。
陽斗に、東京タワー好きなのかと聞いたら、
「お母さんがよく見てるから」って言っていました。
その一文を読んだ瞬間、胸がいっぱいになった。
陽斗は見ていた。
私が窓の外を見るたびに、東京タワーを見ていることを。
何も言わないまま。
私が誰にも言えない気持ちを、あの子は知らないまま、景色だけを覚えていた。
そうですか。
それしか返せなかった。
すぐに利月くんからもう一通届いた。
すみません。
余計なことを聞いたかもしれません。
私は画面を見ながら、少し笑った。
また謝っている。
余計じゃないです。
教えてくれてありがとうございます。
送信して、スマホを胸に当てた。
東京タワーが、またひとつ増えた。
私と利月くんの場所。
美紗子先生との記憶。
そして、陽斗が私を見ていた景色。
同じ塔なのに、見る人の数だけ意味がある。
午後の役員会は長かった。
新規事業の投資について、役員の意見は割れた。
「今は守りを固める時期です」
「しかし、ここで動かなければ競合に遅れます」
「社長はどうお考えですか」
全員の視線が、私に集まる。
社長の椅子。
軽くない椅子。
私は書類を閉じた。
「守ることと、止まることは違います」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「必要な投資はします。ただし、段階を分けます。初期費用を抑えた形で始めて、三ヶ月ごとに数字を見ます」
役員たちが資料に目を落とす。
私は続けた。
「全部を一度に抱えることはしません。でも、動くことから逃げるつもりもありません」
逃げるつもりもありません。
言いながら、利月くんの言葉を思い出していた。
逃げてはいません。
恋も、会社も、家族も。
結局、私はいつも同じことを問われているのかもしれない。
逃げるのか。
向き合うのか。
会議が終わると、音葉が小さく言った。
「よかったです」
「何が」
「今の言葉、社長でした」
私は少しだけ笑った。
「普段は?」
「普段も社長です。たまに迷子ですが」
「褒める時は褒めきって」
音葉は小さく笑った。
その時、スマホが震えた。
母からだった。
胸が少しだけざわつく。
私は会議室を出て、廊下の端で電話に出た。
「もしもし」
灯理? 今、大丈夫?
母の声は、いつもより少し弱かった。
「大丈夫。どうしたの?」
お父さん、また少し具合が悪くて。
心臓が冷える。
「病院は?」
行かなくていいって言うの。いつものことだって。
「血圧は?」
低いみたい。少しふらついたの。
廊下の空気が、一瞬で変わった。
会社の数字も、役員会の議論も、全部遠くなる。
父。
私に会社を継がせた人。
教室を離れる理由になった人。
今さら、ごめんと言った人。
憎んだこともある。
許せなかったこともある。
でも、いなくなっていい人ではない。
「今から行く」
仕事は?
「終わった」
嘘ではない。
大事な会議は終わった。
まだ仕事は残っている。
でも今は、行くべきだと思った。
電話を切ると、音葉がすでに近くにいた。
「行きますか」
「うん」
「車、手配します」
「ありがとう」
音葉は何も聞かなかった。
こういう時の彼女は、私よりも早く現実を整える。
会社を出る前に、スマホにメッセージが入った。
利月くん。
すみません。
今日、陽斗の東京タワーの本を見て、少し母のことを思い出しました。
また話してもいいですか。
私は画面を見つめた。
今なら、返せる。
でも今は、父のところへ行かなければならない。
私は短く打った。
ごめんなさい。
父の体調が悪くて、実家に向かいます。
また落ち着いたら、聞かせてください。
送ってから、少しだけ迷った。
重いかな。
言わない方がよかったかな。
でも、もう隠したくなかった。
父のことも。
家のことも。
私が今抱えている現実も。
すぐに既読がついた。
返事は、少し遅れて届いた。
分かりました。
気をつけて行ってください。
短い。
でも、そのすぐあとに、もう一通。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
足が止まった。
廊下の窓から、遠くに東京タワーが見える。
起きています。
たったそれだけ。
でもその言葉は、今の私にとって、毛布みたいだった。
完璧な慰めではない。
大丈夫とも言い切らない。
でも、起きている。
私が崩れそうになった時に、受け取る準備をしてくれている。
私は画面が滲むのをこらえながら返信した。
ありがとうございます。
その言葉だけで、少し落ち着きました。
送ると、利月くんから短く返ってきた。
無理しすぎないでください。
私は苦笑した。
無理しない方法なんて、ずっと知らない。
でも、そう言ってくれる人がいることは、少しだけ救いだった。
実家に着く頃には、空が暗くなり始めていた。
玄関を開けると、母が不安そうな顔で立っていた。
「灯理」
「お父さんは?」
「リビング」
父はソファに座っていた。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
「来なくてよかったのに」
第一声がそれだった。
私は少しだけ腹が立って、少しだけ安心した。
「来るよ」
「仕事は」
「終わらせた」
父は何か言いかけて、やめた。
私は血圧計を出し、母に測り直してもらった。
低い。
でも救急に飛び込むほどではない。
水分を取らせ、しばらく横になってもらう。
こういう時、私は娘になる。
社長でも、母でも、恋をしている女でもなく。
父の娘。
それは、まだ少し下手な役割だった。
「お前」
父が横になったまま言った。
「顔、疲れてるぞ」
「お父さんに言われたくない」
「そうか」
父は少しだけ笑った。
その笑い方が、昔より弱い。
胸が痛む。
「灯理」
「なに」
「会社、無理するな」
私は思わず父を見た。
「今それ言う?」
「言う」
「遅いよ」
「遅いな」
父は目を閉じた。
「でも、言う」
その言葉に、何も返せなかった。
この人は、いつも遅い。
謝るのも。
心配するのも。
私を会社から少し離そうとするのも。
全部、遅い。
でも遅くても、届かないわけじゃない。
私は利月くんのことを思い出した。
返事が遅い人。
言葉が足りない人。
でも、逃げない人。
遅い言葉にも、ちゃんと意味があるのかもしれない。
その夜、父の様子が落ち着くまで、私は実家に残った。
母は何度も「帰っていい」と言ったけれど、私は帰らなかった。
リビングの隅でスマホを見る。
利月くんから、新しいメッセージはない。
でも、さっきの言葉がある。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
私は画面を見つめた。
電話したい。
声が聞きたい。
そう思う自分がいた。
でも、電話したら泣いてしまいそうだった。
父のこと。
会社のこと。
陽斗のこと。
利月くんのこと。
全部が、胸の中で混ざっている。
私はメッセージを打った。
今は大丈夫です。
でも、会いたいのになぁって少し思いました。
送る直前で、指が止まった。
重い。
甘えすぎかもしれない。
私は一度消した。
でも、もう一度打った。
父は少し落ち着きました。
今日は電話しないかもしれません。
でも、起きてるって言ってくれて嬉しかったです。
それだけ送った。
本当は、会いたい。
でも今日は、その言葉を飲み込んだ。
数分後、返事が来た。
よかったです。
電話は、いつでも大丈夫です。
そして、もう一通。
会えた方がいい時は、言ってください。
すぐ行けるとは言えませんが、行く方法は考えます。
涙がこぼれた。
完璧じゃない。
すぐ行きますとは言わない。
でも、考えると言ってくれる。
それが、利月くんだった。
私はスマホを握ったまま、静かに泣いた。
父のいるリビングで。
母が台所に立つ音を聞きながら。
社長の椅子からも、東京タワーの下からも離れた場所で。
私は、誰かに支えられたいと思っている自分を、初めて少しだけ許した。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、社長の椅子の下に落ちていた。
重くて、冷たくて、でも確かに私を支えている鍵だった。
まだ誰もいない役員フロアは、空気が少し冷たい。
窓の外には、朝の東京タワーがぼんやり立っていた。
夜の赤い光をまとっていない東京タワーは、少しだけ素顔に見える。
きらびやかではない。
でも、ちゃんとそこにある。
私は自分の席に座った。
大きすぎる椅子。
父が使っていた頃は、もっと自然に見えた。
父が座ると、その椅子は父の一部みたいだった。
でも私が座ると、時々、椅子の方が私を試しているように感じる。
あなたは本当にここに座る人間ですか。
そんなふうに。
私は机の上に置いた書類を見た。
決裁書類。
契約書。
新しい事業の企画書。
銀行との面談予定。
社長としての私は、今日もやることがある。
母としての私も、陽斗の朝を見送ってきた。
そして女としての私は、昨夜の利月くんのメッセージを何度も思い出している。
雑にできるほど、軽くないです。
その一文は、まだ胸の奥に残っていた。
好きだとは言われていない。
付き合おうとも言われていない。
でも、軽くない。
それだけで、私の心は昨日から何度も同じ場所で立ち止まっている。
「社長」
ドアが開いて、音葉が入ってきた。
手にはいつものタブレットと書類。
「早いですね」
「眠れなくて」
「登坂先生ですか」
「仕事です」
「嘘が雑です」
この人は、本当に容赦がない。
私は苦笑して、書類に目を落とした。
「今日、銀行の人来るんだっけ」
「はい。十一時です。それから午後に役員会があります」
「役員会、議題は」
「新規事業の投資額と、来期の人員計画です」
「重いね」
「社長の椅子は軽くありません」
音葉は淡々と言った。
その言葉が、胸に少し刺さる。
社長の椅子は軽くない。
分かっている。
分かっているから、逃げずに座ってきた。
教室を離れた日から、ずっと。
「音葉」
「はい」
「私、社長に向いてると思う?」
音葉は少しだけ動きを止めた。
それから、すぐには答えなかった。
いつもなら即答する人なのに。
その沈黙に、少し不安になる。
「向いているかは分かりません」
正直な答えだった。
胸が少しだけ沈む。
でも音葉は続けた。
「でも、逃げずに座り続けている人だとは思います」
私は顔を上げた。
「それ、褒めてる?」
「はい」
「また独特な褒め方」
「社長に必要なのは、向いていることより、逃げないことだと思います」
逃げない。
利月くんの言葉と重なる。
でも、逃げてはいません。
私は小さく息を吐いた。
逃げない人たちに囲まれている。
音葉も。
尚さんも。
利月くんも。
そして私は、いつも逃げているようで、実は逃げきれずに戻ってくる。
陽斗のところへ。
会社へ。
東京タワーへ。
「今日の役員会、私ちゃんと座れるかな」
「座れます」
「どうして言い切るの」
「今まで座ってきたので」
音葉の言葉は、今日も静かに私を立たせる。
午前中の銀行面談は、思ったより重かった。
数字は嘘をつかない。
会社を継いだばかりの頃、私はそれが怖かった。
人の感情より、数字の方が冷たいと思っていた。
でも今は、少し違う。
数字は冷たいのではなく、ただ正直なのだ。
そこに向き合う人間の方が、勝手に温度を持ち込む。
「今後の見通しについて、もう少し具体的な資料をいただけますか」
銀行担当者の声に、私は頷いた。
「来週までにまとめます」
「よろしくお願いします」
笑顔で終えた。
扉が閉まった瞬間、肩から力が抜ける。
音葉が横で言った。
「お疲れさまでした」
「疲れた」
「顔には出ていませんでした」
「それはよかった」
社長としての私は、今日もちゃんとしているらしい。
でも、ちゃんとしている顔を続けるたびに、どこかで何かが少しずつ削れる。
昼休み、スマホを見ると利月くんからメッセージが来ていた。
陽斗、今日は星座の本を返して、次は東京タワーの写真集を借りました。
思わず、息を止めた。
東京タワー。
陽斗が。
私はすぐに返信した。
東京タワー?
少しして返事が来る。
はい。
俺がすすめたわけではなく、陽斗が自分で選びました。
胸の奥が、静かに震えた。
陽斗は何も知らない。
東京タワーが、私と利月くんにとって特別な場所になりかけていることも。
美紗子先生の言葉がそこにあることも。
それなのに、陽斗は自分でその本を選んだ。
偶然。
ただの偶然。
そう思おうとしても、心は勝手に意味を探してしまう。
面白いですね。
そう返すと、少し間が空いた。
陽斗に、東京タワー好きなのかと聞いたら、
「お母さんがよく見てるから」って言っていました。
その一文を読んだ瞬間、胸がいっぱいになった。
陽斗は見ていた。
私が窓の外を見るたびに、東京タワーを見ていることを。
何も言わないまま。
私が誰にも言えない気持ちを、あの子は知らないまま、景色だけを覚えていた。
そうですか。
それしか返せなかった。
すぐに利月くんからもう一通届いた。
すみません。
余計なことを聞いたかもしれません。
私は画面を見ながら、少し笑った。
また謝っている。
余計じゃないです。
教えてくれてありがとうございます。
送信して、スマホを胸に当てた。
東京タワーが、またひとつ増えた。
私と利月くんの場所。
美紗子先生との記憶。
そして、陽斗が私を見ていた景色。
同じ塔なのに、見る人の数だけ意味がある。
午後の役員会は長かった。
新規事業の投資について、役員の意見は割れた。
「今は守りを固める時期です」
「しかし、ここで動かなければ競合に遅れます」
「社長はどうお考えですか」
全員の視線が、私に集まる。
社長の椅子。
軽くない椅子。
私は書類を閉じた。
「守ることと、止まることは違います」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
「必要な投資はします。ただし、段階を分けます。初期費用を抑えた形で始めて、三ヶ月ごとに数字を見ます」
役員たちが資料に目を落とす。
私は続けた。
「全部を一度に抱えることはしません。でも、動くことから逃げるつもりもありません」
逃げるつもりもありません。
言いながら、利月くんの言葉を思い出していた。
逃げてはいません。
恋も、会社も、家族も。
結局、私はいつも同じことを問われているのかもしれない。
逃げるのか。
向き合うのか。
会議が終わると、音葉が小さく言った。
「よかったです」
「何が」
「今の言葉、社長でした」
私は少しだけ笑った。
「普段は?」
「普段も社長です。たまに迷子ですが」
「褒める時は褒めきって」
音葉は小さく笑った。
その時、スマホが震えた。
母からだった。
胸が少しだけざわつく。
私は会議室を出て、廊下の端で電話に出た。
「もしもし」
灯理? 今、大丈夫?
母の声は、いつもより少し弱かった。
「大丈夫。どうしたの?」
お父さん、また少し具合が悪くて。
心臓が冷える。
「病院は?」
行かなくていいって言うの。いつものことだって。
「血圧は?」
低いみたい。少しふらついたの。
廊下の空気が、一瞬で変わった。
会社の数字も、役員会の議論も、全部遠くなる。
父。
私に会社を継がせた人。
教室を離れる理由になった人。
今さら、ごめんと言った人。
憎んだこともある。
許せなかったこともある。
でも、いなくなっていい人ではない。
「今から行く」
仕事は?
「終わった」
嘘ではない。
大事な会議は終わった。
まだ仕事は残っている。
でも今は、行くべきだと思った。
電話を切ると、音葉がすでに近くにいた。
「行きますか」
「うん」
「車、手配します」
「ありがとう」
音葉は何も聞かなかった。
こういう時の彼女は、私よりも早く現実を整える。
会社を出る前に、スマホにメッセージが入った。
利月くん。
すみません。
今日、陽斗の東京タワーの本を見て、少し母のことを思い出しました。
また話してもいいですか。
私は画面を見つめた。
今なら、返せる。
でも今は、父のところへ行かなければならない。
私は短く打った。
ごめんなさい。
父の体調が悪くて、実家に向かいます。
また落ち着いたら、聞かせてください。
送ってから、少しだけ迷った。
重いかな。
言わない方がよかったかな。
でも、もう隠したくなかった。
父のことも。
家のことも。
私が今抱えている現実も。
すぐに既読がついた。
返事は、少し遅れて届いた。
分かりました。
気をつけて行ってください。
短い。
でも、そのすぐあとに、もう一通。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
足が止まった。
廊下の窓から、遠くに東京タワーが見える。
起きています。
たったそれだけ。
でもその言葉は、今の私にとって、毛布みたいだった。
完璧な慰めではない。
大丈夫とも言い切らない。
でも、起きている。
私が崩れそうになった時に、受け取る準備をしてくれている。
私は画面が滲むのをこらえながら返信した。
ありがとうございます。
その言葉だけで、少し落ち着きました。
送ると、利月くんから短く返ってきた。
無理しすぎないでください。
私は苦笑した。
無理しない方法なんて、ずっと知らない。
でも、そう言ってくれる人がいることは、少しだけ救いだった。
実家に着く頃には、空が暗くなり始めていた。
玄関を開けると、母が不安そうな顔で立っていた。
「灯理」
「お父さんは?」
「リビング」
父はソファに座っていた。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
「来なくてよかったのに」
第一声がそれだった。
私は少しだけ腹が立って、少しだけ安心した。
「来るよ」
「仕事は」
「終わらせた」
父は何か言いかけて、やめた。
私は血圧計を出し、母に測り直してもらった。
低い。
でも救急に飛び込むほどではない。
水分を取らせ、しばらく横になってもらう。
こういう時、私は娘になる。
社長でも、母でも、恋をしている女でもなく。
父の娘。
それは、まだ少し下手な役割だった。
「お前」
父が横になったまま言った。
「顔、疲れてるぞ」
「お父さんに言われたくない」
「そうか」
父は少しだけ笑った。
その笑い方が、昔より弱い。
胸が痛む。
「灯理」
「なに」
「会社、無理するな」
私は思わず父を見た。
「今それ言う?」
「言う」
「遅いよ」
「遅いな」
父は目を閉じた。
「でも、言う」
その言葉に、何も返せなかった。
この人は、いつも遅い。
謝るのも。
心配するのも。
私を会社から少し離そうとするのも。
全部、遅い。
でも遅くても、届かないわけじゃない。
私は利月くんのことを思い出した。
返事が遅い人。
言葉が足りない人。
でも、逃げない人。
遅い言葉にも、ちゃんと意味があるのかもしれない。
その夜、父の様子が落ち着くまで、私は実家に残った。
母は何度も「帰っていい」と言ったけれど、私は帰らなかった。
リビングの隅でスマホを見る。
利月くんから、新しいメッセージはない。
でも、さっきの言葉がある。
もし、誰かと話したくなったら、電話してください。
起きています。
私は画面を見つめた。
電話したい。
声が聞きたい。
そう思う自分がいた。
でも、電話したら泣いてしまいそうだった。
父のこと。
会社のこと。
陽斗のこと。
利月くんのこと。
全部が、胸の中で混ざっている。
私はメッセージを打った。
今は大丈夫です。
でも、会いたいのになぁって少し思いました。
送る直前で、指が止まった。
重い。
甘えすぎかもしれない。
私は一度消した。
でも、もう一度打った。
父は少し落ち着きました。
今日は電話しないかもしれません。
でも、起きてるって言ってくれて嬉しかったです。
それだけ送った。
本当は、会いたい。
でも今日は、その言葉を飲み込んだ。
数分後、返事が来た。
よかったです。
電話は、いつでも大丈夫です。
そして、もう一通。
会えた方がいい時は、言ってください。
すぐ行けるとは言えませんが、行く方法は考えます。
涙がこぼれた。
完璧じゃない。
すぐ行きますとは言わない。
でも、考えると言ってくれる。
それが、利月くんだった。
私はスマホを握ったまま、静かに泣いた。
父のいるリビングで。
母が台所に立つ音を聞きながら。
社長の椅子からも、東京タワーの下からも離れた場所で。
私は、誰かに支えられたいと思っている自分を、初めて少しだけ許した。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
今度の鍵は、社長の椅子の下に落ちていた。
重くて、冷たくて、でも確かに私を支えている鍵だった。

