利月くんからの返事は、少しずつ短くなっていた。
気のせいかもしれない。
もともと、彼は長いメッセージを送る人ではない。
返事も早くない。
言葉を選ぶまでに、時間がかかる人だ。
それは、もう分かっている。
分かっているのに、私はスマホの画面を見るたび、胸の奥で小さな針が動くのを感じていた。
陽斗、今日は図書室に来ました。
元気そうでした。
その一文は、優しい。
優しいはずなのに、どこか先生から保護者への連絡みたいに見えた。
私は何度も読み返して、返信を打った。
ありがとうございます。
最近、月の本ばかり見ています。
既読はすぐについた。
でも、返事は来なかった。
一時間。
二時間。
三時間。
社長としての私は、待つことに慣れているはずだった。
取引先の返答。
銀行の審査。
社員の決断。
待つ時間にも意味があると知っている。
なのに、利月くんの返事だけは待てない。
待っている間に、私の中の悪い想像が勝手に走り出す。
やっぱり、陽斗のことを知って困っているのかもしれない。
学校で顔を合わせる児童の母親と、こうして会うことが重いのかもしれない。
年齢も、社長も、母親も、全部を知ったら、やっぱり違ったのかもしれない。
そう考えるたび、私はスマホを伏せた。
でも伏せたスマホが気になって、また裏返す。
ひどい。
自分がひどくみっともない。
「社長」
音葉が、机の向こうから私を見ていた。
「そのスマホ、いったん引き出しにしまいませんか」
「仕事で使うから」
「今見ているのは仕事ですか」
「広い意味では」
「恋愛を経営会議に入れないでください」
私はため息をついた。
「音葉って、たまに冷蔵庫みたいに冷たい」
「腐らせないためです」
返す言葉がなかった。
音葉は書類を置くと、私のスマホをちらりと見た。
「登坂先生ですか」
「うん」
「返信が遅い?」
「うん」
「いつものことでは?」
「そうなんだけど」
「そうなんだけど、不安なんですね」
言葉にされると、胸の中の小さな不安が姿を持つ。
私は椅子にもたれた。
「陽斗のことを知ってから、少し変わった気がする」
「変わらない方が不自然です」
音葉は淡々と言った。
「登坂先生は、陽斗くんを学校で見ている先生です。そこに灯理さんへの感情が重なれば、考えます」
「うん」
「考えているから返事が遅いのでは」
「分かってる」
「分かっているのに、不安」
「うん」
私は素直に頷いた。
音葉は少しだけ表情をやわらげた。
「それは、好きだからですね」
言葉にされると、少し苦しい。
好きだから。
こんなに簡単な言葉なのに、私にとっては一番扱いづらい。
好きだから不安になる。
好きだから返事を待ってしまう。
好きだから、相手の沈黙に勝手に傷つく。
「私、面倒くさいね」
「はい」
「そこは否定して」
「面倒くさいです。でも悪いことではありません」
「慰め方、独特」
「事実です」
音葉はそう言って、窓の外を見た。
昼の東京タワーは、白い空の中で少し薄く見える。
夜の赤い光とは違って、少しだけ頼りない。
「灯理さん」
「なに」
「登坂先生に、全部を一度に求めない方がいいです」
私は黙った。
「すぐに安心させる言葉をくれる人ではないと思います」
「うん」
「でも、逃げてはいない」
利月くんのメッセージが蘇る。
でも、逃げてはいません。
私は小さく息を吐いた。
「分かってる」
「はい」
「でも、欲しい時に欲しい言葉がほしい」
音葉が少しだけ笑った。
「それは人間なので」
「社長でも?」
「社長でも」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
夕方、陽斗が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日、佐伯先生に怒られた」
「何したの」
「してない」
「してないのに怒られることある?」
「廊下を早歩きしただけ」
「それはたぶん走ってる」
「大人はすぐそう言う」
陽斗は鞄を置き、冷蔵庫から水を取り出した。
私は何気ないふりをして聞いた。
「登坂先生には会った?」
陽斗がコップを持ったまま、こちらを見る。
「最近それ聞くね」
心臓が跳ねた。
「そう?」
「うん」
「図書室の本、どうなったかなって思って」
苦しい言い訳だった。
でも陽斗は、深く追及しなかった。
「会ったよ。図書室で」
「何か言ってた?」
「うん」
陽斗は水を飲んでから、少しだけ不思議そうな顔をした。
「今日、登坂先生ちょっと変だった」
胸の奥が、きゅっとなる。
「変?」
「なんか、体調大丈夫かって聞かれた」
「熱出したからじゃない?」
「それは分かるけどさ」
陽斗は首を傾げた。
「あと、ちゃんとご飯食べてるかって」
「陽斗に?」
「うん」
私は思わず黙った。
利月くん。
それは、陽斗のことを心配しているのか。
それとも、私のことを聞けずに、陽斗にこぼしてしまったのか。
たぶん、両方。
「なんて答えたの?」
「食べてるって。肉ならもっと食べるって」
「そこまで言ったの?」
「うん」
陽斗は当たり前みたいに頷く。
「そしたら登坂先生、ちょっと笑ってた」
その顔が目に浮かんだ。
困ったように、少しだけ口元をゆるめる利月くん。
「それでね」
陽斗は鞄から本を出した。
「次これ借りた」
表紙には、月の満ち欠けが描かれていた。
暗い夜空に、少しずつ形を変える月。
「また月?」
「うん。前の本より写真多いから読みやすいって」
「登坂先生が?」
「そう」
陽斗は少し得意げに言った。
「俺が読めそうなやつ選んでくれた」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を見ている。
ちゃんと、学校にいる陽斗を見てくれている。
それは以前からそうだったのだと思う。
私が知らなかっただけで。
けれど今は、彼は知っている。
この子が、私の息子だと。
知ってしまったから、少しぎこちなくなっている。
それでも、雑にはしない。
陽斗の本を選び、体調を気にして、私の食事まで気にしてしまう。
不器用な人。
本当に、不器用な人。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生、俺のことちゃんと覚えてるよね」
「うん」
「なんか、すごいね」
陽斗は無邪気に言った。
その言葉に、涙が出そうになった。
ちゃんと覚えている。
そういうことが、子どもにはちゃんと届く。
私も、陽斗のことをもっと覚えていたいと思った。
本のこと。
廊下を早歩きすること。
肉が好きなこと。
月の本を読んで、次の月の本に進んだこと。
私の知らなかった陽斗を、これから少しずつ取り戻したい。
「月ってさ」
陽斗が本の表紙を指でなぞった。
「見えない日も、なくなってるわけじゃないんだって」
私は息を止めた。
「そうだね」
「見え方が変わるだけなんだって」
陽斗は何気なく言った。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
見えない日も、なくなっているわけじゃない。
利月くんからの返事が遅い時間。
言葉が見えない時間。
私が勝手に不安になっている時間。
その間にも、何かはなくなっているわけではないのかもしれない。
見え方が変わっているだけ。
月の返事。
私は本の表紙を見つめた。
「いい本だね」
「でしょ」
陽斗は嬉しそうに笑った。
夜、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。
利月くんだった。
私はすぐに開きたい気持ちをこらえた。
こらえたけれど、結局すぐに開いた。
今日、陽斗に少し心配しすぎました。
変に思わせたかもしれません。
思わず笑ってしまった。
自覚していたんだ。
陽斗、ちょっと変だったと言ってました。
送ってから、少し意地悪だったかもしれないと思った。
しばらくして、返事が来る。
すみません。
短い。
本当に、すぐ謝る。
私は画面を見ながら、小さく笑った。
でも、嫌そうではなかったです。
ちゃんと覚えてくれてるって言ってました。
今度は少し長く間が空いた。
その間に、私はまた不安になる。
言いすぎたかな。
重かったかな。
返事に困ってるのかな。
でも、届いた返事は静かだった。
それなら、よかったです。
私はその一文を、何度も読んだ。
短いけれど、利月くんがほっとしているのが分かる気がした。
続けて、もう一通。
知ってしまったので、今までより気になってしまっています。
でも、陽斗にはなるべく今まで通り接します。
知ってしまった。
その言葉が、胸に落ちる。
利月くんにとっても、もう戻れないのだ。
陽斗はただの児童ではなくなった。
私も、ただの灯理ではいられなくなった。
それでも彼は、今まで通り接しようとしている。
考えている。
迷っている。
でも逃げていない。
ありがとうございます。
雑にしないでくれて。
送ると、既読がついた。
しばらくして、返事が来た。
雑にできるほど、軽くないです。
その一文で、胸が止まりそうになった。
軽くない。
それは、好きだという言葉ではない。
でも、私には十分すぎるほど重かった。
年齢を隠していた私。
母であることを言えなかった私。
社長であることから逃げたかった私。
その全部を知った上で、彼は軽くないと言った。
甘い約束ではない。
未来を決める言葉でもない。
でも、雑にしない。
それが、今の利月くんの精一杯なのだと思った。
私はスマホを胸に当てた。
「お母さん?」
陽斗が、宿題のノートから顔を上げた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「これは、目が勝手に」
「大人ってすぐそういうこと言う」
陽斗が呆れた顔をする。
私は慌てて目元を拭いた。
「漢字、終わった?」
「まだ」
「じゃあやろう」
私は陽斗の隣に座った。
ノートには、月へんの漢字が並んでいた。
「これ、読めない」
「どれ?」
「胸」
「むね」
「月なのに?」
「これは肉づきって言ってね」
「また肉?」
「漢字って不思議だね」
陽斗は眉を寄せる。
「肉多すぎ」
私は笑った。
その横顔を見ながら、さっきの利月くんの言葉を思い出す。
軽くない。
陽斗のことも。
私のことも。
きっと利月くんは、簡単に踏み込めない。
だからこそ、少し遅くて、少し遠い。
でも、その遠さの中に誠実さがある。
私はそれを、待てる人になりたいと思った。
まだ上手にはできない。
返事が遅ければ不安になる。
欲しい言葉がなければ、勝手に傷つく。
尚さんの方が話しやすいと感じて、そんな自分にまた落ち込む。
でも、それでも。
利月くんは、ゆっくりこちらへ来ている。
王子様みたいに、私の気持ちを全部察してくれるわけじゃない。
でも、ちゃんと考えてくれる。
それが、彼の優しさなのだと思う。
「お母さん、ここ見て」
陽斗が鉛筆でノートを指した。
私はスマホを伏せて、陽斗の手元を見た。
「うん。ここはね」
説明しながら、私は思った。
待つことも、そばにいることも、似ているのかもしれない。
相手の速度を奪わないこと。
でも、離れすぎないこと。
陽斗の隣で漢字を見ながら、私は少しだけ分かった気がした。
その夜、陽斗が寝たあと、私はもう一度スマホを開いた。
利月くんとの画面。
雑にできるほど、軽くないです。
その言葉の下に、私はゆっくり返事を打った。
私も、軽くしたくないです。
でも、少し不安になる時があります。
送ってから、すぐに後悔しかけた。
重いかな。
面倒かな。
また困らせるかな。
でも、もう送ってしまった。
既読は、少し遅れてついた。
そこからまた、長い沈黙。
私はスマホを置いて、窓の外を見る。
東京タワーが光っている。
そしてその上に、細い月があった。
返事が見えない時間。
でも、なくなっているわけじゃない。
そう思いたかった。
スマホが震えた。
利月くんからだった。
不安にさせているのは、俺の言葉が少ないからだと思います。
すみません。
また謝っている。
私は少しだけ笑った。
でも、次の一文で、笑えなくなった。
すぐには上手く言えません。
でも、考えていない時間はないです。
胸の奥が、静かに震えた。
考えていない時間はない。
それは、派手な愛の言葉ではなかった。
でも利月くんらしい、重さのある言葉だった。
私は涙を拭いて、返事を打った。
それは、すごく安心します。
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
よかったです。
その一文の下に、少し間を置いて、もう一通。
月の本、陽斗に合っていましたか。
私は笑った。
やっぱり先生だ。
そして、やっぱり利月くんだ。
合っていました。
見えない日も、なくなってるわけじゃないって言ってました。
送ると、しばらくして返事が来た。
陽斗らしいですね。
私はその文字を見て、静かに笑った。
陽斗らしい。
利月くんが、私の知らない陽斗を知っている。
そのことが、今夜は怖いだけではなかった。
嬉しかった。
私たちは、まだ恋人ではない。
簡単に名前をつけられる関係でもない。
でも、陽斗の月の本を真ん中にして、少しだけ同じものを見ている。
私は窓の外の月を見上げた。
見えたり、隠れたりしながら、それでもそこにあるもの。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、月の返事の形をしていた。
遅くて、短くて、少し欠けている。
でも、ちゃんと夜の中に光っていた。
気のせいかもしれない。
もともと、彼は長いメッセージを送る人ではない。
返事も早くない。
言葉を選ぶまでに、時間がかかる人だ。
それは、もう分かっている。
分かっているのに、私はスマホの画面を見るたび、胸の奥で小さな針が動くのを感じていた。
陽斗、今日は図書室に来ました。
元気そうでした。
その一文は、優しい。
優しいはずなのに、どこか先生から保護者への連絡みたいに見えた。
私は何度も読み返して、返信を打った。
ありがとうございます。
最近、月の本ばかり見ています。
既読はすぐについた。
でも、返事は来なかった。
一時間。
二時間。
三時間。
社長としての私は、待つことに慣れているはずだった。
取引先の返答。
銀行の審査。
社員の決断。
待つ時間にも意味があると知っている。
なのに、利月くんの返事だけは待てない。
待っている間に、私の中の悪い想像が勝手に走り出す。
やっぱり、陽斗のことを知って困っているのかもしれない。
学校で顔を合わせる児童の母親と、こうして会うことが重いのかもしれない。
年齢も、社長も、母親も、全部を知ったら、やっぱり違ったのかもしれない。
そう考えるたび、私はスマホを伏せた。
でも伏せたスマホが気になって、また裏返す。
ひどい。
自分がひどくみっともない。
「社長」
音葉が、机の向こうから私を見ていた。
「そのスマホ、いったん引き出しにしまいませんか」
「仕事で使うから」
「今見ているのは仕事ですか」
「広い意味では」
「恋愛を経営会議に入れないでください」
私はため息をついた。
「音葉って、たまに冷蔵庫みたいに冷たい」
「腐らせないためです」
返す言葉がなかった。
音葉は書類を置くと、私のスマホをちらりと見た。
「登坂先生ですか」
「うん」
「返信が遅い?」
「うん」
「いつものことでは?」
「そうなんだけど」
「そうなんだけど、不安なんですね」
言葉にされると、胸の中の小さな不安が姿を持つ。
私は椅子にもたれた。
「陽斗のことを知ってから、少し変わった気がする」
「変わらない方が不自然です」
音葉は淡々と言った。
「登坂先生は、陽斗くんを学校で見ている先生です。そこに灯理さんへの感情が重なれば、考えます」
「うん」
「考えているから返事が遅いのでは」
「分かってる」
「分かっているのに、不安」
「うん」
私は素直に頷いた。
音葉は少しだけ表情をやわらげた。
「それは、好きだからですね」
言葉にされると、少し苦しい。
好きだから。
こんなに簡単な言葉なのに、私にとっては一番扱いづらい。
好きだから不安になる。
好きだから返事を待ってしまう。
好きだから、相手の沈黙に勝手に傷つく。
「私、面倒くさいね」
「はい」
「そこは否定して」
「面倒くさいです。でも悪いことではありません」
「慰め方、独特」
「事実です」
音葉はそう言って、窓の外を見た。
昼の東京タワーは、白い空の中で少し薄く見える。
夜の赤い光とは違って、少しだけ頼りない。
「灯理さん」
「なに」
「登坂先生に、全部を一度に求めない方がいいです」
私は黙った。
「すぐに安心させる言葉をくれる人ではないと思います」
「うん」
「でも、逃げてはいない」
利月くんのメッセージが蘇る。
でも、逃げてはいません。
私は小さく息を吐いた。
「分かってる」
「はい」
「でも、欲しい時に欲しい言葉がほしい」
音葉が少しだけ笑った。
「それは人間なので」
「社長でも?」
「社長でも」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
夕方、陽斗が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「今日、佐伯先生に怒られた」
「何したの」
「してない」
「してないのに怒られることある?」
「廊下を早歩きしただけ」
「それはたぶん走ってる」
「大人はすぐそう言う」
陽斗は鞄を置き、冷蔵庫から水を取り出した。
私は何気ないふりをして聞いた。
「登坂先生には会った?」
陽斗がコップを持ったまま、こちらを見る。
「最近それ聞くね」
心臓が跳ねた。
「そう?」
「うん」
「図書室の本、どうなったかなって思って」
苦しい言い訳だった。
でも陽斗は、深く追及しなかった。
「会ったよ。図書室で」
「何か言ってた?」
「うん」
陽斗は水を飲んでから、少しだけ不思議そうな顔をした。
「今日、登坂先生ちょっと変だった」
胸の奥が、きゅっとなる。
「変?」
「なんか、体調大丈夫かって聞かれた」
「熱出したからじゃない?」
「それは分かるけどさ」
陽斗は首を傾げた。
「あと、ちゃんとご飯食べてるかって」
「陽斗に?」
「うん」
私は思わず黙った。
利月くん。
それは、陽斗のことを心配しているのか。
それとも、私のことを聞けずに、陽斗にこぼしてしまったのか。
たぶん、両方。
「なんて答えたの?」
「食べてるって。肉ならもっと食べるって」
「そこまで言ったの?」
「うん」
陽斗は当たり前みたいに頷く。
「そしたら登坂先生、ちょっと笑ってた」
その顔が目に浮かんだ。
困ったように、少しだけ口元をゆるめる利月くん。
「それでね」
陽斗は鞄から本を出した。
「次これ借りた」
表紙には、月の満ち欠けが描かれていた。
暗い夜空に、少しずつ形を変える月。
「また月?」
「うん。前の本より写真多いから読みやすいって」
「登坂先生が?」
「そう」
陽斗は少し得意げに言った。
「俺が読めそうなやつ選んでくれた」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を見ている。
ちゃんと、学校にいる陽斗を見てくれている。
それは以前からそうだったのだと思う。
私が知らなかっただけで。
けれど今は、彼は知っている。
この子が、私の息子だと。
知ってしまったから、少しぎこちなくなっている。
それでも、雑にはしない。
陽斗の本を選び、体調を気にして、私の食事まで気にしてしまう。
不器用な人。
本当に、不器用な人。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生、俺のことちゃんと覚えてるよね」
「うん」
「なんか、すごいね」
陽斗は無邪気に言った。
その言葉に、涙が出そうになった。
ちゃんと覚えている。
そういうことが、子どもにはちゃんと届く。
私も、陽斗のことをもっと覚えていたいと思った。
本のこと。
廊下を早歩きすること。
肉が好きなこと。
月の本を読んで、次の月の本に進んだこと。
私の知らなかった陽斗を、これから少しずつ取り戻したい。
「月ってさ」
陽斗が本の表紙を指でなぞった。
「見えない日も、なくなってるわけじゃないんだって」
私は息を止めた。
「そうだね」
「見え方が変わるだけなんだって」
陽斗は何気なく言った。
その言葉が、胸の奥に落ちる。
見えない日も、なくなっているわけじゃない。
利月くんからの返事が遅い時間。
言葉が見えない時間。
私が勝手に不安になっている時間。
その間にも、何かはなくなっているわけではないのかもしれない。
見え方が変わっているだけ。
月の返事。
私は本の表紙を見つめた。
「いい本だね」
「でしょ」
陽斗は嬉しそうに笑った。
夜、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。
利月くんだった。
私はすぐに開きたい気持ちをこらえた。
こらえたけれど、結局すぐに開いた。
今日、陽斗に少し心配しすぎました。
変に思わせたかもしれません。
思わず笑ってしまった。
自覚していたんだ。
陽斗、ちょっと変だったと言ってました。
送ってから、少し意地悪だったかもしれないと思った。
しばらくして、返事が来る。
すみません。
短い。
本当に、すぐ謝る。
私は画面を見ながら、小さく笑った。
でも、嫌そうではなかったです。
ちゃんと覚えてくれてるって言ってました。
今度は少し長く間が空いた。
その間に、私はまた不安になる。
言いすぎたかな。
重かったかな。
返事に困ってるのかな。
でも、届いた返事は静かだった。
それなら、よかったです。
私はその一文を、何度も読んだ。
短いけれど、利月くんがほっとしているのが分かる気がした。
続けて、もう一通。
知ってしまったので、今までより気になってしまっています。
でも、陽斗にはなるべく今まで通り接します。
知ってしまった。
その言葉が、胸に落ちる。
利月くんにとっても、もう戻れないのだ。
陽斗はただの児童ではなくなった。
私も、ただの灯理ではいられなくなった。
それでも彼は、今まで通り接しようとしている。
考えている。
迷っている。
でも逃げていない。
ありがとうございます。
雑にしないでくれて。
送ると、既読がついた。
しばらくして、返事が来た。
雑にできるほど、軽くないです。
その一文で、胸が止まりそうになった。
軽くない。
それは、好きだという言葉ではない。
でも、私には十分すぎるほど重かった。
年齢を隠していた私。
母であることを言えなかった私。
社長であることから逃げたかった私。
その全部を知った上で、彼は軽くないと言った。
甘い約束ではない。
未来を決める言葉でもない。
でも、雑にしない。
それが、今の利月くんの精一杯なのだと思った。
私はスマホを胸に当てた。
「お母さん?」
陽斗が、宿題のノートから顔を上げた。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「これは、目が勝手に」
「大人ってすぐそういうこと言う」
陽斗が呆れた顔をする。
私は慌てて目元を拭いた。
「漢字、終わった?」
「まだ」
「じゃあやろう」
私は陽斗の隣に座った。
ノートには、月へんの漢字が並んでいた。
「これ、読めない」
「どれ?」
「胸」
「むね」
「月なのに?」
「これは肉づきって言ってね」
「また肉?」
「漢字って不思議だね」
陽斗は眉を寄せる。
「肉多すぎ」
私は笑った。
その横顔を見ながら、さっきの利月くんの言葉を思い出す。
軽くない。
陽斗のことも。
私のことも。
きっと利月くんは、簡単に踏み込めない。
だからこそ、少し遅くて、少し遠い。
でも、その遠さの中に誠実さがある。
私はそれを、待てる人になりたいと思った。
まだ上手にはできない。
返事が遅ければ不安になる。
欲しい言葉がなければ、勝手に傷つく。
尚さんの方が話しやすいと感じて、そんな自分にまた落ち込む。
でも、それでも。
利月くんは、ゆっくりこちらへ来ている。
王子様みたいに、私の気持ちを全部察してくれるわけじゃない。
でも、ちゃんと考えてくれる。
それが、彼の優しさなのだと思う。
「お母さん、ここ見て」
陽斗が鉛筆でノートを指した。
私はスマホを伏せて、陽斗の手元を見た。
「うん。ここはね」
説明しながら、私は思った。
待つことも、そばにいることも、似ているのかもしれない。
相手の速度を奪わないこと。
でも、離れすぎないこと。
陽斗の隣で漢字を見ながら、私は少しだけ分かった気がした。
その夜、陽斗が寝たあと、私はもう一度スマホを開いた。
利月くんとの画面。
雑にできるほど、軽くないです。
その言葉の下に、私はゆっくり返事を打った。
私も、軽くしたくないです。
でも、少し不安になる時があります。
送ってから、すぐに後悔しかけた。
重いかな。
面倒かな。
また困らせるかな。
でも、もう送ってしまった。
既読は、少し遅れてついた。
そこからまた、長い沈黙。
私はスマホを置いて、窓の外を見る。
東京タワーが光っている。
そしてその上に、細い月があった。
返事が見えない時間。
でも、なくなっているわけじゃない。
そう思いたかった。
スマホが震えた。
利月くんからだった。
不安にさせているのは、俺の言葉が少ないからだと思います。
すみません。
また謝っている。
私は少しだけ笑った。
でも、次の一文で、笑えなくなった。
すぐには上手く言えません。
でも、考えていない時間はないです。
胸の奥が、静かに震えた。
考えていない時間はない。
それは、派手な愛の言葉ではなかった。
でも利月くんらしい、重さのある言葉だった。
私は涙を拭いて、返事を打った。
それは、すごく安心します。
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
よかったです。
その一文の下に、少し間を置いて、もう一通。
月の本、陽斗に合っていましたか。
私は笑った。
やっぱり先生だ。
そして、やっぱり利月くんだ。
合っていました。
見えない日も、なくなってるわけじゃないって言ってました。
送ると、しばらくして返事が来た。
陽斗らしいですね。
私はその文字を見て、静かに笑った。
陽斗らしい。
利月くんが、私の知らない陽斗を知っている。
そのことが、今夜は怖いだけではなかった。
嬉しかった。
私たちは、まだ恋人ではない。
簡単に名前をつけられる関係でもない。
でも、陽斗の月の本を真ん中にして、少しだけ同じものを見ている。
私は窓の外の月を見上げた。
見えたり、隠れたりしながら、それでもそこにあるもの。
硝子の鍵が、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、月の返事の形をしていた。
遅くて、短くて、少し欠けている。
でも、ちゃんと夜の中に光っていた。

