硝子の鍵

利月くんからの返事は、少しずつ短くなっていた。

気のせいかもしれない。

もともと、彼は長いメッセージを送る人ではない。
返事も早くない。
言葉を選ぶまでに、時間がかかる人だ。

それは、もう分かっている。

分かっているのに、私はスマホの画面を見るたび、胸の奥で小さな針が動くのを感じていた。

陽斗、今日は図書室に来ました。
元気そうでした。

その一文は、優しい。

優しいはずなのに、どこか先生から保護者への連絡みたいに見えた。

私は何度も読み返して、返信を打った。

ありがとうございます。
最近、月の本ばかり見ています。

既読はすぐについた。

でも、返事は来なかった。

一時間。
二時間。
三時間。

社長としての私は、待つことに慣れているはずだった。

取引先の返答。
銀行の審査。
社員の決断。

待つ時間にも意味があると知っている。

なのに、利月くんの返事だけは待てない。

待っている間に、私の中の悪い想像が勝手に走り出す。

やっぱり、陽斗のことを知って困っているのかもしれない。
学校で顔を合わせる児童の母親と、こうして会うことが重いのかもしれない。
年齢も、社長も、母親も、全部を知ったら、やっぱり違ったのかもしれない。

そう考えるたび、私はスマホを伏せた。

でも伏せたスマホが気になって、また裏返す。

ひどい。

自分がひどくみっともない。

「社長」

音葉が、机の向こうから私を見ていた。

「そのスマホ、いったん引き出しにしまいませんか」

「仕事で使うから」

「今見ているのは仕事ですか」

「広い意味では」

「恋愛を経営会議に入れないでください」

私はため息をついた。

「音葉って、たまに冷蔵庫みたいに冷たい」

「腐らせないためです」

返す言葉がなかった。

音葉は書類を置くと、私のスマホをちらりと見た。

「登坂先生ですか」

「うん」

「返信が遅い?」

「うん」

「いつものことでは?」

「そうなんだけど」

「そうなんだけど、不安なんですね」

言葉にされると、胸の中の小さな不安が姿を持つ。

私は椅子にもたれた。

「陽斗のことを知ってから、少し変わった気がする」

「変わらない方が不自然です」

音葉は淡々と言った。

「登坂先生は、陽斗くんを学校で見ている先生です。そこに灯理さんへの感情が重なれば、考えます」

「うん」

「考えているから返事が遅いのでは」

「分かってる」

「分かっているのに、不安」

「うん」

私は素直に頷いた。

音葉は少しだけ表情をやわらげた。

「それは、好きだからですね」

言葉にされると、少し苦しい。

好きだから。

こんなに簡単な言葉なのに、私にとっては一番扱いづらい。

好きだから不安になる。
好きだから返事を待ってしまう。
好きだから、相手の沈黙に勝手に傷つく。

「私、面倒くさいね」

「はい」

「そこは否定して」

「面倒くさいです。でも悪いことではありません」

「慰め方、独特」

「事実です」

音葉はそう言って、窓の外を見た。

昼の東京タワーは、白い空の中で少し薄く見える。

夜の赤い光とは違って、少しだけ頼りない。

「灯理さん」

「なに」

「登坂先生に、全部を一度に求めない方がいいです」

私は黙った。

「すぐに安心させる言葉をくれる人ではないと思います」

「うん」

「でも、逃げてはいない」

利月くんのメッセージが蘇る。

でも、逃げてはいません。

私は小さく息を吐いた。

「分かってる」

「はい」

「でも、欲しい時に欲しい言葉がほしい」

音葉が少しだけ笑った。

「それは人間なので」

「社長でも?」

「社長でも」

その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

夕方、陽斗が帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり」

「今日、佐伯先生に怒られた」

「何したの」

「してない」

「してないのに怒られることある?」

「廊下を早歩きしただけ」

「それはたぶん走ってる」

「大人はすぐそう言う」

陽斗は鞄を置き、冷蔵庫から水を取り出した。

私は何気ないふりをして聞いた。

「登坂先生には会った?」

陽斗がコップを持ったまま、こちらを見る。

「最近それ聞くね」

心臓が跳ねた。

「そう?」

「うん」

「図書室の本、どうなったかなって思って」

苦しい言い訳だった。

でも陽斗は、深く追及しなかった。

「会ったよ。図書室で」

「何か言ってた?」

「うん」

陽斗は水を飲んでから、少しだけ不思議そうな顔をした。

「今日、登坂先生ちょっと変だった」

胸の奥が、きゅっとなる。

「変?」

「なんか、体調大丈夫かって聞かれた」

「熱出したからじゃない?」

「それは分かるけどさ」

陽斗は首を傾げた。

「あと、ちゃんとご飯食べてるかって」

「陽斗に?」

「うん」

私は思わず黙った。

利月くん。

それは、陽斗のことを心配しているのか。
それとも、私のことを聞けずに、陽斗にこぼしてしまったのか。

たぶん、両方。

「なんて答えたの?」

「食べてるって。肉ならもっと食べるって」

「そこまで言ったの?」

「うん」

陽斗は当たり前みたいに頷く。

「そしたら登坂先生、ちょっと笑ってた」

その顔が目に浮かんだ。

困ったように、少しだけ口元をゆるめる利月くん。

「それでね」

陽斗は鞄から本を出した。

「次これ借りた」

表紙には、月の満ち欠けが描かれていた。

暗い夜空に、少しずつ形を変える月。

「また月?」

「うん。前の本より写真多いから読みやすいって」

「登坂先生が?」

「そう」

陽斗は少し得意げに言った。

「俺が読めそうなやつ選んでくれた」

胸の奥が、やわらかく痛んだ。

利月くんは、陽斗を見ている。

ちゃんと、学校にいる陽斗を見てくれている。

それは以前からそうだったのだと思う。
私が知らなかっただけで。

けれど今は、彼は知っている。

この子が、私の息子だと。

知ってしまったから、少しぎこちなくなっている。
それでも、雑にはしない。

陽斗の本を選び、体調を気にして、私の食事まで気にしてしまう。

不器用な人。

本当に、不器用な人。

「お母さん」

「なに?」

「登坂先生、俺のことちゃんと覚えてるよね」

「うん」

「なんか、すごいね」

陽斗は無邪気に言った。

その言葉に、涙が出そうになった。

ちゃんと覚えている。

そういうことが、子どもにはちゃんと届く。

私も、陽斗のことをもっと覚えていたいと思った。

本のこと。
廊下を早歩きすること。
肉が好きなこと。
月の本を読んで、次の月の本に進んだこと。

私の知らなかった陽斗を、これから少しずつ取り戻したい。

「月ってさ」

陽斗が本の表紙を指でなぞった。

「見えない日も、なくなってるわけじゃないんだって」

私は息を止めた。

「そうだね」

「見え方が変わるだけなんだって」

陽斗は何気なく言った。

その言葉が、胸の奥に落ちる。

見えない日も、なくなっているわけじゃない。

利月くんからの返事が遅い時間。
言葉が見えない時間。
私が勝手に不安になっている時間。

その間にも、何かはなくなっているわけではないのかもしれない。

見え方が変わっているだけ。

月の返事。

私は本の表紙を見つめた。

「いい本だね」

「でしょ」

陽斗は嬉しそうに笑った。

夜、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。

利月くんだった。

私はすぐに開きたい気持ちをこらえた。

こらえたけれど、結局すぐに開いた。

今日、陽斗に少し心配しすぎました。
変に思わせたかもしれません。

思わず笑ってしまった。

自覚していたんだ。

陽斗、ちょっと変だったと言ってました。

送ってから、少し意地悪だったかもしれないと思った。

しばらくして、返事が来る。

すみません。

短い。

本当に、すぐ謝る。

私は画面を見ながら、小さく笑った。

でも、嫌そうではなかったです。
ちゃんと覚えてくれてるって言ってました。

今度は少し長く間が空いた。

その間に、私はまた不安になる。

言いすぎたかな。
重かったかな。
返事に困ってるのかな。

でも、届いた返事は静かだった。

それなら、よかったです。

私はその一文を、何度も読んだ。

短いけれど、利月くんがほっとしているのが分かる気がした。

続けて、もう一通。

知ってしまったので、今までより気になってしまっています。
でも、陽斗にはなるべく今まで通り接します。

知ってしまった。

その言葉が、胸に落ちる。

利月くんにとっても、もう戻れないのだ。

陽斗はただの児童ではなくなった。
私も、ただの灯理ではいられなくなった。

それでも彼は、今まで通り接しようとしている。

考えている。
迷っている。
でも逃げていない。

ありがとうございます。
雑にしないでくれて。

送ると、既読がついた。

しばらくして、返事が来た。

雑にできるほど、軽くないです。

その一文で、胸が止まりそうになった。

軽くない。

それは、好きだという言葉ではない。

でも、私には十分すぎるほど重かった。

年齢を隠していた私。
母であることを言えなかった私。
社長であることから逃げたかった私。

その全部を知った上で、彼は軽くないと言った。

甘い約束ではない。
未来を決める言葉でもない。

でも、雑にしない。

それが、今の利月くんの精一杯なのだと思った。

私はスマホを胸に当てた。

「お母さん?」

陽斗が、宿題のノートから顔を上げた。

「泣いてる?」

「泣いてない」

「泣いてるじゃん」

「これは、目が勝手に」

「大人ってすぐそういうこと言う」

陽斗が呆れた顔をする。

私は慌てて目元を拭いた。

「漢字、終わった?」

「まだ」

「じゃあやろう」

私は陽斗の隣に座った。

ノートには、月へんの漢字が並んでいた。

「これ、読めない」

「どれ?」

「胸」

「むね」

「月なのに?」

「これは肉づきって言ってね」

「また肉?」

「漢字って不思議だね」

陽斗は眉を寄せる。

「肉多すぎ」

私は笑った。

その横顔を見ながら、さっきの利月くんの言葉を思い出す。

軽くない。

陽斗のことも。
私のことも。

きっと利月くんは、簡単に踏み込めない。
だからこそ、少し遅くて、少し遠い。

でも、その遠さの中に誠実さがある。

私はそれを、待てる人になりたいと思った。

まだ上手にはできない。

返事が遅ければ不安になる。
欲しい言葉がなければ、勝手に傷つく。
尚さんの方が話しやすいと感じて、そんな自分にまた落ち込む。

でも、それでも。

利月くんは、ゆっくりこちらへ来ている。

王子様みたいに、私の気持ちを全部察してくれるわけじゃない。
でも、ちゃんと考えてくれる。

それが、彼の優しさなのだと思う。

「お母さん、ここ見て」

陽斗が鉛筆でノートを指した。

私はスマホを伏せて、陽斗の手元を見た。

「うん。ここはね」

説明しながら、私は思った。

待つことも、そばにいることも、似ているのかもしれない。

相手の速度を奪わないこと。
でも、離れすぎないこと。

陽斗の隣で漢字を見ながら、私は少しだけ分かった気がした。

その夜、陽斗が寝たあと、私はもう一度スマホを開いた。

利月くんとの画面。

雑にできるほど、軽くないです。

その言葉の下に、私はゆっくり返事を打った。

私も、軽くしたくないです。
でも、少し不安になる時があります。

送ってから、すぐに後悔しかけた。

重いかな。
面倒かな。
また困らせるかな。

でも、もう送ってしまった。

既読は、少し遅れてついた。

そこからまた、長い沈黙。

私はスマホを置いて、窓の外を見る。

東京タワーが光っている。

そしてその上に、細い月があった。

返事が見えない時間。

でも、なくなっているわけじゃない。

そう思いたかった。

スマホが震えた。

利月くんからだった。

不安にさせているのは、俺の言葉が少ないからだと思います。
すみません。

また謝っている。

私は少しだけ笑った。

でも、次の一文で、笑えなくなった。

すぐには上手く言えません。
でも、考えていない時間はないです。

胸の奥が、静かに震えた。

考えていない時間はない。

それは、派手な愛の言葉ではなかった。

でも利月くんらしい、重さのある言葉だった。

私は涙を拭いて、返事を打った。

それは、すごく安心します。

すぐに既読がついた。

返事は短かった。

よかったです。

その一文の下に、少し間を置いて、もう一通。

月の本、陽斗に合っていましたか。

私は笑った。

やっぱり先生だ。

そして、やっぱり利月くんだ。

合っていました。
見えない日も、なくなってるわけじゃないって言ってました。

送ると、しばらくして返事が来た。

陽斗らしいですね。

私はその文字を見て、静かに笑った。

陽斗らしい。

利月くんが、私の知らない陽斗を知っている。

そのことが、今夜は怖いだけではなかった。

嬉しかった。

私たちは、まだ恋人ではない。

簡単に名前をつけられる関係でもない。

でも、陽斗の月の本を真ん中にして、少しだけ同じものを見ている。

私は窓の外の月を見上げた。

見えたり、隠れたりしながら、それでもそこにあるもの。

硝子の鍵が、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、月の返事の形をしていた。

遅くて、短くて、少し欠けている。

でも、ちゃんと夜の中に光っていた。