翌朝、陽斗はいつも通り学校へ行った。
「お母さん、今日も見送り?」
玄関で靴を履きながら、陽斗が少しだけ笑った。
「嫌なの?」
「別に」
「じゃあ見送る」
「最近、母親濃度高いね」
「いいでしょ、濃くても」
「まあね」
陽斗は照れたように目をそらして、鞄を背負った。
「今日、図書室行くの?」
私が聞くと、陽斗は少し驚いた顔をした。
「なんで知ってるの」
「月の写真集、借りたんでしょ」
「登坂先生に聞いた?」
その名前に、胸が小さく鳴る。
私は一瞬だけ迷って、頷いた。
「少しだけ」
「ふうん」
陽斗はそれ以上、深く聞かなかった。
でも、その目はどこか面白がっているようにも見えた。
「登坂先生、ちゃんと返す日覚えてるからなぁ」
「先生だからね」
「いや、あの先生は細かいだけ」
「細かい先生、多いね」
「佐伯先生はうるさい。登坂先生は細かい」
「どっちも大変そう」
「でも、嫌いじゃない」
陽斗は、そう言ってドアを開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあとも、私はしばらく玄関に立っていた。
嫌いじゃない。
陽斗のその言葉が、なぜか胸に残った。
利月くんは、学校では“細かい先生”なのだ。
廊下を走る子を注意して、返却日を覚えていて、図書室で本を選んでくれる人。
私が東京タワーの下で見ている利月くんとは、少し違う。
先生の顔をした利月くん。
先生じゃない顔を見せてくれた利月くん。
どちらも同じ人なのに、私はまだ全部を知らない。
そのことが、少しだけ嬉しくて、少しだけ怖かった。
会社へ向かう車の中で、スマホが震えた。
利月くんからだった。
おはようございます。
昨日はありがとうございました。
朝からその名前を見るだけで、胸が揺れる。
私はすぐに返したい気持ちを抑えて、いったん画面を伏せた。
仕事前。
落ち着いて返す。
そう決めたのに、三十秒後には開いていた。
こちらこそ、話してくれてありがとうございました。
送信してから、少し迷い、もう一文足す。
年賀状、急がなくて大丈夫です。
しばらくして、既読がついた。
返事はなかなか来なかった。
利月くんらしい。
私はそう思おうとした。
でも、心はそんなに聞き分けがよくない。
昨日、少し近づいたと思った。
でも、近づいたからこそ、返事の間が怖くなる。
私だけが浮かれているのではないか。
彼はまた、考え込んでいるのではないか。
やっぱり重すぎたのではないか。
そんな思考が、細い糸のように絡まっていく。
会社に着く頃、ようやく返信が来た。
ありがとうございます。
もう少し預かってもいいですか。
今日、母の字を見ながら、陽斗にすすめる本を選びたくなって。
私は画面を見つめた。
陽斗にすすめる本。
美紗子先生の字を見ながら。
その二つが、利月くんの中で静かに繋がっている。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
でも同時に、少しだけ苦しくもなった。
利月くんは、こういうことをさらっと言う。
私が不安でぐるぐるしている間に、彼は彼なりの場所で、ちゃんと考えていた。
返事は遅い。
欲しい言葉は、すぐにはくれない。
でも、何も考えていないわけではない。
むしろ、考えすぎるくらい考えている。
陽斗、喜ぶと思います。
そう送ると、すぐには返ってこなかった。
今度は、少しだけ待てた。
午前中の会議は、珍しく集中できた。
数字を見て、判断して、指示を出す。
社長としての時間。
けれど、ふとした瞬間に、図書室の風景が浮かぶ。
陽斗が本棚の前に立っている。
利月くんが少し離れたところから声をかける。
「陽斗、それ返却日過ぎてるぞ」
「今日返すってば」
「今日の何時まで?」
「細かい」
「大事なことだ」
そんな会話が、きっと学校のどこかにある。
私はそれを知らなかった。
私のいない場所で、陽斗は少しずつ大人になっている。
私のいない場所で、利月くんは陽斗を見ている。
それが怖い。
でも、ありがたい。
昼過ぎ、音葉が資料を持ってきた。
「顔が少し戻りましたね」
「戻ったって何」
「昨日まで迷子の顔でした」
「ひどい」
「今日は、迷子だけど地図を持っている顔です」
「結局迷子じゃん」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生から連絡が?」
「うん」
「返事、遅かったですか」
「遅かった」
「でも来た」
「うん」
「では、慣れてください」
私は思わず音葉を見た。
「慣れる?」
「登坂先生は、たぶん返事が早いタイプではありません」
「分かってる」
「分かっているなら、通知を見張るのをやめてください」
「見張ってない」
「見張ってます。スマホが警備対象になっています」
何も言い返せなかった。
音葉は机に資料を置き、少しだけ声をやわらげた。
「でも、昨日よりは大丈夫そうですね」
「うん」
私は窓の外を見た。
昼の東京タワーは、夜ほど綺麗ではない。
でも、そこにある。
「利月くん、逃げてない」
自分に言い聞かせるように言った。
音葉は静かに頷いた。
「はい」
「私も、逃げない」
「はい」
その時、スマホが震えた。
今度は尚さんだった。
陽斗、今日は元気です。
ただし図書室に行く時、廊下を七割走ってました。
私は小さく笑った。
八割から減りましたね。
すぐに返信が来る。
成長です。
尚さんの返事は早い。
内容も軽い。
でも、その軽さの下にちゃんと見てくれている目がある。
私は少し迷ってから送った。
登坂さんに話しました。
既読がついた。
少し間があって、
でしょうね。
昨日から登坂、職員室で静かでした。
私は眉を寄せる。
いつも静かでは?
いつもの静かと、考え込んでる静かは違います。
先生同士の距離。
尚さんだから分かる利月くん。
それに少しだけ胸がざわついた。
私、困らせましたよね。
送ると、返事は少し遅れた。
困らせたとは思います。
でも、困らせたら終わりじゃないです。
その一文に、目が止まる。
登坂は、困ったことを雑に捨てるタイプじゃないので。
胸の奥が、少し温かくなる。
尚さんは、こういう時に利月くんを悪く言わない。
からかうけれど、ちゃんと信頼している。
その関係が、少し羨ましい。
ありがとうございます。
そう送ると、すぐに返事が来た。
陽斗の担任なので。
またそれ。
私は笑った。
でも、今日はその言葉がありがたかった。
夕方、陽斗はいつもより少し早く帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
「図書室行った?」
「行った」
陽斗は鞄を置きながら、少し嬉しそうな顔をした。
「登坂先生が本すすめてくれた」
「何の本?」
「月の満ち欠けのやつ」
「難しそう」
「でも写真多いから読めるって。あと、月は見え方が変わるけど月そのものがなくなってるわけじゃないって」
私は動きを止めた。
陽斗は気にせず続ける。
「なんか、そういうの面白いよね。見えないだけで、ちゃんとあるって」
見えないだけで、ちゃんとある。
利月くんが陽斗に選んだ本。
その言葉が、私の胸にも届いてしまう。
「登坂先生、そんな話してくれたの?」
「うん。ちょっとだけ」
「そっか」
「あと、今日ちょっと変だった」
心臓が跳ねる。
「変?」
「なんか、俺の顔じっと見てた」
「え」
「別に嫌じゃないけど。先生、俺なんかした?って聞いたら、してないって」
陽斗は不思議そうに首を傾げた。
「で、ちゃんとご飯食べてるかって聞かれた」
私は息を止めた。
利月くん。
彼は、陽斗をただの児童として見ようとしている。
でももう知っている。
この子が私の息子だと。
だから、今までとは違って見えてしまうのだろう。
それは仕方ない。
でも陽斗に違和感を持たせるほど見てしまうところが、利月くんらしくて、少しだけ胸が痛い。
不器用。
本当に不器用。
「陽斗、なんて答えたの?」
「肉食べたいって」
思わず笑ってしまった。
「それ、答えになってる?」
「なってるでしょ」
「なってるか」
陽斗は鞄から一冊の本を出した。
表紙には、夜空に浮かぶ月の写真。
「これ」
私は本を受け取った。
月の満ち欠け。
ページをめくると、月が少しずつ形を変えていく写真が並んでいた。
満ちて、欠けて、また満ちる。
見えなくなる日があっても、月そのものは消えない。
まるで、利月くんからの不器用なメッセージみたいだった。
そんな都合のいい解釈をする自分に、少しだけ笑ってしまう。
「お母さん?」
陽斗が私を見る。
「なに笑ってんの」
「月って面白いねって思って」
「でしょ」
陽斗は少し得意げに言った。
「登坂先生、細かいけど本選ぶのはうまい」
「そうだね」
私は本を閉じた。
手の中に、静かな重みが残る。
その夜、陽斗が宿題をしている間、私は利月くんにメッセージを送った。
月の本、陽斗が嬉しそうに見せてくれました。
ありがとうございます。
返事は、やっぱり少し遅かった。
けれど今夜は、不思議と待てた。
一時間ほどして、スマホが震えた。
よかったです。
陽斗、ちゃんと読めそうでしたか。
私は笑った。
先生の返事だ。
母親である私への返事でもあるけれど、どこか先生の目線が残っている。
写真が多いから大丈夫そうです。
得意げでした。
送ると、今度は少し早く既読がついた。
陽斗は、褒めると分かりやすいです。
その一文を見て、胸がじんわり温かくなった。
利月くんは、陽斗を見ている。
ちゃんと見ている。
私の知らない陽斗を、登坂さんは知ってるんですね。
送ってから、少し後悔した。
重かったかもしれない。
でも、すぐに返事が来た。
俺が知っているのは、学校にいる陽斗だけです。
灯理さんが知っている陽斗とは、きっと違います。
その言葉に、息が止まった。
続けて、もう一通。
でも、どちらも陽斗だと思います。
涙が出そうになった。
利月くんは、すぐに甘い言葉をくれる人ではない。
でも、こういう時に、まっすぐ大事なところへ言葉を置いてくる。
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
ありがとうございます。
そう言ってもらえて、少し楽になりました。
送信すると、今度はすぐに返事が来た。
俺も、少しずつ考えています。
短い文章。
けれど、その中に彼の時間が入っている気がした。
少しずつ。
その速度が、利月くんの速度なのだ。
私はそれを、待たなければならない。
待つことを、覚えなければならない。
その時、陽斗がリビングから声を上げた。
「お母さん、この漢字分かんない!」
「どれ?」
スマホを置いて、私は陽斗の隣に座った。
漢字ドリルには、雑な字でいくつかの空欄が残っていた。
「これ、月へん?」
「これは肉づきじゃない?」
「なにそれ、月なのに肉?」
「漢字ってそういうとこあるよね」
陽斗は不満そうに唇を尖らせる。
その横顔を見ながら、私は思った。
学校の陽斗。
家の陽斗。
どちらも陽斗。
社長の私。
母の私。
利月くんの前で目を逸らしてしまう私。
どれも、きっと私。
ひとつだけを本当と決めなくてもいいのかもしれない。
陽斗が私を見る。
「お母さん、聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてなかった」
「ちょっと月について考えてた」
「大人ってすぐ遠く行くよね」
私は笑った。
「戻ってきました」
「じゃあ教えて」
「はいはい」
鉛筆を持つ陽斗の手元を見ながら、私は胸の奥で小さな鍵が鳴るのを聞いた。
今度の鍵は、図書室の匂いがした。
本の紙の匂い。
雨の日の静けさ。
月の写真集。
そして、利月くんが陽斗を見つめる少し不器用な目。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
でも今度は、閉じるための鍵ではなかった。
私の知らない誰かを、知るための鍵だった。
「お母さん、今日も見送り?」
玄関で靴を履きながら、陽斗が少しだけ笑った。
「嫌なの?」
「別に」
「じゃあ見送る」
「最近、母親濃度高いね」
「いいでしょ、濃くても」
「まあね」
陽斗は照れたように目をそらして、鞄を背負った。
「今日、図書室行くの?」
私が聞くと、陽斗は少し驚いた顔をした。
「なんで知ってるの」
「月の写真集、借りたんでしょ」
「登坂先生に聞いた?」
その名前に、胸が小さく鳴る。
私は一瞬だけ迷って、頷いた。
「少しだけ」
「ふうん」
陽斗はそれ以上、深く聞かなかった。
でも、その目はどこか面白がっているようにも見えた。
「登坂先生、ちゃんと返す日覚えてるからなぁ」
「先生だからね」
「いや、あの先生は細かいだけ」
「細かい先生、多いね」
「佐伯先生はうるさい。登坂先生は細かい」
「どっちも大変そう」
「でも、嫌いじゃない」
陽斗は、そう言ってドアを開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まったあとも、私はしばらく玄関に立っていた。
嫌いじゃない。
陽斗のその言葉が、なぜか胸に残った。
利月くんは、学校では“細かい先生”なのだ。
廊下を走る子を注意して、返却日を覚えていて、図書室で本を選んでくれる人。
私が東京タワーの下で見ている利月くんとは、少し違う。
先生の顔をした利月くん。
先生じゃない顔を見せてくれた利月くん。
どちらも同じ人なのに、私はまだ全部を知らない。
そのことが、少しだけ嬉しくて、少しだけ怖かった。
会社へ向かう車の中で、スマホが震えた。
利月くんからだった。
おはようございます。
昨日はありがとうございました。
朝からその名前を見るだけで、胸が揺れる。
私はすぐに返したい気持ちを抑えて、いったん画面を伏せた。
仕事前。
落ち着いて返す。
そう決めたのに、三十秒後には開いていた。
こちらこそ、話してくれてありがとうございました。
送信してから、少し迷い、もう一文足す。
年賀状、急がなくて大丈夫です。
しばらくして、既読がついた。
返事はなかなか来なかった。
利月くんらしい。
私はそう思おうとした。
でも、心はそんなに聞き分けがよくない。
昨日、少し近づいたと思った。
でも、近づいたからこそ、返事の間が怖くなる。
私だけが浮かれているのではないか。
彼はまた、考え込んでいるのではないか。
やっぱり重すぎたのではないか。
そんな思考が、細い糸のように絡まっていく。
会社に着く頃、ようやく返信が来た。
ありがとうございます。
もう少し預かってもいいですか。
今日、母の字を見ながら、陽斗にすすめる本を選びたくなって。
私は画面を見つめた。
陽斗にすすめる本。
美紗子先生の字を見ながら。
その二つが、利月くんの中で静かに繋がっている。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
でも同時に、少しだけ苦しくもなった。
利月くんは、こういうことをさらっと言う。
私が不安でぐるぐるしている間に、彼は彼なりの場所で、ちゃんと考えていた。
返事は遅い。
欲しい言葉は、すぐにはくれない。
でも、何も考えていないわけではない。
むしろ、考えすぎるくらい考えている。
陽斗、喜ぶと思います。
そう送ると、すぐには返ってこなかった。
今度は、少しだけ待てた。
午前中の会議は、珍しく集中できた。
数字を見て、判断して、指示を出す。
社長としての時間。
けれど、ふとした瞬間に、図書室の風景が浮かぶ。
陽斗が本棚の前に立っている。
利月くんが少し離れたところから声をかける。
「陽斗、それ返却日過ぎてるぞ」
「今日返すってば」
「今日の何時まで?」
「細かい」
「大事なことだ」
そんな会話が、きっと学校のどこかにある。
私はそれを知らなかった。
私のいない場所で、陽斗は少しずつ大人になっている。
私のいない場所で、利月くんは陽斗を見ている。
それが怖い。
でも、ありがたい。
昼過ぎ、音葉が資料を持ってきた。
「顔が少し戻りましたね」
「戻ったって何」
「昨日まで迷子の顔でした」
「ひどい」
「今日は、迷子だけど地図を持っている顔です」
「結局迷子じゃん」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生から連絡が?」
「うん」
「返事、遅かったですか」
「遅かった」
「でも来た」
「うん」
「では、慣れてください」
私は思わず音葉を見た。
「慣れる?」
「登坂先生は、たぶん返事が早いタイプではありません」
「分かってる」
「分かっているなら、通知を見張るのをやめてください」
「見張ってない」
「見張ってます。スマホが警備対象になっています」
何も言い返せなかった。
音葉は机に資料を置き、少しだけ声をやわらげた。
「でも、昨日よりは大丈夫そうですね」
「うん」
私は窓の外を見た。
昼の東京タワーは、夜ほど綺麗ではない。
でも、そこにある。
「利月くん、逃げてない」
自分に言い聞かせるように言った。
音葉は静かに頷いた。
「はい」
「私も、逃げない」
「はい」
その時、スマホが震えた。
今度は尚さんだった。
陽斗、今日は元気です。
ただし図書室に行く時、廊下を七割走ってました。
私は小さく笑った。
八割から減りましたね。
すぐに返信が来る。
成長です。
尚さんの返事は早い。
内容も軽い。
でも、その軽さの下にちゃんと見てくれている目がある。
私は少し迷ってから送った。
登坂さんに話しました。
既読がついた。
少し間があって、
でしょうね。
昨日から登坂、職員室で静かでした。
私は眉を寄せる。
いつも静かでは?
いつもの静かと、考え込んでる静かは違います。
先生同士の距離。
尚さんだから分かる利月くん。
それに少しだけ胸がざわついた。
私、困らせましたよね。
送ると、返事は少し遅れた。
困らせたとは思います。
でも、困らせたら終わりじゃないです。
その一文に、目が止まる。
登坂は、困ったことを雑に捨てるタイプじゃないので。
胸の奥が、少し温かくなる。
尚さんは、こういう時に利月くんを悪く言わない。
からかうけれど、ちゃんと信頼している。
その関係が、少し羨ましい。
ありがとうございます。
そう送ると、すぐに返事が来た。
陽斗の担任なので。
またそれ。
私は笑った。
でも、今日はその言葉がありがたかった。
夕方、陽斗はいつもより少し早く帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
「図書室行った?」
「行った」
陽斗は鞄を置きながら、少し嬉しそうな顔をした。
「登坂先生が本すすめてくれた」
「何の本?」
「月の満ち欠けのやつ」
「難しそう」
「でも写真多いから読めるって。あと、月は見え方が変わるけど月そのものがなくなってるわけじゃないって」
私は動きを止めた。
陽斗は気にせず続ける。
「なんか、そういうの面白いよね。見えないだけで、ちゃんとあるって」
見えないだけで、ちゃんとある。
利月くんが陽斗に選んだ本。
その言葉が、私の胸にも届いてしまう。
「登坂先生、そんな話してくれたの?」
「うん。ちょっとだけ」
「そっか」
「あと、今日ちょっと変だった」
心臓が跳ねる。
「変?」
「なんか、俺の顔じっと見てた」
「え」
「別に嫌じゃないけど。先生、俺なんかした?って聞いたら、してないって」
陽斗は不思議そうに首を傾げた。
「で、ちゃんとご飯食べてるかって聞かれた」
私は息を止めた。
利月くん。
彼は、陽斗をただの児童として見ようとしている。
でももう知っている。
この子が私の息子だと。
だから、今までとは違って見えてしまうのだろう。
それは仕方ない。
でも陽斗に違和感を持たせるほど見てしまうところが、利月くんらしくて、少しだけ胸が痛い。
不器用。
本当に不器用。
「陽斗、なんて答えたの?」
「肉食べたいって」
思わず笑ってしまった。
「それ、答えになってる?」
「なってるでしょ」
「なってるか」
陽斗は鞄から一冊の本を出した。
表紙には、夜空に浮かぶ月の写真。
「これ」
私は本を受け取った。
月の満ち欠け。
ページをめくると、月が少しずつ形を変えていく写真が並んでいた。
満ちて、欠けて、また満ちる。
見えなくなる日があっても、月そのものは消えない。
まるで、利月くんからの不器用なメッセージみたいだった。
そんな都合のいい解釈をする自分に、少しだけ笑ってしまう。
「お母さん?」
陽斗が私を見る。
「なに笑ってんの」
「月って面白いねって思って」
「でしょ」
陽斗は少し得意げに言った。
「登坂先生、細かいけど本選ぶのはうまい」
「そうだね」
私は本を閉じた。
手の中に、静かな重みが残る。
その夜、陽斗が宿題をしている間、私は利月くんにメッセージを送った。
月の本、陽斗が嬉しそうに見せてくれました。
ありがとうございます。
返事は、やっぱり少し遅かった。
けれど今夜は、不思議と待てた。
一時間ほどして、スマホが震えた。
よかったです。
陽斗、ちゃんと読めそうでしたか。
私は笑った。
先生の返事だ。
母親である私への返事でもあるけれど、どこか先生の目線が残っている。
写真が多いから大丈夫そうです。
得意げでした。
送ると、今度は少し早く既読がついた。
陽斗は、褒めると分かりやすいです。
その一文を見て、胸がじんわり温かくなった。
利月くんは、陽斗を見ている。
ちゃんと見ている。
私の知らない陽斗を、登坂さんは知ってるんですね。
送ってから、少し後悔した。
重かったかもしれない。
でも、すぐに返事が来た。
俺が知っているのは、学校にいる陽斗だけです。
灯理さんが知っている陽斗とは、きっと違います。
その言葉に、息が止まった。
続けて、もう一通。
でも、どちらも陽斗だと思います。
涙が出そうになった。
利月くんは、すぐに甘い言葉をくれる人ではない。
でも、こういう時に、まっすぐ大事なところへ言葉を置いてくる。
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
ありがとうございます。
そう言ってもらえて、少し楽になりました。
送信すると、今度はすぐに返事が来た。
俺も、少しずつ考えています。
短い文章。
けれど、その中に彼の時間が入っている気がした。
少しずつ。
その速度が、利月くんの速度なのだ。
私はそれを、待たなければならない。
待つことを、覚えなければならない。
その時、陽斗がリビングから声を上げた。
「お母さん、この漢字分かんない!」
「どれ?」
スマホを置いて、私は陽斗の隣に座った。
漢字ドリルには、雑な字でいくつかの空欄が残っていた。
「これ、月へん?」
「これは肉づきじゃない?」
「なにそれ、月なのに肉?」
「漢字ってそういうとこあるよね」
陽斗は不満そうに唇を尖らせる。
その横顔を見ながら、私は思った。
学校の陽斗。
家の陽斗。
どちらも陽斗。
社長の私。
母の私。
利月くんの前で目を逸らしてしまう私。
どれも、きっと私。
ひとつだけを本当と決めなくてもいいのかもしれない。
陽斗が私を見る。
「お母さん、聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてなかった」
「ちょっと月について考えてた」
「大人ってすぐ遠く行くよね」
私は笑った。
「戻ってきました」
「じゃあ教えて」
「はいはい」
鉛筆を持つ陽斗の手元を見ながら、私は胸の奥で小さな鍵が鳴るのを聞いた。
今度の鍵は、図書室の匂いがした。
本の紙の匂い。
雨の日の静けさ。
月の写真集。
そして、利月くんが陽斗を見つめる少し不器用な目。
硝子の鍵は、またひとつ増えた。
でも今度は、閉じるための鍵ではなかった。
私の知らない誰かを、知るための鍵だった。

