でも、逃げてはいません。
その一文を、私は何度も読み返した。
短い。
甘くない。
好きだとも、大丈夫だとも、すぐには言わない。
でも、そこには利月くんらしい誠実さがあった。
逃げてはいない。
それだけで、胸の奥にあった冷たいものが少しだけ溶けた。
翌朝、陽斗はいつも通り学校へ行った。
「お母さん、今日も濃い?」
玄関で靴を履きながら、陽斗が聞く。
「今日は薄め」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんは信用ならない」
陽斗は笑って、鞄を背負った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
その音を聞いて、私は少しだけ息を吐いた。
昨日までと同じ朝なのに、どこか違っていた。
利月くんは、陽斗が私の息子だと知った。
私が社長であることも、年齢のことも知った。
その事実は怖い。
でも、もう完全な嘘の中には戻れない。
それが少しだけ、楽でもあった。
会社に着くと、音葉がいつものように書類を持ってきた。
「顔色、昨日よりましですね」
「ましって褒めてる?」
「褒めています」
「音葉の褒め方って、だいたい傷薬しみる」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生から連絡は?」
「来た」
「なんて?」
私は少し迷ってから、スマホを見せた。
音葉は画面を見て、小さく頷いた。
「登坂先生らしいですね」
「そう思う?」
「はい。短いけれど、逃げていない」
「うん」
私は画面を閉じた。
「でも、まだ怖い」
「怖くなくなる日は、たぶん来ません」
「え、厳しい」
「怖いまま進むしかないこともあります」
音葉はそう言って、書類を机に置いた。
「次は、登坂先生の話を聞く番ですね」
その言葉に、私は顔を上げた。
利月くんの話。
美紗子先生のこと。
東京タワーに来る理由。
先生でいることを怖いと言った、あの横顔。
私は、自分の秘密を話すことに必死で、利月くんの鍵にはまだ触れられていない。
「聞いていいのかな」
「聞かないと、灯理さんだけが開けたことになります」
音葉の言葉は、いつも核心をつく。
私は頷いた。
「次は、聞く」
「はい」
「でも、どうやって誘えばいい?」
「普通に」
「その普通が難しい」
音葉は少し考えてから言った。
「“この前の話、聞かせてもらえますか”でいいと思います」
「重くない?」
「十分重い話なので、軽くしなくていいです」
たしかに。
私はいつも、重いものを軽いふりで渡そうとする。
だから余計に歪む。
その日の昼休み、私は利月くんにメッセージを送った。
この前、登坂さんも話したいことがあると言っていましたよね。
無理のない時でいいので、聞かせてもらえますか。
送ってから、スマホを伏せた。
今回は、すぐに返事を待たない。
そう決めた。
でも三分後には見ていた。
自分でも笑ってしまう。
返信は、昼過ぎに来た。
今日の夜、少しだけなら。
東京タワーでいいですか。
胸が鳴った。
東京タワー。
やっぱり、私たちはそこに戻る。
はい。
私はそう返した。
たった二文字なのに、指先が少し震えた。
夜の東京タワーの下は、前より少し人が多かった。
写真を撮る人。
誰かを待つ人。
並んで歩く恋人たち。
その中で、私は利月くんを探した。
けれど彼は、いつもの場所にはいなかった。
少し離れたベンチの近く。
東京タワーを真正面からではなく、斜めから見上げる場所に立っていた。
「登坂さん」
声をかけると、彼はこちらを向いた。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつも通りの挨拶。
でも、少しだけ空気が違う。
彼は私の秘密を知っている。
私は彼の返事を待った。
そして今日は、彼の話を聞きに来た。
「陽斗は、元気でした」
利月くんが最初にそう言った。
私は少しだけ目を開いた。
「今日、見かけたんですか」
「はい。図書室で」
「本、返してました?」
「返して、新しい本を借りてました」
「何を?」
「月の写真集です」
胸の奥が、また小さく鳴った。
「星の次は月なんですね」
「はい」
利月くんは少しだけ笑った。
「陽斗に、月は自分で光ってないなら、少しかっこ悪いのかって聞かれました」
「なんて答えたんですか」
「誰かの光を受けて、それでも夜を明るくできるなら、十分すごいと思うって」
その答えに、私はしばらく何も言えなかった。
「いい答えですね」
ようやくそう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。
「正解かは分かりません」
「正解です」
私はすぐに言った。
「少なくとも、陽斗にはきっと届いてます」
利月くんは、東京タワーを見上げた。
「だといいです」
その横顔は、先生の顔だった。
優しくて、少し不器用で、子どもの言葉をちゃんと持ち帰る人の顔。
でも今日は、そこから先を聞きたかった。
「登坂さん」
「はい」
「この前、話したいことがあるって言ってましたよね」
利月くんは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「聞かせてもらえますか」
彼はすぐには答えなかった。
風が、少し冷たい。
私は待った。
今度は、急かさない。
利月くんが私を待ってくれたように、私も彼の言葉を待ちたいと思った。
「母のことです」
彼は静かに言った。
「美紗子先生のこと?」
私がそう呼ぶと、利月くんの表情が少しだけやわらいだ。
「灯理さんにとっては、先生なんですよね」
「はい」
「俺にとっては、母です」
その当たり前の言葉が、なぜか胸に残った。
同じ人を、私たちは違う場所から見ている。
「母は、いい先生だったと思います」
利月くんは東京タワーを見上げたまま続けた。
「たぶん、灯理さんが覚えている通りの人です。子どもの変化に気づくのが早くて、怒る時も、ちゃんと理由を話す人で」
私は黙って聞いていた。
「でも家では、よく疲れていました」
利月くんの声が、少しだけ低くなる。
「帰ってきても、頭の中は学校のことばかりで。連絡帳を読んだり、プリントを作ったり、誰かのことで電話をしたり」
東京タワーの赤い光が、彼の横顔に落ちる。
「子どもの頃の俺は、母がすごい人だって分かっていました。でも、少し寂しかった」
その言葉が、胸に刺さった。
陽斗の顔が浮かぶ。
「大人になった今なら分かります。母は、きっと必死だったんだと思います。でも子どもの俺には、母がたくさんの子どもの先生で、俺の母でいる時間が少し足りない気がしていた」
私は何も言えなかった。
利月くんは、私を責めているわけじゃない。
でも、その話は私の中にもまっすぐ入ってくる。
社長でいる私。
母でいる私。
そのどちらかを選べずに、陽斗に「お母さん、いる?」と聞かせてしまった私。
「だから、先生になるのが怖かったんです」
利月くんが言った。
「お母さんと同じ仕事だから?」
「はい」
「でも、なったんですね」
「なりました」
「どうして?」
利月くんは少しだけ笑った。
「母が好きだったからだと思います」
その笑い方は、少し痛かった。
「先生としての母も、家で疲れている母も、結局どちらも好きでした。だから、同じ場所に立ってみたかった」
彼は言葉を探すように、少し間を置いた。
「でも、立ってみたら分かりました。母がどうして疲れていたのか。どうして、家に帰っても子どもたちのことを考えていたのか」
「うん」
「子どもって、置いて帰れないんです」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
教室を出ても。
校門を閉めても。
家に帰っても。
子どもの顔は、心のどこかに残る。
私も知っている。
「母は、たぶん不器用でした」
利月くんは言った。
「子どもたちを大事にするほど、家族にも上手に甘えればよかったのに、それができなかった」
「利月くんは?」
思わず、そう聞いていた。
彼がこちらを見る。
「登坂さんは、甘えるの得意ですか」
利月くんは、少しだけ困った顔をした。
「得意ではないです」
「でしょうね」
つい、口から出た。
利月くんが少し驚いて、それから小さく笑った。
「分かりますか」
「分かります」
「そんなに?」
「はい」
私も少し笑った。
でも、すぐに胸が痛くなる。
笑えるのに、苦しい。
この人も、鍵を持っている。
先生でいる自分。
母を誇りに思う自分。
寂しかった子どもの自分。
そして、誰かに甘えるのが下手な今の自分。
「ここに来ると、先生じゃなくていい気がすると言ったのは」
私は静かに聞いた。
「お母さんのことと関係ありますか」
利月くんは頷いた。
「はい」
彼は東京タワーを見上げた。
「母とここに来た時だけ、母は先生じゃありませんでした」
胸の奥が、静かになる。
「登坂美紗子先生じゃなくて、俺の母でした」
その言葉が、東京タワーの光の中に落ちた。
「だから俺は、ここが好きなんだと思います」
利月くんの声は、少しだけ掠れていた。
「母を、先生じゃない顔で思い出せるので」
私は、泣きそうになった。
私にとって美紗子先生は、忘れられない先生だった。
教室で私を見つけてくれた人。
東京タワーの足元を教えてくれた人。
でも利月くんにとっては、母だった。
先生ではない顔も、疲れた顔も、寂しさも、全部知っている。
私は、そのことをちゃんと分かっていなかった。
「すみません」
気づいたら、そう言っていた。
利月くんが私を見る。
「何がですか」
「私、あなたのお母さんを“先生”としてしか見ていなかった」
「それは、当然じゃないですか」
「でも」
「母は、灯理さんの先生でもあったんです」
利月くんは静かに言った。
「俺の母で、灯理さんの先生で、たぶん他の誰かにとっても大事な人だった。それでいいんだと思います」
その言葉に、胸がほどける。
利月くんは、完璧な慰めは言わない。
でも時々、こうして私の中で絡まっていたものを、静かにほどく。
本人は、そんなつもりもなさそうに。
「登坂さん」
「はい」
「私、陽斗に寂しい思いをさせてきたかもしれません」
言葉がこぼれた。
「社長だから。家を継いだから。仕事があるから。そう言いながら、学校のことも、家のことも、音葉や母に頼って」
利月くんは黙って聞いていた。
「陽斗はいい子です。だから、余計に怖い。私がちゃんと見ていなくても、大丈夫なふりをしていたのかもしれない」
大丈夫。
私が何度も使ってきた言葉。
陽斗にも、使わせてしまっているのかもしれない。
「灯理さん」
利月くんが私を呼んだ。
「はい」
「陽斗は、灯理さんのこと好きだと思います」
その言葉に、涙が出そうになった。
「そんなの、分かりません」
「学校で、母親の話をする時の顔があります」
「陽斗が?」
「はい」
利月くんは少しだけ考えた。
「お母さんは忙しいけど、すごいんだって。前に図書室で言っていました」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
陽斗。
そんなことを言っていたの。
「俺、その時は灯理さんのことだと知りませんでした」
「うん」
「でも、今日思いました。陽斗が言っていた“すごいお母さん”は、灯理さんだったんだなって」
涙がこぼれた。
「すごくなんかないです」
「すごいかどうかを決めるのは、俺じゃなくて陽斗です」
利月くんは静かに言った。
「陽斗がそう思っているなら、それは本当です」
ずるい。
どうしてこの人は、欲しい言葉を欲しい時にはくれないのに、こんなふうに急に心の深いところへ置いていくんだろう。
私は泣きながら笑った。
「登坂さんって、そういうところありますよね」
「どういうところですか」
「普段は言葉が足りないのに、急に刺さること言うところ」
利月くんは、本気で困った顔をした。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
「本当に難しいですね」
少しだけ、笑えた。
東京タワーの下で、私たちはまだ恋人ではなかった。
触れることもない。
甘い言葉もない。
すぐに答えも出ない。
それでも、昨日より少しだけ近い場所に立っていた。
利月くんの鍵に、私は少し触れた。
先生ではない顔。
母を思う顔。
寂しかった子どもの顔。
そのどれもが、私の知らない利月くんだった。
「母の年賀状」
利月くんが言った。
「もう少しだけ、預かっていてもいいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
彼は少しだけ目を伏せた。
「母の字を見たの、久しぶりでした」
「つらくないですか」
「つらいです」
正直な答えだった。
「でも、見たいです」
その言葉に、胸が静かに痛んだ。
私もそうだ。
教室のことは苦しい。
でも、忘れたくない。
痛みと大事なものは、時々同じ箱に入っている。
「また、話してくれますか」
私が聞くと、利月くんは頷いた。
「はい」
「私も、話します」
「陽斗のことですか」
「それも。会社のことも、教室を離れた日のことも」
利月くんは、少しだけ私を見る。
「無理しなくていいです」
「無理しないと、たぶん私は話せません」
言ってから、少し笑った。
「でも、逃げたくないです」
利月くんは静かに頷いた。
「俺もです」
その一言は、とても短かった。
でも、ちゃんと届いた。
私たちは、まだ何も約束していない。
好きだとも、付き合おうとも、これからどうしようとも言っていない。
ただ、お互いの鍵を少しずつ見せ合っている。
それは恋と呼ぶには不器用で、
友情と呼ぶには苦しくて、
秘密を共有するには、少しだけ優しすぎた。
帰り際、利月くんが言った。
「灯理さん」
「はい」
「今日、来てくれてありがとうございました」
「こちらこそ」
「俺、話すのが上手くなくて」
「知ってます」
思わずそう言うと、利月くんが少しだけ目を丸くした。
私は慌てて口を押さえる。
「すみません」
「いえ」
彼は小さく笑った。
「その通りなので」
その笑顔が、東京タワーの光の下で少しだけほどけて見えた。
先生じゃない顔。
その瞬間、私はまたひとつ、利月くんを好きになってしまったのだと思う。
帰りのタクシーで、私は窓の外を見た。
東京タワーが少しずつ遠ざかる。
でも今夜は、前ほど遠く感じなかった。
利月くんの鍵は、まだ完全には開いていない。
私の鍵も、まだ全部は開いていない。
それでも、確かに分かった。
私たちは、閉じた扉の前で立ち尽くしているだけではなくなった。
少しずつ、鍵穴を探している。
手探りで。
怖がりながら。
それでも、逃げずに。
硝子の鍵は、冷たいままだった。
けれどその冷たさの中に、初めて小さな体温が宿った気がした。
その一文を、私は何度も読み返した。
短い。
甘くない。
好きだとも、大丈夫だとも、すぐには言わない。
でも、そこには利月くんらしい誠実さがあった。
逃げてはいない。
それだけで、胸の奥にあった冷たいものが少しだけ溶けた。
翌朝、陽斗はいつも通り学校へ行った。
「お母さん、今日も濃い?」
玄関で靴を履きながら、陽斗が聞く。
「今日は薄め」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんは信用ならない」
陽斗は笑って、鞄を背負った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
その音を聞いて、私は少しだけ息を吐いた。
昨日までと同じ朝なのに、どこか違っていた。
利月くんは、陽斗が私の息子だと知った。
私が社長であることも、年齢のことも知った。
その事実は怖い。
でも、もう完全な嘘の中には戻れない。
それが少しだけ、楽でもあった。
会社に着くと、音葉がいつものように書類を持ってきた。
「顔色、昨日よりましですね」
「ましって褒めてる?」
「褒めています」
「音葉の褒め方って、だいたい傷薬しみる」
音葉は少しだけ笑った。
「登坂先生から連絡は?」
「来た」
「なんて?」
私は少し迷ってから、スマホを見せた。
音葉は画面を見て、小さく頷いた。
「登坂先生らしいですね」
「そう思う?」
「はい。短いけれど、逃げていない」
「うん」
私は画面を閉じた。
「でも、まだ怖い」
「怖くなくなる日は、たぶん来ません」
「え、厳しい」
「怖いまま進むしかないこともあります」
音葉はそう言って、書類を机に置いた。
「次は、登坂先生の話を聞く番ですね」
その言葉に、私は顔を上げた。
利月くんの話。
美紗子先生のこと。
東京タワーに来る理由。
先生でいることを怖いと言った、あの横顔。
私は、自分の秘密を話すことに必死で、利月くんの鍵にはまだ触れられていない。
「聞いていいのかな」
「聞かないと、灯理さんだけが開けたことになります」
音葉の言葉は、いつも核心をつく。
私は頷いた。
「次は、聞く」
「はい」
「でも、どうやって誘えばいい?」
「普通に」
「その普通が難しい」
音葉は少し考えてから言った。
「“この前の話、聞かせてもらえますか”でいいと思います」
「重くない?」
「十分重い話なので、軽くしなくていいです」
たしかに。
私はいつも、重いものを軽いふりで渡そうとする。
だから余計に歪む。
その日の昼休み、私は利月くんにメッセージを送った。
この前、登坂さんも話したいことがあると言っていましたよね。
無理のない時でいいので、聞かせてもらえますか。
送ってから、スマホを伏せた。
今回は、すぐに返事を待たない。
そう決めた。
でも三分後には見ていた。
自分でも笑ってしまう。
返信は、昼過ぎに来た。
今日の夜、少しだけなら。
東京タワーでいいですか。
胸が鳴った。
東京タワー。
やっぱり、私たちはそこに戻る。
はい。
私はそう返した。
たった二文字なのに、指先が少し震えた。
夜の東京タワーの下は、前より少し人が多かった。
写真を撮る人。
誰かを待つ人。
並んで歩く恋人たち。
その中で、私は利月くんを探した。
けれど彼は、いつもの場所にはいなかった。
少し離れたベンチの近く。
東京タワーを真正面からではなく、斜めから見上げる場所に立っていた。
「登坂さん」
声をかけると、彼はこちらを向いた。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつも通りの挨拶。
でも、少しだけ空気が違う。
彼は私の秘密を知っている。
私は彼の返事を待った。
そして今日は、彼の話を聞きに来た。
「陽斗は、元気でした」
利月くんが最初にそう言った。
私は少しだけ目を開いた。
「今日、見かけたんですか」
「はい。図書室で」
「本、返してました?」
「返して、新しい本を借りてました」
「何を?」
「月の写真集です」
胸の奥が、また小さく鳴った。
「星の次は月なんですね」
「はい」
利月くんは少しだけ笑った。
「陽斗に、月は自分で光ってないなら、少しかっこ悪いのかって聞かれました」
「なんて答えたんですか」
「誰かの光を受けて、それでも夜を明るくできるなら、十分すごいと思うって」
その答えに、私はしばらく何も言えなかった。
「いい答えですね」
ようやくそう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。
「正解かは分かりません」
「正解です」
私はすぐに言った。
「少なくとも、陽斗にはきっと届いてます」
利月くんは、東京タワーを見上げた。
「だといいです」
その横顔は、先生の顔だった。
優しくて、少し不器用で、子どもの言葉をちゃんと持ち帰る人の顔。
でも今日は、そこから先を聞きたかった。
「登坂さん」
「はい」
「この前、話したいことがあるって言ってましたよね」
利月くんは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「聞かせてもらえますか」
彼はすぐには答えなかった。
風が、少し冷たい。
私は待った。
今度は、急かさない。
利月くんが私を待ってくれたように、私も彼の言葉を待ちたいと思った。
「母のことです」
彼は静かに言った。
「美紗子先生のこと?」
私がそう呼ぶと、利月くんの表情が少しだけやわらいだ。
「灯理さんにとっては、先生なんですよね」
「はい」
「俺にとっては、母です」
その当たり前の言葉が、なぜか胸に残った。
同じ人を、私たちは違う場所から見ている。
「母は、いい先生だったと思います」
利月くんは東京タワーを見上げたまま続けた。
「たぶん、灯理さんが覚えている通りの人です。子どもの変化に気づくのが早くて、怒る時も、ちゃんと理由を話す人で」
私は黙って聞いていた。
「でも家では、よく疲れていました」
利月くんの声が、少しだけ低くなる。
「帰ってきても、頭の中は学校のことばかりで。連絡帳を読んだり、プリントを作ったり、誰かのことで電話をしたり」
東京タワーの赤い光が、彼の横顔に落ちる。
「子どもの頃の俺は、母がすごい人だって分かっていました。でも、少し寂しかった」
その言葉が、胸に刺さった。
陽斗の顔が浮かぶ。
「大人になった今なら分かります。母は、きっと必死だったんだと思います。でも子どもの俺には、母がたくさんの子どもの先生で、俺の母でいる時間が少し足りない気がしていた」
私は何も言えなかった。
利月くんは、私を責めているわけじゃない。
でも、その話は私の中にもまっすぐ入ってくる。
社長でいる私。
母でいる私。
そのどちらかを選べずに、陽斗に「お母さん、いる?」と聞かせてしまった私。
「だから、先生になるのが怖かったんです」
利月くんが言った。
「お母さんと同じ仕事だから?」
「はい」
「でも、なったんですね」
「なりました」
「どうして?」
利月くんは少しだけ笑った。
「母が好きだったからだと思います」
その笑い方は、少し痛かった。
「先生としての母も、家で疲れている母も、結局どちらも好きでした。だから、同じ場所に立ってみたかった」
彼は言葉を探すように、少し間を置いた。
「でも、立ってみたら分かりました。母がどうして疲れていたのか。どうして、家に帰っても子どもたちのことを考えていたのか」
「うん」
「子どもって、置いて帰れないんです」
その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。
教室を出ても。
校門を閉めても。
家に帰っても。
子どもの顔は、心のどこかに残る。
私も知っている。
「母は、たぶん不器用でした」
利月くんは言った。
「子どもたちを大事にするほど、家族にも上手に甘えればよかったのに、それができなかった」
「利月くんは?」
思わず、そう聞いていた。
彼がこちらを見る。
「登坂さんは、甘えるの得意ですか」
利月くんは、少しだけ困った顔をした。
「得意ではないです」
「でしょうね」
つい、口から出た。
利月くんが少し驚いて、それから小さく笑った。
「分かりますか」
「分かります」
「そんなに?」
「はい」
私も少し笑った。
でも、すぐに胸が痛くなる。
笑えるのに、苦しい。
この人も、鍵を持っている。
先生でいる自分。
母を誇りに思う自分。
寂しかった子どもの自分。
そして、誰かに甘えるのが下手な今の自分。
「ここに来ると、先生じゃなくていい気がすると言ったのは」
私は静かに聞いた。
「お母さんのことと関係ありますか」
利月くんは頷いた。
「はい」
彼は東京タワーを見上げた。
「母とここに来た時だけ、母は先生じゃありませんでした」
胸の奥が、静かになる。
「登坂美紗子先生じゃなくて、俺の母でした」
その言葉が、東京タワーの光の中に落ちた。
「だから俺は、ここが好きなんだと思います」
利月くんの声は、少しだけ掠れていた。
「母を、先生じゃない顔で思い出せるので」
私は、泣きそうになった。
私にとって美紗子先生は、忘れられない先生だった。
教室で私を見つけてくれた人。
東京タワーの足元を教えてくれた人。
でも利月くんにとっては、母だった。
先生ではない顔も、疲れた顔も、寂しさも、全部知っている。
私は、そのことをちゃんと分かっていなかった。
「すみません」
気づいたら、そう言っていた。
利月くんが私を見る。
「何がですか」
「私、あなたのお母さんを“先生”としてしか見ていなかった」
「それは、当然じゃないですか」
「でも」
「母は、灯理さんの先生でもあったんです」
利月くんは静かに言った。
「俺の母で、灯理さんの先生で、たぶん他の誰かにとっても大事な人だった。それでいいんだと思います」
その言葉に、胸がほどける。
利月くんは、完璧な慰めは言わない。
でも時々、こうして私の中で絡まっていたものを、静かにほどく。
本人は、そんなつもりもなさそうに。
「登坂さん」
「はい」
「私、陽斗に寂しい思いをさせてきたかもしれません」
言葉がこぼれた。
「社長だから。家を継いだから。仕事があるから。そう言いながら、学校のことも、家のことも、音葉や母に頼って」
利月くんは黙って聞いていた。
「陽斗はいい子です。だから、余計に怖い。私がちゃんと見ていなくても、大丈夫なふりをしていたのかもしれない」
大丈夫。
私が何度も使ってきた言葉。
陽斗にも、使わせてしまっているのかもしれない。
「灯理さん」
利月くんが私を呼んだ。
「はい」
「陽斗は、灯理さんのこと好きだと思います」
その言葉に、涙が出そうになった。
「そんなの、分かりません」
「学校で、母親の話をする時の顔があります」
「陽斗が?」
「はい」
利月くんは少しだけ考えた。
「お母さんは忙しいけど、すごいんだって。前に図書室で言っていました」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
陽斗。
そんなことを言っていたの。
「俺、その時は灯理さんのことだと知りませんでした」
「うん」
「でも、今日思いました。陽斗が言っていた“すごいお母さん”は、灯理さんだったんだなって」
涙がこぼれた。
「すごくなんかないです」
「すごいかどうかを決めるのは、俺じゃなくて陽斗です」
利月くんは静かに言った。
「陽斗がそう思っているなら、それは本当です」
ずるい。
どうしてこの人は、欲しい言葉を欲しい時にはくれないのに、こんなふうに急に心の深いところへ置いていくんだろう。
私は泣きながら笑った。
「登坂さんって、そういうところありますよね」
「どういうところですか」
「普段は言葉が足りないのに、急に刺さること言うところ」
利月くんは、本気で困った顔をした。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
「本当に難しいですね」
少しだけ、笑えた。
東京タワーの下で、私たちはまだ恋人ではなかった。
触れることもない。
甘い言葉もない。
すぐに答えも出ない。
それでも、昨日より少しだけ近い場所に立っていた。
利月くんの鍵に、私は少し触れた。
先生ではない顔。
母を思う顔。
寂しかった子どもの顔。
そのどれもが、私の知らない利月くんだった。
「母の年賀状」
利月くんが言った。
「もう少しだけ、預かっていてもいいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
彼は少しだけ目を伏せた。
「母の字を見たの、久しぶりでした」
「つらくないですか」
「つらいです」
正直な答えだった。
「でも、見たいです」
その言葉に、胸が静かに痛んだ。
私もそうだ。
教室のことは苦しい。
でも、忘れたくない。
痛みと大事なものは、時々同じ箱に入っている。
「また、話してくれますか」
私が聞くと、利月くんは頷いた。
「はい」
「私も、話します」
「陽斗のことですか」
「それも。会社のことも、教室を離れた日のことも」
利月くんは、少しだけ私を見る。
「無理しなくていいです」
「無理しないと、たぶん私は話せません」
言ってから、少し笑った。
「でも、逃げたくないです」
利月くんは静かに頷いた。
「俺もです」
その一言は、とても短かった。
でも、ちゃんと届いた。
私たちは、まだ何も約束していない。
好きだとも、付き合おうとも、これからどうしようとも言っていない。
ただ、お互いの鍵を少しずつ見せ合っている。
それは恋と呼ぶには不器用で、
友情と呼ぶには苦しくて、
秘密を共有するには、少しだけ優しすぎた。
帰り際、利月くんが言った。
「灯理さん」
「はい」
「今日、来てくれてありがとうございました」
「こちらこそ」
「俺、話すのが上手くなくて」
「知ってます」
思わずそう言うと、利月くんが少しだけ目を丸くした。
私は慌てて口を押さえる。
「すみません」
「いえ」
彼は小さく笑った。
「その通りなので」
その笑顔が、東京タワーの光の下で少しだけほどけて見えた。
先生じゃない顔。
その瞬間、私はまたひとつ、利月くんを好きになってしまったのだと思う。
帰りのタクシーで、私は窓の外を見た。
東京タワーが少しずつ遠ざかる。
でも今夜は、前ほど遠く感じなかった。
利月くんの鍵は、まだ完全には開いていない。
私の鍵も、まだ全部は開いていない。
それでも、確かに分かった。
私たちは、閉じた扉の前で立ち尽くしているだけではなくなった。
少しずつ、鍵穴を探している。
手探りで。
怖がりながら。
それでも、逃げずに。
硝子の鍵は、冷たいままだった。
けれどその冷たさの中に、初めて小さな体温が宿った気がした。

