硝子の鍵

利月くんと東京タワーの下で別れた夜、私はすぐには部屋に戻れなかった。

タクシーの中で、何度もスマホを見た。

もちろん、何も届いていない。

当たり前だ。

あれだけのことを話した。

陽斗が私の息子だということ。
私が社長だということ。
本当の年齢。
同じ歳くらいに見られて、否定しなかったこと。

利月くんは、逃げなかった。

怒鳴りもしなかった。
軽蔑したように笑うこともなかった。

でも、すぐに受け止めたわけでもなかった。

俺に、少し時間をください。

その言葉は、誠実だった。

誠実だったからこそ、怖かった。

家に着くと、部屋は静かだった。

陽斗はもう寝ている。
熱は下がり、明日は学校に行けそうだと音葉から連絡が入っていた。

リビングの窓からは、東京タワーが見える。

さっきまで、私はあの足元にいた。

利月くんの隣にいて、全部話した。

なのに今は、こんなにも遠い。

「おかえりなさい」

音葉がキッチンから顔を出した。

「陽斗は?」

「寝ました。熱はありません」

「よかった」

私はソファに座った。

体から力が抜ける。

音葉は何も聞かず、温かいお茶を置いてくれた。

それが少しだけ優しくて、私は余計に泣きそうになった。

「話しましたか」

しばらくして、音葉が聞いた。

私は頷いた。

「陽斗のことも、年齢も、社長のことも」

音葉の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「全部ですね」

「うん」

「登坂先生は?」

「時間がほしいって」

音葉は、静かに頷いた。

「逃げませんでしたか」

「逃げなかった」

「なら、待つしかないです」

「分かってる」

分かってる。

またその言葉。

でも、今夜のそれは少しだけ本当だった。

私は待つしかない。

利月くんが考える時間を、奪ってはいけない。

そう思っているのに、スマホが気になる。

画面が光らないか。
通知が来ないか。
何か一言でも、届かないか。

私は自分の弱さにうんざりした。

「スマホ、預かりましょうか」

音葉が言った。

「子どもじゃないんだから」

「子どもより見てます」

「見てない」

「今、三分で七回見ました」

「数えないで」

音葉は少しだけ笑った。

でもすぐに、真面目な顔になった。

「灯理さん」

「なに」

「登坂先生がすぐに甘い言葉をくれなかったことを、悪い方に取りすぎないでください」

胸の奥を見透かされた気がした。

「……そんな顔してる?」

「しています」

「私、分かりやすすぎない?」

「今さらです」

音葉はお茶を一口飲んだ。

「完璧に受け止める人より、ちゃんと考える人の方が信用できます」

それは、分かる。

分かるのに、苦しい。

「でも、怖い」

私は小さく言った。

「考えた結果、やっぱり無理ですってなるかもしれない」

「なりますかね」

「分からない」

「私にも分かりません」

音葉はあっさり言った。

「でも、灯理さんが隠したまま進むより、ずっといいです」

それも、分かっている。

分かっていることばかりが、今夜は私を追いかけてくる。

私はスマホを伏せた。

それなのに、伏せた画面の裏側まで気になる。

恋って、こんなにみっともないものだっただろうか。

社長としてなら、私は待てる。

返事が来ない取引先にも、期限を切って確認する。
曖昧な相手には、必要な資料をそろえて詰める。

でも利月くんには、それができない。

詰めたら壊れる。

待っても壊れるかもしれない。

どちらを選んでも、胸が痛い。

翌朝、利月くんからの連絡はなかった。

陽斗は元気に学校へ行った。

「お母さん、今日も濃い?」

玄関で靴を履きながら、陽斗が聞く。

「何が」

「母親濃度」

「今日は普通」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶんって」

陽斗は笑った。

その顔を見ると、少しだけ現実に戻れる。

私はこの子の母だ。

利月くんの返事が来ても来なくても、私は陽斗の朝を見送らなければならない。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

ドアが閉まる。

その音が、今日は少しだけ優しかった。

会社に着くと、仕事は容赦なく待っていた。

決裁書類。
打ち合わせ。
銀行からの連絡。
社員の相談。

社長でいる時間は、ありがたい。

考えたくないことから、少しだけ離れられる。

けれど、会議の隙間にスマホを見る。

昼になっても、何も来ない。

十五時になっても、何も来ない。

十七時。

画面は静かなまま。

私は資料を見つめながら、文字が頭に入ってこないのを感じていた。

その時、スマホが震えた。

心臓が跳ねる。

でも画面に出ていた名前は、佐伯尚さんだった。

陽斗、今日は元気です。
ただ、休み時間に廊下を半分走ってました。

思わず笑ってしまった。

半分走るって何ですか。

すぐに返事が来た。

本人いわく早歩きです。
俺から見ると八割走ってました。

少しだけ肩の力が抜ける。

尚さんは、こういうタイミングがうまい。

こちらの息が詰まりそうなところに、雑な窓を開けてくる。

ありがとうございます。
ちゃんと見てくれて。

送ってから、少し迷った。

でも、続けて打った。

昨日、登坂さんに話しました。

既読がつくまで、少し間があった。

返事は短かった。

そうですか。

そのあと、もう一通。

あいつ、固まりませんでした?

私は思わず吹き出しそうになった。

固まりました。

でしょうね。

でしょうね。

この人は何度それを言うんだろう。

連絡、来てません。

送ってしまってから、少し後悔した。

でも尚さんは、軽く流さなかった。

たぶん考えてます。
登坂は、返事が早いタイプじゃないです。

分かっている。

利月くんは、言葉にするまで時間がかかる人だ。

それでも、胸がざわつく。

待つしかないですよね。

はい。
でも待ってる間に勝手に最悪の結論まで行かないでください。

画面の向こうから、尚さんに見透かされている気がした。

行きかけてました。

戻ってきてください。

私は少し笑った。

尚さんは恋の相手ではない。

でも、こういう時に会話ができる人だった。

利月くんのことになると、私は目の前が見えなくなる。
尚さんはその横から、こっちです、と肩を叩いてくれる。

それがありがたくて、少しだけ悔しい。

登坂は、薄い男じゃないです。
でも器用な男でもないです。

その文章に、私はしばらく目を留めた。

薄くない。
でも器用ではない。

それは、すごく利月くんらしい。

ありがとうございます。

そう送ると、尚さんからすぐ返事が来た。

陽斗の担任なので。

また、それ。

彼はいつも、自分の立ち位置を間違えない。

近いのに、踏み込みすぎない。
でも必要な時は、逃がしてくれない。

私はスマホを置いた。

利月くんからの返事は、まだない。

でも、少しだけ待てる気がした。

その夜、私は陽斗と夕食を食べた。

といっても、陽斗は肉を要求し、私はほとんど味噌汁だけだった。

「お母さん、食べないの?」

「食欲あんまりなくて」

「また?」

「またって何」

「最近そんな感じじゃん」

陽斗は肉を頬張りながら、こちらを見る。

「大人って食べないと怒るくせに、自分は食べないよね」

正論だった。

「食べます」

私は小さくご飯を口に運んだ。

陽斗は満足そうに頷く。

「よし」

「誰目線?」

「俺目線」

そのやり取りに笑ってしまう。

こういう普通の時間が、私を支えている。

恋で胸が裂けそうでも、息子は肉を食べ、忘れ物をし、廊下を八割走る。

現実は、ちゃんと私の足元にある。

食後、陽斗は宿題をしながら言った。

「今日、登坂先生に本返した」

心臓が跳ねた。

「そう」

「次の本、すすめられた」

「何の本?」

「東京タワーの写真集」

私は箸を置きそうになった。

「東京タワー?」

「うん。星の本読んでたら、東京の夜景の本もあるよって」

陽斗は何も知らない顔で言う。

「登坂先生、東京タワー好きなのかな」

「たぶん」

私の声は、思っていたより小さくなった。

「お母さんも好きでしょ」

「え?」

「部屋からよく見てるじゃん」

子どもは、見ていないようで見ている。

私は苦笑した。

「そうだね。好きかも」

陽斗は宿題に目を戻した。

「じゃあ今度見に行けば?」

「誰と?」

「知らない。音葉さんとか」

私は笑った。

陽斗は知らない。

その東京タワーの下で、私がどんな顔をしていたのか。

どんな嘘を話し、どんな鍵を開けたのか。

夜、陽斗が寝たあと、私はリビングでひとりになった。

スマホはまだ静かだった。

利月くんからの連絡はない。

私は窓の外を見る。

東京タワーが光っている。

今日は行かない。

行ったところで、会えるかどうか分からない。
それに、待つと決めた。

時間をください。

そう言った彼の言葉を、ちゃんと守りたい。

でも、待つことは苦しい。

何かしていないと、心が勝手に悪い方へ走る。

私は引き出しから、古い封筒を取り出そうとして、手を止めた。

そうだった。

美紗子先生の年賀状は、利月くんに預けている。

少しだけ見ていたいと言った彼の顔を思い出す。

あの時の利月くんは、先生ではなく、息子の顔をしていた。

私はその顔を、もっと知りたいと思った。

利月くんの母への憧れ。
寂しさ。
東京タワーに来る理由。

私だけが秘密を持っていたわけではない。

彼にも、鍵がある。

そう思った時、スマホが震えた。

画面に、登坂利月の名前。

息が止まった。

すぐに開けなかった。

怖かった。

たった一通のメッセージで、今夜の私は壊れるかもしれない。

それでも、開いた。

返事が遅くなってすみません。
まだ、うまく言葉にできていません。
でも、年賀状は何度も読みました。

私は画面を見つめた。

続けて、もう一通。

母が灯理さんに残した言葉を見て、
俺が灯理さんの話をちゃんと聞かないのは違うと思いました。

涙が、急にこぼれた。

さらにもう一通。

今すぐ答えを出せるわけではないです。
でも、また会いたいです。

私はスマホを握りしめた。

甘い言葉ではなかった。

好きだとも、受け止めますとも、言われていない。

でも、利月くんは戻ってきた。

言葉を探して、遅れて、でもちゃんと来てくれた。

それだけで、胸の奥の何かがほどけた。

私は震える指で返信した。

ありがとうございます。
私も、また会いたいです。

送ってから、少しだけ迷い、もう一文足した。

返事、待っていました。

既読がつく。

しばらくして、返事が来た。

待たせました。

短い。

短すぎる。

でも、その短さが利月くんらしくて、私は泣きながら笑ってしまった。

でも、逃げてはいません。

その一文で、涙が止まらなくなった。

逃げてはいない。

私が一番ほしかったのは、たぶんそれだった。

完璧な慰めではなく。
甘い約束でもなく。

考えている。
でも逃げていない。

その事実。

窓の外で、東京タワーが赤く光っていた。

硝子の鍵は、まだ完全には開いていない。

でも、鍵穴の向こうから、確かに音がした。

利月くんが、戻ってくる音だった。