「陽斗は」
利月くんの声は、かすかに掠れていた。
「灯理さんの……」
「はい」
私は、もう一度頷いた。
「私の息子です」
東京タワーの下で、風が吹いた。
足元から冷えていくような夜だった。
それなのに、手のひらだけが熱い。
握りしめた封筒の中には、美紗子先生の文字がある。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
その言葉を持ったまま、私は今、自分の子どものことを告げている。
利月くんは、何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
責められる方が、まだ楽だったかもしれない。
驚いたと言われた方が、まだ受け止められたかもしれない。
でも彼は、ただ私を見ていた。
その目が、私を責めているのか、
何かを整理しようとしているのか、
それともただ言葉を探しているのか、分からなかった。
「……ごめんなさい」
私は、先に謝った。
謝るしかなかった。
「言わなきゃいけなかったのに、言えませんでした」
利月くんの指が、わずかに動いた。
「食事会の時も、東京タワーで会った時も、何度も言えるタイミングはありました」
声が震える。
「でも、言えなかった」
東京タワーの赤い光が、視界の端で滲んだ。
「言ったら、ただの灯理でいられなくなる気がしたんです」
利月くんはまだ黙っていた。
私は、その沈黙に耐えきれずに続けた。
「私、あなたが思っているより年上です」
言ってしまった。
陽斗のことだけでは終わらない。
ここまで来たら、もう鍵はひとつずつ開けるしかない。
「同じ歳くらいだって言われた時、否定できなかった。嬉しかったんです。社長でも、母親でもなく、ただの女として見てもらえたみたいで」
胸の奥が痛い。
自分で言葉にすると、あまりにもずるい。
「でも、それは嘘でした」
利月くんが、ゆっくり息を吸った。
「嘘、ですか」
その声は冷たくはなかった。
でも、いつもより少し遠かった。
それだけで、胸がぎゅっと縮む。
「はい」
私は頷いた。
「嘘にしました」
利月くんは、視線を東京タワーへ移した。
長い沈黙だった。
人の声も、車の音も、遠くにあるのに、私たちの周りだけが静かだった。
私はその横顔を見ていた。
利月くんは、怒鳴らない。
優しく笑って、すぐに許すわけでもない。
ただ、ちゃんと傷ついているように見えた。
それがつらかった。
「灯理さん」
ようやく彼が口を開いた。
「俺、今すぐうまく返せないです」
その言葉に、胸が少しだけ沈んだ。
でも、当然だと思った。
「はい」
「驚いてます」
「はい」
「正直、何から聞けばいいのかも分かりません」
利月くんは、私を見た。
「陽斗が、灯理さんの息子」
確認するような声。
「はい」
「佐伯は」
その名前が出た瞬間、指先が冷える。
「知っています」
「いつから?」
「参観日に行った日に」
利月くんの眉が、少しだけ動いた。
「参観日」
「はい。陽斗の授業参観に行って、そこで尚さんに知られました」
「佐伯は、陽斗の担任ですもんね」
「はい」
利月くんは少しだけ目を伏せた。
その表情が、私には読めなかった。
尚さんに先に知られていたことを、どう思ったのだろう。
私はまた言葉を重ねそうになって、唇を噛んだ。
言い訳はもういらない。
聞かれたことにだけ、ちゃんと答えよう。
「俺だけ、知らなかったんですね」
静かな一言だった。
胸に刺さった。
「……はい」
それ以上、何も言えない。
利月くんは、怒っているのではない。
でも、傷ついている。
それが分かる。
「佐伯と、話したんですか」
「話しました」
「俺に言った方がいいって?」
「はい」
「佐伯らしいですね」
利月くんは、小さく笑った。
でも、その笑い方はいつものものではなかった。
少しだけ苦い。
「灯理さんは、どうして俺に言おうと思ったんですか」
「え?」
「今日」
彼は私を見た。
「今日、ここで言おうと思ったのは、どうしてですか」
私はすぐには答えられなかった。
どうして。
尚さんに言われたから。
音葉に言われたから。
これ以上隠せないと思ったから。
どれも本当だ。
でも、一番は。
「あなたに、これ以上嘘をついたまま会いたくなかったからです」
声が小さくなる。
「それと」
私は封筒を見た。
「陽斗を、隠したまま好きになるのは、違うと思ったから」
好き。
言ってしまった。
利月くんの目が、わずかに揺れた。
私はすぐに目を伏せた。
「ごめんなさい。今、そういうことを言うのはずるいですね」
「ずるいですね」
即答だった。
思わず顔を上げる。
利月くんは困ったような顔をしていた。
「そういうところで、急に本音を言うのは」
胸が痛いのに、少しだけ笑いそうになった。
「すみません」
「謝るところです」
「はい」
利月くんは、また東京タワーを見上げた。
「でも」
「はい」
「言ってくれて、よかったです」
その言葉に、息が止まった。
許されたわけではない。
それは分かった。
でも、言ったこと自体を否定されなかった。
それだけで、足元が少しだけ戻ってくる。
「俺、たぶん今、ちゃんと優しいこと言えないです」
利月くんは続けた。
「言ったら、無理してる感じになると思います」
「……はい」
「でも、帰るとか、もう会わないとか、そういうことを今決めたいわけじゃないです」
涙が、目の奥に溜まる。
「俺に、少し時間をください」
時間。
その言葉は怖かった。
でも、彼らしいと思った。
何でもすぐに受け止めたふりをしない。
綺麗な言葉で包まない。
困って、考えて、それでも逃げずに立っている。
利月くんは、そういう人だった。
「待ちます」
私は言った。
「登坂さんが考える時間なら、待ちます」
利月くんは頷いた。
そして、少しだけ間を置いて言った。
「あと、ひとつ聞いていいですか」
「はい」
「本当の年齢は」
来た。
心臓が、変な音を立てる。
一番単純で、でも私が一番隠したかったこと。
私は深く息を吸った。
「三十五です」
利月くんは、少しだけ目を開いた。
「十歳上」
「はい」
「……そうですか」
その反応が、想像より普通で、逆に怖かった。
「引きました?」
聞いてしまってから、後悔した。
そんなこと、答えにくいに決まっている。
利月くんは少し困った顔をした。
「引いたというより、驚いてます」
「ですよね」
「でも」
彼は私を見た。
「昨日までと、灯理さんの顔が変わるわけじゃないので」
胸が、止まったみたいになった。
「え……」
「いや、言い方が変ですね」
利月くんは少しだけ眉を寄せた。
「年齢を聞いたからって、今見ている灯理さんが別人になるわけじゃない、というか」
言葉を探しているのが分かる。
器用じゃない。
でも、ちゃんと探してくれている。
「若く見えるとか、そういう話ではなくて」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「俺が会っていたのは、今の灯理さんなので」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
今の灯理。
若いふりをした私ではなく。
社長でも母でもないふりをした私でもなく。
嘘を含んだまま、それでも目の前にいた私。
「それ、ずるいです」
今度は私が言った。
利月くんがこちらを見る。
「何がですか」
「欲しい時にはくれないのに、こういう時に急にそういうこと言うところ」
利月くんは少し困ったように固まった。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいですね」
その言い方が少しだけ彼らしくて、私は泣きながら笑ってしまった。
東京タワーの光が、涙で滲む。
「私、怖かったんです」
「はい」
「年齢を言ったら、母だと言ったら、社長だと言ったら、もう見てもらえないんじゃないかって」
「社長?」
しまった。
順番がまた崩れた。
でももう、隠せない。
「はい」
私は頷いた。
「会社を継いで、今は社長をしています」
利月くんは、また少し驚いた顔をした。
今日は何度、この人を驚かせるのだろう。
「だから、学校を辞めたんです」
私は続けた。
「本当は教室にいたかった。でも父が倒れて、家の会社を継ぐことになって」
言葉がゆっくりこぼれていく。
「それからずっと、社長として立ってきました。陽斗の母としても、ちゃんとしたかった。でも、どこかで全部中途半端な気がして」
利月くんは黙って聞いていた。
「あなたのお母さんは、私に“子どもの小さな声を拾える先生になる”って言ってくれたのに、私は教室を離れた」
声が震える。
「それが、今でも少し苦しいです」
東京タワーの下で、私はずっと隠していたことを話している。
年齢。
母であること。
社長であること。
教室への未練。
どれも、言えば終わると思っていた。
でも実際は、言うたびに終わるのではなく、初めて形になっていく。
利月くんは長く黙ってから、静かに言った。
「母が、灯理さんのことを見ていた理由が、少し分かった気がします」
「え?」
「灯理さん、今も拾おうとしてると思います」
私は首を振った。
「拾えてません。陽斗のことだって、見逃してばかりで」
「見逃していることに気づいて、戻ろうとしてるじゃないですか」
その言葉に、母の声が重なった。
母親はね、全部ちゃんとできる人のことじゃないわ。
戻ろうとする人のことよ。
涙がこぼれた。
「登坂さん」
「はい」
「優しくしないでください」
「今のは、優しくしたつもりでは」
「そういうところです」
利月くんは本当に困った顔をした。
「難しいです」
「難しいですね」
少しだけ、笑えた。
でも次の瞬間、利月くんの表情が真面目に戻る。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗には、俺たちがこうして会っていることを」
「言っていません」
「そうですよね」
「巻き込みたくなくて」
「はい」
「でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ているのかもしれません」
利月くんは、すぐには返事をしなかった。
「俺は」
彼はゆっくり言った。
「陽斗を学校で見ています」
「はい」
「図書室で本を選ぶ時も、廊下で注意する時も、ただの児童として見ていました」
「はい」
「でもこれから、灯理さんの息子だと知ってしまった」
知ってしまった。
その言葉が、胸に落ちる。
「今までと同じように接するつもりです。でも、たぶん俺の中では変わります」
「……はい」
「だから、そこはちゃんと考えさせてください」
利月くんは、まっすぐだった。
甘い言葉ではない。
でも誠実だった。
「分かりました」
私は頷いた。
「陽斗を、一番に考えてください」
「はい」
「私のことより」
そう言うと、利月くんが少しだけ眉を寄せた。
「灯理さんも、陽斗の一部じゃないですか」
「え?」
「陽斗にとっての母親なので」
その言葉に、また胸が苦しくなる。
この人は、たまに何気なく核心に触れる。
欲しい時には言葉が遅いのに、油断した時にまっすぐ刺してくる。
私は視線を落とした。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「だから謝るところじゃないです」
利月くんは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私はようやく少し呼吸ができた。
何も解決していない。
利月くんはまだ戸惑っている。
私もまだ怖い。
陽斗のことも、学校のことも、これから考えなければならない。
でも、彼は帰らなかった。
私の話を、最後まで聞いてくれた。
それだけで、今夜の私は少しだけ立っていられた。
「今日は、帰りましょう」
利月くんが言った。
「はい」
「陽斗、体調戻ったばかりですよね」
「はい」
「そばにいてあげてください」
また、その言葉。
そばにいてあげてください。
昨夜、その一文で私は泣いた。
今もまた、胸が熱くなる。
「登坂さんは」
私は聞いた。
「大丈夫ですか」
彼は少しだけ考えた。
「大丈夫ではないです」
正直な答えだった。
「でも、考えます」
「はい」
「あと」
「はい」
「俺も、話したいことがあります。母のこととか、俺が東京タワーに来る理由とか」
「聞きたいです」
「今日は、少し無理です」
その言い方が、不器用で、正直で、利月くんらしかった。
「分かりました」
私は頷いた。
「待ちます」
利月くんは、私から年賀状を返そうとして、少しだけ手を止めた。
「これ」
「はい」
「少しだけ、預かってもいいですか」
「え?」
「母の字を、もう少し見ていたくて」
その言葉に、胸が静かに揺れた。
「もちろん」
私は頷いた。
利月くんは、年賀状を大切そうに封筒へ戻した。
その手つきが、私の知らない息子の顔をしていた。
美紗子先生の息子。
そして、私が好きになってしまった人。
東京タワーの下で、私たちは別れた。
触れなかった。
抱きしめられなかった。
甘い言葉もなかった。
ただ、彼は私の嘘の向こう側に、少しだけ立ってくれた。
それだけで、十分だった。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
でも扉の向こうには、まだ別の鍵がかかっている。
利月くんの鍵。
陽斗の鍵。
私自身の鍵。
その全部を、一度に開けることはできない。
それでも私は、初めて思った。
閉じたまま守るより、
開けて傷つく方が、少しだけ生きている気がする。
東京タワーの光が、足元に落ちていた。
私はその光の中で、ゆっくり息をした。
利月くんの声は、かすかに掠れていた。
「灯理さんの……」
「はい」
私は、もう一度頷いた。
「私の息子です」
東京タワーの下で、風が吹いた。
足元から冷えていくような夜だった。
それなのに、手のひらだけが熱い。
握りしめた封筒の中には、美紗子先生の文字がある。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
その言葉を持ったまま、私は今、自分の子どものことを告げている。
利月くんは、何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
責められる方が、まだ楽だったかもしれない。
驚いたと言われた方が、まだ受け止められたかもしれない。
でも彼は、ただ私を見ていた。
その目が、私を責めているのか、
何かを整理しようとしているのか、
それともただ言葉を探しているのか、分からなかった。
「……ごめんなさい」
私は、先に謝った。
謝るしかなかった。
「言わなきゃいけなかったのに、言えませんでした」
利月くんの指が、わずかに動いた。
「食事会の時も、東京タワーで会った時も、何度も言えるタイミングはありました」
声が震える。
「でも、言えなかった」
東京タワーの赤い光が、視界の端で滲んだ。
「言ったら、ただの灯理でいられなくなる気がしたんです」
利月くんはまだ黙っていた。
私は、その沈黙に耐えきれずに続けた。
「私、あなたが思っているより年上です」
言ってしまった。
陽斗のことだけでは終わらない。
ここまで来たら、もう鍵はひとつずつ開けるしかない。
「同じ歳くらいだって言われた時、否定できなかった。嬉しかったんです。社長でも、母親でもなく、ただの女として見てもらえたみたいで」
胸の奥が痛い。
自分で言葉にすると、あまりにもずるい。
「でも、それは嘘でした」
利月くんが、ゆっくり息を吸った。
「嘘、ですか」
その声は冷たくはなかった。
でも、いつもより少し遠かった。
それだけで、胸がぎゅっと縮む。
「はい」
私は頷いた。
「嘘にしました」
利月くんは、視線を東京タワーへ移した。
長い沈黙だった。
人の声も、車の音も、遠くにあるのに、私たちの周りだけが静かだった。
私はその横顔を見ていた。
利月くんは、怒鳴らない。
優しく笑って、すぐに許すわけでもない。
ただ、ちゃんと傷ついているように見えた。
それがつらかった。
「灯理さん」
ようやく彼が口を開いた。
「俺、今すぐうまく返せないです」
その言葉に、胸が少しだけ沈んだ。
でも、当然だと思った。
「はい」
「驚いてます」
「はい」
「正直、何から聞けばいいのかも分かりません」
利月くんは、私を見た。
「陽斗が、灯理さんの息子」
確認するような声。
「はい」
「佐伯は」
その名前が出た瞬間、指先が冷える。
「知っています」
「いつから?」
「参観日に行った日に」
利月くんの眉が、少しだけ動いた。
「参観日」
「はい。陽斗の授業参観に行って、そこで尚さんに知られました」
「佐伯は、陽斗の担任ですもんね」
「はい」
利月くんは少しだけ目を伏せた。
その表情が、私には読めなかった。
尚さんに先に知られていたことを、どう思ったのだろう。
私はまた言葉を重ねそうになって、唇を噛んだ。
言い訳はもういらない。
聞かれたことにだけ、ちゃんと答えよう。
「俺だけ、知らなかったんですね」
静かな一言だった。
胸に刺さった。
「……はい」
それ以上、何も言えない。
利月くんは、怒っているのではない。
でも、傷ついている。
それが分かる。
「佐伯と、話したんですか」
「話しました」
「俺に言った方がいいって?」
「はい」
「佐伯らしいですね」
利月くんは、小さく笑った。
でも、その笑い方はいつものものではなかった。
少しだけ苦い。
「灯理さんは、どうして俺に言おうと思ったんですか」
「え?」
「今日」
彼は私を見た。
「今日、ここで言おうと思ったのは、どうしてですか」
私はすぐには答えられなかった。
どうして。
尚さんに言われたから。
音葉に言われたから。
これ以上隠せないと思ったから。
どれも本当だ。
でも、一番は。
「あなたに、これ以上嘘をついたまま会いたくなかったからです」
声が小さくなる。
「それと」
私は封筒を見た。
「陽斗を、隠したまま好きになるのは、違うと思ったから」
好き。
言ってしまった。
利月くんの目が、わずかに揺れた。
私はすぐに目を伏せた。
「ごめんなさい。今、そういうことを言うのはずるいですね」
「ずるいですね」
即答だった。
思わず顔を上げる。
利月くんは困ったような顔をしていた。
「そういうところで、急に本音を言うのは」
胸が痛いのに、少しだけ笑いそうになった。
「すみません」
「謝るところです」
「はい」
利月くんは、また東京タワーを見上げた。
「でも」
「はい」
「言ってくれて、よかったです」
その言葉に、息が止まった。
許されたわけではない。
それは分かった。
でも、言ったこと自体を否定されなかった。
それだけで、足元が少しだけ戻ってくる。
「俺、たぶん今、ちゃんと優しいこと言えないです」
利月くんは続けた。
「言ったら、無理してる感じになると思います」
「……はい」
「でも、帰るとか、もう会わないとか、そういうことを今決めたいわけじゃないです」
涙が、目の奥に溜まる。
「俺に、少し時間をください」
時間。
その言葉は怖かった。
でも、彼らしいと思った。
何でもすぐに受け止めたふりをしない。
綺麗な言葉で包まない。
困って、考えて、それでも逃げずに立っている。
利月くんは、そういう人だった。
「待ちます」
私は言った。
「登坂さんが考える時間なら、待ちます」
利月くんは頷いた。
そして、少しだけ間を置いて言った。
「あと、ひとつ聞いていいですか」
「はい」
「本当の年齢は」
来た。
心臓が、変な音を立てる。
一番単純で、でも私が一番隠したかったこと。
私は深く息を吸った。
「三十五です」
利月くんは、少しだけ目を開いた。
「十歳上」
「はい」
「……そうですか」
その反応が、想像より普通で、逆に怖かった。
「引きました?」
聞いてしまってから、後悔した。
そんなこと、答えにくいに決まっている。
利月くんは少し困った顔をした。
「引いたというより、驚いてます」
「ですよね」
「でも」
彼は私を見た。
「昨日までと、灯理さんの顔が変わるわけじゃないので」
胸が、止まったみたいになった。
「え……」
「いや、言い方が変ですね」
利月くんは少しだけ眉を寄せた。
「年齢を聞いたからって、今見ている灯理さんが別人になるわけじゃない、というか」
言葉を探しているのが分かる。
器用じゃない。
でも、ちゃんと探してくれている。
「若く見えるとか、そういう話ではなくて」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「俺が会っていたのは、今の灯理さんなので」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
今の灯理。
若いふりをした私ではなく。
社長でも母でもないふりをした私でもなく。
嘘を含んだまま、それでも目の前にいた私。
「それ、ずるいです」
今度は私が言った。
利月くんがこちらを見る。
「何がですか」
「欲しい時にはくれないのに、こういう時に急にそういうこと言うところ」
利月くんは少し困ったように固まった。
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいですね」
その言い方が少しだけ彼らしくて、私は泣きながら笑ってしまった。
東京タワーの光が、涙で滲む。
「私、怖かったんです」
「はい」
「年齢を言ったら、母だと言ったら、社長だと言ったら、もう見てもらえないんじゃないかって」
「社長?」
しまった。
順番がまた崩れた。
でももう、隠せない。
「はい」
私は頷いた。
「会社を継いで、今は社長をしています」
利月くんは、また少し驚いた顔をした。
今日は何度、この人を驚かせるのだろう。
「だから、学校を辞めたんです」
私は続けた。
「本当は教室にいたかった。でも父が倒れて、家の会社を継ぐことになって」
言葉がゆっくりこぼれていく。
「それからずっと、社長として立ってきました。陽斗の母としても、ちゃんとしたかった。でも、どこかで全部中途半端な気がして」
利月くんは黙って聞いていた。
「あなたのお母さんは、私に“子どもの小さな声を拾える先生になる”って言ってくれたのに、私は教室を離れた」
声が震える。
「それが、今でも少し苦しいです」
東京タワーの下で、私はずっと隠していたことを話している。
年齢。
母であること。
社長であること。
教室への未練。
どれも、言えば終わると思っていた。
でも実際は、言うたびに終わるのではなく、初めて形になっていく。
利月くんは長く黙ってから、静かに言った。
「母が、灯理さんのことを見ていた理由が、少し分かった気がします」
「え?」
「灯理さん、今も拾おうとしてると思います」
私は首を振った。
「拾えてません。陽斗のことだって、見逃してばかりで」
「見逃していることに気づいて、戻ろうとしてるじゃないですか」
その言葉に、母の声が重なった。
母親はね、全部ちゃんとできる人のことじゃないわ。
戻ろうとする人のことよ。
涙がこぼれた。
「登坂さん」
「はい」
「優しくしないでください」
「今のは、優しくしたつもりでは」
「そういうところです」
利月くんは本当に困った顔をした。
「難しいです」
「難しいですね」
少しだけ、笑えた。
でも次の瞬間、利月くんの表情が真面目に戻る。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗には、俺たちがこうして会っていることを」
「言っていません」
「そうですよね」
「巻き込みたくなくて」
「はい」
「でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ているのかもしれません」
利月くんは、すぐには返事をしなかった。
「俺は」
彼はゆっくり言った。
「陽斗を学校で見ています」
「はい」
「図書室で本を選ぶ時も、廊下で注意する時も、ただの児童として見ていました」
「はい」
「でもこれから、灯理さんの息子だと知ってしまった」
知ってしまった。
その言葉が、胸に落ちる。
「今までと同じように接するつもりです。でも、たぶん俺の中では変わります」
「……はい」
「だから、そこはちゃんと考えさせてください」
利月くんは、まっすぐだった。
甘い言葉ではない。
でも誠実だった。
「分かりました」
私は頷いた。
「陽斗を、一番に考えてください」
「はい」
「私のことより」
そう言うと、利月くんが少しだけ眉を寄せた。
「灯理さんも、陽斗の一部じゃないですか」
「え?」
「陽斗にとっての母親なので」
その言葉に、また胸が苦しくなる。
この人は、たまに何気なく核心に触れる。
欲しい時には言葉が遅いのに、油断した時にまっすぐ刺してくる。
私は視線を落とした。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「だから謝るところじゃないです」
利月くんは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私はようやく少し呼吸ができた。
何も解決していない。
利月くんはまだ戸惑っている。
私もまだ怖い。
陽斗のことも、学校のことも、これから考えなければならない。
でも、彼は帰らなかった。
私の話を、最後まで聞いてくれた。
それだけで、今夜の私は少しだけ立っていられた。
「今日は、帰りましょう」
利月くんが言った。
「はい」
「陽斗、体調戻ったばかりですよね」
「はい」
「そばにいてあげてください」
また、その言葉。
そばにいてあげてください。
昨夜、その一文で私は泣いた。
今もまた、胸が熱くなる。
「登坂さんは」
私は聞いた。
「大丈夫ですか」
彼は少しだけ考えた。
「大丈夫ではないです」
正直な答えだった。
「でも、考えます」
「はい」
「あと」
「はい」
「俺も、話したいことがあります。母のこととか、俺が東京タワーに来る理由とか」
「聞きたいです」
「今日は、少し無理です」
その言い方が、不器用で、正直で、利月くんらしかった。
「分かりました」
私は頷いた。
「待ちます」
利月くんは、私から年賀状を返そうとして、少しだけ手を止めた。
「これ」
「はい」
「少しだけ、預かってもいいですか」
「え?」
「母の字を、もう少し見ていたくて」
その言葉に、胸が静かに揺れた。
「もちろん」
私は頷いた。
利月くんは、年賀状を大切そうに封筒へ戻した。
その手つきが、私の知らない息子の顔をしていた。
美紗子先生の息子。
そして、私が好きになってしまった人。
東京タワーの下で、私たちは別れた。
触れなかった。
抱きしめられなかった。
甘い言葉もなかった。
ただ、彼は私の嘘の向こう側に、少しだけ立ってくれた。
それだけで、十分だった。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
でも扉の向こうには、まだ別の鍵がかかっている。
利月くんの鍵。
陽斗の鍵。
私自身の鍵。
その全部を、一度に開けることはできない。
それでも私は、初めて思った。
閉じたまま守るより、
開けて傷つく方が、少しだけ生きている気がする。
東京タワーの光が、足元に落ちていた。
私はその光の中で、ゆっくり息をした。

