◇
「あのとき、言えなかったんです」
気づけば、自然に言葉が出ていた。
「何を?」
「ありがとう、って」
川沿いの冷たい空気。
喉の奥にひっかかった言葉。
「〝今日まで生きてきたんだよ〟って言ってくれて。あの一言がなかったら、たぶん、今ここにいないです」
それは、大げさでもなんでもなかった。
春日井先輩は、
真剣な顔で私の言葉を受け取る。
「だから、今、ちゃんと言いたくて」
一度、深く息を吸う。
「……あのとき、助けてくれて、ありがとうございました」
言い終えた瞬間、胸の奥にあった何かが、
すっと軽くなった。
春日井先輩は、少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
ゆっくりと、そう返してくれる。
「こっちこそ、ありがとう」
「え?」
「ちゃんと生きててくれて」
言葉の重さに、涙腺がきゅっとなる。
「高校でまた会ってくれて。図書室で話してくれて。空き教室で歌ってくれて」
一つひとつを数えるみたいに、
春日井先輩は続けた。
「〝あの夜の先〟を見せてくれて、ありがとう」
病院の白いカーテンが、
エアコンの風で少し揺れる。
川沿いの夜と、病室の昼が、
一本の線でつながった気がした。
あの夜、真っ暗な川面に落ちた言葉。
誰にも届かなかったはずの『ありがとう』が、
やっと本人の手の中に渡った。
――あの夜の〝ありがとう〟を、やっと本人に渡せた。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな音がした。
何かがほどけて、次のページが開く音だった。


