「じゃあ、今日はこのくらいで、部活にも行かなきゃだし」
春日井先輩が、黒板の消しゴムを手に取る。
「それに……なんか、山谷さんの〝秘密基地〟に長居しすぎると怒られそうだし」
「秘密基地って」
「あれ?秘密じゃなかった?」
「……ちょっとだけ、秘密でした」
「じゃあ、ちょっとだけ共有してもらったってことにしとくよ」
黒板を軽くなでるようにして、
チョークの粉を落とす。
「俺もさ」
出ていこうとして、ふと振り返る。
「バスケのこととか、いろいろうまくいかなくなったら、ここでちょっとだけサボるかもしれない」
「エースがサボるって言っちゃってますけど」
「息抜きとも言う」
軽くウインクしてみせる。
「そのときは、もしかしたら、歌ってる途中にまた入ってくるかも」
「……そのときは、止めないで最後まで聴いてください」
自分でも驚くくらい、強い口調で言えた。
「了解」
春日井先輩は、右手を軽く挙げて見せた。
その仕草は、
体育館でシュートを決めたあと、
観客席のほうに向ける小さなガッツポーズとよく似ていた。
ドアが開いて、また閉まる。
教室には、私一人だけが残された。
さっきまで自分の声で満たされていた空間に、
今は静寂だけが漂っている。
でも、
その静けさは、もう『誰もいない』音ではなかった。
『誰かが、また来るかもしれない』音だった。
CDプレーヤーの再生ボタンに、
そっと指を置く。
今すぐ押すかどうか、少し迷う。
でも、今日はもうやめておくことにした。
歌いたくなったときに歌う。
誰かに聴かせたくなったときに、聴かせる。
その『いつか』を、
自分で選べるようになりたい。
「……今日もちゃんと、ここにいた」
小さく呟いて、教室を出た。
廊下の窓から見える夕焼けが、
いつもより少しだけ、明るく見えた。


