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その日の夜。
家のキッチンは、
カレーの匂いで満たされていた。
「おかえり」
「ただいま」
義母は、エプロン姿で鍋をかき混ぜている。
いつもと同じ光景。
いつもと同じ『ただいま』。
だけど、
今日はそのあとに続けたい言葉があった。
鞄を自分の部屋に置いてから、
リビングに戻る。
テレビはついていない。
窓の外は、すでに薄暗くなり始めていた。
「お皿出してくれる?」
「うん」
食器棚から皿を出しながら、
心臓が忙しく動く。
――今言わなかったら、きっとまた先延ばしにする。
そういう自分は、よく知っている。
『また今度でいいや』を続けた先に、
何も残らなかった夜を、私は知っている。
テーブルに皿を並べ終わって、
義母のほうを向く。
「あのね」
声が、少し震えた。
「うん?」
「話したいことが、あるんだけど」
義母が、火を弱めてこちらを見る。
その目は、いつもより少しだけ真剣だった。
私は、指先をぎゅっと握りしめる。
「学校で……バンドをやってみたいなって、思ってて」
その一言を、なんとか外に出した。
あとは、義母が何を言うのかを、
待つしかなかった。


