土俵際のくちづけーおかみさんの恋わずらい

二人はたっぷりと湯船に浸かり、順番に体を洗い合ったりしながら、ゆっくりとバスタイムを過ごした。湯上がりは借りた服に着替え、まだ少し暑さの残る体を寄せ合って、そのまま眠りについた。
翌朝、二人は一緒に目を覚まし、簡単に朝食を済ませる。食卓には買い置きの食パンが置かれ、それをかじりながら愛斗は自分の支度を始めた。仕事着に着替え、鞄を持って戻ってくると、弥生がまだ少し眠たげな瞳で見送ろうと立っていた。
「弥生さん、そろそろ仕事に行ってくるね」
「愛斗くんって、いったい何のお仕事をしてるの? 今まで聞いたことなかったから」
「俺? 俺は明太子を作る工場で働いてるんだ」
「明太子を……! そうなんだ、すごいね」
「明太子ウレタン入れるしごとしてるんだでも、自分が作ったものが店に並ぶと思うと、やりがいはあるよ」
愛斗は自分の仕事内容を、少しだけ詳しく説明した。弥生は興味深そうに、何度も頷きながら話を聞いてくれた。
「じゃあ、行ってくるからね。玄関の棚のところに少しだけどお金置いてあるから、何か食べたいものとか、欲しいものがあったら自由に買って使っていいから」
「……ありがとう。遠慮なんてしないで、甘えさせてもらうね」
二人はそっと唇を重ねる。
「愛斗くんのこと、仕事が終わるまでずっと応援してるから。頑張ってね」
「ありがとう。じゃあ、行ってきます」
弥生が玄関先に立って、愛斗が見えなくなるまで手を振ってくれるのを感じながら、愛斗は仕事へと向かった。
一日の仕事を終え、帰路につく頃には日も暮れかかっていた。愛斗は弥生が甘いものが大好きだと知っていたので、駅前にある有名なケーキ屋さんへ立ち寄ることにした。彼女が喜ぶ顔を想像しながら店先に近づくと、ガラス張りの店内に見覚えのある男の姿があり、愛斗は思わず足を止めた。
——吾郎だ。
しかも、見知らぬ若い女性を連れて、まるで恋人同士のように仲良く笑い合っている。愛斗は気づかれないように、慌てて建物の陰に隠れ、背中を向けて様子を伺った。
「ほら美波ちゃん、ここのケーキ美味しいんだ。好きなの選んでいいよ、俺が奢るから」
「わあいいの? じゃあ私、いちごタルトにしようかな……それとも、ももタルトにしよっかな。どっちも美味しそうで迷っちゃう」
「ももといちごのタルトか……それ、つまがすきやつだ」
吾郎の口から出た言葉に、愛斗はカッと頭に血が上るのを感じた。
「え? 奥さんの好きなやつなの? じゃあ二つ買って、奥さんにも買ってあげたら? 優しいじゃない」
「ははは、何言ってんだよ。買うわけないだろ。あいつはただの俺の所有物で、愛なんてこれっぽっちもないさ。ケーキなんて贅沢品、食べさせるわけないだろ」
吾郎は楽しそうに笑いながら続けた。
「いつも店の前を通るたびに、ガラス越しにケーキの写真を眺めてさ。欲しそうにしてるんだけど、俺が甘いものを食べることを許したことなんて一度もないからな。……まあいいんだ、美波ちゃんは特別だよ。このケーキ、俺と二人でホテルで食べるんだから。もう部屋も予約してあるんだ」
「え~? 奥さんになんか悪いよ~」
「あいつなんてもう枯れてるし、体だってたるんでさ。抱く気力もない、ただの年食ったババアなんだよ。美波ちゃんとは大違いだ」
二人は弥生のことを「ババア」だの「奴隷」だのと好き放題に悪口を言いながら、まるで楽しいおしゃべりでもするように笑い合っていた。
愛斗は怒りで拳を震わせながら、店の中へと足を踏み入れた。弥生が昔から好きだという、いちごタルトとももタルト。その二つを店員に向かって、はっきりと注文する。
「すみません、この二つをください」
すると、さっきまで吾郎と話していた女性が隣から割り込んできて、店員に向かって言った。
「あれ? お兄ちゃん、それは私が狙ってたやつなんだけどなあ。ねえ、譲ってくれない?」
「……嫌です」
愛斗は冷たく言い放った。
「早い者勝ちだよ。そんなこと言って、恥ずかしくないのか」
女性はむくれたが、愛斗は店員からケーキの入った箱を受け取ると、会計を済ませて出口へ向かった。その際、通りすがりざまに吾郎のことを、今までの怒りを込めて思いっきり睨みつけた。鋭い眼光に、吾郎ははっとなって体を硬くする。
「ほら、あの人に睨まれたじゃない! もう嫌だなあ」
「あいつ……どこかで見たことがあるような気がするんだよな……」
吾郎の声を背中に聞きながら、愛斗は店を出て駐車場へ向かった。車に乗り込むと、さっき聞いた弥生への悪口が頭の中をぐるぐると回り、悔しさで胸が張り裂けそうになった。
——あいつは、弥生さんがどれほど俺にとって大事な人か、全然わかってない。
——あんな男のせいで、弥生さんは今までどれだけ辛い思いをしてきたんだろう。