隣の席の悪魔 〜あの頃は、明日が当たり前だった

バスの中。

暗い。

小さい読書灯。

静かなエンジン音。

私たちは、
隣同士の席に座っていた。

近い。

……近い。

隣の席には、
慣れてるはずなのに。

私は赤い顔を見られないように、
窓の外を見る。

少し見上げると、
窓の向こうに星が見えた。

その時。

こつ。

「……え」

足。

空くんの足が、
私の足に当たる。

空くん。

目、
閉じてる。

寝てる。

でも。

足は、
普通に当たったまま。

……よ、避けてよ!

心の中でツッコむ。

私はそっと座り直してみる。

でも。

空くんは起きない。

相変わらず、
足は触れたまま。

呼吸が、
うまくできない。



バスが、
小さく揺れる。

その瞬間。

空くんが、
少しだけこっちへ寄ってきた。

「……狭」

寝ぼけた声。

……絶対そっちの方が広いのに。

私は熱くなる耳を隠すみたいに、
窓側へ寄る。

その時。

ぶるっ。

小さく肩が震えた。

空くんが、
薄く目を開ける。

そして。

私を見る。

「……寒い?」

え。

私は一瞬、
言葉に詰まる。

「だ、大丈夫」

空くんが、
少しだけ目を細めた。

「震えてる」

次の瞬間。

ふわっ。

首元へ、
柔らかい感触が落ちてくる。

「え」

気づけば。

空くんのストールが、
二人の肩へ掛かっていた。

空くんの体温が近すぎて、
うまく息ができない。

「ち、近いよ……」

「うるさい」

空くんは、
目を閉じたまま呟く。

「……あったかいし」

そのまま。

私の肩へ、
少しだけ寄りかかってくる。

私はぎゅっとストールを握った。



静かな車内。

高速道路の灯りと、
隣から伝わる体温。

私はもう、
まともに前を向けなかった。

その時。

ふいに。

ストールの中で、
何かが触れた。

「っ……」

空くんの指。

私の手首を、
軽く掴んでる。

え。

なにこれ。

呼吸が浅くなる。

なのに。

離れてほしいとは、
思えなかった。

私は恐る恐る隣を見る。

空くん。

やっぱり寝てる。

人の気も知らないで。

私は服の裾を、
ぎゅっと握りしめた。

その時。

「……逃げるなって」

え。

私は思わず息を止める。

小さい声。

寝ぼけた声。

ぼんやりした空気の中で。

掴まれた手首の熱と。

寄りかかられる重さだけが。

やけに鮮明だった。

私はもう一度、
空くんを見る。

その時。

空くんが、
ゆっくり目を開けた。

数秒の沈黙。

私はそっと、
掴まれたままの腕を持ち上げる。

「……空くん」

「ん……」

まだ少し眠そうな声。

私は口元を押さえながら、
小さく笑った。

「寝相悪い」

その瞬間。

空くんが、
ゆっくり自分の手を見る。

そして。

ぴたりと止まった。

私は吹き出しそうになる。

「空く――」

その時。

空くんの手が、
ゆっくり下りてくる。

手首。

指先。

そして。

そのまま。

私の手を、
ちゃんと握った。

空くんは、
窓の外を見たまま、
小さく言う。

「……離すなよ」

低い声。

「……今さら」

高速道路の灯りが、
窓へ流れていく。

静かな夜。

繋がれた手。

同じストールの中の、
微かな体温。

私は何も言えなかった。

その代わり。

ぎゅっと。

小さく握り返す。

隣で。

空くんが、
少しだけ笑った気がした。

窓の外。

夜明け前の空が、
静かに流れていた。