隣の席の悪魔 〜あの頃は、明日が当たり前だった

初めて来た駅に一人。

私は改札の前で、
完全に固まっていた。

人。
多い。

駅。
広い。

知らない街。

「……むり」

私はスマホの画面を見下ろす。

細かく書かれた道案内。

改札。
出口。
待ち合わせ場所。

全部、
空くんが送ってきたもの。

本当は。

「迎え行く」

って言われてた。

でも。

さすがに悪いと思って、
大丈夫って断った。

その結果。

送られてきたのが、
この細かすぎる道案内。

何回も見返したせいで、
画面はもう指紋だらけだった。

それでも。

私はまた、
同じメッセージを開く。

「……むり」

「星野」

低い声。

振り向く。

空くん。

改札の向こう。

黒いコート。

首元には、
ダークグレーのストール。

少し伸びた髪。

そして。

ちょっと呆れた顔。

私は一気に安心して、
駆け寄った。

「空くん!!」

「迷子?」

「ま、まだ迷ってないし!」

空くんが、
小さく笑う。

「顔、
迷子だった」

ひどい。

でも。

その笑い方を見た瞬間、
張っていた緊張が、
少しだけほどけた。



駅から大学までの道。

銀杏並木。

吐く息は白くて。

私はマフラーへ顔を埋めながら、
周りを見渡した。

「うわぁ……
大学生っぽい……」

「偏見」

「だってキラキラしてる!」

歩いてる学生たちも。

カフェも。

掲示板も。

全部。

私の知らない世界みたいだった。

空くんが数歩歩いてから言った。

「腹減った」

「急だね!!」

空くんが、
道の途中のキッチンカーを指差す。

「クレープ」

え。

「空くん甘いの食べるの!?」

「たまに」

「意外!」

「失礼」

私はにやにやしながら、
クレープのメニューを見る。

バナナ。
チョコ。
……いちご。

一択!

空くんが、
横から言った。

「星野は、
いちごのやつ」

「なんで分かったの!?」

空くんが、
口元を緩める。

「なんででも」

むかつく。

でも。

嫌じゃない。



ベンチ。

冬の空。

私はクレープを食べながら、
小さく笑った。

「大学って、
やっぱり楽しそう」

空くんは缶コーヒーを持ったまま、
少しだけ肩を竦める。

「まあね」

「……なんかむかつく」

「はは」

空くんが笑った、
その瞬間。

後ろから、
明るい声が響いた。

「あれ!
朝比奈先輩!」

振り向くと。

大学の女の子たち。

「先輩、
今日いたんだー!」

「サボってるなら、
手伝ってくださいよー!」

「無理」

「えー!」

そのやり取りが、
なんだか慣れてる。

後輩たちも、
空くんも、笑ってる。

一人の女の子が、
私を見て目を丸くした。

「あれ、
珍しい」

「なにが」

「先輩、
人連れてる」

え。

私は空くんを見る。

空くんは、
少しだけ眉を寄せた。

「……別にいいだろ」

「いや、
レアすぎてびっくりしただけです!」

後輩たちは、
楽しそうに笑う。

「朝比奈先輩、
そんな顔するんだー」

私は、
マフラーへ顔を埋める。

「うるさい」

空くんはそう言って立ち上がった。



「こっち」

空くんが、
歩き出す。

私は慌てて後を追う。

研究室。
サークル棟。
購買。

空くんは、
次々と案内してくれる。

その途中でも。

「朝比奈先輩!」

「空じゃん」

って、
何回も呼び止められる。

私はそのたび、
少しずつ後ろへ下がった。

空くんは、
みんなと自然に話してる。

笑ったり。

軽くツッコんだり。

知らない顔。

知らない空気。

私は小さく、
マフラーへ顔を埋めた。

その時。

「空ー!」

明るい声。

振り向くと。

長い髪をゆるく巻いた、
大人っぽい女の人が、
こっちへ歩いてくる。

ベージュのロングコート。

そのまま、
ぽんっと空くんの肩を叩いた。

「課題出した?」

「まだ」

「終わったじゃん」

「なんとかなる」

「ならないって」

距離が近い。

慣れてる。

“空”って呼んでる。

私は黙ったまま、
その様子を見つめる。

さっきまで私のいた場所に、
違う人がいる。

二人はそのまま、
講義の話を始めた。

教授の名前。
レポート。
単位。

知らない言葉ばっかり。

空くんが、
ふと後ろを見る。

「……星野、
ちゃんと来てる?」

え。

私は顔を上げる。

女の人が、
吹き出した。

「空、
過保護すぎ」

そのあと。

くすっと笑って続ける。

「なんか妹みたい」

私は視線を逸らした。

女の人はまた笑って、
手を振りながら去っていく。

残ったのは、
冬の風と、
少しだけざわつく胸。

私はマフラーへ顔を埋めたまま、
小さく息を吐いた。

その時。

「あれ?
紬さん?」

聞き覚えのある声。

ぱっと振り向く。

高瀬さん。

図書館の常連さん。

私は、
ほっとしたみたいに笑った。

「あっ、高瀬さん!?
え、なんでここに!?」

すると。

高瀬さんが笑う。

「ここの出身なんです」

「えーーー!?」

私の声は一気に弾んだ。



しばらく話したあと。

「じゃあ、
また図書館で」

高瀬さんが手を振って離れていく。

私は小さく頭を下げた。

その時。

ぐいっ。

「っ……」

腕を掴まれる。

私は顔を上げた。

空くん。

少しだけ眉を寄せてる。

「……なんで離れるの」

低い声。

「べ、別に離れてないし!」

空くんが、
少しだけ眉を寄せる。

「……離れようとしてた」

見抜かれてる。

私は視線を逸らす。

空くんが、
少し間を空けて言った。

「……逃げないでくれる」

私は目を伏せたまま答える。

「……逃げてないもん」

「……じゃあ、
ちゃんと隣いて」

私は思わず、
空くんを見る。

でも。

空くんは、
前を向いたままだった。



学祭帰り。

夜。

バスターミナルへ向かう道。

冬の風が、
頬に少し冷たい。

並ぶ影。

街灯の灯り。

楽しかったのに。

明るく帰りたいのに。

私は、
少し俯いたまま歩く。

「……星野?」

視線を向ける。

空くんが、
少し屈むみたいにして、
私の顔を覗き込んでる。

近い。

「な、なに」

「静か」

見透かされてる。

私はマフラーへ顔を埋めた。

「空くん、
知らない街で、
ちゃんと過ごしてるんだなーって思って」

「は?」

「知らない顔、
いっぱい見た」

絞り出した声は、
思ったより小さかった。

風。

街灯。

沈黙。

私は小さく笑う。

「……あの人とか」

「ん?」

数秒。

空くんが、
首を傾げる。

私は視線を逸らして、
小さく続けた。

「講義の話してた。
……空って呼んでた。」

その瞬間。

空くんが、
思い出す。

「ああ」

でも。

空くんは、
すぐに前を向いた。

「……ああいうの、
別に得意じゃないし」

「え」

「……だから、
そんな顔すんな」

「……どんな顔」

「拗ねてる」

私は顔を逸らした。

「ち、違うもん」

空くんが、
小さく笑った。

そして。

「……こっちのほうがいいって、
前も言ったろ」

その瞬間。

思い出す。

夕焼け。

文化祭。

走りながら聞いた声。

景色がぼやける。

私は小さく笑った。

「……そっか」

空くんは、
ふっと笑って、
また歩き始めた。



バスターミナル。

白い街灯。

行き交う人。

夜行バスの列。

私はマフラーへ顔を埋めながら、
小さく息を吐く。

時刻表を見上げる。

……もう、
帰るんだ。

その時。

「……俺も乗る」

「え?」

「迷子なるから」

私は吹き出した。

「まだ言うの!?」

空くんが、
少しだけ目を細める。

「駅で固まってたやつが?」

「うっ……」

反論できない。

私はむっとしながら、
口を尖らせる。

「空くん、
心配しすぎだもん」

空くんは、
小さくため息をついた。

「そりゃするだろ」

私は視線を逸らしたまま、
つぶやく。

「……妹みたい、
だから?」

数秒。

空くんの足が、
止まる。

私は思わず顔を上げた。

空くんは、
少しだけ目を丸くしてる。

そのあと。

ふっと、
優しく笑った。

「……それ、
本気で言ってる?」

私は瞬きをする。

低いエンジン音が、
夜のロータリーへ響いた。

ゆっくり入ってくる、
夜行バス。

白いライト。

到着を告げるアナウンス。

周りの人たちも、
少しずつ動き始める。

空くんが、
少しだけ視線を逸らしたまま、
つぶやく。

「俺、
お前が思ってるほど、
大人じゃない」

「……え?」

その瞬間。

空くんが、
さっきの高瀬さんの声を真似するみたいに、
小さく言った。

「……紬さん」

はっとする。

空くんは、
前を向いたまま。

「まだ、
星野がいいの」

私は一気に顔が熱くなる。

少しだけ沈黙。

そのあと。

空くんが、
こっちを見る。

「……そろそろ、
紬でよくない?」

私は何も言えないまま、
小さく頷いた。

『紬』

まだ少し慣れないその呼び方が、
胸の奥で、
何度も静かに響いていた。