僕は、ペンを止めて、雅さんを見上げた。
――なんのことだろう。
雅さんが、急に、こんなことを聞いてくるなんて。
僕は、ペンを置いて絶対に目を合わせない雅さんを見つめた。
そんなの、答えは決まっているのに。
「雅さんは、昔から、ずっと優しいですよ」
雅さんが、ようやく、ちらっと、僕の方を見た。
「……ほんと?」
「ほんとです」
「……あっそ!」
雅さんは、ぷいっと顔を背けて、それから、シャチを撫でた。
「シャチ! 走ろ!」
シャチが、嬉しそうにしっぽを振って、雅さんの先を駆け出した。
プリーツのスカートをひるがえして、長い髪をはねさせて、広い庭を軽やかに駆けていく。
まるで世界中のなにも怖くないみたいに。
桜の散る庭。
よく晴れた公園。
雨上がりの水たまり。
僕の記憶の中の『みやびちゃん』は、いつも後ろ姿だった。
それは今でも変わらない。
だけど、変わったものもある。
僕が雅さんの身長を越した。
雅さんに数歩で追いつけるようになった。
『雅さん』と呼ぶようになった。
それは僕が、「みやびちゃん、まってよぉ」と言っていた頃の自分から脱却したかっただけだけど……それを雅さんは知らない。
シャチを追いかけていた雅さんが振り返る。
「真央〜! 真央も早く来なよ!」
スカートの裾を揺らしながら、雅さんが手を大きく振っている。
「……はいはい」
僕は手帳を閉じて立ち上がる。
昔の僕は、あの背中に追いつけなかった。
泣きながら、必死で、ただ置いていかれないように追いかけていた。
今は追いつける。
手を伸ばせば、きっと届く。
だけど僕は、今日も君の少しだけ、後ろを歩く。
雅さんが前を向いて走れるように。
強がって、笑って、時々怖がって、それでも誰かのために進んでいけるように。
〜終わり〜


