ほたる先生は振り向かない

黒板の前に立っていたのは、古典担当の先生だった。

細いフレームのメガネ。
白いワイシャツ。
きっちりと上まで留められたボタン。

まるで黒板に並ぶ文字のように、整然とした印象の人だと思った。


黒板には『徒然草 仁和寺にある法師』と大きく書かれていて、その横には「をかし」「いみじ」「あはれ」と古語の意味が並んでいる。


高校一年の夏休み前。

古典の授業にも少し慣れてきた頃だった。


「今、『極楽寺・高良などを拝みて』のところを読んでいましたが、聞いていましたか?」

その先生は怒っているわけではないし、声を荒げたわけでもない。

それなのに、不思議と緩んでいたはずの空気が整えられたものに変わる。


私は慌てて教科書を開いた。

見開きのページには、びっしり並ぶ古文と、ところどころ書き込んだ現代語訳。


「……聞いてませんでした」

正直に答えると、教室のどこかから小さな笑い声が漏れた。

先生はわずかに間を置く。

「そうですか。では、この法師は何をしようとしていた人でしたか?」

と、たったそれだけ言葉を置いてきた。


授業を聞いていなかったことを叱られるわけでもなく、呆れた様子を見せるわけでもない。

当たり前に答えられない私に、先生は授業の話だけを進めていく。

「聞いていなくても構いませんが、途中だけで判断すると、この法師みたいになります」

ただ静かに黒板へ向き直り、「法師=石清水八幡宮へ参拝したかった人」と板書を書き足していく。


……変わった先生だ。

それが、高校一年の夏休み前、古典担当の先生に対して抱いていた印象だった。

名前、なんだっけ。
四月に名乗っていたような気もするけれど、覚える気がないから忘れてしまった。


「まつり、気にすんなよ」

淡々と進められていく授業の途中で、小さく後ろから裕介につぶやかれた。

さっきより静かになった教室は、まるで先生が力ではないなにかでそっとフタをしたみたいになった。

「……気にしてないよ」

私は前を向いたまま、後ろの彼にそう言っておいた。




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