ほたる先生は振り向かない

黒板に向かって字を書くほたる先生の手を、私はぼんやり見ていた。


今日も今日とて、蝉がうるさい。
あいつらは夏だけ全力で頑張って、力尽きる。
そんな人生、儚すぎて私には無理。

夏休みはもうすぐそこだ。


チョークの粉が先生の指について、それを払う仕草までなんか好きだ。

細くて、無駄がなくて、教科書みたいな字を書く手。


「────では、ここ」

不意に先生が振り返る。

クラス全体が静かなのに、私だけ反応が遅れた。


「…岸さん。“逢ひ見ての後の心にくらぶれば”」

……やばい。なんにも聞いてなかった。手だけ見てた。

教室のあちこちから小さく笑いが漏れる。


「ほらー、岸またぼーっとしてる」

後ろの男子が茶化すみたいに笑った。
そういうあんただって、絶対机の下でスマホいじってたくせに。


私は慌てて教科書に視線を落とす。

“逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり”

……え、なんだっけこれ。


「会ったあとに比べると、昔はそんなに……えっと……」

言葉に詰まった私に、先生は呆れたみたいにため息をつく。
同時にメガネをくいっと中指で上げた。

「“会う前の恋心なんて大したことなかった”ですね」

「あー、それ!」

「“あー、それ”ではありません」


クラスがどっと笑う。
先生はにこりとも、くすりとも笑わない。