ほたる先生は振り向かない

まあ、そういうところだよなぁと思う。
絶対に雑にならない。どんな小さい言葉も、ちゃんと拾う。


そのまま黒板にチョークを走らせながら、先生は続けた。

「当時の中国では、春はただ暖かいだけではなく、“命が緩む季節”として扱われることが多いんです」

カツ、カツ、と黒板に漢字を書き込む音。
今日もしっかり、教科書みたいなきれいな字。

「だからこの“眠い”も、怠惰というより、安心とか幸福感に近いものだと思います」

そこまで言ってから、先生はふと手を止めた。

「……まあ、僕は夏の方が好きですが」


教室が静まる。

たぶんみんな、“今の何?”って思ってる。
ほたる先生、自分の話なんてほぼしないから。

私もちょっと驚いて、でもそんなことより『夏が好き』の情報を得られることができて嬉しくなった。


思わず私だけが反応してしまう。

「へぇ、珍しい。先生にも好きな季節とかあるんだ?」

「ありますよ、人間なので」

先生の返しが秀逸で、それを感じたのは私だけじゃなくて。くすっと教室の誰かが笑った。


ほたる先生は自分の発言で和んでいる空気を知ってか知らずか。

そのまま黒板へ向き直って、続きを書き始める。


「夏、どうして好きなの?」

頬杖をついて尋ねてみた。
だけど、返事はない。

講習とはいえ、まぱらだけど他にも生徒はいる。
マンツーマンで授業をしているわけじゃないから、しれっと無視を決め込むのも、先生らしいっちゃあ、らしい。


チョークの音だけが続く。

諦めずに見つめていると、数秒あと。


「……夏休みは静かなので」

黒板に向かったまま、ぽつりと先生が言った。

その瞬間だけ。
ほんの少しだけ、先生の声が柔らかかった。


たぶん誰も気づいてない。
後ろの男子は寝てるし、前の席の女子は単語帳を見てる。


でも私は、その一瞬をちゃんと見つけてしまった。

あ。今ちょっと、楽しそう。


人の少ない、見晴らしのいい教室で。
茶々を入れるうるさい人もいないし、ガヤガヤしゃべる人もいない。

希望した人だけが受けられる講習の、心地よさったら。
思う存分、ほたる先生の背中を、横顔を見つめていられる。

────最高の夏休み。