ほたる先生は振り向かない

午後の古典は、眠い。


窓の外では蝉がうるさく鳴いていて、冷房は効いているんだかいないんだか分からない。

教室の後ろでは誰かがこっそりスマホをいじっていて、前の方では真面目な子たちだけがノートを取っている。

そんな、いつも通りの六時間目。


「────“忍ぶれど”。ここ、テストに出ます」

黒板へ向けられた白いチョークが、さらさらと綺麗な字を書いていく。

先生の字は、教科書みたいだ。
とめも、はねも、全部きっちり整っている。


『忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は』


そこまで書いた先生が、こちらを振り返る。

「“忍ぶ”は、“隠す”という意味ですね。現代語の“忍者”とかの“忍”と一緒です」

淡々とした声。
別に面白いことを言うわけでもないし、授業が盛り上がるわけでもない。

なのに私は、昔からこの人の授業だけは眠くならなかった。


「で、“色に出づ”は、顔や態度に出ること」

そこまで言って、先生は少しだけ黒板をチョークで叩く。

「つまり、隠してるつもりなのにバレてる恋です」

教室のどこかで、小さく「うわ」という声が聞こえた。
たぶん恋愛の歌だと気づいた女子たちだ。

けれど先生は、そんな反応には慣れているのか気にした様子もない。

「昔の人は、恋愛するとすぐ和歌にしますね」

さらっと言って、また黒板に向き直る。


その横顔を見ながら、私はぼんやりと思う。

────先生の方が、よっぽど人の恋を分かってないくせに。


前の席の男子がガクッと机に突っ伏すのが見えた。

……あ、完全に寝たな。

私は頬杖をつきながら、寝ているか、スマホをいじるか、友達同士でこそこそとしゃべっているか。
無法地帯みたいな、気の抜けたクラスメイトたちに囲まれながら目を細める。


授業をろくに受けていないことも分かっているだろうに。

全然気にしてなさそうな涼しい顔で授業を続ける先生の声を聞き続けた。


つんつん、とブラウスの袖を引っ張られてふと隣を見やる。

玲奈がこちらを見てにこっと笑って、そして手になにか持っている。
ノートをちぎったみたいな切れ端。

『放課後、みんなで動画撮るよ』


私はその切れ端を読んで、一瞬だけ外を見やる。
そして、空いているところにシャーペンで返事を書き込んだ。

『ちょっと用事あるから、終わったら行く』


それを渡すと、なんの用事かとかも特に聞かれることなく。
指で丸印を示した玲奈は、そのまま机の下でスマホをいじり出した。

いつもの光景。


古典の授業は、いつもそれなりにざわざわしている。




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