星降る教室で、きみと無敵になる――「大丈夫」と笑っていた私を、きみだけが見抜いてくれた

 雨が降り始めたのは、放課後の四時過ぎだった。
 最初は窓を叩く音が小さく、ひまりは気にしていなかった。でも十分もしないうちに、音が変わった。屋根を打つ、重い雨の音になった。
 廊下から声が飛び込んできたのは、ひまりが装飾の続きを始めようとしていたときだった。
「やばい、水が来てる」
 教室を飛び出すと、廊下の先が騒がしくなっていた。理科室の前あたりに人が集まっている。ひまりも走った。
 天井の継ぎ目から、水が垂れていた。ぽたぽたではなく、線になって落ちている。その真下に、クラスの展示パネルが立てかけてあった。文化祭に向けて二週間かけて作ったもの。星を散らした黒い台紙に、企画の説明とメニューを貼り合わせた、一番の見せ場になるはずだったものが、端から濡れていた。
 誰かが「先生呼ぼう」と言った。誰かが走った。誰かがパネルを動かそうとして、紙が破れた。
「ひまり、どうする?」
 美咲が振り返った。その目が、ひまりに答えを求めていた。
「相坂さんなら何とかできるよね」
 後ろにいたクラスメイトの誰かが、悪気のない声で言った。
 ひまりは一秒、息を止めた。
「大丈夫。なんとかする」
 笑って言った。
 そのときはまだ、本当にそう思っていた。

 本当に大丈夫ではないと気づいたのは、一時間後だった。
 先生が来て、雨漏りの応急処置がされた。パネルは端の三分の一が使えなくなった。濡れた台紙は乾かしても波打つ、と先生が言った。全部作り直したほうが早いかもしれない。
 文化祭まで三日。
 クラスメイトたちはそれぞれ状況を確認して、帰っていった。
「ひまりがなんとかしてくれるって言ってたし」という声が聞こえた。
 教室に戻ると、作りかけの飾りと、手つかずのシフト表と、修正が必要なメニュー表が、机の上にあった。 
 パネルの代わりになるものを考えなければいけない。
 装飾も作り直しが出る。
 宣伝担当の子が今日、体調を崩して早退した。当日の案内係もまだ足りていない。
 ひまりは椅子に座った。
 紙を一枚手に取って、何か書こうとした。
 何も書けなかった。
 ハサミを持ち直した。星形を切ろうとした。
 線がぶれた。
 手が、少し震えていた。
 泣くのは嫌だった。泣いたら、全部崩れる気がした。大丈夫だと思い込んでいた自分が、そうではなかったことになる。
 だから笑おうとした。
 笑えなかった。
「全部作り直すのは無理」
 声がした。
 振り返ると、しずくが教室の入口に立っていた。
 ひまりは目を瞬かせた。しずくはひまりの机に近づいて、濡れたパネルの残骸と、机の上の材料と、作業リストを順番に見た。
「三日で全部はできない」
「でも、やらなきゃ。みんな楽しみにしてるし」
「みんなって誰?」
 しずくは教室を見回した。がらんとした教室に、今いるのはひまりとしずくだけだった。
「今ここにいない人たち?」
 何かが、ひまりの中で爆ぜた。
「黒瀬さんには分からないよ」
 声が思ったより大きく出た。しずくが少し目を細めた。
「みんなに期待されるのって、結構しんどいんだよ。大丈夫って言わなきゃいけないし、なんとかしなきゃいけないし、笑ってなきゃいけないし。それが全部崩れそうになってるときに、無理って言われても」
 声が揺れた。止めようとしたけど、止まらなかった。
「私だって、本当は誰かに頼りたい。でも頼ったら、頼まれたほうが嫌な気持ちになるかもしれないじゃん。嫌われたくないから、自分でやるしかないじゃん」
 しずくは黙って聞いていた。表情が変わらない。それがひまりには、余計に苦しかった。
「黒瀬さんは関係ないって思ってるかもしれないけど、毎日ちょっと話すようになって、私は助かってたんだよ。なのに手伝えないとか、空気悪くなるとか、そんな理由で離れてる人に言われたくない」
 言ってから、言いすぎたかもしれないと思った。
 しずくは少し間を置いた。ひまりから目をそらさないまま、低い声で言った。
「分からない。期待される気持ちは、私には分からない。そういう立場になったことがないから」
 ひまりは唇を結んだ。
「でも」
 しずくが続けた。
「一人で勝手に潰れるのは違うと思う」
 声に、わずかに力があった。しずくが声を強くするのを、ひまりは初めて聞いた。
「私が手伝わないのは、関係ないからじゃない。入ったら迷惑になると思ってるから。でも相坂さんは、迷惑になるかどうかも考えないで全部引き受けて、限界になってる。それは違う」
「どう違うの」
「私は、誰かを守ろうとして離れてる。相坂さんは、自分が傷つきたくないから引き受けてる」
 ひまりは何も言えなかった。
 正確すぎて、反論できなかった。

 しばらく、どちらも話さなかった。
 雨はまだ降っていた。窓の外の暗さが深くなっている。廊下から、別のクラスの生徒が笑いながら通り過ぎる声が聞こえた。
 ひまりは机の端を見ていた。しずくは黒板を見ていた。
「誰かに本気でやってもらったら、浮くと思ってた」
 しずくが先に口を開いた。
 ひまりは顔を上げた。
「中学のとき、みんなが適当に楽しんでいる場所に、一人だけ本気で作ったものを持っていったら、引かれた。それから、人前で本気を出すのをやめた」
 淡々とした口調だったけど、今まで聞いたことのない種類の言葉だった。
「だから手伝いたくなかった。また同じことになる気がして」
「黒瀬さんが怖かったのも、私と同じじゃん」
 しずくは少し間を置いた。
「似てるとは思いたくない」
「でも、似てる」
 しずくはひまりを見た。
 ひまりも、しずくを見た。
 どちらも笑わなかった。笑えなかったし、笑わなくていいと思った。

 しずくが黒板を見たまま言ったのは、それから少し経ってからだった。
「パネルを作り直すんじゃなくて、黒板を使えばいい」
 ひまりは黒板を見た。
「黒板全体に、星空を描く」
「黒板に?」
「うん。ここをメインにする」
 しずくは黒板の中央を指さした。
「濡れたパネルの代わり。教室に入ったとき、正面に星空が見えればいい」
「メニュー表は?」
「手描き風にそろえる。黒板と雰囲気を合わせる」
 ひまりは頭の中でそれを想像した。
 黒板いっぱいの星空。入口から見たとき、奥に広がっているように見える形。テーブルの上の小物や飾りも合わせて、教室全体が夜の空になる。
「それ、できる?」
「描くのは私一人じゃ無理。でも、構図とデザインは出せる」
「手伝ってくれるの?」
 しずくはひまりを見た。
「相坂さんが、人を動かせるなら」
 ひまりは少し息を吸った。
 人を動かす。今まで、ひまりは引き受ける役だった。頼まれたら受ける、穴が空いたら埋める。そういうやり方しかしてこなかった。
 でも、クラスメイトの顔が浮かんだ。
 字が綺麗な木村さん。折り紙なら任せてと言っていた田辺くん。声が大きくて、廊下を歩くだけで周りが振り向く高橋さん。計算が誰より早い佐藤さん。部活で遅くなるけど、朝は早く来られると言っていた林さん。
 みんながいる。
 ひまりが知っている、みんながいる。
「できる」
 しずくは小さく頷いた。


 翌朝、ひまりはいつもより早く登校した。
 教室の前に立ったとき、鼓動が速かった。嫌われたくない気持ちが、また頭に浮かんだ。頼んで断られたら。迷惑そうな顔をされたら。
 でも、しずくの顔が浮かんだ。
 一人で勝手に潰れるのは違う。
 ひまりはドアを開けた。
 登校してきたクラスメイトたちが集まるのを待って、前に立った。いつもなら笑って「大丈夫」と言うところだった。今日は少し違う顔をしている自分が分かった。
「お願い。みんなの力を貸してほしい」
 緊張で声が震えかけた。それでも、最後まで言った。
 その隣に、しずくが立っていた。
 手には、星空の黒板アートのラフ案があった。
 ひまりは一度だけ、隣を見た。
 しずくは何も言わなかった。ただ、ラフ案を持つ手に少しだけ力を込めていた。
 その無言の「いるよ」が、ひまりの背中を押した。