色を直したポスターは、廊下に貼り出すとそれなりに目を引いた。
文字の背景を濃い紺に変え、白いペンで縁取りを加えた。遠くからでも「星降る教室カフェ」と読める。昨日よりずっとよくなった、とひまりは思った。
黒瀬さんの一言がなければ、気づかなかった。
そのことが、ひまりの頭に引っかかっていた。
その日の放課後、ひまりは思い切って声をかけた。
しずくは帰り支度をしていた。鞄にスケッチブックをしまい、筆箱を入れ、椅子を入れる。その一連の動作に、無駄がいっさいなかった。
「黒瀬さん」
しずくが顔を上げた。
「文化祭の準備、手伝ってもらえないかな」
「無理」
即答だった。しずくは鞄を肩にかけた。
「どうして?」
しずくはひまりを見た。視線が真っすぐで、ひまりは少たじろいだ。
「私が入ると、空気悪くなるから」
それだけ言って、しずくは歩き出した。
「そんなことないよ」
ひまりは追いかけた。廊下に出たしずくの横に並ぶ。しずくは歩みを止めなかった。
「あるよ」
断言だった。ひまりは何も返せなかった。
しずくは一度もひまりを見ないまま、階段を下りていった。
翌日も、ひまりは声をかけた。
今度は戦略を変えた。手伝いではなく、意見だけでいい。そう切り出した。
「直接入らなくていいから。見てもらうだけでいい。昨日のポスターも、黒瀬さんに言われてから直したらずっとよくなったし」
しずくは帰りかけていたけど、足を止めた。
ひまりはメニュー表の案と、教室装飾のラフスケッチを机に広げた。
しずくは近づいて、それを見た。
少し沈黙があった。
「星が多すぎる」
しずくが口を開いた。装飾のラフを指さしている。
「多すぎる?」
「どこを見ていいか分からない」
しずくはラフの中央を指で示した。
「メインを決めたほうがいい。黒板を目立たせるなら、窓側の飾りは少し減らす」
「全部かわいくしたら、だめ?」
「全部目立つと、どこも目立たなくなる」
「なるほど」
「メニュー表も」
しずくはそちらに目を移した。
「値段が先に目に入る」
「え、だめかな」
「カフェなら、商品名が先のほうが雰囲気出る」
しずくはメニュー表の端を軽く指で叩いた。
「あと、入口で見るものと、席で見るものは分けたほうがいい」
「どうして?」
「入口で細かい字を読ませると、人が止まる」
「確かに」
「この手書きフォントも、案内には向いてない」
「かわいいと思ったんだけど」
「かわいい。でも、読みにくい」
しずくは少しだけ間を置いた。
「読む気がない人にも読める字が、案内には向いてる」
ひまりはメモを取り始めた。しずくは言葉が少ないけど、一言ごとに意味があった。曖昧な感想ではなく、なぜそうなのかが分かる言葉で話す。
ひまりが顔を上げると、しずくはもうラフから目を離していた。
「ありがとう、すごく参考になった」
しずくは小さく頷いた。それだけだった。
それからしずくは、毎日意見をくれるわけではなかった。
でも、ひまりが「見てもらえる?」と机に広げると、しずくは一度は足を止めた。必ず単刀直入に、的確に何かを言った。
ひまりはしずくのことが、少しずつ分かってきた。
冷たいのではない。無愛想なのでもない。ただ、余分な言葉を足さない人だった。
そして、よく見ていた。
ある日、ひまりが装飾班の作業の進み具合を話していると、しずくが言った。
「窓の装飾、班の子たちが何をすればいいか分かってないんじゃない」
「え、なんで分かるの?」
「昨日、二人が材料を持ったまま十分ぐらい話してた。手が動いてなかった」
ひまりは驚いた。しずくは窓際の自分の席から、教室全体をずっと見ていたことになる。話し合いにも参加せず、本を読んでいるように見えて、全部把握していた。
ひまりには、そういう見方ができなかった。みんなの輪の中にいながら、個々の動きを細かく追う余裕がなかった。
「黒瀬さんって、すごく観てるんだね」
しずくは少し間を置いた。
「暇だから」
そう言ったけど、ひまりにはそれが本当の理由ではない気がした。
美咲から話を聞いたのは、その翌週だった。
昼休み、宣伝用の小道具を一緒に作りながら、美咲がぽつりと言った。
「黒瀬さんって、中学のとき美術部だったんだって。知ってた?」
「知らなかった」
「なんか、ポスターコンクールに出したらめちゃくちゃ本格的な絵で、クラスの子に引かれたとか。うちのクラスの子じゃないから又聞きだけど」
ひまりは手を止めた。
「引かれた?」
「なんか、みんなが適当に楽しんでるのに一人だけすごいの作ってて、浮いてるって言われたとか。それからあんな感じになったって、噂で聞いた。本当かどうかは知らないけど」
美咲は「でもそれで距離置くようになったの分かるよね」と続けたけど、ひまりはその先を聞いていなかった。
私が入ると、空気悪くなるから。
しずくの言葉が、違う意味で耳に戻ってきた。
あれは、ただ自信がないから言っていたのではなかった。経験から、そう学んでいたのだ。
準備は、順調とは言えなかった。
装飾班が遅れていた。担当の子が「来週には終わらせる」と言って、一週間がたった。シフト表は埋まっていない欄がまだある。買い出しリストは、誰が何を確認したのか曖昧なままだ。
ひまりはその穴を、少しずつ自分で塞いでいた。
装飾の続きをやった。シフトを調整した。買い出しリストを自分で整理し直した。
大丈夫、やっとくよ。
うん、任せて。
気づいたらそう言っていた。声に出す前から、もう答えが決まっている。
ある放課後、しずくが帰り際にひまりの机の前を通ったとき、ふと言った。
「相坂さん、便利な人になってる」
ひまりは顔を上げた。
「便利って、ひどくない?」
しずくは立ったまま、冷静に返した。
「だって、みんながそう使ってる」
言葉が刺さった。
やめてよ、と言いかけて、やめた。
本当は分かっていた。
誰かが「やっといて」と言う前に、ひまりのほうから引き受けていた。そのほうが楽だったから。「嫌だ」と言って、相手の顔が曇るのを見るより。
「別に、いいじゃん。私がやりたくてやってるんだし」
しずくは少し黙った。
「そう」
それだけ言って、歩いていった。
ひまりは机の上の紙を見た。シフト表の修正版。来週の買い出し日程のメモ。装飾の残り作業リスト。
自分がやりたくてやっているのか、やらなければいけないと思っているのか、最近よく分からなかった。
その日の放課後、ひまりは一人で教室に残った。
星形の飾りを切り抜く作業だった。黒い紙に鉛筆で下書きして、ハサミで切る。単純な作業だけど、数が多い。百個は必要で、今日で五十個目を切り終えたところだった。
窓の外は暗くなっていた。廊下の灯りが薄く教室に差し込んでいる。大半の生徒は帰った時間だった。
ひまりはハサミを動かしながら、ぼんやり考えていた。しずくの言葉がまだ残っていた。便利な人。使ってる。
違う、と思う気持ちと、そうかもしれない、と思う気持ちが、交互に来る。
ハサミが止まった。
手の中の星形の紙を見た。綺麗に切れている。でも、あと五十個ある。明日の朝までに仕上げると言った。言ったのは自分だ。誰かに頼まれたわけではない。
疲れた、と思った。
声が聞こえたのは、そのときだった。
「まだいたの」
しずくだった。
教室の入口に立っている。帰ったと思っていた。
「あ、忘れ物?」
「スケッチブック」
しずくは自分の席に向かい、机の中から取り出した。
ひまりは作業を再開しようとした。でも、うまく笑顔が作れなかった。
「大丈夫。もうちょっとで終わるから」
しずくは鞄にスケッチブックをしまいながら、ひまりのほうを見た。
机の上の紙の束を、残り作業のメモを、ひまりの顔を、順番に見た。
「その“大丈夫”、嘘でしょ」
ひまりは答えなかった。
否定しようとした。でも、言葉が出なかった。出口に向かいかけたしずくは、足を止めたまま、まだそこにいた。
文字の背景を濃い紺に変え、白いペンで縁取りを加えた。遠くからでも「星降る教室カフェ」と読める。昨日よりずっとよくなった、とひまりは思った。
黒瀬さんの一言がなければ、気づかなかった。
そのことが、ひまりの頭に引っかかっていた。
その日の放課後、ひまりは思い切って声をかけた。
しずくは帰り支度をしていた。鞄にスケッチブックをしまい、筆箱を入れ、椅子を入れる。その一連の動作に、無駄がいっさいなかった。
「黒瀬さん」
しずくが顔を上げた。
「文化祭の準備、手伝ってもらえないかな」
「無理」
即答だった。しずくは鞄を肩にかけた。
「どうして?」
しずくはひまりを見た。視線が真っすぐで、ひまりは少たじろいだ。
「私が入ると、空気悪くなるから」
それだけ言って、しずくは歩き出した。
「そんなことないよ」
ひまりは追いかけた。廊下に出たしずくの横に並ぶ。しずくは歩みを止めなかった。
「あるよ」
断言だった。ひまりは何も返せなかった。
しずくは一度もひまりを見ないまま、階段を下りていった。
翌日も、ひまりは声をかけた。
今度は戦略を変えた。手伝いではなく、意見だけでいい。そう切り出した。
「直接入らなくていいから。見てもらうだけでいい。昨日のポスターも、黒瀬さんに言われてから直したらずっとよくなったし」
しずくは帰りかけていたけど、足を止めた。
ひまりはメニュー表の案と、教室装飾のラフスケッチを机に広げた。
しずくは近づいて、それを見た。
少し沈黙があった。
「星が多すぎる」
しずくが口を開いた。装飾のラフを指さしている。
「多すぎる?」
「どこを見ていいか分からない」
しずくはラフの中央を指で示した。
「メインを決めたほうがいい。黒板を目立たせるなら、窓側の飾りは少し減らす」
「全部かわいくしたら、だめ?」
「全部目立つと、どこも目立たなくなる」
「なるほど」
「メニュー表も」
しずくはそちらに目を移した。
「値段が先に目に入る」
「え、だめかな」
「カフェなら、商品名が先のほうが雰囲気出る」
しずくはメニュー表の端を軽く指で叩いた。
「あと、入口で見るものと、席で見るものは分けたほうがいい」
「どうして?」
「入口で細かい字を読ませると、人が止まる」
「確かに」
「この手書きフォントも、案内には向いてない」
「かわいいと思ったんだけど」
「かわいい。でも、読みにくい」
しずくは少しだけ間を置いた。
「読む気がない人にも読める字が、案内には向いてる」
ひまりはメモを取り始めた。しずくは言葉が少ないけど、一言ごとに意味があった。曖昧な感想ではなく、なぜそうなのかが分かる言葉で話す。
ひまりが顔を上げると、しずくはもうラフから目を離していた。
「ありがとう、すごく参考になった」
しずくは小さく頷いた。それだけだった。
それからしずくは、毎日意見をくれるわけではなかった。
でも、ひまりが「見てもらえる?」と机に広げると、しずくは一度は足を止めた。必ず単刀直入に、的確に何かを言った。
ひまりはしずくのことが、少しずつ分かってきた。
冷たいのではない。無愛想なのでもない。ただ、余分な言葉を足さない人だった。
そして、よく見ていた。
ある日、ひまりが装飾班の作業の進み具合を話していると、しずくが言った。
「窓の装飾、班の子たちが何をすればいいか分かってないんじゃない」
「え、なんで分かるの?」
「昨日、二人が材料を持ったまま十分ぐらい話してた。手が動いてなかった」
ひまりは驚いた。しずくは窓際の自分の席から、教室全体をずっと見ていたことになる。話し合いにも参加せず、本を読んでいるように見えて、全部把握していた。
ひまりには、そういう見方ができなかった。みんなの輪の中にいながら、個々の動きを細かく追う余裕がなかった。
「黒瀬さんって、すごく観てるんだね」
しずくは少し間を置いた。
「暇だから」
そう言ったけど、ひまりにはそれが本当の理由ではない気がした。
美咲から話を聞いたのは、その翌週だった。
昼休み、宣伝用の小道具を一緒に作りながら、美咲がぽつりと言った。
「黒瀬さんって、中学のとき美術部だったんだって。知ってた?」
「知らなかった」
「なんか、ポスターコンクールに出したらめちゃくちゃ本格的な絵で、クラスの子に引かれたとか。うちのクラスの子じゃないから又聞きだけど」
ひまりは手を止めた。
「引かれた?」
「なんか、みんなが適当に楽しんでるのに一人だけすごいの作ってて、浮いてるって言われたとか。それからあんな感じになったって、噂で聞いた。本当かどうかは知らないけど」
美咲は「でもそれで距離置くようになったの分かるよね」と続けたけど、ひまりはその先を聞いていなかった。
私が入ると、空気悪くなるから。
しずくの言葉が、違う意味で耳に戻ってきた。
あれは、ただ自信がないから言っていたのではなかった。経験から、そう学んでいたのだ。
準備は、順調とは言えなかった。
装飾班が遅れていた。担当の子が「来週には終わらせる」と言って、一週間がたった。シフト表は埋まっていない欄がまだある。買い出しリストは、誰が何を確認したのか曖昧なままだ。
ひまりはその穴を、少しずつ自分で塞いでいた。
装飾の続きをやった。シフトを調整した。買い出しリストを自分で整理し直した。
大丈夫、やっとくよ。
うん、任せて。
気づいたらそう言っていた。声に出す前から、もう答えが決まっている。
ある放課後、しずくが帰り際にひまりの机の前を通ったとき、ふと言った。
「相坂さん、便利な人になってる」
ひまりは顔を上げた。
「便利って、ひどくない?」
しずくは立ったまま、冷静に返した。
「だって、みんながそう使ってる」
言葉が刺さった。
やめてよ、と言いかけて、やめた。
本当は分かっていた。
誰かが「やっといて」と言う前に、ひまりのほうから引き受けていた。そのほうが楽だったから。「嫌だ」と言って、相手の顔が曇るのを見るより。
「別に、いいじゃん。私がやりたくてやってるんだし」
しずくは少し黙った。
「そう」
それだけ言って、歩いていった。
ひまりは机の上の紙を見た。シフト表の修正版。来週の買い出し日程のメモ。装飾の残り作業リスト。
自分がやりたくてやっているのか、やらなければいけないと思っているのか、最近よく分からなかった。
その日の放課後、ひまりは一人で教室に残った。
星形の飾りを切り抜く作業だった。黒い紙に鉛筆で下書きして、ハサミで切る。単純な作業だけど、数が多い。百個は必要で、今日で五十個目を切り終えたところだった。
窓の外は暗くなっていた。廊下の灯りが薄く教室に差し込んでいる。大半の生徒は帰った時間だった。
ひまりはハサミを動かしながら、ぼんやり考えていた。しずくの言葉がまだ残っていた。便利な人。使ってる。
違う、と思う気持ちと、そうかもしれない、と思う気持ちが、交互に来る。
ハサミが止まった。
手の中の星形の紙を見た。綺麗に切れている。でも、あと五十個ある。明日の朝までに仕上げると言った。言ったのは自分だ。誰かに頼まれたわけではない。
疲れた、と思った。
声が聞こえたのは、そのときだった。
「まだいたの」
しずくだった。
教室の入口に立っている。帰ったと思っていた。
「あ、忘れ物?」
「スケッチブック」
しずくは自分の席に向かい、机の中から取り出した。
ひまりは作業を再開しようとした。でも、うまく笑顔が作れなかった。
「大丈夫。もうちょっとで終わるから」
しずくは鞄にスケッチブックをしまいながら、ひまりのほうを見た。
机の上の紙の束を、残り作業のメモを、ひまりの顔を、順番に見た。
「その“大丈夫”、嘘でしょ」
ひまりは答えなかった。
否定しようとした。でも、言葉が出なかった。出口に向かいかけたしずくは、足を止めたまま、まだそこにいた。



