星降る教室で、きみと無敵になる――「大丈夫」と笑っていた私を、きみだけが見抜いてくれた

 高校一年の秋になっても、相坂ひまりはクラスで頼られることの多い子だった。
 文化祭の実行委員を決めるホームルームは、十月半ばの中間テスト明けに行われた。担任の田中先生が「自分で立候補してもいいし、誰かを推薦してもいいぞ」と言ったのに、最初の数秒、誰も手を挙げなかった。
やがて、隣の席の美咲がひまりのほうを向いた。 
「ひまりがやってくれたら、絶対うまくいくよ」 
 振り返ると、後ろの男子も頷いていた。
「相坂さんならできそう」
 ひまりは少し笑った。
 断るという選択肢が、頭にちゃんと浮かんだ。でも、浮かんで、そのまま消えた。
「うん。やるよ」
 そう言うと、教室がほっとした空気になった。その空気が、ひまりは少しだけ好きだった。
肩にかかる茶色の髪が、笑った拍子にふわりと揺れた。
 ひまりは自分では普通にしているつもりでも、表情が外に出やすい。嬉しいときも、困ったときも、たぶん周りにはすぐ分かってしまう。
 だからこそ、みんなはひまりに声をかけやすいのかもしれなかった。

 クラスの文化祭企画は「星降る教室カフェ」に決まった。
 黒板を星空に見立て、教室全体を夜の雰囲気で飾る。手作りメニューを用意して、一日限りのカフェを開く。投票でいちばん票を集めたアイデアで、決まったときはみんなが盛り上がった。
 ひまりは企画書を作り、役割分担表を作り、必要な材料リストを作った。
 最初の一週間は、それなりにうまく動いていた。
 装飾班は、黒い模造紙と銀色の折り紙で星を作りはじめた。飲食班は、出すメニューをトーストとミルクティーに絞った。宣伝班は、ポスターのデザイン案を考えると言っていた。
 でも。
 二週目になると、少しずつ人が減り始めた。
「今日、部活の試合があって」
「塾の模試が被っちゃった」
「ごめん、家の事情で」
 そのたびに、残った作業がひまりのほうへ流れてきた。
 装飾の続きは? 買い出しリストは? ポスターは?
「大丈夫。やっとくね」
 ひまりはそう言って、手を動かした。
 本当に大丈夫だったかどうかは、自分でも判断するのをやめていた。

 放課後の教室に残るのは、最近ひまりだけだった。
 机を一つ前に出し、材料と道具を広げ、今日はポスターの下書きに取りかかっていた。
 文化祭は三週間後。宣伝ポスターを来週中に貼り出す予定になっている。デザイン案を出すと言っていた宣伝班の子が、先週から音沙汰なしだった。ひまりは二日前に「任せていい?」とメッセージを送って、既読がついたまま返信がない。
 しかたなく、自分でやることにした。
 紫と白を使って、星降る夜空のイメージで仕上げようとしていた。太めのペンで『星降る教室カフェ』と書いて、まわりに細い星を散らす。文字の背景は、紫のマーカーで塗った。
 それなりに形になってきた、と思っていた。
「その色だと、遠くから読めないと思う」
 声がした。
 ひまりは顔を上げた。
 黒瀬しずくが、教室の出口のあたりに立っていた。帰り支度を終えたらしく、肩に鞄をかけている。目は、ひまりのポスターに向いていた。
 長い黒髪が、制服の肩にまっすぐ落ちている。前髪の下の目は静かで、何を考えているのか少し分かりにくい。
 しずくのことは、クラスでもあまりよく知らない。席は窓際のいちばん後ろで、授業中に指名されても最低限しか話さず、昼休みもひとりで本を読んでいる。文化祭の話し合いのときも、ほとんど発言しなかった。
 ひまりは、しずくのことを物静かで近寄りがたい子だと思っていた。
 そのしずくが、ひまりのポスターを見て、ぽつりとそれだけ言った。
 ひまりは傷ついた。頑張って作っていたものを、理由も言わずに否定されたように感じた。
 でも。
 もう一度ポスターを見ると、確かに気になった。紫の上に白い文字。似たような明るさの色が重なって、パッと見ると文字がどこにあるかよく分からない。
 しずくの言うとおりだった。
「あ、えっと」 
 ひまりが口を開きかけたとき、しずくはもう踵を返していた。
「待って」
 思わず呼び止めた。
 しずくが振り返る。表情は変わらない。
「黒瀬さん、こういうの詳しいの?」
 しずくは少し間を置いた。
「別に」
 それだけ言って、廊下に出ていった。
 ひまりは、しずくが出ていったドアをしばらく見ていた。

 翌日の朝。
 ひまりは教室に早めに来た。ポスターの色を修正するつもりで、マーカーセットを持ってきていた。
 しずくはすでに席にいた。窓の外に目をやりながら、本を読んでいる。普段どおりの光景だった。
 ひまりは自分の席に座りながら、ちらりとしずくの机を見た。
 教科書の端に、スケッチブックがはみ出していた。鞄から出しかけて、まだ収めていないのかもしれなかった。開いた状態で少しだけ覗いている、そのページの端。
 ひまりは目を細めた。
 描いてあるのは、星だった。
 単純な形ではない。線が何本も重なり合って、光が広がっているような、細かい星のデザイン。その周りに、小さな文字でいくつかメモが書き込まれている。
 なんとなく、「星降る教室カフェ」のロゴのような形に見えた。
 しずくは気づいていないのか、本のページをめくった。スケッチブックの端が、机の上でさらに少し滑り出た。
 ひまりはそっと視線を外した。
 でも、さっき見た星の形が、頭の中に残り続けていた。
 昨日、廊下に消えていくしずくの横顔を思い出す。あの目は、ポスターをじっと見ていた。冷たいのではなく、ちゃんと見ていた。
 黒瀬さんって、本当はすごい人なのかもしれない。
 そう思った瞬間、なぜかひまりの胸の中で、何かが小さく引っかかった。
 苦手意識とは少し違う、もっと正体のはっきりしない感覚。
 うまく名前のつけられないものが、そこにあった。