三浦主任の「ん」はずるい



「おかえり」

アパートに帰ると、婚約者の裕二がエプロン姿で出迎える。

「ただいま。サラダ買ってきたの」

奈緒は通勤鞄を預けて、ビニール袋を掲げた。

「デパ地下の?」
「食べたいって言ってたでしょ?」
「残業だったのに、寄り道してまで買ってくれたんだな」

ヒールのストラップを外す動作が止まる。
奈緒は片足を上げたまま、裕二をうかがう。

「……あ、ごめん。引き継ぎで遅くなっちゃって。明日はわたしが作る」
「本当? じゃあ、奈緒のビーフシチュー食べたいな。これ、皿に盛っとくから着替えておいで」
「うん、ありがとう」

奈緒の母親直伝ビーフシチュー。半日煮込み、ホロホロになったスネ肉が特徴だ。
洗面台で手を洗いつつ、メイクは落とさないでおく。夕食後に肉を買いに行こう。

「いただきます」

二人揃って挨拶。ダンボールに囲まれた食卓はスプーンの音をこもらせる。

「このカレー、後輩がくれた」
「いい匂い! 同期の方、新婚旅行に行ってたんだっけ?」

空のパッケージを眺め、目を細める奈緒。ご当地カレーはお土産の定番だ。

「そう、一週間もだよ? これからずっと一緒にいるんだから、行かなくても良くない?」

グラスが水滴を落とし、コースターを湿らす。
ごろりと大きなジャガイモを頬張る口元に悪気はなさそう。

「あっ! 奈緒のひとり旅は否定しないよ。退職前だし、有給も使いやすいでしょ?」

「俺は取れないんだけど」と加えられ、奈緒は箸を置く。

「……わたしもね、一緒に行けたら嬉しい。まだ間に合うから、どう?」

投げ掛けた瞬間、裕二が前のめりになる。

「奈緒には家庭に入って貰いたい。あったかい家族を作りたいって夢、話したよな?」
「だから、子どもを授かるまで続けても――」
「俺達、若くないだろ?」

裕二は奈緒へ手を伸ばして、指輪ごと包み込む。

「俺、ちゃんと稼ぐし出世もする。心配しないで? 奈緒を幸せにするよ」

奈緒は返事の代わりに、もう片方を重ねた。